埋没
マイクスタンドの前に立った美和ちゃんは、「最高の景色だね」
広場にいる人たちが、何か始まると思ったのか、ステージへと視線を向けている。奥へ奥へと後ずさりしてしまう僕に対し、美和ちゃんはマイクスタンドに手をかけ、見渡すように眺めている。
そして、突然振り返ると、意味ありげな笑みを浮かべ、「一度やってみたかったんだよね」
君がいた春は♪
歌いだした。しかも、マイクのスイッチを入れて。
チラチラと覗き見るようだった視線が、顔ごとステージに向かってきている。完全に何か始まったと思われている。
「ヤバイって」
美和ちゃんに近づいて、背後から声を殺して言葉をかけたが、完全にスルーされている。
遠い夢の中♪
空に消えてった♪
咲き誇るさくら♪
ゆっくりと刻むように、言葉をリズムに乗せている。
一拍置くと、今度は頭を軽く動かし、リズムを取り始めた。
そして――リズムに乗って再び歌いだした。歌詞は春ようにアレンジされているが、それは確かな『夏祭り』
また、心の奥底がざわめいている。楽し気に揺れる美和ちゃんの背中に、心がはしゃいでいる。
心に体が反応していた。
ケースに近寄り、サックスを取り出していた。
サックスストラップを首にかけ、立ち上がると、美和ちゃんと視線が重なった。
目の前に広がってくる笑顔に、僕はうなずきで応えた。
美和ちゃんの声を耳に、息を吹き込めば、指が動いていく。
昨日の夜、僕はこの曲の楽譜を手にしていた。
★
ベッドに入っても、興奮からか、なかなか寝付けずにいると、ふと美和ちゃんが口にした曲名が浮かんできた。
夏祭り――その曲名が遠い記憶のどこかで引っかかっている。ような気がする……?
もしかすると……。
ベッドから飛び起き、何でも押し込んでいる戸棚を漁った。
これでもない、これでもないとやっていると、目当てのものが見つかった。長いこと眠っていましたという感じで、くすんでいて埃もまとっているファイル。
今まで練習してきた楽譜が整理されて収められている。といっても、たいした数ではない。それに自分でやったわけでもない。母ちゃんがしてくれていたことだ。
曲名を追いながら、時期を遡るようにページをめくっていた指が止まった。
時期を確認すると、小学3年の夏とある。まだ、始めて数か月の頃に練習していたということになる。
基礎的なことが終わって、最初にこの曲をやったということか。なぜ、この曲が選ばれたのだろう。
さらりと楽譜を見た感じでは、決して簡単な曲じゃない。初心者に毛が生えた程度には、難曲といっていいだろう。
サックスを手にとり、楽譜を見ながら指を動かしてみた。もちろん、夜だし、家だし、音を出すわけにはいかないが、指はスムーズに動いていく。そして、すぐに楽譜なんていらないことに気づいた。
当たり前だ。必死に練習した曲じゃないか。
小学生だった頃の記憶を埋もれさせてきたからか、大事ものまで埋もれている。そんな気がする。
朝食の時、僕がなにげない感じで、「夏祭りって曲知ってる?」と口にすると、母ちゃんの口が止まらなくなった。しまいには口ずさみながら、後片付けをしていた。
母ちゃんはどこか嬉し気に、僕がどうしてもこの曲がいいといって、この曲を選んだのだと笑みを浮かべていた。
僕自身が選んだ曲……。