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二十三歳秋、竜飛崎にて  作者: 島木 敬
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二十三歳秋、竜飛崎にて

「元気かな、と思って」

「元気よ」

「よかった」

「・・・」

「会いたいな、と思って」

「・・・」

「もしもし」

「うん」


碧がイニシアチブを取っている会話だ。


「会ってほしい」

「・・・・今、結構忙しいの」


大学には来ていないようだから、何が忙しいんだろう。僕と会わない口実だろうか。会いたくないと言っている女性に、どうして会ってほしいとお願いしているのか、僕は人一倍プライドが高い。


「そう、御免ね」

「・・・」

「卒論とか、進んでる」

「うん、ぼちぼちね」


早く電話を切りたいという意図なのか、会話が進まない。お座成りな受け答えをしているのに、それに気づかない僕はアホなのか。


「じゃあね」

「うん」


 最後まで盛り上がらない会話だった。というか、なんで電話してくるのという内容だ。公衆電話のドアを開ける時に惨めな思い、というよりも自分に腹が立った。二度と電話は仕舞い。


 部屋に戻って考えた。色々なことが走馬灯のように頭の中をくるくると回っている。思い出すことは楽しかったことばかり。特に碧の体の柔らかさ、僕の全ての欲求を受け入れて包み込むような優しさが思い出されてくる。体がそれを覚えてしまっている。失くして分かる大きさだ。


 その後も毎日大学には通ったが碧には会わなかった。一週間位経った昼休みに1号館学食で碧を見た。女の友達数名と一緒に居る。傍まで行って声を掛けた。


「ちょっと」

「今、友達と一緒なの」


あからさまに嫌そうな顔をして逸らした。僕は立ち去らない。かなり真剣な表情をしていたのだろう、立ち続けることは碧自身が一緒に居る友達に迷惑を掛けることになる。碧は席を立って僕の傍まで来た。場所を変えて空いている教室に入った。


「会ってほしいんだ」


「・・・・」


「怒ってるんだ」


「勝手よ、さんざん冷たくしておいて」


こんな碧の表情を今まで見たことがない。余程嫌な物を見るような、憎らしい者を見るような顔だ。流石に僕には良い訳が出来ない。


「新しい彼氏ができたの」

「・・・・」


「そのくらいは教えてくれてもいいだろう」

「・・」


声を出さずにこっくりと頷いた。


「ねえ、考え直して。碧は本当にその男性が好きなの。それとも、僕を忘れようとして一時的にその男性に逃げているだけじゃないの」


「・・・」

「碧、ちゃんと考えたら、後で後悔することにならないか」


「最初は・・・確かに博ちゃんを忘れるためだった。でも今は違う」


僕の方をきっと睨みつけて言った。が本心を話し始めた碧に少しほっとした。


「どうして今は違うと言いきれるの」


「・・・・・博ちゃんこそ、どうして急に、また連絡するようになったの、博ちゃん、私に今までどうしてたか、わかってるの」


確かに碧の言うとおりだ。僕の我儘で随分と振り回して来た。


「今度の彼氏は優しいかい」


「博ちゃんよりも、もっと苦労してるし・・・大人だわ」


「四年生?、文学部?」

「関係ないでしょっ」


 確かに関係ない。僕自身は碧の彼氏に興味はない。僕の彼女を盗ったヤツとして腹立たしくはない。男に無視されて寂しがっている女、自暴自棄になっている女を上手いこと口説いて彼女にした惨めなヤツだ。同じ土俵なら相手にされない類の男だ。


 午後から講義を受ける学生たちがぞろぞろと教室に入りだした。碧は「もう行く」と言って教室を出て行った。その後ろ姿を眼で追いながら五分ほどそのまま教室で過ごした。キャンパス内で接触しないよう、後を付けて来たと思われないよう気をつけた。碧のヒールの低い革靴に気がついた。今まではあんな靴を履いたことがない、今度の彼氏は背が低いんだろうか。碧らしい、少しでも気を使って男を立てようとしている。


 その晩真剣に考えた。碧のことは忘れよう。今更縒りを戻しても・・・、戻らないが、僕が岐阜へ帰ったらどうするのかという問題もある。二十三歳、まだ結婚したいという強い意思はない。碧の方にはあったが、今はもう無い。後数ヶ月でお互いに卒業だ。このまま楽しかった二人の想い出を壊さないようきっぱりと別れよう。


 理屈ではわかっていても碧の体温、匂い、肌触りが忘れられない。失くしてわかる大きさというものがある。碧の体は最高だった。大きな澄んだ瞳、長い綺麗なワンレングスの黒髪、真っ白な綺麗な肌、大きくて形の良い胸、吸いついたら離れられないような豊満な肉体、男の理性を惑わせる体だ。母性本能というのだろうか、そういう意味では正に秀逸な女性だ。碧のような女性を吹っ切れることができる男がいるのだろうか、僕はまだ少し自信がない。


 大学へは毎日通った。泣いても笑っても後数ヶ月で大学生とおさらばだ。社会へ出たらこんな呑気な生活は出来ない。卒論のテーマは『満鉄の経営、その企業的視点』表題だけは一丁前だ。二年ほど前に良い本を見つけていた。これを種本にすれば、それこそ冬休みで完成させる自信がある。大学では碧が立ち寄りそうな1号館学食を外し、8号館食堂で昼を摂った。碧に出会うと思いを断ち切ろうとしている意思が脆く壊れていくような気がする。


 キャンパスで二回程見かけた。ベンチに座って友達と笑顔で話している時と、一人で急いで教室を移動している時。一人の時は凛として近寄りがたいくらい綺麗な女性だった。講義室の窓から見ていたから碧は気づいてない。思えば初めて見た時も近寄りがたい雰囲気が感じられた。そのどことなく高根の花のような雰囲気に魅かれた。気安く冗談を言わないような、けっしてお高くとまっているという感じではなく、育ちの良さから滲み出るオーラの様なものだろうか。実際、お嬢さんだ。どこまでも優しく、常に相手を思いやり、僕を立て一歩引いていた。二十二歳、今一番輝いている年頃だ。なるべく会わないようにしているのに無意識のうちに探している。


 碧と最後に話してから二週間程経った十月の中頃、大学からの帰り、金沢八景の駅に向かっている時だ。一〇メートル程前を碧が一人で歩いていた。ごく自然に挨拶が出来そうな気がした。早歩きで近づいて肩をとんとんと叩いた。振り向いた碧は僕を見ると、ぎょっとして驚いた。その驚き方に驚いた。大学からつけてきたと思ったのだろうか。ただすれ違いざま、「バイバイ」と言って抜き去るつもりだったのに。が、その顔を見てすんなりと離れられなくなってしまった。


「ちょっと、いい」


「今日はだめ、急いでいるから、今度会うから」


会ってほしいと言いたくて、肩を叩いたんじゃない。でも「今度会うから」と言ってくれたことには正直嬉しい。


「ちょっとだけ、時間は取らせないから」


八景駅の近くで、人通りが少ない静かな場所に誘った。


「どうしても、碧のことが忘れられないんだ。努力したけどやっぱり無理だってことが分かった」


碧の前では甘えん坊の駄々っ子になってしまう。ついつい本音が出てしまう。ついつい困らせたくなってしまう。


「ねえ、博ちゃん。博ちゃんの事、嫌いになりたくないから、もう私を追い回すのはやめて。私の事は忘れてっ、新しい彼女見つけて。博ちゃんだったら、直ぐ見つかるわ!」


碧らしからぬ強い口調だ。


「碧じゃないと駄目だってことがわかったんだ」


「止めてよっ、今更。もう遅いのもう終ったの。急いでるから、今度会うから。ちゃんと時間作るから」


手に負えない子供を振り払うような言い方だ。一緒に居ることが嫌で嫌で堪らないと顔に書いてある。最後に睨みつけるように僕を振り切って行ってしまった。


 辺りは夕闇に包まれようとしている。駅周辺の商店のネオンや店の明かりが点きかかって、静かな小さな街が夜の顔を表そうとしている。離れてゆく後ろ姿を追った。店の明かりに照らし出された碧は、ピンクのカーディガンを肩に羽織り紺系のチェックの巻きスカート、ローファーの靴というスタイル、髪はかなりショートになっている。彼氏の希望なのか、碧の意思か、ショートの碧も似合っている。大きなバッグを持って颯爽と歩いて行った。完全に視界から消えるまで眺めていた。


 流石に応えた。もういいだろう「矜持を保て」自分に言い聞かせた。ホームで電車を待つ碧に会わないよう、しばらく立ちすくんで時間を潰した。腕時計できっかり十五分経過してから駅に向かった。改札を入り上りホームの階段を昇る。数分待って泉岳寺行き快速が到着した。車内の空いている数少ない椅子を見つけ、よっこいしょと心の中で声を発して座った。どっと疲れが全身に襲ってきた。体中がずっしり重くなるのを感じた。


 上大岡で降り弱々しく歩き出した。碧の言った言葉が頭の中をぐるぐると回り、去って行った後ろ姿がフラッシュバックのように思い出されてくる。素敵な女性の凛々しい後ろ姿だった。どうせ振られるなら完膚なきまで打ちのめして欲しい。それが本望だ。この現実をしっかりと認識し心に刻もう。アパートに辿り着き部屋に入ると、一人ぽっちの寂しさが全身に染みるように襲ってきた。電気を点けずに、真っ暗な部屋で壁に凭れかかって茫然としていた。


 どのくらい時間が経っただろうか、突然閃いた『あのバッグ』。碧が今日持っていたあのバッグ、僕のアパートで泊った時に持って来たバッグだ。若しや碧は今日、男と一緒に過ごすのだろうか。なんで僕を見てあんなに驚いたのか、なんで何も言ってないのに「今度会うから」と、駄々っ子を宥めるような言い方をしたのか、なんであんな素敵な洋服を着ていたのか、なんであんなに髪を短く切ったのか。

 この部屋で泊った時に、あのバッグを見ながら「なんでこんなに荷物が要るの」と聞いた覚えがある。碧は言っていた「女はいろいろと必要なものが多いの」と。状況証拠は真っ黒だ。事実を確かめよう、家に電話をすればいいんだ。碧が出たら「先程はごめん」と謝ればいい。若しお母さんが出て「今日は友達の家で泊るんですよ」と言ったら、彼氏と一緒ということだ。


 何の躊躇いもなく何時もの公衆電話に向かった。さっきまでとは違ってどこからこんな元気が出てくるのだろう、若し碧が出てもこれで最後にしよう。心のどこかで(出て欲しい)と願う気持ちと、(絶対に居ない)という確信とが交錯した。ドアを開け受話器を取ってボタンを押した。


「はい、藤田です」

「こんばんわ、清水です。夜分恐れ入りますが、碧さんみえますでしょうか」

「あっらぁ、清水さんこんばんわ、碧、今日はねぇ、ゼミの合宿で葉山で泊りなんですよ」

「あっ、そうでしたか、すみませんでした。どうも、おやすみなさい」

「またねぇ、おやすみなさい」


 受話器を静かに置いた。ドアを開けて道路へ出ると今通ってきた道を戻った。お母さんの声がいつもより優しく親しげに聞こえた。僕の一切の動揺のない返答も上手かった。


 部屋に戻って考えた。碧が初めて僕の部屋で泊った時は友達とのクリスマス会だった。今日はゼミの合宿、あまりに決定的事実で悩み方がわからない。躊躇することなく崖から突き落とされたようで痛みの実感が湧かない。痛みを感じないで死んだようだ。このまま死ねれば良いんだが、時間とともに冷静さが戻りいつからこんな関係だったんだろう、どんな男だろうか、何年生だろう、僕の知っているヤツだろうかと色々な疑問が次から次へと湧いてくる。悩むというよりも好奇心の方が大きくなる。


 腕時計は午後七時四十五分を指している。シェー研の名簿から碧と同じクラスだった溝口良子の電話番号を確かめると、名簿を持ってさっき電話した公衆電話へ走った。


「もしもし、こんばんわ、ご無沙汰しています。清水博之です」

「あらぁ、清水さん、お久しぶり、元気でした?」


良子が出た。シェー研の仲間は一年近く音信不通でも暖かく迎えてくれる。嬉しかった。


「なんとか生きてます。良子さんも」

「うーんぼちぼちね。ねぇ清水さん、就職はどちらでするの、こちら、それとも故郷へ帰るの」

「岐阜です。田舎へ帰りますよ」

「そお、残念ね。会えなくなっちゃうのね」


社交辞令でも嬉しい。


「良子さん、ちょっと聞いてもいいですか」

「えぇ、何でもどうぞ」

「碧のことなんだけれど」


言った途端、受話器の向こうで良子が身構える雰囲気が伝わって来た。何か知っていると確信した。僕は鎌を掛けた。


「今度の彼氏の事だけど、知ってる?」

「う、う~ん」

「今夜の事だけれど」

「清水さん、・・・知ってたの」


良子はかなり知っている。それに良子以外に聞く相手を知らない。


「良子さん、相談したいことがあるんだ」

「うん、碧のこと」

「これから会える?」


良子は自宅だ。あまり遅くからは出られないだろう。


「少しだけなら」


 彼女の最寄りの地下鉄吉野町駅まで行くことにした。指定された茶店「Route 66」に着いたのは八時半だった。ビルの一階にある凝った造りの店で、オールマンブラザーズバンドの曲が大きい音量で掛っている。良子は先に来て待っていた。胸が割と開いた黒いシャツに紫のカーディガンを羽織っている。ちょっと見ないうちに大人っぽくなっている。


「御免なさいね、こんな時間に」

「ううん、いいのよ。清水さんに会うの一年ぶりかしら」

「そうだね、もうそんなに経つかな。四年生になるとあっという間だね」


若い男の子が注文を聞きに来た。良子はオレンジジュース、僕はコーヒーを頼んだ。しばらく時好の挨拶をしてから本題に入った。


「良子さん、碧と新しい彼とのことだけど・・・いつからなの」

「六月からよ」


良子はなんの躊躇いもなくすらすらと喋った。僕に今夜会うということは、知っていることは全て話そうと意を決して来たのか。何を聞いても驚かない覚悟で聞いた。


「二人の関係は今夜が初めて、それとも随分前から」

「六月からよ」


耳を疑った。付き合いだしたのも、男と女の関係もほぼ同時?、それに、なんで良子がそんなことまで知っているの、じゃあなにか、碧は僕との関係も全部良子に話していたってこと。


「良子さん、そんなことまで知ってるの」


「碧から色々と相談を受けていたから。清水さん、碧と今度の彼とのこと、どのくらい知ってるの」


「ほとんど何にも知らないんだ」


「そお・・・」


「良子さん、知っていること、ぜひ教えて欲しい」


「・・・清水さん・・・知ってどうするの」


「知らないと、色々と詮索したり悩んだり考えたりする。それは、忘れようとするのに時間が掛る。事実を受け入れた方がすっきりすると思うんだ」


「新しい彼をぶん殴るとか・・・」


「新しい彼には興味がない。ぶん殴るほど認めていない。碧への未練は今はある。でも、その思いは断ち切る覚悟です。僕はプライドが高い。相当高い。俗っぽい感情では行動しません」


 僕はどちらかといえば自分を痛めつける方だ。スポーツでも激しく体を痛めつける方だ。その方が後で達成感が大きいから。大きな歓びを得られるから。

 良子は少し考えた後に、最初から話すために来たんだという雰囲気で話し始めた。


「清水さん、学院でね、というか文学部ではね、清水さんと碧のカップルって羨望の眼差しだったのよ。清水さんは、女の子が憧れていたし、碧は男の子から人気があったし・・・」


「六月頃ね、二人の関係が破局したという噂がたったの。清水さんに新しい彼女ができた、という噂よ。私はもう既に、碧から色々と相談を受けてたから、碧の苦悩はよくわかってたけれど」


「そうなるとね、手の早い男が碧にちょっかいを出して来たのよ。私はもう少し待ちなさい。清水さんを信じたら、と言ったんだけどね」


「碧は清水さんへの当て付けのようにね・・・相手が経済学部の男だったし、四年生よ。最初はお遊びのつもりだったはずよ。それがね、だんだんと本気になっていっちゃったの。私は、一目見てつまらない男だと思ったわ。選りに選ってなんでこんな男と、と思ったわ」


 本当の事を言うとこういう話があまり好きじゃない。このあまりに非生産的な話の一方の当事者が、自分だと言うことに嫌悪感もある。ただ、じゃあもう聞きたくないかというと、そうでもない。複雑な心境だ。


「その経済学部の男って、家はどこ」


「戸塚だって。地元の人だから、清水さんのように夏休みにいなくなるってことがないから、その点でも有利よね。二人で伊豆の方へ泊りがけの海水浴にも行ってるわよ」


「これは碧が言ってたんだけど・・・清水さんは、お坊ちゃん育ちで我儘だって。戸塚の男は、遥かに苦労してるって言ってたわ。私は碧に、清水さんのそういうところが好きだったんじゃないのって言ったのよ」


「今夜、二人はどこで過ごすか知ってる?」


「ホテル ニューグランド」


やはり良子は知っていた。聞く前から知っているような予感があった。それにしても女の子の会話というのは、なんでこうも秘密というものがないんだ。話す時は絶対に内緒よ、ということで始まるのだろうけれど。

 冷めたコーヒーに口をつけた。味を感じない。確かに僕は我儘だ。碧に対して専制君主のようだった。だからこうやって良子から聞かされるまで何にも知らなかった。


「清水さん、碧のこと忘れられない」


「いや、忘れます。もう終ったことだから・・・」


腕時計を見た。九時二十分を少し回っている。


「良子さん、今夜はありがとう。踏ん切りがついたから、話が聞けてよかった」


重い荷物を背負ったようで、踏ん切りがつくどころではない。


「清水さん、こんな時にこんな話をするのもなんだけど・・・」


良子は「清水さん」の語尾を上げて少し甘ったるく、優しい言葉で喋り始めた。


「この前ね、圭子に会ったの、シェー研の樋口圭子よ」

「で、清水さんの話題になったの・・・清水さん就職どうするのかな・・・とか、碧と別れたんだってねとか・・・」


「清水さん、圭子、前から清水さんに憧れていたってこと、知ってた?」


僕の顔を覗き込むようにして良子は聞いてきた。


「そおぉ・・・」


戸惑いの表情で嘘をついた。


「圭子、今でもずーっと、清水さんのこと想ってるわよ。あの子、第一印象ちょっと派手に見えるけれど、あれでいて結構古風なのよ」


「圭子だったら、慰めてくれるかもしれないわよ・・・」


 余程落ち込んでいるように見えたのか、確かに落ち込んでいる。圭子どころか、眼の前の良子でもいい。今夜一緒に居てほしい、寂しいんだ。一人にさせないで、今夜どう過ごせばいいのかわからないんだ。日頃は強がりを言ってるけれど、こういう時は脆いんだ。壊れそうなんだ。


 僕は自分の感情を隠して少し微笑んで、伝票を掴んだ。

「ありがとう良子さん、色々と・・・心配掛けて申し訳ない。遅くなるといけないから・・・今夜は話が聞けて救われた感じです」


「清水さん、元気出してね」


 良子は優しく微笑みながら言った。素敵な表情だ。もし店の中じゃなかったら、強く抱きしめてしまいそうだ。どうして男と女は、こうも間違いやすく信じやすいんだ。僕だけなんだろうか、こんなに感情の起伏が激しいのは。


 支払いを済ませ外に出た。「近くまで送ろう」と言ったが、良子は「直ぐそこだから」と辞退した。僕は自分の気持ちと一致した時は素直に女性の言葉に従う。右手を半分くらい挙げて、「おやすみ」と挨拶した。良子は顔を右へ傾けるようにして会釈しながら「おやすみ」と言った。とても可愛い仕草だ。


 駅の券売機の前で迷った。ホテルニューグランドだったら関内だ。ここから三つ目。この際、碧とその男が泊るホテルを目に焼き付けておきたい、という欲求がむくむくと湧き起こって来た。僕はいつも落ちる時はとことんまで落ちる、壊れる時は徹底的に壊れたい、中途半端では止められない悪い癖がある。


 上りホーム横浜行きの階段を下りた。早く来ない方がいい、早く結果を見たくないと思いながら。ゴォーッという大きな音をたてながらシルバーの電車が地下鉄特有の淀んだ空気の風を巻き上げて入って来た。ホームに入って来たスピードに反して車体は勢いよく止まった。立っている位置から斜め向かいでドアが開いた。乗り込むとその場で立った。座席は半分くらい空いていたが座りたいという欲求はない。というか頭の中はただ一つの事柄以外は何も浮かばない。関内の駅までは、あっという間だった。


 改札を通り地上に出た。横浜スタジアムを横に見ながら歩いた。この辺りを一人で歩くことは初めてだ。いつも隣に碧がいた。ホテルニューグランドの前もよく通った。山下公園の目の前だ。中華街善隣門を潜って大通りを歩き東門を出て真っ直ぐ向かった。街灯に照らされた古い格調高い石造りのホテルの横を通り、玄関側に回った。歩道に張り出したエントランスの庇屋根の上に「HOTEL NEW GRAND」の文字が少し黄色がかった蛍光管で輝いている。その看板は思いの外小さくシンプルで、一層伝統や格式を感じさせる。


 流石に中に入る勇気はない。そのまま玄関前を通り過ぎて一〇メートル程歩き、車が通らないホテル前の道路を渡って山下公園側の歩道に立った。ホテルから少し離れ全体を見渡せるようになった。大きな街路樹の隙間から建物を見上げると、闇の中でアーチ状の明りやその上階の縦長の明りがホテルの窓の形状を表し、黒いどっしりとした存在感を際立たせている。マリンタワーの方へ少し移動し窓の明かりを眺めながら立ちすくんでいると、少しずつ惨めな思いになってきた。涙がポタッと落ちた。もう帰ろうという思いとホテルの窓の明かりをしっかり目に焼き付けようという思いとが交錯した。心臓の鼓動が強く速く打ち出した。静かにゆっくりと深呼吸をしようとしたが上手く収まらない。街路樹の柵を乗り越え、ジーンズに突っ込んだ両手のうち右手を樹に掛けて体重を半分くらい預けると鼓動は少し収まった。右手に樹の堅い温もりを感じる。


 斜め直ぐ後ろ、山下公園から出てくるカップルの気配を感じた。夜にも関わらず辺りを気にするでもない声で楽しそうにしゃべっているその声は、碧だった。お互い腰に手を絡めて歩道に出てきた二人は、並んで歩くと碧の方が少し高いんじゃないかという感じだ。突然の事で隠れることが出来ずどうすることもできないまま、僅か1メートル位の距離で出会った。山下公園の街路灯の零れ灯が、人の顔を見分けるのに十分な明るさだ。すれ違いざま碧は僕の方を向いて、ぎょっとして一瞬立ち止まりすぐに歩き出した。まるで、山で熊か虎にでも遭遇したような驚き方だ。この世の中で、最も嫌いな物体を見てしまったような嫌悪感が滲み出ている。男が「知ってるのか」と、碧に聞いている。「まさか」と小声で応えている声が微かに聞こえた。男の大きな声が聞こえた。


「最近はこの辺りも変な奴が多いからな!」


それは僕に言っていた。戸塚の田舎者に何と言われようと負い目は感じない。


 二人は横断歩道で車が一台通り過ぎるのを待ってから仲良く渡ると、ホテルの玄関へ向かった。四時間ほど前に会った時の碧は、大きなバッグを持っていたが今は持っていない。車のライトがドアを開けて中へ入る二人の瞬間を照らし出した。


碧は二度と振り返らなかった。


 二人が消えたホテル玄関を街路樹に凭れかかりながら凝視した。疲れがどっと押し寄せてくる。体が重くなるのが分かった。柵から出て歩道を歩き始めた。茫然自失の態でのろのろと駅へ向かった。地下鉄に乗ると、がらがらの車内の座席に崩れ落ちた。良子に迷惑が掛るかも、と一瞬過ったが、そんなことを心配している余裕はない。


 どう帰って来たのか、部屋に辿り着いて湯を沸かすとお茶をつくった。大きいカップにお茶を三分の二位入れて後は水でぬるくして一気に三杯飲んだ。喉が異様に渇く。体に力が入らない。座っているのさえ苦痛だ。布団を敷くとセーター、ジーンズ、シャツの順番で脱ぎそのまま倒れこむように布団に潜り込んだ。布団の中から腕時計を外し枕元に置くと膝を折って体を屈めるようにして横たわった。最後に見た碧の表情が脳裏に焼き付いて離れない。


 涙が出てきた。誰にも見られることはない、自然に出るに任せた。少しずつ涙の量が増えて、やがて溢れるように出てきた。声を殺して泣き声をあげた。どのくらい泣いただろう、枕が涙でびっしょり濡れている。お袋だったら「風邪をひくよ」と、注意するだろう。バスタオルを出して枕を包み、気兼ねなく泣こうとしたら涙も枯れてきたのかあまり出なくなった。思い出したように歯を磨いてパジャマを着た。


 これからどうやって生きていこうか。時が解決するには途方もない時間が掛りそうだ。こういう時、人はどうやって立ち直ろうとし救われるのか。宗教なんてのんびりしたことはいってられない。今、この瞬間、今日、明日をどうやって生きていくか、ということなんだ。


 頭の中が冷たい炎で充満しているような感じだ。体が重い、疲れているのに神経が過敏に反応して眠れない。眼を開けている方が楽だ。閉じていると色々なことが頭を過り、その記憶どうしぶつかり合い爆発しそうだ。心臓の鼓動が高鳴り大きく脈打って胸が締め付けられるようになり息苦しい。呼吸をすることさえ辛い。


 どのくらい時が経っただろうか、ふっと「斜陽館」へ行こうと閃いた。中学二年の時に読んだ人間失格、その背景を調べるために読んだ太宰の解説書の挿絵にあった赤い建物、斜陽館は今は旅館になっている。斜陽館で泊れば僕の苦悩なんか「たいしたことないじゃないか」と、心の声が聞こえてくるかもしれない。大学生になったら、斜陽館へ行って泊ろうと思ったじゃないか。今、行かなければもう行けない。枕もとの腕時計を窓の薄明りに照らして見ると三時五十分を指している。早く陽が昇ってほしい。少し気分が楽になった。碧の事を考えずに時を過ごすことが出来た。そのまま布団の中で窓が白々と明るくなるまで横になっていた。


 今日は十月十七日、これから二ヶ月間はこのアパートに帰って来なくても、誰も心配しない。津軽で暫く過ごしてもいい。お金が底をついたら何かバイトはないだろうか。食べて寝る所さえあればいい。なんとかなるだろう。クリスマス過ぎに実家へ帰れば、何事もなかったように帰省できる。


 起き上って布団を畳み押し入れにしまった。顔を洗って服を着替えてから部屋の中を少し片づけた。押し入れから一番大きいスポーツ用のボストンバッグを取り出して旅支度を始めた。十日分くらいの下着や靴下を入れ、タオルと歯ブラシ、パジャマ兼用にもなるトレーナーやジャージーを入れた。持っている真冬用のセーターを入れた。ノートと筆記具を入れた。最後に冬用のコートをたたんで、姉貴が編んだ毛糸の帽子と一緒に入れて、なんとかバッグのファスナーを締めることが出来た。これで肩から掛ければ両手が空く。


 お祖母ちゃんが、大学へ行くときに「博ちゃん、何か困った事があったらこのお金を使やあ」と言って呉れた二十万円は、三年半使うことなく臍繰りとして持っていたが、遂に使う時が来た。津軽行きを思い立ったのは僕だが、背中を押してくれたのはお祖母ちゃんのような気がする。そう思ったらまた涙が出てきた。臍繰りは国内で一番支店の数が多い第一勧銀に預けてある。朝九時に上大岡支店が開くのを待ってから全額下ろした。アパートの大家さんに部屋代を二ケ月分まとめて支払ってから、部屋に戻り新聞受けに「暫く止めます」と張り紙をした。戸締りを確認し、ガスの元栓を締め電気を確認した。らしい物は何も入ってない冷蔵庫はちょっと迷ったが、そのままにした。


 時間はどれだけでもある。二ヶ月間ある。腕時計を持って行くか迷ったが、バックの奥の方に仕舞った。時間に囚われない旅をしたい。斜陽館に辿り着くまでに一週間掛ってもいい。ずっしりと重いボストンバッグを肩から下げ、部屋を出て鍵を掛けた。


 良い天気だ。逃避行の旅立ちには勿体ないような天気だ。


 京急上大岡駅に行く途中、本屋に寄って斜陽館への行き方を調べた。バッグの横にあるサブポケットに入れたメモ帳を取り出して「津軽鉄道 金木」「五能線 五所川原駅」「奥羽本線 川部駅」「東北本線 奥羽本線 青森駅」と記入し、斜陽館の電話番号を記録した。電話で予約するつもりはない。明日着くか三日後に着くか分からなかったし、若し明後日で予約しようとして「一杯です」と言われたら、最初から躓きそうな気がする。


 駅で品川までの切符を買うと大学とは反対の上りホームの階段を昇った。まず上野駅を目指す。ホームに出たところで止まっていた上り特急の出発のベルがけたたましく鳴ったが、余裕で見送った。電車に乗るために走ることは止めよう。ホームのベンチにバッグを置くとその隣に腰掛けた。このホームから電車に乗る時は碧に会いに行く時か、一緒に居て碧を送って行く時かのいずれか、と思った瞬間、頭が痛くなった。一切の思考を止められないだろうか、何も考えずに眼に映る風景だけを追っていられないだろうか。


 さっき見た旅行ガイドブックの偶然最初に開いたページ、津軽半島の最北端「竜飛崎」の記事が気になった。「語源はアイヌ語で・・・・海から一日中強い風が吹き付ける土地柄・・・」、悩んだ時にいつも選択する路は、より辛い、苦しい、寒い方だ。行ってみたい。


 山手線を上野駅で降りると改札を出た。探そうとしたわけではなかったが駅の観光案内所が眼に留まる。津軽までどんな行き方があるか一先ず聞いてみよう。カウンターの向かいで係員の女性は親切に応接してくれた。最後に、もしお急ぎでなかったらと言いつつ、「青森・十和田ミニ周遊券というのがあります」。急行にも乗れるし、北東北の国鉄全線が一週間乗り放題出来る、とりわけ学生さんに人気です、とのこと。料金も特急で片道分に少し足が出るくらいだ。係員の女性は僕を学生と思ったのか、ちょっとした気遣いが嬉しい。切符は周遊券を買おう。夜行だが乗り換え無しで朝青森に着く便がある、急行「八甲田」号十九時八分発、だいたい決まった。係員にお礼を言って外に出た。


 昨日の昼から何も食べてないが食欲はない。列車までにはまだ時間がある。この辺りだと不忍池も近いが、静かな環境よりも喧騒な所に身を置いた方がいい。まず、国鉄の切符売り場で周遊券を買った。駅員は何か怒っているような口調で「今日から?」と聞いてきた。聞いているのに語尾は下がっている。僕も単調に「はい」とだけ答えた。駅構内のなるべく人が行き交う場所で椅子を見つけると腰掛けた。こんなところで誰も悠長に座っていないという所だ。足早に行き交う人達の姿をぼんやりと眼で追った。いつまでも追い続けた。迷い無く直向きに生きている人達を見ていたら、少しは気が紛れた。


 長い間座っているが、どうせなら八甲田号の出発ホームで待とう。構内に張り出された列車時刻表には13番ホームと書いてあるが、さてどうだろう確証はない。周遊券を財布から抜き取ると改札を通った。鋏が入った瞬間、旅の一歩を標す、そんな感じがした。ちょっとだけ奮い立つような勇気の片鱗を感じたが、ほんのちょっとだ。


13番ホームを目指して歩いているが随分と改札入口から離れたようだ。


「青森行き急行八甲田号、十九時八分発の乗り場はどちらでしょうか」

「13番ホーム、ここを真っ直ぐ突きあたり」


極めて無味乾燥かつ面倒臭そうに駅員は答えたが、この一点の感情の入り込む余地のない答え方がすっきりしていて、今の僕には却って新鮮で心地よい気分になる。





 はっ、空が微かに明るい。東の方角なのだろう。暗い車内灯の反射じゃない。陽が出ようとしている。夜明けだ。夜明けが近いんだ。少し感動を覚えた。

 窓の外の景色が確認できるようになってきた。灰色に覆われた薄暗い景色は、見渡す限りなだらかな丘陵大地のようだ。チカチカ、チカチッカ車内灯が点いた。一瞬窓から外の景色が消えたが、空はしっかりと明るさが確認できる。


 車内アナウンスが野辺地駅到着を告げた。車内放送も照明も夜明けとともに復活した。八甲田号はするすると仄明るいホームに到着した。誰も降りる気配は無い。停止信号かと錯覚するような夜明け前の静かな風景。列車は直ぐに発車した。


 突然、窓全体に陸地が消えて海が広がった。灰色の海辺が何処までも続く雄大な景色。太平洋の海岸線を走っているんだ。っと、どうだ、窓の正面少し右寄りから太陽が顔を出し始めた。眩しい光が少し角度を伴ってこちらに向かってくる。水面の波間に光が当たりキラキラ輝いている。なんて感動的なシーンだ。水平線見渡す限り海が光っている。太陽が四分の一位顔を出した。キラキラ、キラキラ、言葉が出ない。眼の前で織りなす自然の雄大さに見とれた。が、見とれる間もなく海が消え山に囲まれた。山あいの盆地のようなところを走った。暫くするとまた窓全体に海が広がった。座っているボックスシートの反対側の窓から車内に日が差し込んできた。そのまま窓側、西側に海が広がっている。雄大な美しい風景だ。大きな優しさに包まれるような感じがする。少し涙が出た。感動する場面に接すると人は純真になるようだ。


 海が好きだ。岐阜の山奥で育ったから海を知らなかった。初めて海を見たのは、家族で行った潮干狩り、まだ幼稚園に上がる前だった。電車とバスを乗り継いで行った。貝を取るより海を見ている方が良かった。どういうわけだか姉貴と二人で、両親の元から離れて休憩所の日影があるところで休んでいた。姉貴は僕の手を握り親父が居る方に向かって偶に手を振っている。斜め後でビールを飲んでいるおっちゃんがからかってきた。

「お姉ちゃん達、仲が良いなぁ!」

姉貴の横顔を覗くと、唇をきゅっと締め、僕を握る手に力が入った。そして遠くの海を見つめていた。姉貴の優しさと強さが嬉しかった。


 海がまん前に広がる浅虫駅を出発した。「ようこそ浅虫温泉へ」大きな看板を見つつアナウンスが、「次は終点青森駅」と告げた。長かった、実に長かった。半日近くを八甲田号と過ごしたことになる。ずーっとシートに座っていたからお尻が平らになったような感じがする。それに列車の振動が体内に染みついてしまったようだ。車内通路に立って思いっきり伸びをした。二日間眠っていない割にはしっかりとしている。乗客は殆ど居ない、まるで車両一台貸し切りのようだ。


 青森の市内は朝の陽光に輝いている。昨日までの柵を断ち切って真っ新な一日が始まろうとしている。心持ち列車の走りが軽快になったようだ。


 もう直き青森駅だと思ってからも、随分と市内を走っている。車内アナウンスが職業人のプロ意識で、十一時間の長旅の感慨に耽ることなく事務的に次の列車や青函連絡船との連絡案内をした。間もなく八甲田号は青森駅に感慨を込めるようにゆっくりゆっくりと止まった。少し間をおいてプシューッという空気が漏れる大きな音がした。コートを羽織ってボストンバッグを肩に掛けて立ちあがったら、列車はまだ動いているような錯覚がして、ふらっと前のめりに倒れそうになった。体に八甲田号の揺れがこびりついてしまったようだ。


 ホームに降り立った。ひんやりとした空気に全身が包まれた。身が引き締まるような爽快感と共に心が透き通るような純粋な心境になる。列車からは意外と多くの乗客が降りてきた。出稼ぎ労働者達か、大きな荷物を肩からぶら下げ足早に階段の方へ向かっている。心の中で「来たぞ!」と、鼓舞しながら歩いた。ホームを真っ直ぐ進み、階段を昇って連絡船乗り場に向かう通路を進んだ。青函連絡船は着いていないが、桟橋に行ってみたい。途中、桟橋と矢印が出ているドアを開け階段を下りた。眼の前に海が広がった。誰一人居ない広い大きな桟橋の中腹まで歩き、岸壁寄りにポツンと立った。


 潮の香りがする空気を一杯吸い込んで佇んだ。アーァーアーァー、アーァーアーァー遠くでウミネコの群れが鳴いている。時折聞こえるポォーッと鳴る警笛の音とウミネコの鳴き声とが重なって、静かな桟橋の風景をその寂しさを強調するようだ。孤独という海風が潮の香りに乗せて、全身を被い尽くしてしまいそうだ。


 周遊券を使って奥羽本線、五能線と乗り継ぎ、五所川原駅まで来てから津軽鉄道に乗り換えた。これが最後の乗り換えだ。古びた二両編成の車内は時代がかった造りでシートの枠は木製、床も木製、おまけに古く懐かしい達磨ストーブが車内に設置されていて、そこから出た煙突は天井の外へと延びている。火が入っていないところをみると実際に使うのは真冬になってからか、こういう列車が好きだ。走ってでもついて行けそうなのんびりとしたこのスピードと共に、心が安まる温かみがある。列車は一駅、一駅確実に足跡を残すように丁寧に止まり、ゆっくり発車した。車窓から見渡す眺めは、三十年程時計の針を逆戻りさせた様な風情がある。郷愁を誘う懐かしさを感じる。想像していたとおりの津軽の原風景だ。


 金木駅に着いた。どことなく岐阜の実家、越美南線の加茂野駅を彷彿とさせる。駅前にある案内地図で斜陽館を確認した。肩から掛けたボストンバッグを首を通して掛け直すと両手をジーンズのポケットに入れ、高鳴る心臓を押し殺すように歩き始めた。ちょうど太宰の解説書の挿絵にあった角度から辿り着くように歩く。真っ直ぐ進み前に見えてきた道、この道を右に曲がれば斜陽館に辿り着く。


 禿げた赤茶色のレンガ塀を横に見ながら、遂に全貌が見えるところに立った。期待を裏切らない豪壮な建物だ。感慨に耽る間もなく数歩歩き、金木銀行の店舗だった立派な社造りの正面玄関を入った。中学二年の時に描いた夢が実現する瞬間、玄関を入ると直ぐ右側に受付がある。中年の女性が座ってこちらを見ている、眼が合った。自分でも信じられないような勇気が込み上げてきた。胸を張って言った。


「こんにちわ、今夜ぜひとも泊めてほしいのですが」


「はいっ、予約ですね」


「予約してなかったんですが、突然で申し訳ございません。どうしても斜陽館に泊りたくて来ました」


「えーっ、予約がないのですか・・・・・生憎、今夜は満室なんですけど・・・」


中年の女性は申し訳なさそうに少し方言交じりで言った。


「すみません。ちゃんとした部屋じゃなくてもいいです。寒さが凌げればどこだっていいです。はるばる横浜から来ました。なんとか、今夜一晩だけ泊めてください。ぜひともお願いします」


絶対に引き下がらない覚悟がある。


「ちょっと、待ってくだ・・・」


最後の言葉は聞き取れなかった。終らないうちに受付を出て旅館の奥の方へ小走りに入って行ったから。女性の表情からは真摯な姿勢が感じられたが、さてどうだろう。ここで泊めて貰えなかったら、最初から計画が狂ってしまう。


随分と長く待ったような気がする。奥から別の女性が出て来た。


「はい、泊まれますよ。どうぞ!」


有無を言わさず元気に迎え入れてくれた。バッグを僕の手から奪うと自分の肩に掛けて部屋へ案内してくれた。バッグはかなり重いはずだが、気持ちよい受け入れの意思と取れ、ほっと一安心した。案内された部屋は確かに物置の様な狭い一室だ。


「一先ず、ここで休んでください」


女性はそう言うと部屋を出ていった。


 遂に来たぞ太宰の生家だ。この部屋も太宰が入ったはずだ、この柱にも触ったかもしれない、この天井の木目も見たはずだ、この窓から僕と同じ景色を見ていたんだ。物想いに耽っていると受付の所にいた女性が、部屋をノックしてから顔を出した。


「宿泊名簿に名前を記入してください」


横浜の現住所と本名を記入し念願の斜陽館に自分の足跡を残した。


 狭い一室で太宰の生家だと感慨に浸っていると、先程この部屋に案内してくれた女性がノックもしないで戸を開け半分身を乗り出して言った。


「はい、部屋を変わります。荷物を持ってついて来てくださーい」


言われたようについて行くと、階段を上り長い廊下を通って、突き当り手前の大きな威厳に満ちた木製のドアを開けた。そこは十六畳か十八畳いやもっと広いかもしれないという大きな部屋で半分は畳が敷かれ、半分は板の間でカーペットの上に櫓炬燵が置いてある。


「どうぞ、ゆっくりしていってくださいね。夕食は六時頃ですけど、準備が出来ましたら、呼びますから」


それだけ言うと女性はさっさと出て行った。


 びっくりするほど立派な部屋だ。天井も高く豪華な造りで、窓側には専用の廊下があり、部屋から大きなガラス戸を開けて廊下に出て、廊下の窓を開けると中庭が見渡せた。正に貴族が住む家、と納得させられるような造りだ。この部屋専用の廊下というか板の間に立って夕暮れが迫る中庭を眺めながら思った、戦前にこんな部屋がこの津軽金木にあったということが、太宰の苦悩の始まりだったかもしれない。どうだろう東北地方でこのくらいの家や部屋があったとすれば、仙台くらいだろうか。どう贔屓目に見ても津軽鉄道沿線の家ではあり得ない。この家で生活しながら友達の家に遊びに行けば、嫌でも身分の差を感じてしまうだろう。同様に友達を家には連れて来れないだろう。小さいうちは兎も角、自分の生活範囲が広くなるにつれ、人間は平等ではないと思い知らされることになる。穢れを知らない感受性の強い年頃にその洗礼を受けることは罪なことだったかもしれない。


 山科実の家も確かに豪華だが、それは僕達の想像を超える次元じゃない。生活レベルも高かったが、理解できる範疇だ。でも、彼も人には言えない悩みを抱えていたことは確かだ。若し実君が、秀ちゃんから来た手紙を読んだとしたらどう思っただろうか。ただ、時の経過は物事の順序を待ってはくれない。南アルプス鳳凰山、彼の眼に映った最後の風景はどんなんだったんだろう。


「食事ですよ、夕食でーす」、声を掛けながら廊下を女性が通って行った。その仄々とした呼び出しが粋に感じる。二日間何も食べてないが食欲はない。なるべくなら宿泊客と顔を合わさず静かに食事を摂りたかったから、随分遅れて食堂へ行った。


 風呂からあがって斜陽館の浴衣と羽織りに着替えた。櫓炬燵の中に入って両手を後頭部にあてながら仰向けに寝た。後から取り付けたであろう、部屋の豪華な造りには不釣り合いな、ちゃっちいシャンデリアが眼に止まる。その黄色い電球をずーっと眺めた。


 夜は怖い。夜には否応なく碧が出てくる。あの最後に見た、この世で一番嫌な物、絶対に見たくない物を見た時のような表情が脳裏に焼き付いている。楽しかった二人の二年間の思い出を否定してしまうような、あの驚愕の表情が。矜持を保て、苦難を乗越えろ、自分に打ち克て。碧の困ること、嫌がること、苦痛に感じることだけはすまい。碧が望むこと、それは僕が早く碧から去って行くこと。僕は自分の本能に打ち克つために遥々此処まで来たんだ。自らの強靭な意志で、碧の体の温もりを断ち切るために来たんだ。


 二人で初めて食事をした時の碧、鎌倉で初めて手を繋いだ時の碧、1号館学食で待ち合わせた時の碧、井の頭公園でボートに乗って僕がオールを漕ぐのを見つめる碧、野島公園で初めて相合傘した時の碧、帰省する時に新幹線のデッキ側に居る僕とホーム側に立って見送る碧、ドアが閉まると必ず涙ぐむ碧、映画を見るのは好きじゃない、スクリーンを見ているより博ちゃんと話している方が良いと言った碧、大磯ロングビーチで二人で大きな浮き輪に捕まって遊んでいた時の笑顔の碧、レンタカーで湘南をドライブした時助手席で居眠りした碧、初めてブラジャーのホックを外した碧、エクスタシーの碧、次から次へと碧が出てくる。


 眼が醒めた。頭の芯が痛い。一切の記憶を失ったような、死んだように寝たみたいだ。


 窓が明るくなっている。日が変わったのだけは間違いない。圧倒的に深い眠りだったのか頭痛がする。起き上がろうとしたら体が鉛のように重くそのままバタンと倒れた。起き上がれない。完全に記憶が途絶えたように「ここはどこ、私は誰」という感じだ。


 斜陽館で泊っている記憶が戻りだした。昨日感動した部屋に居る。炬燵の中に居たことまでは覚えているが布団の中で寝ていた。床が変わると眠れない性質だが、熟睡したようだ。丸二日間寝てなかったから体には良いはずだ。自分の意のままに動かなくなった体を意識しながら、ぼんやりと布団の中で横たわった。


 腹這いになり手に力を入れて四つん這いになった。両手に力を入れて上半身を立たせてから膝に力を入れて立ちあがった。カーテンを閉めなかった窓からは部屋の右隅に陽が差している。一瞬ふらついて跪いた。態勢を整えると左膝を床について右膝を立ててスポーツ選手が心の準備をするような姿勢になって身構えた。眼の前のガラス戸越しに外の景色を眺めた。しっかりと全身に力が行き届いた頃合いを見計らってから、力強く「よっし」と声を出して立ちあがった。ガラス戸を開け廊下に出て窓を開けた。冷たい差すような外気が体を被った。気持ちの良い空気を一杯吸い込んだ。窓から乗り出し陽の差す方を向くと早朝の太陽が眩しく輝いている。涙が自然に出てきた。気持ちの良い朝だ。心が洗われるようだ。こんな清々しい朝を迎えたことは何年振りだろう。時を忘れて佇んだ。


 朝食を済ませ、ゆっくり時間を掛けて身支度を整えてから受付で清算した。宿泊費は驚くほど安かった。まるで民宿に泊ったみたいだ。丁重にお礼を言ってから玄関を出た。前の道を渡り少し離れてから斜陽館の全景を眺めた。中二の時に初めて見た斜陽館の写真、あれから九年の歳月が経って、今その前に立っている。実物の斜陽館は時の経過の中で、大きくなった期待を裏切らない存在感でどっしりと構えている。感無量だ。しっかりと心のフィルムに焼き付けた。ゆっくりと力強く歩き始めた。昨日来た時とは逆の方角から金木駅を目指す。


 青森駅から津軽線に乗り換え各駅停車でのんびりと北上した。陸奥湾の海岸線を走る列車からは、雄大な海の風景を飽きるほどに堪能した。蟹田駅を出ると景色は一転し緑に囲まれた山あいを走った。所々に田園風景も見られ、津軽と知らなければ、故郷の飛騨高山線に乗っているとも思える景色だ。終点三厩駅に到着した。二両編成の列車からは数人が降りただけ、ここからは国鉄バスが竜飛崎まで出ている。バスは海と山あいの細い道路を進んだ。所々に集落はあるのだが人の影すら見えない。段々と道が細く険しくなるような、明らかに最果ての地に向かっているような環境に、内心わくわくしてきた。若し高波がバスを襲えばバス諸共海の中に消えてしまいそうな、スリルに満ちた道路を進んで竜飛漁港に到着した。直ぐ眼の前に海が広がる小さな漁村のような所で、此処が終点なのかバッグを持って戸惑っていると、運転手さんが声を掛けてきた。


「ここから折り返すて、終点の竜飛崎までぇ行くから」


 少し訛りのある言葉で言うと、バスは向きを変え暫く止まっていた。大きなバッグを抱えた僕は明らかに旅人に見えたのだろう。田舎の人達は皆親切だ。気がつかなかったが、たった一人の乗客を乗った時からそれとなく気に掛けてくれていたのだろうか。窓の外には家はあるにはあるが人が住んでいるような気配を感じない。勿論人も居ない。漁船の縁に掛けてある網や、家の軒下に干してある魚の干物が唯一、生活臭を感じさせるぐらいだ。


 バスは急な坂道をぐるぐる回って高台に着いた。何も無い丘陵地が終点「竜飛崎」だった。周遊券を運転手さんに見せてお礼を言ってバスを降りると、本当に一人ぽっちになった。ボストンバッグを首に通してから肩にかけ三六〇度見渡した。遠くに灯台が見える。


 バスが上って来た竜飛漁港とは反対側の日本海側を目指して歩き始めた。そもそも誰も居ない所だが漁港周辺には集落があった。集落があるということは知っている。まだ知らない陸地の果てを見たい。


 簡易舗装の道を漁港とは反対の方向へ歩いた。下り坂を真っ直ぐ進んでゆくと、右手前方に海が見えてきた。日本海だ。段々と進むうちに海が前面に広がってきた。間もなくごつごつとした岩肌と、その向こうに砂浜が広がる海辺に出た。岩と岩の間の平らな箇所を気をつけて踏み越えながら、あまり広くない砂浜に出た。砂浜の海岸線を先ほど見た灯台の方角へ歩き始めた。


 静かだ。小さな波が打ち寄せてくるが耳に届くほどの音じゃない。陸地側は小高い山で緑が一杯あるのに鳥の鳴き声も聞こえない。コートを羽織っているのに暑さ寒さも感じない。時間が止まっているような錯覚に陥る。時折、砂浜にコーラの瓶やスーパーの買い物袋が落ちている。キャンプに使ったのか、焼け跡が残っている薪も。そんな人の営みの名残が心地好い。祭りの後の人が去った静けさ、寂しさも心地好い。


 尚も進むうちに人の気配、足跡は無くなっていった。まるで未開の自然の中に一人だけいるようだ。ふと映画「猿の惑星」を思い出した。チャールトン・ヘストンが最後に真実を探るための旅に出たように、冒険者のような気持ちになって一歩一歩進んだ。海岸線の僅かばかりの砂浜をスニーカーで噛みしめるようにつき進んだ。


 やがて黒い岩肌の大きな絶壁が前に立ちはだかった。波が岩に当って白い水しぶきをあげている。躍動感ある風景だ。押し寄せる波浪によって侵食を受け、長い年月の間に壮観な姿に変化した海食崖。自然の営みの中で自分だけが浮いているように感じつつ、何時までも立ち竦んで見ていた。


 どのくらい立っていただろうか、前へ進むために今度は山側の小道を登り始めた。かなり急な山道で辛かったが、左手後方に広がる雄大な日本海に押されるように登った。重いバッグを掛け直し、一休みしながら中腹まで登ると強い風に煽られた。立っているだけで精一杯だ。風は海側から陸地に向かって勢いよく吹いてくる。もし逆だったら海まで転げ落ちそうな強い風だ。風の勢いで体を煽られるように一歩一歩登った。足元では膝丈くらいの草がビュービュービュービューと唸るように風に舞っている。風でジーンズがピタッと足にくっついたままだ。コートのボタンを全部掛けると、身を前傾に屈め足を踏み外さないように慎重にかつ力を込めて登った。


 頂上まで登りつめた。見渡す限り地平線まで続く海、一八〇度いや二七〇度のパノラマビューだ。遥か前方に陸地が見える。北海道だ。北海道が見える。強風に煽られながら真っすぐ前を見て津軽海峡に臨んだ。壮観な眺めに言葉が出てこない。茫然と立ち尽くす。両手をおもいっきり広げて風を全身で受けた。コートの裾が袖が襟がばたばたと音を立てる。立つ力を抜くとそのまま背中から地面に倒されるような勢いだ。バッグを頭から外すと右足後方の草むらに放り投げた。風の勢いで大きなボストンバッグが草の中に消えた。


ぽたっと涙が落ちた


‘ 碧 ’ 声に出した


ビュービューと吹く風に一切の音は掻き消された


‘み ど り’


声は風に掻き消され何の反応もない


‘みっどっりっ!’


体全身に力を入れ大声で叫んだ


‘みどりっ!’‘みどりっ!’


‘みっどっりっーっ!’


力一杯大きな声を出した


喉から言葉が出ると同時に、一切の音は消えていく


風に負けてたまるかと大声で叫び続けた


‘みっどっりっ!  愛してるっ!’


‘みっどっりっ!  愛してるっ!’


涙が溢れるように出てきた


‘愛してるっ!  あっいっしってっるっーっ!’


‘みっどっりっ!  あっいっしってっるっーっ!’


涙と鼻水とが溢れるように出てくる


‘あっいっしってっるっーっ!’


‘みっどっりっ!’


‘あっいっしってっるっーっ!’



何度も、何度も、何度も叫んだ






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