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ひぐらし

 うすら花の香りがするような一日だった。


 いつものように事務作業をしていると、ドアの開く音がした。


 見ると初老の品の良い紳士が佇んでいる。

 ロマンスグレーの髪に、薄手の萌黄色のジャケットを着て、グレーのスラックスを穿いている。洒落もの、といった印象だ。


村中(むらなか)さん、いらっしゃいませ」

「やあ、琴坂さん、お久しぶり」


 この紳士、村中さんは馴染みの客だ。数年来、時折、顔を見せてくれる。


「今日は何か探し物でも?」


 すると村中さんは、透き通った茶色の目を私に向けた。なぜだか心臓がどきりとする、そんな眼差しだった。


「ひぐらしをビーズで作ることは出来るかな。これなんだが」


 そう言って村中さんが取り出したのは、まさにひぐらしの写真だった。


「羽化したてなんだよ。うちで育ててたんだがね。この、羽化したて独特の透明感を出して欲しいんだ」

「……」


 難しい依頼だ。だが私は同時にすっかり写真のひぐらしに魅せられていた。


「どうだろう。無理だろうか」

「いえ、お引き受けします。但し、金額はかなり頂くかと」

「構わないよ」


 村中さんがほっとしたように笑い、それではお願いしますと言って店を出た。

 はじめは私をちらりと見ただけで、寄って写真を見ようとはしない。


「大丈夫なのか?」

「うん。やってみる」


 その夜は雑務処理に追われて、マンションに帰るのが夜の十一時になった。

 まずは風呂、と湯を溜めてラヴェンダー入りのバスソルトを入れて浴槽に身を浸す。ほう、と知らず息をつく。身体の隅々の細胞が喜んでいるようだ。


 そして――――信じられないことに私はそのまま寝落ちした。


 はっと起きると湯がだいぶ冷めている。どれだけ寝ていたのだろう。

 慌てて風呂から上がり、寝巻を着る。時計は十二時半を指していた。

 やってしまった。


 だが私は作業を始めることにした。村中さんから借りた写真をテーブルの上に置く。

 さらさらとスケッチブックにデザインを描く。イメージの核はしっかり掴んでいるので、スケッチは簡単なもので良い。

 まずは胴体を作る。

 麻のリボンをくるくる縦長に立体的に巻いて、固定する。そのうえから虹色がかった淡い緑のビーズと乳白色のビーズの縞模様を刺していく。お腹の面は緑一色で。目は黄色いドロップビーズをつける。


 ここまでが今日の作業の限界だった。

 私はベッドに身体を引き摺るように移動すると、熟睡した。


 翌日、妙に怠いなと思いながら店の掃除をしていると、はじめから手首を掴まれた。


「何だ、はじめ」

「お前、熱があるんじゃないか」

「え?」


はじめの 手が額に当たる。そうされている間に、私は中庭を歩く三毛猫を見ていた。あの猫はでっぷりしていて、実に豊満である。喫茶店から餌を貰い過ぎだ。


はじめが嘆息した。


「やっぱりあるな。今日はもう帰れ」

「あー。うん。悪い。任せた」

「一人で帰れるな?」

「子供じゃあるまいし」


 私は苦笑して、はじめの懸念の表情に見送られながらマンションに帰った。

 部屋着に着替えて、ベッドに横たわる。一応、温度計で熱を測る。


 わーお。


 思った以上の高熱だった。昨日の風呂での寝落ちと、そのあとの作業がいけなかったんだろう。


 仕方なくそのまま寝具に入り込み、うつらうつらと寝入った。

 

 人の気配。立ち働く物音。しかしそれを病人である私に気遣いながらやっていることが窺い知れる。

 私は目を開けた。


「美鈴……」

「あ、時さん。良かった、起きた。大丈夫?」

「どうしてここに」

「兄さんからのヘルプ要請」

「あー。借りが出来たな」

「良いわよ、別に。これくらい。お粥出来たけど食べられそう?」

「食べる。梅干しも」

「はいはい」


 私は病人の立場を利用して甘えた。ころころ太った陽気な母は、近隣には住んでいない。


「美味い。美鈴、いつでも嫁にいけるぞ」

「兄さんが相手ならね」


 まだ言ってるのか。懲りないな。

 食べ終えた食器を、美鈴が台所に運び洗ってくれる。独り暮らしにはその有難さが身に沁みる。


「林檎剥いたけど食べる?」


 至れり尽くせりだ。もう、はじめ、美鈴を嫁に貰ってやれ、と言いたくなる。

 私は林檎をしゃくしゃく食べながら、熱に浮かれた頭でそんな埒もないことを考えたりした。


 その日の夜、閉店時間を過ぎてからはじめもうちに来た。らしい。

 らしいと言うのはその時、私は寝ていたからで、美鈴と揃ってはじめは私を起こさないよう、静かに帰ったらしいからだ。あとになってそのことを聴いた。


 結局、私は三日寝込んだ。

 自営業者にあるまじき失態だ。


 朝、目が覚める。身体が軽くなっているのが自分でも解る。このまま飛び跳ねたいくらいに嬉しい。飛び跳ねないけれど。いつもより早く目が覚めたので、私はひぐらしの制作の続きに取り掛かった。

 はじめが知ればまたとやかく言うかもしれないが、構うもんか。

 胴体部分を完成させた。

 あとは翅である。虹色がかった透明の竹ビーズを、銀色のワイヤーに通していく。翅の筋が表現出来ているように迷路のような軌道を描きながら。これは中々、気を遣う作業で、一枚の翅を作るのにかなり時間がかかった。

 だが、二枚目ともなるとこつが解ったぶん、ペースは上がる。

 二枚目の翅が出来上がると、先端のワイヤーをねじって胴体の目の下あたりに刺し込み、上から糸で固定する。

 ――――完成だ。


 私はそれからようやく服を着替えて、人参ジュースを飲み、食事をしてストレッチなどの日課をこなした。


 外は少し曇っているが、雲の合い間に気紛れのように青が垣間見える。肌に纏わりつく細かな粒子は、淡い光を帯びるようだ。数日振りに外に出られたことを、私の身体が喜んでいる。


「もう良いのか?」

「うん。はじめ、ありがとう。美鈴にも礼をしないとな」

「誕生日に作ってやったビーズ細工だけで十分だろう」


 相変わらず素っ気ない。


「ひぐらし、出来たぞ」


 そう言うと、はじめは軽く目を瞠った。


「お前、病み上がりが無理しやがって」

「ふふーん。今回のは自信作なんだ」

「……」

「見たい? ねえ、見たい?」

「見せろ」

「しょうがないなあ」


 私は散々勿体ぶった挙句、箱に入れていたひぐらしをそっと取り出して見せた。

 はじめはしばらくの間をそれを凝視していたが、やがて溜息をついた。


「凄いな」

「そう?」


 反応を予想していた癖に私はにやにやとチェシャ猫のように笑う。


「お前は器用な奴だと思ってたが、本当に羽化したてのひぐらしみたいだ」


 はじめの反応に至極満悦した私は、営業時間にも機嫌よく働いた。空いた時間に村中さんに電話する。


『はい、もしもし』


 村中さんではない、若い男性の声。


「お世話になっております。わたくし『time』の琴坂と申しますが」

『ああ、ひぐらしの件でしょうか』

「はい。出来上がりましたのでお電話させていただきました」

『そうでしたか。ありがとうございます。実は父は数日前から入院しておりまして』


 ふ、と周囲の物音が遠くなった気がした。


 私は見舞いの許可を得て、入院先の病院を教えてもらい、電話を切った。

 そんなに具合が悪そうには見えなかった。


「どうした」

「――――村中さん、入院してた」

「容態は」

「…………」



 次の店休日、私ははじめと村中さんの入院する病院を訪ねた。迷った末、花束はピンクのガーベラにした。

 病室の扉をノックする。村中さんの応じる声。

 良かった。まだ声は弱っていない。

 村中さんは上半身を起こした姿勢でベッドに座っていた。


「ああ、琴坂さん。こんなところまですまないね」

「いいえ」


 はじめが、病室にあった花瓶にガーベラの花を活ける為に退室する。私と村中さんの話を邪魔するまいという気遣いからだ。


「ひぐらしが出来ました」

「おお、見せておくれ」


 私はポシェットの中から取り出した箱を琴坂さんに渡した。村中さんはまるで中に壊れやすい宝物が入っているかのように、慎重な手つきで箱の蓋を開ける。


 そのまま、食い入るようにひぐらしを凝視した。


 どのくらいの時間が経っただろうか。村中さんが大きく息を吐いた。


「琴坂さん。貴方、とんでもないものを作ったね」

「お気に召さなかったでしょうか」

「逆だよ。完璧だ。完璧に、羽化したてのひぐらしだ。動く翅も、素晴らしい」


 村中さんは放心したようにひぐらしを眺めると、ふと遠い目になった。


「ひぐらしは私の中の郷愁の一部でね。若い人は知らないだろうな。蛙、紋白蝶、かぶと虫、そんなものが当たり前のように身の回りにいた昔があったんだよ。……茅葺の、屋根」

 

 私は村中さんの語尾が震えたのに気づかない振りをした。


「お加減はいかがですか」


 些か間の抜けた問いだが、村中さんは笑って答えてくれた。


「胃の腑が、悪くてね。どうにも。もう、駄目だろう……」


 少しの間を置いてはじめが花瓶を手に入って来た。タイミングを見計らっていたのだろうか。


 一週間後、村中さんが亡くなったと知らせが届いた。

 透き通るように青い空の日だった。

 

 私とはじめは葬儀に列席した。

 村中さんの息子さんがわざわざ挨拶にやってきて、父が生前、世話になりましたと言った。


「いいえ、世話になったのはこちらのほうで」


 しかし息子さんは首を横に振る。


「あのひぐらし、父は死ぬ直前まで握りしめて離さなかったんです。自分の死んだあとは、僕の息子に形見として譲ると言い残して」


 私は村中さんの孫息子を見た。椅子に座り、どこか茫然としているようだった。

 いつか彼にも、村中さんの郷愁を共有出来る日が来れば良い。その時初めて、ひぐらしは彼らの橋渡しとなるだろう。



 私たちはそのまま帰宅して、マンションで待機していた美鈴に塩を振ってもらった。私は汗を流して着替えたが、はじめは上着を脱いで袖をまくっただけだ。


 美鈴が玉ねぎや紫蘇、海老などの天婦羅に、イカの塩辛、するめ、すまし汁などを作っていてくれた。


 私たちは缶ビールを片手に、しめやかにそれらを食した。


「村中さんって、あれよね。品の良いおじいちゃん」

「美鈴、知ってるのか」

「何度か店で会ったもの。私みたいな年下にも、丁寧に接してくれて、良い人だったわ」


 そう言う美鈴は、私の作ったビーズ細工のブローチを無意識にか手で撫でている。


 私は缶ビールを傾けながら考える。はじめと美鈴の父親のことを。

 温和な人だったと記憶している。温和で平凡な人だった。

 まさか家族を捨てて失踪するような人には見えなかった。

 だが、そのまさかは起きた。


「時さん? どうかした?」

「何でもないよ」


 優しい子だ。

 出来れば泣かずに済むような真相であって欲しい。その願いは、とても儚いものなのかもしれないけれど。


 村中さんを送る宴のあとは、食器を洗い、はじめと美鈴は帰って行った。

 私は一人、ぼんやりとひぐらしの写真を眺める。

 いつもいつも。

 私は全力を尽くして作品を作っている。だがそれが報われる時はそう多くない。今回も、私は村中さんにもっと長生きしてひぐらしを愛おしんでほしかった。生きていて欲しかったのだ。


 私は先ほど、溜めておいた湯にもう一度浸かった。

 温くなっていたので追い炊きした。


 様々な、雑多な思いを洗い流してしまいたかった。


 ――――救い上げられない、掬い上げられない。種々の想いを。


 風呂から上がった時、まさにそのタイミングではじめが戻って来た。


「――――どうした、はじめ」

「お前が泣いてるんじゃないかと思って」

「莫迦だな」


 私の作り笑顔はぐにゃりと歪んだ。はじめの手が伸びて私の頭を抱く。


「良いんだよ」


 ――――良いんだよ。


 ただそれだけの言葉で、許されたと感じる。私ははじめの胸に顔を押し付けなかった。涙で濡れることを恐れた。はじめは絶妙な距離を保ち、私の頭を抱いていた。二人とも、フローリングの床にペタリと座って。


 村中さん。


 そちらの景色はどうですか。

 ひぐらしは鳴いていますか。



挿絵(By みてみん)





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