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緑の森

 春眠、暁を覚えず。もう春は過ぎているが。

 

 布団の中が恋しい。いつまでもこうしてごろごろしていたい。私はベッドの上で右に左に転がった。

 だが無情にも目覚ましの音が鳴る。

 はいはい、とばかりに私はボタンを押して目覚ましの音を止める。伸びをして立ち上がりカーテンを開ける。白銀の光があたりを満たしている。今日は涼しそうだ。一昨日などは夏日だったのに。読めない天気である。部屋着に着替えて人参ジュースを飲み、ざっと新聞に目を通してから朝食の支度にかかる。

 法蓮草の胡麻和え、厚揚げの生姜醤油添え、えのきの味噌汁。

 作りながら既に空腹を訴えていた腹にどんどん、供給していく。ふわ、と身体の芯が温まり、エネルギーが充電される。

 

 よし。今日も一つ頑張りますか。


 店に着くとはじめが先に来ていて、店内を掃除していた。相変わらずまめな性分だ。


「おはよう」

「おはよう」


 声をかけると箒を持つ手を止め、きちんと私に視線を合わせてから返してくれる。こんなところにもはじめの誠実さは滲み出ている。


「あ、今日の午前中、岡野(おかの)さんとの打ち合わせの電話が入るから。フォローよろしく」

「解った」


 岡野さんとは琉球硝子の器を作っている人で、毎年今頃の季節になると、彼の作品を仕入れて個展のようなものを開く。深い青のとろりとした輝きは、魅了される人が多く、岡野さんの作品が入る時期を待っている客も少なくない。


 いつものように営業していると、小さな女の子を連れた女性が来店した。


「こんにちは。あの、こちら幸福を呼ぶビーズを作ってくださるところとお聴きしたんですが」


 白いピンタック入りの清潔なブラウスに黒いスラックスを合わせた女性に、私はにこやかに応対した。


「はい。実際の効果のほどは保証出来ませんが、承っております」

「実は娘のピアノの発表会が近くて。この子に小さなブローチを作ってやっていただけないでしょうか」


 女の子は黒い髪を二つに分けて結び、紺色のブラウスに白いスカートを穿いている。私は跪いて彼女に視線を合わせた。


「こんにちは。貴方は何歳かな?」

「……七歳」

「お名前は?」

「しおり。神崎(かんざき)しおり」


 そこまで言うと、しおりちゃんはお母さんの後ろに隠れてしまった。人見知りする性質らしい。


「この子、気が弱くて、ピアノの発表会でもいつも委縮してしまうんです。ビーズなんかは好きだから、ブローチでも着ければ気持ちも少しは落ち着くかと思って」

「承りました。発表会はいつですか?」

「来月の七日です」

「七月七日。七夕ですね」


 今は急ぎの依頼もない。ブローチならばそう時間も取らない。期日までには余裕で間に合いそうだ。神崎親子が店を出て、私の頭の中では早速ブローチのデザインがあれこれ繰り広げられていた。


 こつりと頭を小突かれる。


「今は営業に集中しろ」

「はいはい」


 はじめは店内の備品を北欧調にしてはどうかと提案してきた。確かに最近、北欧ブームだ。


「それなら一緒に見繕いに行くか。椅子もいい加減新調したいし」

「お前、俺に荷物運びさせる気だろう」

「いーじゃーん」


 このくらい甘えられる程度にははじめとの親交は深い。

 私はふと思った。今の親子連れが、母親ではなく父親だったならはじめはどうしただろう。

 屈託なく応対出来ただろうか。彼の父親は――――……。


 ちらり、とはじめの視線が私に向かうのを感じたので、私は考えを見透かされたようでどきりとした。慌てて言葉を継ぐ。


「今度の店休日に付き合ってくれるか?」

「良いよ」


 はじめは芯が強い。なまなかなことでは折れない強い心を持つ。そんな彼のアキレス腱を思うと、私は胸が苦しくなる。

 誰もが何かを抱えて生きるのがこの世なのだ……。


 その日の夕暮れは殊に美しかった。

 淡い橙で染め上げられた空に黄金の球形が沈もうとしている。周りを囲む雲はブルーグレーで趣を添えている。


 入浴と食事を済ませた私は早速、スケッチブックを取り出した。ビーズのブローチにはシャワーと呼ばれる、表面に穴のたくさん開いた土台を使うことが多い。その穴にビーズを通して面の部分を埋めていくのだ。

 しおりちゃんの表情、声、仕草を脳内で再生する。

 あの子を安らがせるには、深い森のような緑を基調としたブローチが良い。緑のドロップビーズを多用して、他も青や銀、白などの丸小ビーズで埋めよう。直径二センチ程の土台で良いだろう。胸元、つまり心臓に近い位置にあしらうと、そこからエネルギーが体内に注ぎ込まれるようなブローチにしよう。


 あらかたのデザインが決まると、私は早速、ブローチ制作に着手した。

 作業中には音楽を聴くと言う人もいるが、私には無理だ。無音でなければ集中出来ない。

 それもあって、壁の分厚いこのマンションに住んでいる。単に店が近いからだけの理由ではないのだ。


 作業に没頭して気づけば十一時を回っていたので、私は作りかけの作品をケースに入れて、ひとまず今日は終わりにすることにした。こうした自制が辛うじて利くようになったのも割と最近で、以前は徹夜で作業することもざらだった。はじめと美鈴が口を酸っぱくして注意を繰り返したお蔭で、多少はブレーキが作動する現状に至った。


 店休日は生憎の曇り空だった。

 重く立ち込めた雲は雨の予感を孕んでいる。


 私とはじめはそれぞれ傘を持ち、天神のデパートに出かけた。北欧の商品と椅子などの家具が丁度、同じフロア―に置いてあるデパートは、垢抜けて若い人が多かった。

 それは良いが。


「どうしてお前も来る」

「愛しい兄さんがいるからに決まってるじゃない」


 美鈴のブラコンは極度だ。私とはじめが二人で買い出しに行くのが嫌だったようだ。はじめは無表情だがどことなく哀愁が漂っている。大変だな、お前も。


 そういう次第で私たち三人はデパート上階に行き、北欧グッズをあれこれ買い込み、椅子は場所を取らないけれど背もたれのついた木の椅子を選んだ。北欧グッズはともかく、椅子はさすがに持って帰るのは難がある為、送ってもらうよう店員さんに頼んだ。割と出費がかさんだが、必要経費であるから仕方ない。


 私たちはそれから、その下の階にある洋風レストランに入り昼食を摂り、電車で平尾まで帰った。閉店している店のドアを鍵で開け、早速北欧グッズを配置していく。美鈴が口を出してそれはここが良い、あそこが良い、などと煩かったので作業はやや手こずった。


 家に帰り着いたのは夕方だった。

 風呂に湯を溜めている間、ホタテの缶詰を開けて日本酒を呑む。今日もよく頑張ったと自分で自分を労うことは、人間には必要なことだ。風呂の湯が溜まると文庫本を持って浴室に行き、髪や身体を洗ってから湯舟に浸かり、読書を楽しんだ。


 夕飯はチキンライスだ。

 鶏肉とトマトの風味はよく合う。日本酒から白ワインに切り替えて、呑みつつ食べる。美味しい。美味しいと感じられることは幸せだ。当たり前のようでいて、凄いことなのだ。


 夕食を終えると食器を洗い、床が汚れているような気がしたので軽く磨いて、それからソファーに寝そべるとテレビをつけてしばらくだらだらと時間を過ごした。

 たまにはこういう休日があっても良い。

 だが悲しいかな、私の身体は自然とビーズ作品制作のスイッチが入り、我に返ると作業している。緑の隣はピンク、次は白、今度は丸い小さな銀色のビーズで変化をつけて。黙々と作業に没頭していると、いつの間にか十二時近くになっていて時間の経つ速さに驚いた。今日の作業はこれまでとして、私は寝巻に着替えてベッドの住人となった。

 買い出しなどもして疲れたのか、眠りはすぐに訪れた。


 翌日、私はいつものように店に出ていた。昨日は結局降らなかったが、空気にはまだ湿り気がある。

 その日は珍しい来客があった。


「倉木さん」

「どうも、こんにちは」


 忘れもしない、「蜘蛛の倉木」と心中で呼ぶ男は、照れたように笑った。


「その後、いかがですか」

「はい、何とか頑張ってます。蜘蛛、大切にしてます」

「良かったです」


 はじめ、睨むな。お前が睨むと怖いから。


「あの、琴坂さんとそちらの方はご夫婦ですか?」


 これまた突拍子もないことを訊いてくる。そちらの方とははじめのことだ。


「いいえ、違いますよ。仕事上のパートナーです」


 そう答えると倉木さんは安心したように笑った。


「そうなんですかあ」


 それから会社での様子、私生活など訊きもしないことを喋って、倉木さんは帰って行った。元気そうなのは結構だが、はじめは不機嫌になってしまった。無表情だが解る。そのくらいの付き合いの長さだ。

 私ははじめを宥める為に彼の好きなブラックコーヒーをそっと進呈した。

 

 『time』は客が引きも切らない日もあれば、反対に閑古鳥が鳴く日もある。

 今日は前者のようだ。

 神崎親子が再び来店した。


「いらっしゃいませ。ブローチはまだ出来上がっておりませんが……」

「あ、いえ、そうではなく、追加で作っていただきたいと思いまして」

「はい、何をでしょう?」

「この子の髪をまとめるゴムに、ビーズの飾りをあしらって欲しいんです。しおりがどうしてもと言い出しまして。……お願い出来るでしょうか」


 しおりちゃんは神崎さんの後ろから顔だけを出してこちらを見ている。つぶらな瞳は懇願の色を宿してきらきら輝いている。これには勝てない。


「承知しました。追加料金をいただくことになりますが」

「はい、構いません」


 そうして親子は去って行った。

 沈黙を守っていたはじめが口を開く。


「根を詰め過ぎるなよ」

「うん。解ってる。依頼自体はそう難しいものじゃないから」


 その日は店を閉めると一目散に家に帰り、風呂と夕食を済ませ、ヘアゴムに着けるのに良さそうな飾りのアイデアを考えた。せっかくだから、ブローチと対になるような物にしよう。

 緑の花と黄緑の球体をゴムにあしらったらどうだろう。シックでありながら可愛い。

 私はブローチとゴムの飾りを並行して作ることにして、緑の丸小ビーズでワイヤーを使って花びらを一つ一つ作り、根本でまとめてねじり上げた。それから丸いプラスチックの球体を黄緑のビーズを編んで覆う。緑の花も黄緑の球体も色は一色ではなく、ピンクや黄色、青などが散らばり入っている。

 そちらの作業がひと段落つくと、今度はブローチの仕上げにかかった。

 そうして夜は更けて行った。


「根を詰め過ぎるなと言ったが?」


 翌朝。

 店ではじめが開口一番に言った言葉である。やはり目の下の隈は隠せないらしい。慣れないファンデーションも使ったのだが。


「お蔭で作業が捗ったんだよ」

「自己管理を心掛けろ。子供じゃないんだ」


 むっとする。何か言い返そうとした時、なぜだかまたもや倉木さんが来店した。

 彼はにこにこと私に再び近況報告をすると、いくつかの商品を買って去って行った。

 何だ、あれは。……はじめの不機嫌が酷くなってるし。


 人の縁は解らないものだ。

 一時期は倉木さんに負わされた傷で苦しんだが、今では和やかに喋るようになっている。

 私はしおりちゃんに思いを馳せた。

 あの子もまた、これから様々な出逢いを経験するだろう。私の作るビーズ細工が、彼女にとって幸を呼ぶものであると良い。


 数日後、完成したという私の知らせを受けて、神崎親子が店を訪れた。

 緑の中にも様々な色が散りばめられたブローチ。

 緑の花と黄緑の球体のついたヘアゴム。


 それらを見つめる詩織ちゃんの目はきらきらしている。

 良かった。気に入ってもらえたようだ。


「発表会、頑張ってね、しおりちゃん」

「うん。ありがとう、お姉さん」


 子供の弾けるような笑顔はこうも人を明るくする。

 私は一時期、その笑顔をまるで忘れてしまったはじめのことを思い出していた。


 はじめの父親は、二十年前、何の前触れもなく失踪した。




挿絵(By みてみん)





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