桜を抱く君
自転車に乗っていると、嫌なことなど吹き飛ばすように気持ちのいい春風が流れていく。
なんだか思いっ切りかっ飛ばしたくなる。何があるわけでもないのに、ただ自転車で走っているだけで楽しかった小学生の頃のように。
だが、そこはさすがに高校3年生。制服姿で微笑みながら自転車を漕いでいたら、浮かれ野郎この上ない。
ということで気持ちのいい雰囲気を味あうように漕いでいく。
「もう満開かな」
草花になんて興味はないが、やっぱり桜には目がいってしまう。引き寄せられるように桜が咲く公園へと近づいていくと、何やらざわめきが届いてきた。
そういえば明日から桜祭りか。
この公園は中心に大きな貯水池があり、グランドや児童公園、花の広場、野外ステージもある芝生の広場などがある。
園内には多くの桜が植えられ、この季節は淡い薄紅色に公園全体が包まれる。
正面入り口近くの駐輪場に自転車を止め、前カゴに入れていた黒いケースを手に取った。中にはアルトサックスが入っている。
明日からの桜祭りに向けて、露天の準備などが進んでいる。組み上げられていく屋台。夜桜のための提灯も準備万端のようだ。
散歩がてら桜を見に来ている人も多く、園内は明日を待ち切れずに賑わい始めている。
そんな様子を眺めながら歩いていたのだが、思わず足が止まっていた。
花見広場と呼ばれる多くの桜がある場所に、ひと際は目立つ一本がある。翼を広げた孔雀のように丸く広がっている。
その幹の前で佇む姿がある。春風に撫でられ、ストレートの長い黒髪が微かに揺れている。まだ少し寒さが残るなか、淡いブルーの半袖という姿の少女?
背後からでは、どんな表情をしているか分からないが、花というより幹を見つめている感じだ。
と突然、手を広げると目の前の木に抱きついた。額もつけているのだろうか。まるで額を通して何かを語りかけているようにも見える。
足が自然と動きだしていた。広場の中に入っていき、人の間を抜けて、彼女の後ろで立ち止まっていた。
何かを感じたのか、彼女が振り返った。
同い年ぐらいだろうか。たぶん高校生だろう。
彼女は唐突に、「ここって、なんて公園?」
突然のことに戸惑いつつも、「立見総合公園だけど……」
「立見……」、彼女はそう呟くと、辺りを見渡し「そういうことか」
なにかに納得したのか、ほほ笑みを浮かべた。
それがどういう意味か、考えている暇などない。どういうわけか、彼女が向きを変えて走りだしている。
反射的に、僕も走りだしていた。サックスケースを抱えて、後ろ姿を追いかけていた。
どこに行くんだ!
胸の中で、彼女の背中に向かって叫んだ。
ケースを抱えて走るのは、けっこう辛い。
公園を飛び出したところで、やっと彼女の足が止まった。
荒い息の僕に対し、彼女はほとんど乱れていない。
それより何を見つめているのだろう。そんなにも真剣な眼差しで。
視線の先を追えば、そこにあるのは幼稚園。園庭に並ぶ桜を見ているのだろうか。
ふと、彼女の横顔に笑みが浮かび、「立見。立見だ!」
そう言って向きを変えると、公園の中へ向かって――うそだろ!
また走っている。何がなんだか分からない。とにかく僕も走るしかなさそうだ。
彼女は、またあの桜の前に立っていた。
僕が息を切らしながら横で立ち止まると、
「ねぇ、まだだよね。まだまだ満開じゃないよね?」
肩で息をしながら、彼女の視線の先へと目を向けた。
「いや、もう満開……かな?」
彼女の横顔へと視線を向けると、どこか寂し気な表情が浮かんでいる。
「そっか。でも、まだまだだよ。まだまだ元気いっぱいだ!」
声を張りながら、何か無理やり笑顔を作っているように見える。
よく分からない状況だけど、彼女の表情を見ていると、僕も言ってあげたくなる。
「確かに元気だ」
そう言うと、にっこり顔が迎えてくてた。これは自然な笑顔。そう見える。
となれば、さらに、
「元気、元気。元気いっぱい!」
ちょと、調子に乗りすぎたかな。苦笑いが混ざっちゃったようにも見える。
そんな彼女の視線が、何かに止まった。首を傾げるようにして、
「や・す・だ」
呟くような声が、言葉を刻んだ。
視線は僕が抱えているケースに向かっている。
ケースの横に張ってあるステッカーに目を止めたということか。そこにローマ字で僕の名がある。
彼女は、安田、と僕の名を繰り返すようにつぶやき、下(の名前)は、と聞いてきた。
突然のことに少し戸惑いながらも、
「だ、だいち。安田大地」
なぜか彼女の目が閉じられていく。まるで何か思案でもしているような様子で、さらに僕の名をつぶやいている。
そして、目を開けたと思ったら、微笑みを浮かべて、
「大ちゃん。そっか、大ちゃんだ!」
飛び跳ねそうな勢いで声を上げた。
悩みに悩んで、いい呼び名が見つかって嬉しいということだろうか。それにしては……平凡だよね。酔っぱらったら、母ちゃんだって、そう呼んでくることがある。
でも、なんだろう。彼女から発せられた響きに、胸の奥がくすぐられている気がする。どこか胸の奥が……。
彼女の名を聞いてみると、
「美和。江藤美和」
「じゃあ、美和ちゃんか」
彼女の影響か、つい勢いでそんなふうに呼んでしまった。照れくささで体がむずがゆい。
「うん……そうだね」
なんだろう。ほんの一瞬だったが、戸惑ったような表情。そう呼ばれるのが嫌なのだろうか。
僕の顔が曇ってしまったのかもしれない。彼女は少し慌てた感じで、話題を変えるように、
「ねぇ、それって?」
僕が手にしている黒いケースを指差してきた。
「これ? これはアルトサックス。一応、吹奏楽で吹いてるんだよね」
「そっか。大ちゃん、サックスやっているんだ。そっかそっか」
ひとり納得するようにうなずいている。なぜだか、嬉しそうに微笑んでさえいる。
「えーっと」
言葉に詰まる。さっきの表情を思うと、どう呼んでいいものやら。でも、大ちゃん、と呼ばれたからには、一応もう一度だけ、
「み、美和ちゃ、ちゃんは高校生?」
ただでさえ、女子に対してちゃん呼びなんて慣れてないのに、気を遣いながらなので、不自然きわまりない。でも、彼女は気にする様子もなく、
「うん、そう。なりたてホヤホヤの高3。ちなみに部活は何もやってないから帰宅部ってやつかな」
「そうなんだ。同い年か」
「ねえねえ、なんか一曲聴かせて?」
「いやいや、それはちょっと」
思わず辺りを見渡してしまう。まだ祭り前といっても、桜はすでに満開だし、広場には多くの人の姿がある。
それ以外にも、ためらってしまう理由がある。サックスを吹くことを。
「大丈夫だよ。桜満開だし」
「いやいや」
意味が分からない。いや、なんとなく分かるよ。でも……。
「お願い」
うそでしょ。目を閉じて、さらに手を合わせちゃうの。
薄目でのぞき見られたら、ヤバイでしょ。
お花見の余興。祭りの前日祭。やっちゃう?
軽く吹く程度なら、できなくもない。
「じゃあ、ほんの少しね」
そんな、小さくガッツポーズまでされたら引くに引けない。
「どんな曲がいいかな?」
ケースを下に置きながら尋ねると、美和ちゃんは、やっぱり桜の曲がいいよね、と言いながら、独りごちている。
サックスストラップを首にかけ、リードとマウスピースをはめたサックスを手に取って立ち上がった。
軽く息を吹き入れていると、彼女の遠慮がちの声が聞こえてきた。
「夏祭り」
僕は思わず、えっ、と聞き返していた。すると、彼女は慌てた口調で、
「あっ、違う。『桜祭り』、いや、そんな曲あったかな。えーっと」
美和ちゃんは、何か言い訳でもするように、言葉をつないでいる。
曲がどうこうより、その姿が気になる。
とその時、突然くもった音が聞こえてきた。
もう! 誰だこんなときに。
だいたい想像はつく。無視を決めこむか。だが、
「ねえ、電話じゃない?」
「あっ。あぁ」
さすがに、そう言われれば、無視ってわけにはいかない。
制服のポケットから携帯電話を取り出し、彼女に背を向けながら耳に当てた。
やはり聞こえてきたのは、聞き慣れた声、いや、聞き飽きた声だ。
それに対し、ぶっきらぼうに、「今は……部活中だけど」
今何しているの、問いかけを適当にかわそうとしたが、17年という月日は確かなわけで、母ちゃんには簡単に聞き流されてしまう。
「分かったって。すぐ戻るから」
携帯をポケットに入れながら、振り返り、
「ごめん。家が蕎麦屋やってるんだけど、なんか珍しく忙しいみたいで、ちょっと手伝わないといけなくて」
とは言っても、すぐに行く気などない。もちろん、吹きますよ。だって、聞いてもらいたい。そんな気になっていた。だが……。
「蕎麦屋……蕎麦屋だね」
美和ちゃんの言葉に、胸が弾かれたように波だった。いや、言葉じゃない。なぜだか、潤んで見えるその瞳に。
「ねぇっ、早くいってあげて」
彼女は一転し、急かしてくる。
僕はその変化と勢いに押され、戸惑いつつもサックスをケースに戻していた。そして、「早く、早く」の声に押されて、その場を後に――でも、桜が引き留めてくれた。目に映るその美しさで。
数歩踏みだしていた足を止め、振り返った。
「明日、ここで桜祭りがあるんだ。一緒に……」
声がしぼんでいく。
今さっき会ったばかりじゃないか。僕は何を言っているんだ。
でも、軽やかな声が迎えてくれた。「うん。いいよ」
心が跳ねる。足だって跳ねて、数歩の距離を飛ぶように戻り、
「携帯の番号とか教えてもらっていいかな?」
「それは……ごめん。持ってないの」
それくらいのことで止まってたまるか。まだまだ、僕の心はトランポリンの上だ。
「そっか。じゃあ、待ち合わせしようよ。公園の入り口っていうのはどう?」
「うん。いいね。時間は?」
「俺、明日は午前中が部活だから……いや、何時でもいいよ」
「なら、12時しよ」
「いいね。露店で何か買って一緒に食べようよ」
「うん。私、露店の焼きそば、何だか好きなんだよね」
「マジで。俺も超好き!」
なんだろ。なんだろ。気が合う。それだけじゃない。なんだろ……。
「そうだ。早くお店行かないと大変じゃないの?」
「やっべ。じゃあ、俺行くわ」
自転車を漕いでいると、美和ちゃんの声が浮かんできた。
走り去る時に、彼女が大声でかけてくれた言葉――じゃあね! 大ちゃん。
なんだか、顔の筋肉がゆるんでくる。そして、なぜだか、胸の奥が心地よくさざめいている。
★
店が落ち着くと、自分の部屋に戻り、鳴り出した携帯を耳に当てて、ベッドで横になっていた。
『なあ、ポンタの言ったことは気にするな』
光喜の声が、耳に届いてくる。
幼稚園の頃からの幼馴染で、中学、高校と同じ部活。つまりは腐れ縁。
部活の練習中に飛び出した僕を心配して、電話をかけてきてくれていた。
タヌキ腹の顧問が浮かんでくる。投げ捨てるように吐き出された言葉とともに――「もう帰れ」
別にやる気がなかったけじゃない。ただ……。
『とにかく明日……』
気を遣っているのだろう。光喜の声がしぼんでいく。それでも、
『部活に来いよ』
あえて、そうしているのだろう。強い口調の言葉が残され、電話は切られた。
ごめん……。
明日、部活に行く気はなかった。