スワトウ刺繍
桜が散ろうとしている。
三毛猫が、桜吹雪を浴びながらトコトコ歩いている。花びらまみれでも頓着しないらしい。
私が幸福を呼ぶビーズ細工作りを再開して、客が増えた。皆、どこから聴きつけるのか、それは蜜に群がる蝶のようだ。
美しい例えをしても私が忙殺されている現状は変わらない。お蔭でビーズ制作は二か月先まで予約が埋まっている。
だから、新しい客は断ろうと思っていたのだが。
「スワトウ刺繍ですか」
「はい」
「この、スワトウ刺繍のレースに、ビーズ刺繍を更になさりたい、と」
「はい」
私は美麗な白い布を持ち込んだ女性をじっと見る。
間もなく結婚するという彼女は瑞々しい肌に潤んだ黒い瞳が可憐な、それは素敵な花嫁となるであろう女性だった。
しかし。
「お客様。スワトウ刺繍の由来をご存じでしょうか。スワトウとは、中国広東省の歴史ある港町の地名です。元の時代に大きな漁村として発展し、清時代に現在の地名が名づけられました。もう少し北上すると福建省に」
そこではじめが大きくごほん、と咳払いした。
……長広舌過ぎたらしい。まだまだここからなのだが。
「ともかく、スワトウ刺繍は一点一点が素晴らしい伝統芸術なんです。ご覧ください、この花柄、蝶、龍、鳳凰。結婚式に使われるからでしょうね。吉祥の図柄が贅沢に織り込んであります。そこに私のビーズが入ると、例え極小ビーズであっても、せっかくの今ある調和を崩してしまいかねません」
「それでも貴方にお願いしたいんです。幸せになるビーズを」
「どうして、そこまでして」
「私、最初の恋愛が酷いものだったんです。相手は最低の男で。だから、今度好きになるなら、絶対に一緒に幸せになれる人にしようって思って。それが、彼なんです」
私は思案と途方に暮れた。考え、悩んだ末、折れた。
「……解りました。それでは余白の部分にのみ、スワトウ刺繍の邪魔をしないよう、ビーズを刺繍させていただきます」
彼女の顔がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます! よろしくお願いいたします」
一か月先の結婚式に間に合わせたいということで、急ぎの仕事になる。どの程度の費用、手間がかかるか今ここでは判断出来ない為、最低価格を示し、出来上がり次第、正確な金額をお知らせすると言うと、それで結構ですと女性は頷いた。
その日は他の客にも対応しながら、私の頭の中はヴェールに刺すビーズ刺繍の図案で一杯だった。
夜、久し振りにはじめと呑みに行こうということになった。
店を出て閑静な山荘通を抜け、車の行き交う繁華な通りに出る。馴染みの焼き鳥屋に入り、私は葡萄のチューハイを、はじめは焼酎のロックを注文する。
「えーと、あと白ミソと豚バラ、えのきのベーコン巻き、さがり、つくねのたれのほう、イカ明太と揚げ出し豆腐。焼き鳥は二本ずつ。とりあえずそのへんで」
あいよ、と威勢の良い大将の声が私の注文に応じる。
「どうだ、上手くいきそうか。花嫁のヴェールは」
「んー。その積りだけどねえ。てか、上手くいかないとあの貴重なお宝を駄目にすることになるから、それだけは避けたい」
貴い職人の、気の遠くなるような手仕事の結晶だ。
ぐびぐびとチューハイを呑みながら答える。
「お前らしいが根を詰め過ぎるなよ」
はじめをちらりと横目で見る。やり始めたらとことんこだわり止まらない。
私の気性を彼はよく知っている。
……何でここにいるんだろうな、こいつ。
「はじめはさ、どうして『time』に付き合ってくれたの」
今度ははじめが私を横目で見た。
はじめと私は優良企業に共に務めていた。そこそこ、良い成績を出し、社内での評判も悪くなかった。
だが私が店を開きたいとはじめに打ち明けた時、はじめは当初こそ難色を示したものの、結局は賛同してくれ、なぜか自分までも会社を辞めて『time』創業に携わったのだ。給料は企業に勤めていた頃のほうが良いだろうと断言出来る。
なのにはじめは『time』に当然のように付き合ってくれるのだ。
「面白そうだと思ったし、お前が危なっかしかったからな」
「何だ、それは」
私はしかめっ面をして、豚バラをむしゃりと食べた。
焼酎の入ったグラスを傾けるはじめは癪だが様になる。元々、渋い系統の醤油顔イケメンなのだ。こうした場所によく馴染む。
企業に勤めていた当時、はじめのことを狙っていた女子社員が少なくなかったことを私は知っている。
イカ明太美味しいな。
チューハイを三杯も呑むといい感じにほろ酔い加減になる。
私の頭の中には、スワトウ刺繍に刺すビーズの模様で埋め尽くされている。
しっかりしたモチーフが既に刺繍されているのだから、ビーズ刺繍はそれを引き立てるような抽象的かつ幾何学的なものが相応しいだろう。
「はじめ」
「何だ」
「お父さんから連絡あった?」
「まだだ」
躊躇いながらそっと差し出すように訊いた私に、はじめは特に気を悪くする風でもなく、素っ気なく答える。だから私も、そう、とだけ返してあとは沈黙した。
店休日の水曜日。
私は未だに布団の住人だった。昨日はだいぶ羽目を外した。
頭の隅にはスワトウ刺繍のヴェールがある。私はすっかり魅了されているらしい。
今日ばかりは沈黙している目覚まし時計の前でえいやっと起き上がり、白シャツとジーンズに着替えて日課の人参ジュースを飲みストレッチする。
朝食を手早く済ませ、手を石鹸で念入りに洗うと、預かっていたスワトウ刺繍のヴェールを袋から取り出す。それは春の朝日に輝いて、燦然と眩いばかりだ。
デザインを描き出した紙を見ながら鉛筆でヴェールに薄く下書きする。
道具箱を取り出し、ビーズを入念に選別していく。
極小のビーズを使うので、針も糸も極細の、けれど丈夫なものを使う。
一刺し、一刺し、幸せな結婚を望む女性の顔を思い浮かべながら刺していく。とても気を遣うし、根気の要る作業だ。そして少しの範囲しか刺していけない。作業は遅々として進まない。
だが、これが私のビーズ細工の仕事なのだ。
ビーズは完成品を見るとほとんどの女性が魅了されるし褒めるが、「所詮はビーズ」という観念が強い。特に日本ではそうだ。だから、私のビーズ細工の価格を知った客はまずその高価であることに目を剥く。
それはよくあることなので、私はそれが妥当な値段であり、決して正規価格を逸脱しているものでないことを説明しなくてはならない。
だから工場で量産された安価な品に流れる客も少なくない。
そちらを望む人には、そうした品を紹介したりもする。
「ふう、」
凡そ三センチほどの刺繍模様を施しただけで一時間が過ぎている。私は肩を回し、コーヒーを淹れるべく立ち上がった。
と、くらりと立ちくらみがしてふらつく。
根を詰め過ぎるなよというはじめの言葉を思い出す。
苦笑いしながら薬缶に湯を沸かし、細いケトルに移し替え、コーヒーフィルターに入れたコーヒーの粉にゆっくりと注いでいく。
ああ、洗濯機を回さなければ。
私は淹れたコーヒーをそのままに慌てて洗面所に行き、洗濯物を入れて洗濯機を稼働させた。今日は少し肌寒いが、うっすら棚引く雲があるくらいであとは青い空だ。
改めて椅子に座り、コーヒーで一服していたら洗濯機の洗濯し終えた音がピーピーと鳴り響いた。
コーヒーカップを置き、洗濯物をベランダに干す。ちなみに使っているコーヒーカップも、懇意にしている陶芸家の焼いた物だ。私の家にはそうした品が多くある。自分の惚れ込んだ作家の作品を日常使い出来る。幸せなことだ。
洗濯物を干しながら、ふと階下を見る。
私の住むマンションは、『time』の斜め向かいにある。つまり、店の入り口がよく見えるのだ。
そこに、スワトウ刺繍の女性が立っている。
今日が定休日だと知らなかったのか、どこか落ち込んでいるようだ。
見かねた私はガスの元栓を切って、家の鍵をかけて飛び出した。
桜の花びらがひらと急ぐ私の横を行き過ぎた。
「あの、橋本様、でしたよね」
声をかけると、彼女は驚いたように私を見た。
「どうかなさいましたか? ご依頼の件で何か……?」
「……いいえ、はい、いいえ」
日本語が成立していない。
ともかくも私は彼女を自宅に招いた。
「こんなにお近くなんですね」
「ええ。店の近くだと便利なので。橋本様のお姿も、ここのベランダから見えたんです」
幸い、まだコーヒーは残っていたので、彼女――――橋本ゆきさんの前にコーヒーとミルクピッチャー、角砂糖を置いた。ローテーブルは私の好みで焦げ茶色の木材が使われている。
「彼と、結婚して、本当に幸せになれるでしょうか」
ゆきさんはコーヒーを一口一口、猫が舐めるように飲みながら、ぽつりとそう不安を吐露した。
不安なのだろうな。
同じ女性として、彼女の不安はとてもよく共感出来るものだ。
「私は独身なのでよく解りませんが、〝結婚式で我々が誓う親密さは、魂の美しさと邪悪さの入ったパンドラの箱を開けること〟なのだそうです」
「パンドラの箱……」
「はい。きっと、何も苦労のない結婚などないと思います。それでも、そこに残る希望を糧に、歩み続けるのが夫婦なのではないでしょうか」
ゆきさんは澄んだ双眸でじっと私の話を聴いていた。そして、長い時間をかけてコーヒーを飲み終えると、ありがとうございます、ご馳走様でした、と言った。
その表情は清々しく、晴れやかだった。
きっと彼女は私のビーズ細工などなくても幸せになるに違いない。涙する日もあるかもしれないが、それでも結婚を後悔することはないと信じたい。
それから私は約三週間でビーズ刺繍を仕上げた。
その間は他の依頼を一旦、置いて、スワトウ刺繍のヴェールにビーズを刺すことばかりに集中した。もちろん、店の営業は続けながらである。
ゆきさんに完成した旨、電話で伝えると、すぐに駆けつけてきた。
ヴェールは、純白に淡い透明の青、ピンク、緑、金、銀などの極小ビーズが、スワトウ刺繍の余白を縫うように刺してある。光にかざすと細い帯状になった控えめな輝きがこぼれる。我ながら満足いく出来栄えとなった。ゆきさんは、頬を紅潮させ、素敵、と一言呟いた。頂く料金はそれなりの額になってしまったが、彼女は満足そうに快くそれを支払ってくれた。
結婚式には私とはじめも招待された。
晩春の大安吉日。
平尾の小さいけれど瀟洒な教会で、マーメイドラインのドレスにスワトウ刺繍のヴェールを被ったゆきさんは、輝かんばかりに美しかった。華々しいというより、清楚で静謐な、どこか覚悟を感じさせる立ち姿に、私は見惚れた。
新郎はムーミンを思わせる、純朴そうな顔立ちで、タキシードが少し窮屈そうだったが、ゆきさんを見ながらにこにこ笑っている。
ああ、良い相手と巡り会えたのだなと私は、安堵した。
式のあとは立食パーティーとなり、豪勢な料理に私は舌鼓を打った。
気づけばはじめが私を見ている。ん?
「どうした、はじめ」
「馬子にも衣装」
「失礼な奴め」
今日の私はラヴェンダーパープルの絹のワンピースを着ている。こうした時でもないと着ない一張羅だ。ショートカットの髪は、軽く巻いてある。普段はほとんどしない化粧もしている。
そう言うはじめも今日は上等なスーツでびしっと決めている。
中々悪くないぞ。言ってやらんが。
「花嫁のブーケトスでーす」
その一声に、女性たちがきゃあきゃあ言いながらゆきさんの後ろに集まる。
私とはじめは一歩引いて、その様子を眺めている。
ゆきさんが後ろ向きで投げたブーケ、方向が逸れて、何とはじめの腕に収まった。
一瞬の沈黙のあと、弾けるような笑い声が起こった。はじめは渋面である。
私の腕にぽす、と薔薇の群れを落して、そっぽを向いた。私も爆笑しながらブーケを受け取った。
「あは、あははは、良かったな、はじめ。次に嫁に行くのはお前だ」
「煩い」
ゆきさんは、スピーチの時に、わざわざスワトウ刺繍のヴェールを私に注文したことを言ってくれた。
お蔭で女性客からまたもや依頼が殺到し、私は困惑した。
二次会には行かず、はじめとタクシーに乗った。
その夜、はじめと一緒にうちでささやかな祝杯を挙げた。
花嫁の未来に幸あらんことを願って。
式でたくさんのご馳走を食べたので、枝豆や冷奴、鮭とばなど酒の肴を用意した。
私は満足だった。良い仕事が出来たと思う。
はじめは、いつもは仏頂面なのだが、こんな時、とびきり優しい顔で私を見るのだ。
不意打ちなんだよなあ……。