胡蝶
六月に入り、請け負っていたビーズ制作の依頼もだいぶ捌けた。ブランクを経て、多少なまっていた感覚が戻ってきたら制作のスピードもアップした。
晩春と初夏の入り混じる季節と気候。ともすれば崩しそうになる体調を、私は人参ジュースなどの滋養をつけることで乗り切ろうとしている。店の窓を開けていると、時折吹き込んでくる爽やかな風が心地好い。
その女性が訪れたのは、私が午前中の営業を経て、そろそろ昼休憩に入ろうかと考えていた時だった。
まず目を奪われたのは、鴬色のツーピース。発色がとても鮮やかだ。手染めかもしれない。
そしてそんな服を纏う女性自身もうりざね顔の美人だった。
長い黒髪ははじめと同じくらいに深い色。
淑やかな美女は私に一礼して切り出した。
「幸福を呼ぶビーズ細工を作っていただきたくて」
「どうぞ、お座りください」
立派な椅子ではないが、それしかない為に私は彼女に椅子を勧める。やはりこうした来客用のちゃんとした椅子を買っておくべきかもしれない。私の思惑にはまるで気づかない様子で、女性は淑やかに椅子に腰を下ろした。
「どういったものをお望みでしょうか」
「蝶をモチーフにしたブレスレットを二つ。出来れば色違いで」
「二つ、ですか」
「はい。私のものと、妹のものを作っていただきたいのです」
私は微笑む。
「ご姉妹仲がよろしいのですね」
しかし彼女は黙った。何か変なことを言っただろうか。
「お引き受け出来ますか?」
「はい。二週間ほどいただくと思います。それから、完成してからのお支払いとなりますが」
私は頭の中で計算しながら答える。女性は頷いた。
「構いません。よろしくお願いします」
三瀬と名乗った佳人はそうして店を去った。
「大丈夫か?」
会話には一切参加しなかったはじめが、訊いてくる。
「うん。今は結構、余裕あるし、集中すれば短い日数で出来ると思う」
「俺が訊いてるのはその集中が大丈夫かってことなんだがな」
はじめが溜息をつく。
私は猪突猛進なところがあり、一度作業に入ると、完成に向けてまっしぐらだ。時々、それで貧血を起こすことがある。はじめはそんな私の気質を知っているので、心配しているのだ。
「気をつけるよ」
「その台詞も何度目かな」
はじめの表情は信用ならないと言っていた。
早速その夜、食事を終えて入浴を済ませると、スケッチブックに蝶のブレスレットのデザインを描いた。二つをそれぞれ姉妹で使うなら、一対になるようなものが良いだろう。どちらが目立ち過ぎてもいけない。引き立てあうような感じが望ましい。蝶のパーツは金色と銀色をそれぞれ使い分けることにした。
金色の蝶のブレスレットは赤系統で、銀色の蝶のブレスレットは青系統で。筒状に編んだビーズのパーツと、飾り玉のビーズのパーツを交互にアーティスティックワイヤーで繋ぐ。留め具はどちらも銀に中央が水色の花型のものを。そして赤いブレスレットには黄色の雫型のビーズを垂らし、青いブレスレットには紫色の雫型のビーズを垂らす。
うん。大体の構想は出来上がった。
あのしっとり落ち着いた三瀬さんには、青いブレスレットが映えるだろう。
私は早速、制作に着手した。まずは青いブレスレットからだ。
飾り玉も筒状のビーズも、透明の細くて頑丈なテグスで編む。これらのパーツ、実は一個作るのに一時間近くはかかる。私は色が単調にならないように、白や水色、茶色や銀の丸小ビーズを使って編んでいく。
はじめの忠告もあり、私はその夜は飾り玉と筒状ビーズを一個ずつ作っただけに留めた。
それでも疲労はしたのだから、やはりはじめの忠告に従って良かったと思うべきだろう。
空気が冷えたり、暑くなったり、読めない天候が続く。とにかく体調管理だけは怠らないように、私は細心の注意を払っていた。白シャツと柔らかいガーゼ素材を淡い青に染めたズボンを着て、薄手のカーディガンを羽織る。気紛れな空気は美の女神のように高慢で我儘に思える。葉桜となった緑陰が目に優しい。
客もないので、はじめと一緒に店内のディスプレイを弄っていると、店のドアが開いた。
私はその来客にデジャビュを感じた。
濃いピンクのカットソーにジーンズを合わせたその女性は、店内を見回して私を見つけると、つかつかとヒールの音も高らかに近づいてきた。
「姉さんの依頼を取り消して欲しいの」
いきなりの言葉に、私の頭はついていかない。
「姉さんと言いますと」
「来たでしょ? ここに。三瀬葉月よ。私はその妹、薫」
「ああ……。しかし、なぜ取り消したいのですか?」
「私、姉には幼い頃から随分、横暴なことされてきたの。それが最近になって、結婚するから私にも式に出てほしいって言い出して。お断りよ。それで母から、姉がこちらに私と一対のブレスレットを依頼したって聴いて。今更、私のご機嫌とりしようとしたって、お断りよ」
一息に言い切った彼女は憤懣を吐くように息を吐いた。火を吐くドラゴンのようだ。
「……お話は解りましたが、一度お客様から請け負ったご依頼を、他の方からの要請でお断りすることは出来ません。三瀬さんご自身のお気が変わられたなら話は別ですが」
私が慎重にそう告げると、薫さんは悔しそうに唇をきゅ、と噛んだ。
「――――だったら良いわ」
言い捨てると、薫さんは勢いよく店を出て行った。丁度、他の来客が入れ違いに入ってこようとドアを開けたところだったので、そのお客はまさに猪突のようにすれ違う薫さんに驚いたように目を丸くしていた。
さて。面倒なことになった。
その夜、なぜかうちに押し掛けた美鈴に、はじめともども夕食を振る舞うことになった。
今日は鰹のたたきとポテトサラダ、ブロッコリーと豆腐、カニ缶のあんかけだ。
夕食の席で私が今日の出来事を話すと、美鈴は首を傾けた。
「面倒臭そうな人ね。お姉さんは反省して仲直りしたいんでしょ? 素直に受け取れば良いのに」
「お前ははじめとずっと仲が良いからな。兄弟姉妹の確執が解らないんだよ」
そう言うと美鈴は頬を膨らませた。
「何よー。そう言う時さんだって一人っ子の癖に」
まあ、そうだが。
他人の家庭事情にはなるべく首を突っ込むべきではない。私は依頼を黙々とこなせばそれで良いのだ。
美鈴のブラウスの胸元には赤いビーズブローチが光っている。彼女の誕生日プレゼントに私がやった物だ。カッティングされた赤く大きなビーズを中心にして、色とりどりの賑やかな色合いのビーズを施してある。気に入ってくれているようだ。
三瀬姉妹も、二人ともブレスレットを気に入ってくれれば良いのだが。
せっかく作るからには、愛されるアクセサリーとなって欲しい。
翌日、店の開店時間とほぼ同時に、姉妹の姉、葉月さんが来店した。
綺麗な眉をひそめて、妹が失礼をしましたと詫びる。私はいいえと返し、彼女に再び椅子を勧めた。今日の彼女の装いはコンパクトなボーダーにデニムスカートで、最初とは趣が違うが、これもまたしっくり似合っている。そう言えば薫さんの装いも今風の、お洒落なものだった。美的感覚に秀でた姉妹なのだなと思う。
「私は妹より六歳年上でして。つまりは一人っ子の時代が六年間あったんです。だから、薫が生まれてからも、姉と言うより一人っ子の気質が先行して、だいぶ……あの子にきつく当たったりしたんです。今回、あの子が私の結婚式に出たがらないのも、無理もないと言えば無理もないのです。せめて和解したくて、こちらに依頼をしたのですが」
はじめが温めのお茶を出すと、葉月さんは軽く会釈した。
「ご依頼を取り消されますか?」
私がそっと尋ねると、葉月さんは項垂れたが、それでも首を横に振った。
「いいえ。まだ、希望を持ちたいと思います。あの子に、これまでのことを謝りたいですし。ブレスレットには、その架け橋になってもらいたいんです」
その時、店のドアが勢いよく開いた。
「やっぱりいた」
薫さんが仁王立ちで葉月さんを睨んでいる。レモンイエローの柔らかなパフスリーブのブラウスに、白いロングスカートといった爽やかな出で立ちとは正反対の怒りのオーラを放っている。
「また、私を悪者にしようとしてたの!? 自分ばかり、良い子ぶって。昔は散々だった癖に、結婚するとなると手の平返すなんて都合が良いのよ!」
「薫、お店にご迷惑になるからやめなさい」
「ほら、また猫を被る。姉さんの本性なんて、昔から少しも変ってないんだから。私の漫画は勝手に読む癖に、自分の漫画は読ませなかったり、おばあちゃんの形見の時計、私がお母さんから貰ったものを横取りしたりして」
「貴方だって随分、我儘だったじゃない! 砂遊びで私にあれこれ指図して城を作らせて、挙句飽きたらどこかに行ったり」
「姉さんの横暴振りに比べれば可愛いものだわ」
……ここで姉妹喧嘩をされても困る。
私はここで大きくごほん、と咳払いした。二人の声がぴたりと止まる。
葉月さんが強いて穏やかな口調で薫さんに語り掛けた。
「薫。昔のことは謝るわ。私が悪かった。ごめんなさい。だからブレスレットを受け取って。式に出て頂戴」
声には誠意と懇願の響きがあった。
薫さんもそれを感じ取ったのだろう。それまでの火のような勢いが急に弱まり、葉月さんを上目遣いに見る。
「……考えさせて。ブレスレットは、好きにすれば良いわ」
葉月さんはほっとしたような笑みを浮かべると、薫さんの肩を抱くようにして、店から出て行った。出る際に、私とはじめに向けて軽く頭を下げた。姉妹の修羅場を見せてしまった詫びだろう。
「女の喧嘩は怖いな」
「怖いなあ」
私とはじめはしばらく、台風一過のような心持でやや茫然としていた。
とは言え、依頼は依頼だ。私は完遂しなければならない。
翌日は定休日だったので、思う存分ビーズ制作が出来た。
飾り玉はテキストから学んだものだが、筒状のビーズは私が考え出したものだ。
針の穴にテグスを通して編んで行く。繊細で気を遣う作業だ。
時々、思い出したようにコーヒー飲みながら、私は作業に没頭した。
ドアの鍵が開く音にも気づかなかった。
「おい」
「あ、はじめ」
我に返るともう昼が近い。また時間を忘れて制作していたようだ。
「昼、まだだろ。作ってやる」
「胡麻塩お握りが良い」
「仕方ないな。米、今から炊くから時間かかるぞ」
「良いよ。作業してるから」
そう答えると、はじめが呆れている空気が伝わって来た。私の目は再び作品に向かっているので、顔は見ない。こういうところが猪突と言われるのだろう。薫さんを他人事とは言えない。
やがて炊飯器の米が炊けたことを知らせる音と、ウィンナーを焼く香ばしい匂いが漂ってきた。
「ほら、出来たぞ」
「やったー。はじめの胡麻塩お握り!」
私は制作の手を止めて、テーブルに乗った皿を見て歓喜した。ウィンナーと玉子焼きも一緒だ。ちょっとしたピクニック気分になって楽しい。
私ははじめの気遣いを有難く頂いて、食べ終わると再びブレスレット制作に着手した。
人がいると気が散る私の性分をはじめはよく解っていて、食器を洗うと帰って行った。助かるなあ。申し訳ない気持ちにもなる。
その三日後、ブレスレットは完成した。予め聴いておいた葉月さんの連絡先に電話すると、彼女はすぐに伺いますと答えた。確か葉月さんはフリーライターで、薫さんは大学院生だった。時間の都合はつけやすいのだろう。
驚いたことに葉月さんは薫さんと連れ立って『time』にやって来た。
「あれから色々、話し合ったんです。喧嘩も、少ししながら」
葉月さんも薫さんも照れ臭そうだ。
「二人きりの姉妹だから。やっぱり仲良くしようって」
「この間は、みっともないところお見せしてすみませんでした」
二人して深く頭を下げる。
私は、心がほかほかと温かくなり、彼女たちの為に良かったと思った。余人には容易に立ち入れない領分のことだが、この姉妹は私の願うように和解してくれたのだ。
「ブレスレットを着けてみられますか?」
姉妹揃って頷く。
こうして見ると、顔立ちはやはり似通っている。
サイズは前以て確認してある。
二人の細い手首に収まったブレスレットは、光を受けて煌めいた。
金色の蝶と銀色の蝶が、とても近い距離にある。
それは今の姉妹の心の距離だ。これからの長い人生で、葉月さんと薫さんが、互いを尊重しながら寄り添い合って生きていけるよう、私は蝶に願いを託した。