蜘蛛
それは私とはじめが、ビーズアクセサリーを作ってもらっている作家さんと、ランチを兼ねた打ち合わせをしたあとのことだった。
桜はもうすっかり散ってしまって、中庭に花びらの絨毯が出来ている。ランチをしたのは丁度『time』の向かい側にあるカフェでだった。オーガニックの素材にこだわり、ワンプレート千円とリーズナブルでもある。特にハーブを使った若鳥を焼いたものが私は好きで、今日もそれを注文した。
打ち合わせをスムーズに終え、店に戻ると、入り口に若いスーツ姿の男性が立っていた。
客を待たせてしまったと、私は慌てて鍵を開けて、彼を迎え入れた。
「いらっしゃいませ。失礼いたしました」
「あの、幸福を呼ぶビーズ細工の話を聴いて……」
貴方もか。
私は内心そう突っ込んだが、面には出さず、営業スマイルで曖昧に頷いた。
「そう仰る方も多いようですね」
「作っていただきたいのです」
彼は切羽詰まった口調で私に迫った。
はじめがさりげなく私の隣に立つ。軽い牽制の為だろう。
男性の口調からは必死さが滲み出ていた。予約は当分先まで埋まっているが、まずは話を聴いてみようと私は思った。
「どうぞ、お座りください」
「あ、どうも」
椅子を男性の脇に置いて促す。勤め人だろうから、昼休憩を抜けて来たのだろう。
「ご依頼をお受けするにしてもかなりお待ちいただくこととなりますが」
「構いません。あ、いえ、早ければそれは有難いのですが」
「ビーズ細工をご依頼ですか?」
「はい。蜘蛛をビーズで作ることって出来ますか。あの、虫の」
蜘蛛は虫だったろうか。私は内心小首を傾げたが、頷く。
「それらしいものを作ることは出来ます」
「僕は小さい頃から蜘蛛が苦手でした」
はて。苦手なものを作らせるとは酔狂な。
男性は顔を上げて一大決心を語るかのように言った。
「もっと強い男になりたいんです。会社でも、仕事が出来るようになりたい。苦手な蜘蛛も、貴方の作るビーズ細工ならきっと美しいのでしょう。一つでも弱点を克服して、生きていけるようになりたい」
はじめがレジの奥にある小さなキッチンで淹れたお茶を男性の前、レジカウンターにことりと置く。男性は几帳面に頭を下げる。
「もうすぐ社内でコンペがあります。僕はそれで優秀な成績を出したい」
男性は見たところ二十代半ば。細面の、繊細そうな面立ち。私より若い。
こんな時期が私にもあったなと、懐かしむような思いで、私は必死な若者の顔を見ていた。
「お話は解りました。出来上がってからのクレームはなしでお願いします」
「作ってくださるんですか!」
「はい。お急ぎのようですから、お客様のものを優先して作らせていただきます」
「ありがとうございます!」
男性は深く頭を下げて、安堵の入り混じった満面の笑みで店を後にした。
「良かったのか? 引き受けて」
「構わないよ。蜘蛛は初めて作る。私も作ってみたい」
懸念するはじめを安心させるように笑う。
人間には様々な関門がある。
あの若者にも、蜘蛛を手に入れたとしても、また新しい試練は次々とやってくるだろう。
そんな時、私が作ったビーズ細工が役に立つのだとしたら、それは嬉しいことだ。作家冥利に尽きる。
その日は星が綺麗な夜だった。
福岡の平尾という都会では普段は余り見られない星が見えた。夜の蝙蝠がベランダの硝子戸にペチペチと当たる音が聴こえる。
私は夕食を簡単に済ませ、抽斗から金色のワイヤーを取り出す。蜘蛛の身体を構成する芯はこれにしよう。少し毒々しいくらいが良いかもしれない。黒くカットされた大き目のビーズと、赤に近いピンクの菱形のビーズを出す。濃い紅。淡い緑。雫型の透明なビーズ。それらで身体を作り、足には乳白色、薄い青、透明のビーズを節にあてよう。
さらさらと簡単な想像図をスケッチブックに描きながら、私はココアを一口飲んだ。
うん。良い物が出来そうだ。
それに恐らくこれならそう時間もかからない。他の客を待たせることもないだろう。
それから深夜まで、私は作業に没頭した。
「おいこら」
「はじめ。おいこらって言うのはね、明治時代に警察やってた薩摩の男性の方言がもとなんだそうだよ」
翌朝。
私の目の下にはばっちり隈が出来ていた。早速はじめに見咎められる。
「屁理屈を言うな。根を詰め過ぎるなといつも言ってるだろうが」
「あ~。昨日はちょっと、興が乗っちゃって。でもお蔭でだいぶ、作業が進んだよ」
少し得意気に言うと、はじめは処置なし、といった顔で溜息をついた。
そこに来客があったので、私はそれ以上、はじめの小言を聴かずに済んだ。
お得意様のマダムだ。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは。ショートブーツを探してるのだけど、良いのあるかしら」
「丁度先週、何足か入りました。リザード素材からスエードまであります」
「リザード、良いわねえ。見せてもらえる?」
「はい、畏まりました」
昼は大体、はじめと一緒に客の来ない頃合いを見計らってレジの近くでもそもそと食べる。サンドイッチやお握りが多い。
私ははじめの握る胡麻塩お握りが大好きなのだが、中々作ってくれることはない。まあ、それでなくても給料以上の仕事をさせている自覚はあるから、余り不満は言えないのだが。
飲み物は日によってコーヒーだったり野菜ジュースだったりする。今日はオレンジジュースだ。もちろん手作りする余裕はないので、近くの自販機の紙パック。
二人して栗鼠が食料を詰め込むようにお昼を食べていると、急にはじめががたんと立ち上がった。
「――――はじめ?」
「親父」
「え?」
はじめは店から飛び出て、左手の道路を凝視している。
そこには去り行く三人の家族と思しき男女。
「……お父さんだったの」
「ああ。いや、解らない。いなくなってだいぶ経つし」
尚も動こうとしないはじめの腕にそっと触れ、私は店内に戻るよう促した。強いはじめ。頼もしいはじめ。
けれど彼が、心の奥、癒えぬ痛手を負っていることを私は知っている。
蜘蛛を依頼した倉木さんは、その後しばしば店に寄った。
「コンペが上手く行きそうなんです。上司も、目をかけてくれて」
きらきらした目でそう語る。初日の彼とは大違いだ。私がもう少しで蜘蛛が完成すると言うと、嬉しそうな笑顔になった。元来、懐っこい性分なのだろう。
私は蜘蛛の制作により力を入れて励んだ。
そして、蜘蛛は完成した。
煌びやかで、そのままブローチとしても使えそうな出来栄えに、私は満足した。
これなら倉木さんにもきっと喜んでもらえるだろう。
倉木さんより前に、要らない客が来たので、私はげんなりした。
「何しに来た、美鈴」
これは私の言だ。美鈴は身内同然なので、はじめと同じようにぞんざいな口調になる。
「ちょっと、その言い方酷くない? 仮にもお客様よ、私は」
「仕事さぼって買い物か。良い度胸だな」
「お生憎様ー。今日は半休なんですー。ちょっと兄さんからも何とか言ってよ。時さんたら酷いんだから!」
はじめは苦笑いするばかりだ。
女二人の間に割って入って碌な目に遭うことはないと、賢明な彼は承知している。
やいやい騒いでいると、倉木さんがやってきた。客がいる店内では、美鈴も大人しくしている。
倉木さんの顔色が芳しくない。
「いらっしゃいませ。蜘蛛、出来ていますよ」
私が気を取り直して蜘蛛のビーズ細工を差し出すと、倉木さんはそれを虚ろな目で見た。
「――――コンペで失敗したんです。最低の評価をされて。上司にも期待を裏切られたといわれました」
「……それは、大変でしたね」
「大変? 貴方に何が解るんですか。自分の店で悠々自適に商売して。こんなビーズ細工に法外な値をつけて!」
「ちょっと貴方」
口を出そうとした美鈴を私は制した。
「倉木さん。この蜘蛛だけでも見てやってくださいませんか。貴方の助けになるよう、誠意を込めてお作りしました」
「――――こんなもの!」
倉木さんは、私の手の上にあった蜘蛛を引っ掴み、床に投げ捨てた。カシャン、という微かな落下音。その腕を掴んだのははじめだった。
「何だよ、離せよ。金なら払う、それで良いんだろっ」
「あんたは今、やっちゃいけないことをした。もう客でも何でもない。そんな風に、人のせいにして、一生自分の無力を嘆いていれば良い」
私は床に落ちた蜘蛛を拾い上げた。幸いなことに破損はない。ほっとする。
それから立ち上がると、倉木さんに頭を下げた。
「お力になれず、申し訳ありませんでした」
「……」
倉木さんはもう一言も言わず、店から去った。
はじめが珍しく本気で怒っている。美鈴も。
私は蜘蛛を手に持ったまま、ぼんやりとしていた。
その夜、はじめと美鈴がうちで夕食を作り、振る舞ってくれた。
カレーライスだ。市販のルーではなく、独自のルーとスパイスで作るこの兄妹のカレーライスは、鶏肉が柔らかくほぐれる絶品である。
昔から、私に何かあると作ってくれた。私は余り食欲がなかったが、二人の気遣いを無駄にすまいと、出来るだけ食べた。彼らはそんな私の心情を慮ってくれ、無理はするなと言ってくれた。優しいカレーライスだった。
二人がうちを出てから、私はゆっくりと湯舟に使った。ラベンダー入りのバスソルトを入れている。湯に顔を浸ける。顔を上げる。
パシャン、パシャン、と何度もお湯を顔に被った。
寝巻を着た私は、抽斗に仕舞っていた蜘蛛のビーズ細工を取り出した。
作業用のペンチを持つと、蜘蛛を解体しにかかった。
私の中に荒ぶる熱があった。
はじめと美鈴がいた時には晒さなかった悲しみが押し寄せる。
パチン、パチンとワイヤーを切り、ビーズを摘み取っていく。
途中で、それを床に叩きつけた。私の肩は震えていた。
その肩を、ふわりと包む腕があった。はじめだ。合鍵で、入って来たのか。
駄目だ。今は我慢が出来ない。そしてはじめは、そんな私の胸の内を知っているかのように言うのだ。
「泣いてしまえ」
「お前がいるのに」
「だから良いだろう」
「莫迦野郎……」
私の涙の堰が決壊した。私は、はじめに後ろから抱かれたまま、泣きじゃくった。
ビーズ細工は私の宝だった。子供だった。子供を蔑ろにされて、嘆かない親がいるだろうか。
しんしんと夜が更ける中、私の泣き声だけが静寂の中、響いていた。
それからしばらく、私はビーズに触れようとしなかった。
溜まっている依頼はあるが、そんな気分になれない。ひたすら、店の営業に勤めた。はじめも私の心中を察するゆえに、何も口出ししなかった。
倉木さんが再び『time』を訪れたのは五月も末のことだった。
彼の顔を見た途端、警戒態勢になるはじめを制して、私は強いて穏やかにお久しぶりですと告げた。
そんな私の前で、倉木さんはがばりと土下座した。
「すみませんでしたっ!!」
私は目をぱちくりとさせて、ともかく彼に立ち上がるようにお願いした。毎日モップで拭いてはいるが、決して清潔とは言えない床だ。
「八つ当たりだったんです。自分の未熟を、貴方の、貴方のビーズ細工のせいにした。謝って済むことではないと解っていますが、申し訳ありませんでした」
今度は私ではなく倉木さんが謝罪している。可笑しなことだ。
私の唇にはいつの間にか仄かな笑みが浮かんでいた。
「それであの、図々しいことを承知で、あの蜘蛛を買い取らせていただきたいのですが」
「……あの蜘蛛はもうありません。不良品として私が処分しました」
「えっ」
「ですので、また新しく作らせていただきます」
倉木さんの顔が明るくなり、反対にはじめの顔の眉間には皺が寄った。
「ぜひ、お願いします。蜘蛛の料金、二つ分お支払いします」
そう言ってくれるなら有難く頂いておこう。
倉木さんは私の心に傷をつけた。それは痛くて、とても辛かった。だが、彼もまた苦しんでいたのだ。
自分の苦しみゆえに人に当たって良いという理屈はないが、人情ではある。
流した涙が報われる日は来る。私はそう信じてこの商売を続けている。
「お前が泣くのはもうごめんだぞ」
倉木さんが去ったあと、はじめが俯いて告げる。
「解ってる。ありがとう、はじめ」
その日の夜は、先日のカレーライスのお礼に私がはじめと美鈴に夕食を振る舞った。
ホタテの蒸し豆腐、蕪のゆかり和え、人参と牛蒡の金平に甘鯛のソテー。
「時さんってば、人が良いんだから」
日本酒を、これも作家物の切子グラスできゅい、と呑みながら美鈴が言う。
「私だったら絶対にお断りよ、あんな男。ああいうのはね、繰り返すのよ。同じ過ちを。一回謝ったくらいで、この先解るもんですか!」
「……信じたいからね。それでも」
私が静かにそう返すと、美鈴は言うことを失くした迷子の顔で、兄を見た。
「時がそう言うなら、俺はそれで良いよ」
「兄さんったら、もう。私がアウェイみたいじゃない」
「感謝してる。美鈴にも。もうすぐ誕生日だろ? 何か可愛いビーズ細工、作ってやるよ」
「え、良いの、時さん。依頼が溜まってるんでしょ」
「並行してやるさ」
私も日本酒をきゅい、と呑んで請け負った。
人生は解らない。
願わくば新しい蜘蛛が、倉木さんの人生を幸いに導きますように。