その手首を包むもの
八月に入り、夏もいよいよ本番になってきた。青を強く主張する空、同じく白を強く主張する雲がいかにも夏らしい。
店のドアを開く音に、私は顔を上げた。
「いらっしゃいませ」
母娘連れと思しき二人は、どこか思いつめた様子で立っている。
母親らしき女性が口を開く。
「幸福を呼ぶビーズを作っていただきたいのですが」
「お母さん、やっぱり良いよ」
「でも」
お母さん、と呼んだ少女の顔色は悪い。栄養が摂れていないようだ。そして夏だというのに長袖を着込んでいる。
「どのようなビーズ細工をお望みですか?」
差し出すように私が尋ねると、母娘は顔を見合わせた。
「……ブレスレットを。太さのある帯状の。出来ますか?」
「出来ますが、手間がかかる品となりますので、費用もかなりかかりますよ」
「構いません」
変わっているな、と思った。この季節、手首を覆うブレスレットは敬遠されて余り売れないのだ。それを、太さのある帯状、と言う。
――――少女の長袖。
いや、詮索し過ぎはいけない。私がそう自分を戒めたところ、少女が一歩、踏み出して、自分の左手首を私に見せた。よく見ろ、という風に。
そこには無数の切り傷の痕があった。リストカット。
「この傷を、隠したいんです。私、学校で苛められてて、何もかも嫌になることがよくあって。つい、発作的にやってしまうんです」
「学校には私から事情を説明して、苛めの解決とブレスレットの許可を申請します」
私は悲しくなった。
まだ十代の少女が、自分の命を自分で断とうとする。何度も、何度も。
痛かっただろう。辛かっただろう。
気づけば動いていた。少女を抱き締めていた。
言葉にならない。少女は震えて、私にしがみついた。
「大丈夫。大丈夫ですよ。もう、大丈夫」
少女は嗚咽を漏らし、尚も私にしがみついていた。
嵐のような日々を過ごす少女の、縋るものがちっぽけな私という存在だということが、遣る瀬無かった。
母娘は片野佐和、片野しおりと名乗り、契約の手続きをして店を出た。私は二人に、隣の喫茶店の存在を教えておいた。二階にある喫茶店は、階段が狭くて急だが、店の雰囲気は良く、ケーキなどの味も確かだ。
ひと時でも、和みの時間を過ごせれば良いと思う。佐和さんは専業主婦だそうで、しおりさんは今は学校に行っていないとのことだった。それが良い。無理に苦痛な場所に行く必要などないのだ。しおりさんは小動物を思わせる、可愛らしい少女だった。そのことが彼女を舐めさせ、また、嫉妬をされる要因となったのではないだろうか。
はじめは私たちの一部始終を聴いていたが、一切、口出しすることなく母娘を見送った。
ただ、見送ったあとに大丈夫かと訊いてきた。
「太い帯状だとだいぶ手間だろう。またお前、無理するんじゃないのか」
「大丈夫だよ。根気よくやるさ」
余り信用していない目ではじめに見られながら、私はブレスレットのデザインを頭に思い描いていた。冷房の効いた涼しい店は、涼し過ぎて体調を壊すこともあるので、私は店内では薄手の麻のカーディガンを羽織っている。はじめも長袖のシャツだ。私たちはそれからバゲットにオイルサーディンを挟んだものを食べて葡萄ジュースを飲んだ。この葡萄ジュースは私が取り寄せた果汁百パーセントのもので、魔法瓶に入れてきた。はじめも美味しそうに飲んでいる。そして葡萄大福を食後に味わう。これで午後からのエネルギーがチャージされた。
蝉の鳴く声が聴こえる中、私は販売、営業に努めた。
営業時間が終わり、帰宅してまず洗濯物を取り入れて風呂に入る。生き返る。ラヴェンダーの花びらが水彩の点描のように、湯のあちこちを彩っている。私は自分の左手首を見た。そこには何の傷痕もない。それは幸運なことなのだと、しみじみ思いを噛みしめる。何度も何度も、手首を切りつけずにはいられない。一体どれだけの絶望感だっただろう。あの子は、私が知るよりもっと過酷な地獄を生きて来たのだ。そして、これからも生きなくてはならない。
せめてその生きる道がなるべく平らかなものになるよう、私は全力を尽くす。
はじめの言葉を思い出す。あとでまたお説教かもしれないな。
風呂から上がり、冷凍のハンバーグをプチトマトと法蓮草と一緒に焼いて、ご飯にする。これからも作業が控えているのだ。しっかり食べて精をつけなければ。
私はそれからスケッチブックを開くと、ブレスレットのデザインをさらりと描いた。細かい色合いや柄までは決めない。糸を通していく内に、決まっていくだろう。色は寒色系と決めていた。それも柔らかい青。優しい青。
しおりさんが自分を傷つけたい時に、すう、と冷静になれるように。冷静の青が彼女を守ってくれるように。留め具は焦げ茶の竹ビーズにしよう。引っ掛けるものは青いヴィンテージのボタン。使うワイヤーの色は銀。
大体が決まり、私は早速、糸と針を手にブレスレットを編み始めた。
透明、青が内にある透明、緑、紫、薄青、大きさはあえて時々波長を崩して。小ビーズが並ぶ中に大ビーズがちょこん、と出てアクセントになるように。
三センチ程進めたところで、今日の作業は終わることにした。はじめに言われたからという訳ではないが、しおりさんのブレスレットは殊の外、丁寧に作っていきたい。
私はそれからベッドに入り、タオルケットの中にもぞもぞ入り、手だけ出してエッセイを少し読むと明かりを消して寝た。耳には夜にも鳴く蝉の声を聴きながら。
翌日には倉木さんが来店した。
「こんにちは! 時さん」
「こんにちは、倉木さん」
「お隣の喫茶店に行きませんか?」
え。
「ほら、お隣なら距離も近いし、はじめさんに店番していてもらえば良いでしょう?」
「……いえ、そういう訳には」
倉木さん、悪い人ではないんだがな。はじめの存在を軽視し過ぎだ。はじめは無言で倉木さんを見ているが、私には彼の心中に立つ青筋が見えるようだった。
「おばあ様のお加減は、その後いかがですか」
話を逸らしてみる。
「もうすっかり元気になりましたよ! 時さんの作ってくれた携帯ストラップ、凄く気に入ってます」
「そうですか。それは良かったです」
「それで、喫茶店には」
「行きません」
ここは断固として断るところだろうと私が答えると、途端に倉木さんはしょんぼりした犬のようになった。女性によっては庇護欲をそそられるところなんだろう。
ちら、と上目遣いに倉木さんがはじめを見る。
「お二人は恋人同士ではないですよね」
「違いますね」
「だが一緒に風呂に入ったことならある」
「えっ」
「何回も」
「ええ!」
おい、はじめ。
あーあ。すっかり誤解した倉木さん、しょんぼりなまま、店を出て行く。私ははじめをじろりと睨みつけた。
「何歳の頃の話だ」
「事実だろうが」
「ふーん」
そうですか。
あとから店にやってきた美鈴は、この話を聴いて笑い転げていた。
「それ、私だって一緒に入ったじゃない! あはははは」
「だよなあ。それをはじめが思わせぶりに言うんだ」
美鈴がにやりとする。
「朴念仁なりに譲れなかったってところね。良い傾向だわ」
「何の話だ」
「時さん。貴方、自分が結構、異性にモテるって解ってないでしょ」
「私が? まさか」
私はぷっ、と吹き出し、一笑に付した。そんな私を、まるで小さな子供を見守る生温い視線で、美鈴とはじめが見ていることに、私は気づきもしなかった。もちろん、倉木さんが私を好いているなどない話である。美鈴たちは私から見れば些か恋愛脳過ぎるのだ。
蝉が今日もかしましい。
中庭の桜の樹には蝉の抜け殻がちらほらと見える。次いでに言えば毛虫の死骸も。だから私は、夏の桜の樹は苦手なのだ。
今日のお昼は珍しく蕎麦の出前を頼んだ。美鈴がたまには良いだろうと勧めたのだ。まあ、この季節だしと思って私もはじめも美鈴の提案に乗った。私の頼んだとろろ蕎麦はよく冷えて、とろろの風味も絶妙だった。よし、これで午後も頑張れる。
「時さん、大変そうな依頼受けたって聴いたけど大丈夫?」
美鈴が心配顔で言うので、その頭をわしゃわしゃ撫でてやった。
「大丈夫だよ。興が乗ってるし、自分で作りたいと思えて作ってるんだ」
「……なら良いけど。無茶しないでね」
「うん」
その日の帰りは少し遅くなった。十一時半に店を出る。マンションまで小走りに駆けて、家に入る。洗濯物を急いで取り込み、風呂を沸かす。その間に魚介類を豆板醤で手早く炒めて海苔を千切って振りかける。風呂でしばし放心状態のようになり、ざばりと上がると部屋着を着て先程作ったものに冷奴を加えて夕食にする。酒を呑みたいが呑まない。
作業に差し支える。それでなくても繊細な作業なのだ。
青一色で作った正方形の中に、黄緑の四角い枠を作る。その中に海老茶色のビーズを敷き詰め、中央に青い大きな一粒を置く。乳白色のビーズと暗い紫色のビーズを並べていき、好対照になるようにする。そうして行儀の良い部分を作ったあとは、自由自在、青を基調にオレンジでも赤でも黄色でも。色を遊ばせる。
私はよくこうして色で遊ぶ。好きなのだ。色彩の乱舞が。
ちらりと時計を見る。十二時半。
切り上げ時だ。だが、私はもう少し作りたかった。物を作り上げる熱情が、しおりさんへの想いと絡み合い、私の手を動かし続けた。
一枚の帯状のブレスレットが出来たら、あとは二重に糸を通していく。そのほうが頑丈で長持ちする為だが、この作業がまた骨である。針をペンチでビーズの列から抜き取る力業をすることもある。針が一作品で二、三本折れることもざらである。だが私はこの二重の糸通しを止めない。それは私の意地であり、矜持なのだ。
ようやく全部に糸を通し終わった頃には、三時近くになっていた。
ああ、はじめに怒られるな。あいつ怒ると怖いんだよな。何か誤魔化す方法ないかな。
そんなことを考えながら、私はベッドまで這って行くと、タオルケットをかけるのもそこそこに眠りに落ちた。
翌日は晴天だった。帯状のブレスレットはほぼ仕上がり、あとは留め具を残すのみである。私は機嫌よくフレンチトーストを焼き、生クリームと一緒に頬張る。うま。
ふんふん、と鼻歌を歌いながら洗濯物を干し、ストレッチ。開店時間近くになって、余分に作っておいたフレンチトーストと生クリームの入ったタッパーを保冷剤を入れたバッグに入れ、『time』に出向いた。
「……無理しただろう」
私の顔を見たはじめの、開口一番がこれである。やれやれ。
「少しね。でも大丈夫! あ、今日はフレンチトースト持ってきたよ!」
はじめの表情がぴくりと動く。
「生クリームも一緒だよ!」
更にぴくぴく。
それから、処置なし、といった風に溜息をついた。私がはじめの胡麻塩握りに弱いように、はじめは昔から私のフレンチトーストには弱いのだ。
そして二人で昼休憩にフレンチトーストを食べていると、倉木さんがひょっこり顔を出した。何やらもう復活しているらしい。意外とタフだな。
「すみません、倉木さん。今、昼食中でして」
「フレンチトーストですかあ。良いですねえ。ひょっとして、時さんの手作り?」
「ええ、そうですが」
「良いなあ。僕も食べたいなあ」
「召し上がられます?」
あ? はじめのこめかみが動いた。
「良いんですか? 嬉しいなあ」
倉木さんはにこにこ笑いながらフレンチトーストを頬張る。余分に作ってきておいて良かった。
だがはじめよ。その仏頂面はどうにかならんのか。
その日の夜、ブレスレットの片側にヴィンテージボタンを銀色のアーティスティックワイヤーで留め、もう片側に焦げ茶色の竹ビーズで輪っかを作り、ブレスレットは完成した。
私は達成感と疲労でばたりと倒れ伏した。何だかお腹が痛い。気を張り過ぎただろうか。
風呂は済ませたが、もう一度汗を流したくて、私はシャワーを浴びた。
それから寝巻に着替え、深い眠りに落ちた。
ブレスレットが出来上がった旨、連絡した翌日、片野さん母娘は店にやって来た。
しおりさんの目が、ブレスレットを見た途端、明らかに輝いたのを見て、私は心中で快哉を上げた。
「……ありがとうございます。凄く、綺麗……」
「しおりさん」
「はい」
「生きてくださいね」
「…………」
「逃げたいところからは、逃げ出したって良いんです。貴方には、お母さんという強い味方がついてる。――――いつまでも、耐えることはないんですよ」
しおりさんは俯いた。それから、俯いた頬に涙が幾筋も滑り落ちた。何度も、頷いて。今度は佐和さんが、そんなしおりさんを抱き締めた。
辛いなら逃げて。それが許されるなら。いつまでも、暗い場所にいる必要はないんだよ。
母娘を見送ったあと、私の腹部に激痛が走った。堪らず昏倒した私を抱き上げたのははじめだ。
あとは意識にない。
私は虫垂炎で入院した。
そして、その入院したことが、はじめと美鈴のお父さんに関する手がかりを得ることになるとは、この時は思いもしなかった。