うらめしき携帯
とその時、曇った音が。
本当にこいつは、タイミングをよんでくる。悪い意味で。
ちらりと美和ちゃんを見れば、電話にでて、といった感じで小さくうなずいた。
となれば、ほっとくわけにもいかない。おそらく母ちゃんだから、何としても上手く聞き流すしかない。
だが、携帯電話をポケットから取り出し、確認してみると家からではない。とはいっても、こちらも上手く聞き流したいところだ。
光喜は前置きなしに、『お前、立見公園にいるのか?』、と言ってきた。突然のことに、いなくは……ない、としどろもどろになってしまう。
『ポンタが、すぐに武道場に来いってよ』
武道場?
口をついたつぶやきに、光喜が答えてくれた。
どうやら、明日の演奏会のために、大型楽器や機材などの搬入をしていうるようだ。去年のことを思い起こせば、園内にある武道場が控室と楽器置き場になっていた。今年も同じのようで、駐車場に止めたまバスから、部員総出で運び込んでいるという。
「じゃあ、先生も今、武道場に?」
当然のことを口にしている。いるから、呼び出されているわけだ。
「あぁ、関係者の人に挨拶にいってきたみたいで、さっき戻ってきたよ。そしたら、なんでかお前のサックスケースを持ってるし、すぐに呼び出せときたもんだ」
サックスケース?
完全に浮かれていた。サックスケースをどこかに忘れていたことに、今頃気付いた。忘れた場所はステージだろう。だけど、なんでそれをポンタが?
何か嫌な胸騒ぎがしてくる。ステージ下に近づいてきたスーツ姿の男……。
耳には光喜の声が届いているが、全然頭に入ってこない。
『――まあ、いいや。後でゆっくり聞くから。とにかく、今すぐ来いよ』
「いや、俺は……」
僕の声など聞く気はないといった感じで、電話は切れている。
「大ちゃん」
その声に視線を向けると、美和ちゃんが微かな笑みを浮かべて、
「すぐに行ってあげて」
電話内容は分からないだろうが、僕が行かなくてはならないということは察しているようだ。
「いや、いいんだ」
それより、行きたい場所がある。
美和ちゃんは一歩、二歩と足を踏み出し、僕の前に立つと、手にしてしるものを、そっとつかみ取った。そして、もう一方の手にあるオレンジジュースを一気に吸い上げた。
向きを変えて走り出したと思ったら、数メートル先で、ふわりと両手からカップが浮き上がり、ゴミ箱へと消えていった。
美和ちゃんは振り返ると、茫然と立ち尽くしている僕に向かって、
「大ちゃん。明日がんばって」
えっ、と言葉をもらす僕に対し、
「明日、あのステージで演奏会でしょ」
「そうだけど……」
ふと、気付く。舞台袖近くの壁に張られていた紙のことを。美和ちゃんもあれ(予定表)を目にしていたのか。僕があれを見つめていた姿も。
美和ちゃんは小走りで戻ってくると、僕の両肘辺りに手を添え、くるりと向きが変えられた。そして、早く行ってあげて、と背中が押し出される。
戸惑いの中、振り返ると、
「明日、楽しみしてる」
にっこりほほ笑んでいる。
「いや、でも……」
でられないかもしれない。また、怒鳴られて追い返される。関係者の人に文句を言われて、ポンタの怒りは倍増しているかもしれない。
「大ちゃんがサックスを吹いているところ、もっと見たいの。だから……」
笑顔だったのに、どこか寂し気にゆがんで見える。瞳が潤んでさえいるように見える。
なんで、そこまで。なんで……。
「わかった」
僕はそう言葉を返していた。
どこかしんみりとした雰囲気になっているのを打ち壊すように、美和ちゃんが明るい声で、早く早く、と再び背中を押してくる。
ゆっくりと歩を進めた。
土下座してでも、明日はださせてもらおう。
僕は足を止め、振り返った。そして、声を強く押し出した。
「演奏会の後、一緒に桜見に行こ」
美和ちゃんが笑顔で大きくうなずいてくれている。
武道場に向かう途中、野外ステージが目に映った。
足を止め、今は誰もいないその場所を見つめてしまう。手は自然と胸元にあるサックスへと伸びている。
あの瞬間の感覚が蘇ってくる。そして、それは沈めていた遠い記憶も引き上げていた。
小学生だったあの頃を――