葡萄
その妙齢のマダムは山岡さんと言って、『time』の常連客の一人だった。
しばらく顔を見せないと思ったら、ある日ひょっこり店に来て、以前と変わらない快活な笑顔で接してくれた。彼女は絹麻のベージュのワンピースと赤いベルベットのリボンが目立つエスパドリーユを買った。
「葡萄農園のほうはどうですか」
「お蔭様で順調よ。私はオーナーとしてのんびりしてられるの。実際に働いてくれる人たちは別だから」
さすが、有閑マダム。
「ただ、あの人が亡くなってから、経営にも張り合いがなくなったわね」
山岡さんはご主人を数年前に病気で亡くしている。それまではうちにも二人揃って来てくれた、仲の良いご夫婦だった。
山岡さんの目元にある憂いが、普段は見せない彼女の嘆きを彷彿とさせる。
「ねえ、琴坂さん。私に幸福を呼ぶビーズを作ってくれないかしら」
「はい。どういったものをお望みですか?」
「葡萄のイヤリング」
「葡萄……」
「そう、よく熟した、つるんとした実のなる葡萄。……難しいかしら」
山岡さんが躊躇の色を見せる。私への遠慮だ。だがそれは無用というもの。
「畏まりました。料金はあとから頂くことになりますが……」
「良いわ。そちらの言い値で」
「はい。ありがとうございます」
その日の午前中は他にも三人の客があり、それぞれアクセサリーや衣類が売れた。
しめしめ。商売繁盛、何よりである。
一時半頃にはじめとお昼を食べる。
バゲットに生ハムとチーズ、レタスを挟んだものを咀嚼する。この豪勢な昼食ははじめの手によるものだ。有難いことである。
「葡萄って作ったことあったか?」
「うん。前に小さいのをね。今回の山岡さんの依頼はもっと大振りのものだろうから、手間はそのぶんかかる」
「出来るか」
「出来る」
私はにっと笑った。
お世話になっている山岡さんに、ご主人との思い出のよすがとなるものをあげたい。
それには大き目のドロップビーズが多数必要だ。
私は午後、店番をはじめに任せて薬院のビーズショップに行き、材料を仕入れた。他にも目移りしそうなきらきらした店内から必死で抜け出す。今日はまだ涼しいが、段々と暑くなるのだろう。自転車に乗り、店に帰ろうとした時。
私の目の前をある男性が通り過ぎた。
私は咄嗟に叫んでいた。
「青さん!」
しかし彼は、自分が呼ばれていると思わないらしく、或いは聴こえていないだけか、スタスタと歩いて行ってしまう。私は彼を追おうとしたが、横断歩道に阻まれて、それは叶わなかった。
私はしばし茫然と、男性の去ったあたりを見ていた。
夜、私は風呂に浸かりながら昼間のことを考えていた。
勘の良いはじめは、案の定、あのあと店に帰った私に何かあったのかと訊いてきた。
私は何もないと答えた。無論、信じられていない。だが、私がこうと決めたら翻さない性格だということをよく知るはじめは、それ以上追及しなかった。
私はラヴェンダーの花びらの青紫を指につけ、ふう、と息を吹きかける。小さな花びらは弱弱しく飛んで、着水した。
風呂から上がり、寝巻に着替えた私は緩く冷房を入れた。蝉の鳴く声。もうそんな時期なのだ。
お気に入りの木材のテーブルの上に材料を広げる。今回はスケッチの必要もない。デザインは全て頭の中にある。かと言ってこれが簡単な作業かというと、そうでもないのが実情だった。
アーティスティックワイヤーの、やや太めのものを用意する。うちに予めあったイヤリングのパーツに、ドロップビーズを通したワイヤーをねじり、イヤリングの細い穴に通す。これを延々と繰り返す。バランスが崩れないように、ワイヤーがみっともなく見えないように、細心の注意を要する。ビーズショップでドロップビーズと一緒に購入した、葡萄の葉の形の金具をその脇に添える。一個のイヤリングにつき、一枚。
ドロップビーズは基本、葡萄に似た深い紫色を使うが、ところどころに黄緑色のビーズも加え、全体の印象が単調にならないようにする。
まだ熟れていない果実が、熟れ切った果実の中に紛れ込んでいる。
イメージとしてはそんなところだ。
一つのイヤリングを作り終えたところで、私はうーん、と伸びをした。
今日の作業はここまで。無理をすると集中力も鈍るし、はじめにやいやい言われる。
風邪ひいて迷惑かけたばかりだしなあ。
私はカモミールティーの入ったマグカップをベッドヘッドに置くと、電気スタンドの明かりだけを点けて好きなエッセイを読んだ。三十分ほどそうしてから、明かりを消し、肌布団に潜り込んだ。カモミールティーの効果か、眠りはすぐに訪れた。
夢の中で私は子供だった。
ごめーんくださーいと言うと、はじめのお母さんが出迎えてくれる。
いらっしゃい、時ちゃん、と満面の笑顔で言われてリビングに通される。
リビングのソファーにははじめのお父さんが新聞を広げて座っていた。私を見るとにっこり笑い、いらっしゃい、と言ってくれる。
そのうち家の奥からはじめと美鈴が転がる毬のようにして出てきて、私たちは遊びに興じる。青家の庭は芝生でそこそこの広さがある。
そこで私たちは縄跳びやかくれんぼをして遊ぶのだ。
やがて家の中からはじめたちのお母さんの呼ぶ声がする。
私たちはおやつの時間だ! と喜び勇んで我先にと家の中に入る。
テーブルに並べられたシュークリームに歓声が上がる。
ふと見ると、お父さんの姿がない。
しかし、そのことを誰も気に留めようとしない。
シュークリームの数も四個。
私と、はじめと、美鈴と、はじめたちのお母さんの分。
私は不思議に思って尋ねる。
お父さんは?
ところが誰もが、訝し気な顔をしてお父さんって? と逆に問い返すのだ。
はじめたちのお父さんが座っていた席は空白だ。
お母さんがにこやかに言う。
さあ、みんな揃ったわね。食べましょう!
目覚ましが鳴る前に時計のボタンを押す。もうほとんど条件反射だ。それにしても何という夢。やはり、昨日の昼間に見た男性が気にかかっているのだ。はじめも以前、店の近くで父親と思しき人を目撃している。
私は肌布団の中でごろごろ転がり、やがて立ち上がって着替えた。今日は真珠のイヤリングでもしていこうか。ジュエリーボックスの中から、まろやかなピンクの艶を持つイヤリングを出す。
人参ジュースを飲んで、生クリームたっぷりのフレンチトーストを食べてストレッチ。洗濯機を回す。
新聞を読んだりツイッターをチェックしたりしてから、店に出る服装に着替えて真珠のイヤリングを着ける。
真珠の清らかな、静謐な光で、混乱しそうになる頭を鎮めたかったのだ。
今日はカラリと晴れていて、湿度が低い。
私は洗濯物と一緒に布団も干してから家を出た。
はじめはいつも通り、店で掃除をしていた。私は、声をかけるのが何となく憚られてそんなはじめを見ていた。はじめが怪訝そうな顔でおはよう、と言ったことで呪縛が解けたかのように、おはようと返す。
はじめがにやりと笑う。
「今日はお握りを作ってきたぞ」
「胡麻塩お握りか?」
「そうだ。それに唐揚げ。こっちは出来合いだけどな」
「何でも良い、はじめ、愛してるっ」
「お前の愛は飯と等価交換か」
単純な私の反応にはじめが呆れている。
解っている。はじめが胡麻塩お握りを作ってきてくれたのは、昨日、私の様子がおかしかったからだ。そんなはじめの気遣いが今の私には妙に沁みた。
その日の売れ行きは好調だった。
天気が良いから客足も増える。私はその合間に、布団を取り込みに店を抜けた。
店と自宅が近いからこそ出来ることだ。洗濯物はまたあとで、と思い、そのままにする。我ながら呑気だなあと思う。
昨日の夢はどういうことだったんだろう。
私は店に戻り、はじめにまたしばらく出る、と言うと、薬院のビーズショップに向かった。
風を切って自転車を走らせ、アパートに着く。二階に上がると、幸い、営業中だった。
「こんにちは」
「琴坂さん、こんにちは。最近、よく来てくれるのね」
「今日はマダムに相談があって」
「あらあら~何かしら~」
私は勧められた椅子に座り、事の仔細を話した。はじめたちの父に関することは、マダムも承知している。意外と狭い業界なのだ。そしてマダムはカウンセラーのようなことを時々、顧客に行うことがある。それを知っていて、私はここに来たのだ。
「青さんのお父様が失踪される前に変わったことは?」
「ありません。何もないんです。ある日突然、ふらりと消えたんです」
「琴坂さんの夢は、恐れと希望を表してるわね」
「恐れと希望……ですか」
マダムはこくりと頷き、紅茶を一口飲む。私も釣られたように一口、口に含む。
ここはレジ奥の小さなスペースで、たまに私のような迷える人相手にマダムが相談を請け負うところとなっている。
「もう二度と戻らないのではないかという恐れ。でももしかしたらという希望。よく似た人を見かけたんでしょう? 気持ちが不安定になっても仕方ないわ」
「戻るでしょうか……」
「それは、私には何とも」
マダムは小首を傾げて、困ったように微笑した。
私は薬院から平尾まで全速力で店に帰り、はじめに不在を詫びた。
はじめは気にしていない様子だったが、彼に黙って身内の相談をしたことに、私は後ろめたさを感じていた。
帰宅して、先に汗を流してから夕食を摂る。
それから私は、山岡さんの依頼のイヤリングのもう片方に取り掛かった。
シンメトリーにしなければバランスが悪い。私は深い紫の、または明るい黄緑のドロップビーズをワイヤーに通し、ねじり、を繰り返していた。
時々、左右を比較して、アンバランスになっていないか確認する。
最後に、鈍い金色の葉をつける。山岡さんの年齢からして、葉は鈍い金色のほうがしっくりくる。明るい金色では落ち着かない。
ようやく仕上げたイヤリングを、私は箱に入れて眠りに就いた。
今度は夢も見ない深い眠りだった。
翌日、イヤリングが出来たことを山岡さんに報告すると、彼女は身軽に飛んで来た。
「思ったより早かったのね。見せて頂戴」
「はい。こちらです」
この、作品を客に見せる時が一番、緊張する。イメージに合っているか、喜んでもらえるか。
特に山岡さんは目が肥えている。
その審美眼の前に、私は委縮していた。
山岡さんは、イヤリングをじっと注視したあと、ほうと息をついた。
「――――素敵。イメージにぴったり、いえ、それ以上だわ」
「ありがとうございます」
山岡さんの審美眼に叶ったとあって、私も緊張が解けた。
「あの人とよく呑んでいた、うちのワインを思い出すわ。老後まで、こうして呑んでいようねって言ったのに」
山岡さんの、闊達さの向こうに寂しさが透けて見えた。それは本来、余人には不可侵で、見てはならないものだ。だから私は、そっと視線を逸らした。
その夜は、定休日前日だということもあり、私がはじめと美鈴に料理を振る舞うことになっていた。
前回の風邪の看病の礼と詫びである。
鶏肉と魚介類を豆板醤で炒めたものに海苔を千切ってふりかけ、ご飯は筍ご飯。小松菜の海老入りお浸し、たこぶつなどが食卓に並ぶ。
「天気も良いし、外で食べようよ」
美鈴のその一言で、折り畳み式のテーブルがベランダに置かれ、その上に料理が並んだ。椅子もまた、折り畳み式のものがある。美鈴の提案は正解だったようで、飛んでくる羽虫さえなければ、空に星が点々と見える良い夜だった。
「葡萄のイヤリング、私も見たかったなあ」
「写真に撮ってあるぞ」
「ほんと!? あとで見せて」
「うん」
わいわいがやがや、お隣の迷惑にならない程度に外で夕食を摂るのも楽しい。
山岡さんは、一見、贅沢な暮らしを何不自由なくする人に見えるだろう。
だが、喜びを、悲しみを、共に分かち合える人がいないのは寂しい。
葡萄のイヤリングが、少しでもその寂しさを癒してくれると良いのだが。
はじめと美鈴もまた、一見、普通に過ごしているように見えるが、まだ痛む傷があるだろう。
それは深海に潜む箱に手を伸ばすように、私にはどうすることも出来ない。
「あ、山岡さんからお礼にってワイン貰ったんだった」
「ちょっと、どうしてそれ早く言わないのよ、時さん!」
「しかし今日のメニューでワインかあ? 私が一人で呑んだが良くないかあ?」
「時さん、呑兵衛! 良いのよ、美味しいワインは何と呑んでも美味しいんだから」
「暴論……」
「ちょっと、兄さんも何とか言ってよ」
はじめが微苦笑する。
「開けろよ、時。俺も呑みたい」
「仕方ないなあ」
渋々、私は立ち上がる。
そう、仕方ない。
この世には、仕方ないことが満ちている。