桜細工
雨は音より肌が先にその気配を捉える。
少なくとも私の場合はそうだ。
まだ目覚まし時計が鳴る前。春のぼんやりとした明け方の中、私は寝返りを打つ。
しとしとと降る雨は、桜をいくばくか散らすだろう。憂鬱なことだ。
春の肌布団とタオルケットを二枚、身体に被せて私はうつらうつらそんなことを思う。
く、はあ、と大きな欠伸。
見る者もない一人住まいだ。
目覚ましが鳴る寸前に腕を伸ばしてベッドヘッドに置いてある時計のボタンを押す。
まだ頭がぼんやりしている。はじめが見たら煩そうだ。
私は布団との戯れを切り上げ、すっくと立つと部屋着に着替えた。白シャツにジーンズ。家での定番だ。
それから人参をミキサーにかけ、ジュースを作るとごくごくと飲み干す。私の健康習慣だ。ここで美容という二文字も加わらないあたり、我ながら女っけがない。もとよりそんなもの、追い求めていないけれど。
軽くストレッチして身体をほぐす。段々、神経細胞が起き出すのが解る。
「雨か……」
食事の支度をしながら私は独り言ちる。今朝は鮭の塩焼きと納豆、法蓮草の胡麻和え。
独り暮らしでも食事に手を抜かないのは母にそう叩き込まれたからだ。しかし私は母ほどころころと太る積りはないので、食事量はバランスを考えるが。
雨は過ぎた昔を思い出させる。
あの日も雨が降っていた。
私はマンションを出て、傘を差し、店に向かった。
私の経営するブティック『time』の開店時間は十一時だ。
場所は福岡市の平尾、山荘通にある。
店の鍵を開けると、はじめがもう来ていた。いつも通りの仏頂面で、店内の掃除をしている。
とは言っても、掃除する必要はほとんどない。律儀な性分なのだ。
レジ奥の椅子に座り事務作業を片付けると手持無沙汰になり、黙々と立ち働くはじめを見るともなしに見ていた。
「雨だな」
ぽつりと、はじめが言った。はじめの髪は見事な黒で、きりりとした精悍な面立ちとよく似合う。
そんなことを考えながら、私ははじめの言いたいことから意識を逸らそうとした。
「雨だね」
「ビーズ細工はもう作らないのか、時」
「…………」
彼、青はじめは、私、琴坂時の幼馴染だ。腐れ縁とも言う。
何の因果か保育園から小・中・高・大学、そして勤め先まで一緒になった。
私の名前から店名を取ったここ『time』ではアクセサリーなどの小物から洋服、果ては食器や文房具まで手広く取り扱う。小規模な店だが、品揃えは良いと自負している。この店で扱うアクセサリーにはビーズ細工もある。細かく美麗な手仕事は、見ていてうっとりする。
私も以前は自作したビーズアクセサリーを店に置き、販売していたのだが――――。
三年前まで、私は売れっ子ビーズ宝飾創作家だった。素材はビーズのみに留まらず、天然石やヴィンテージボタンなども多用した。それらの作品はある時期から「幸福を呼ぶ」アクセサリーと評判になり、雑誌などにも取り上げられた。
けれど三年前、ある事件をきっかけに私はビーズから手を引いた。
はじめの物言いたげな顔。
解っている。
彼はもう一度私にビーズ細工を作らせたいのだ。他ならぬ、私自身の為に。
「はじめ。私は、罪を背負った」
「それは違う。彼らが、選んだことだ。お前の作品は関係ない」
この店はコの字型に店が立ち並ぶ一画にあり、中庭には桜の樹が植わっている。
今を盛りと咲き綻ぶ桜が、淑やかな雨に濡れているのは、楚々とした美女の風情だった。
三毛猫が一匹、中庭を通り過ぎる。あの猫は『time』の隣の喫茶店でよく餌を貰っている。
「そうだとしても、あの子たちは、私の作品を持って――――」
私の言葉は中途で切れた。
来客だ。
はじめもまた、何かを言い募ろうとしていたようであるが、言葉を呑み込みいらっしゃいませと告げる。
品の良いグレージュのスプリングコートを着た中年の女性だった。
淡く塗られた唇が動く。
「ワンピースを探しているの。これから着られるような」
「ワンピースですか? それでしたらこちらと、こちらの棚にあります。うちは全て作家さんにオーダーしているので、他にはない一点物がございますよ」
私の一点物、という言葉に反応した女性は、いそいそと物色を始めた。
この店にはもちろん試着室もある。
五年前、二か月半かけてこの店を文字通り作り上げたのだ。
空き店舗を毎週土、日に探して、ここを見つけた時にはすぐに大家さんに連絡をとり、使用の許諾を得た。大家さんは当時八十五になる老婦人で、話が通るまでやや手こずった。何せ耳が遠かったのだ。
それから建築デザイナーにデザインしてもらい、家具作家の人と私とはじめが作業した。壁、床、天井、土間。全てが手作りなのだ。
客の女性はワンピースを何着か試着して、白地に青と黒の大柄なチェック模様の入った綿のワンピースを選んだ。
これで会計して終わりだ。
私がそう思って心の中で一安心していると、急に女性が私に顔を寄せてきた。
「ところで、幸福を呼ぶビーズアクセサリー作家って貴方でしょう?」
完全な不意打ちだった。私は手に持っていたお釣りを取り落とした。
ばらばらと散らばる小銭。はじめが素早く拾い上げていく。
女性の目は、それまでと打って変わって猛禽類のようだった。
女性は私の腕を掴む。逃がすまじと言うかのように。
「ねえ、もう作ってないの? まだストックはあるわよね、ねえ――――」
淡い色の唇がにやにや動く。
私は血の気が引いた。
気づくと目の前が真っ暗だった。倒れ込む。固い床に打ち付けられると思っていたが、覚悟していた衝撃はなかった。
「ごめんなさい」
「時」
「ごめんなさい」
「時。お前は悪くない」
は、と目を開けるとはじめの顔が間近にあって驚く。ここは私のマンションだ。
慣れ親しんだ自分の寝具に、私は寝かせられていた。
「はじめ、運んでくれたの?」
「他にいるか?」
「ありがとう」
「良い」
寡黙な幼馴染の、優しい心根は誰より私が知っている。
「店は?」
「美鈴に任せた」
「うわ」
美鈴ははじめの妹だ。ブラコンの。また恨み言を言われるに違いない。
「くっそ、あのばばあ。油断した……」
「おい、素が出てる」
「良いんだよ。ああーあ。これではじめに借りが出来たし」
はじめがにやりと笑う。
「何個目かな。いずれまとめて返せよ」
「うるせー。このえせ醤油顔」
「お前、ほんと気ぃ抜くと口悪くなるな」
呆れ顔のはじめは、ほれ、と私に湯呑みを差し出した。梅昆布茶だ。心身が落ち着く。
はじめが大きな手でわしゃわしゃと頭を撫でてくる。
やめろ。セットが乱れる。けれどそう思う一方で、はじめの手を心地好く感じる私がいるのも事実だった。
はじめはそれから台所で昼食を作り、まだベッドにいる私のもとまで運んでくれた。
チーズオムレツとバゲット。そつのない男だな。今朝が和食で良かった。はじめも横に座り、自分の分を食べる。
ちなみにはじめはうちの合鍵を持っているが、それは艶っぽい理由ではなく、単に不足の事態が起きた時の為の用心だった。今回のような。
「いっそ売り捌くのも手だと思うけどな」
はじめが言っていることが何を差しているのか解る私は、渋面になった。
うん、オムレツとろとろで美味しい。
「ストックはまだあるんだろう? 三年前までに作ったやつ。あと、俺の予想ではお前は我慢し切れず、その後も作ってる。俺に隠れて」
ばくばくとオムレツを掻き込み、私ははじめをじろりと睨んだ。
「うるせー、このえせ醤油顔えせ探偵もどきめ」
「お前、飯作ってもらっといてそれって」
「……おめーの推測通り、ストックはまだある。あれから作ってるし余分にな」
「なあ、時。嫁入り前の女として、口調を改める気はないか?」
「ないね。表と裏は使い分けてるからいいだろーがよ」
「そういう問題でもないと思うんだがな」
はじめは私の横暴な口調に怒るでもなく、ただ嘆息して空になった皿を台所に運んで洗い始めた。
至れり尽くせり。口調を変える気はないけどな。
雨はまだしとしとと降っている。
はじめは私にまだ寝ていろと言って店に戻った。
私はベッドから身を起こし、机の抽斗を開ける。
クリアケースに収まった色とりどりのビーズが、煌めいている。その、筒形のケースをつつ、と人差し指で撫でる。丸小ビーズ、丸大ビーズ、竹ビーズ、ドロップビーズ。他の抽斗も開ける。セルロイドで作られた貴重なヴィンテージボタンや、バロックパール、赤に青に黄に真鍮に。様々な材料を見ていると今でも魅了される。作りたくて指がうずうずする。
しかし私は振り切るようにそれらの抽斗を閉めた。
だって許されないだろう。
人の死を呼んでまで存在するビーズ細工だなんて。
翌日は雨も止み、湿気こそ儚く残るものの、春の青い空が笑うようだった。店から見える中庭の桜が、とても綺麗だ。
「幸福を呼ぶビーズ細工が欲しいんです」
麗らかな気候に機嫌の良かった私は、来客である大学生と思しき女性のこの言葉に、内心で慨嘆した。
なぜ、二日連続で来る。この手合いの客は最近では少なくなっていたのに。
私の心中も知らず女性は言い募る。
「苦労し通しで生きてきた祖母に、最期にせめて幸せをあげたいんです」
……この女性は昨日の女性とは些か趣が異なるようだ。
「おばあ様は、今は?」
「ホスピスにいます。末期の癌で……」
女性がぽとりと涙を落した。それは散る桜の花びらを思わせた。
人は人の心に、揺り動かさずにいられない生き物である。例え長い間凝り固まっていても。
一瞬で溶かされる時が。
他愛ない。
けれどそれが人だ。
「少々、お待ちください。……取ってまいりますので」
はじめが私を見ている。
私は二階の倉庫に上がった。
収納ケースが並ぶ最奥。その箱を私は手に取る。
先程の女性が着ていた服は優しいピンクだった。あんな孫のいる人なら、同じように優しく穏やかな色が合うだろう。
そう考えた私は、丸小のピンクや白、薄紫や青で満開の桜を表現したブレスレットを手にした。桜には金色の蝶が遊んでいる。
良いのだろうか。私の胸に改めて迷いが湧く。
これを渡すことは即ち、末期の癌である女性に死を呼ぶことに繋がるのではないか。
しかし私の中の私がかぶりを振った。慰撫の為の品であると。
躊躇うことは、ないのだと。
何かに背を押されるように、私は階下に戻った。
一階に戻った私を見る女性の目は縋るようだった。
私は彼女の手にブレスレットをそっと乗せた。
「どうぞ」
女性はぽろぽろ涙をこぼしながら頭を何度も下げると、過分な代金を払って去って行った。
はじめが黙って私を見ている。
「良かったのか?」
「うん。良かったんだよ。これで」
それは自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。
中庭に出る。風に吹かれ桜がはらはら降ってくる。目を細めて両腕を伸ばし、私はそれらを抱き締めるようにした。
三年前。
二十歳半ばほどの男女が、『time』を訪れた。
家の格が違うなどという、私にとっては凡そ莫迦らしい理由から親に交際を反対されていた彼らは、幸福になるビーズ細工を求めた。
私はそれに応じた。作ったのはエンゲージリングを模したビーズ細工。女性のリングの中央には、ピンク色の小さなバロックパールをつけた。
しかし、彼らは幸福にはならなかった。
家にとって、娘と息子は言いなりになって然るべき存在だった。
家格が上だった娘の親が、見合いを強制的に行おうとした。
二人は、娘の自宅近くの池で心中しているところを発見された。
雨の降る日のことだった。
彼らの指には確かに、私の作ったビーズ細工が光っていたという。
以来、私は「幸福のビーズ細工」作りを一切請け負わなくなった。何が幸福だと思った。私は、結果的に彼らを不幸にしたのではないか。打ち消しても打ち消してもその可能性は私の頭をこびりついて離れなかった。
だが、人は停滞してばかりはいられない。
この春、芽吹き綻ぶ草花のように、私も動き出す季節が巡ってきたのかもしれない。
そんなことを、成り行きで夕食をご馳走することになったはじめに、食べながら話した。
奮発してシャンパンも開けた。
はじめは、何度も頷いて、いいんじゃないかそれで、と言った。
だから私もそれで満足だった。
きっかけはほんの些細なことだった。
閉じるのも、開くのも。
人にはそれぞれ時節がある。私もそれに応じていたということだろう。
しみじみそう物思いに浸っていると、腕を美鈴に小突かれた。
そうだった。いるんだった、こいつ。店番させた詫びも兼ねて呼んだのは私だ。渋々だが。
「ねえ、時さん。私にも幸福になるビーズ作ってよ」
「余り訊きたくはないけれど何の為に」
「兄さんと結ばれる為よ、もちろん」
頭痛がしてくる。ふとはじめを見れば、はじめも頭を押さえている。
私は特に偏見を持たないほうだが、美鈴のこれは兄へのじゃれつくような愛情の進化系に過ぎないのではないかと思える。
これで美鈴に言われた通り作った日にははじめに何て言われるか。
今でさえじと、と私を睨んでいるのだ。解っているよ。作らないってば。
食事を終えた私は席を立ってベランダに逃れた。
輝く月に、桜が照り映えている。
明日もきっとよく晴れるだろう。
雨の長い長いトンネルから、今やっと抜け出したと私は感じた。