第二十二話 お帰り
「……五月ちゃん」
思わず目の前で布団に横になっている少女に呼び掛ける。
しかし、よほど眠りが深いのか、静かな寝息しか聞こえない。
それは、同じ部屋にいるほかの二人も同じだった。
外はまとわりつくような熱気に包まれているのに、エアコンの利いた寒々しいリノリウムの部屋なこともあり、今すぐ永遠に帰ってこられない場所へと旅立ってしまうのではないかと怖かった。
「……昨日説明したけど、事前に言ってた畑に倒れてたんだよ。そこには何もなかったんだけどね、畑がクレーター状になってた。生きててくれたから、やってくれたんだとは思うが、……その分、体に負担がかかったんだろうね」
三人の、特に、恋人の五月の姿を見て茫然としている裕樹を見かね、ゆかりがため息をつく。
どこか、疲労の色が強く、医者に様々な治療を聞いたのだろう。
今は三人の義母となっており、特に五月は小学生のころから面倒を見ていて、実の娘と同じように愛しているように思う。
それでも、目を覚ますことができない。
つまり、原因がわからないということ。
間違いなく、魔法の影響だろう。
ただ、桜空伝があることや現場の状況が異常なことがあるのに、報道でもあまり大事になっていないので、警察やマスコミにいろいろ働きかけていたのだろう。
村人たちも大騒ぎだったが、ゆかりが、先ほど実際に騒がしいからと追い出したところを、裕樹は見ている。
あとやれることと言ったら、待つことくらいと、やれることが限られるので、とてもつらい思いをしているに違いない。
それでも、三人が発見された後、すぐに裕樹を含めた、友達全員に連絡をしてくれたのだ。
その好意だけでもありがたかった。
「……いろいろと、ありがとうございます」
自然と感謝の言葉が出る。
「いや、これくらい当然さ。イワキダイキのような連中を出さないためにも、ちょっとサツの知り合いの力を借りて、秘匿捜査にしてもらったからね。そうすれば、ある程度マスコミの連中を躱すことができるし。もう前みたいな思いはしたくないしね」
なんでもないことのようにゆかりは言うが、それができるのは御三家の対外的な長である、暁家の当主だからこその影響力があるからだろう。それでも、それが自分の仕事だと、驕ることなく振舞えているからこそ、リーダーになり、存分に村を守るために力を注いでいるのだろう。
心強いし、ありがたい。
そのゆかりが色々と手配したのだから、きっと三人は、五月は無事なはずだと、裕樹は思った。
「……やっぱり心配かい?」
再び五月に視線を落とした裕樹にゆかりが尋ねる。
「……そうですね。確かに心配です。でも、信じてますから。約束を破るような女じゃないです。必ず、帰ってきます」
裕樹は顔を上げ、ゆかりの目をじっと見つめる。
少しでもこの気持ちが本物だと知って欲しかった。
やがてゆかりは微笑を浮かべる。
「ありがとね。そんなに五月のことを思ってくれて」
どうやら、きちんと伝わったみたいだ。
あまり目立たぬように一息つこうとしたが、間髪入れずにゆかりは続けた。
「……あんたが五月の想い人でよかったよ。五月のこと、頼んだよ」
「え? ……あ、えっと、その……」
いったい何を言っているのか最初はわからなかったが、よく考えると、だんだんその意味が分かってきて、取り乱してしまう。
……ゆかりは、裕樹を五月の男として認めたのだ。
どうにも気恥ずかしく、まだそんな気持ちが強いのかわからなかったし、ふさわしいとも思えない。
だが、もし、将来ずっと隣にいてくれる人がいるとするならば、だれがいいのだろうか。
そう考えると、テレビに出てくる人や、今まで会った人たちを思い浮かべたが、だれもしっくりとこない。
ただ一人を除いては。
裕樹は、五月に視線を移す。
きれいな黒髪で、可愛らしい顔立ちだ。
それに、胸もあり、体全体がバランスよく、ルックスは裕樹にとって、完璧だと思う。
内面はつらい目に遭ってきたことから、脆いところもあるが、それでも努力して幸せになろうとしていて、最近は強さも感じ、素晴らしい人になってきたと思う。
なにより、一緒にいて落ち着く。
……やはり、五月のことが大好きだ。
そして、一緒に歩いていきたいという気持ちが、少し芽生えた気がした。
「……わかりました。まだその資格があるかわからないですし、五月ちゃんの気持ちも尊重しなければなりません。ですが、もし自分を選んでくれるのであれば、全力で幸せにしたいと思ってます」
落ち着きを取り戻し、凛としてゆかりに向き直った。
その姿は堂々としていて、信頼のできる好青年そのものだ。
きちんと見るべきものを見て、判断することができるように思える。
そんな男を五月は愛し、愛されているのだ。
まだ将来はわからないとはいえ、そんな男が傍にいてくれるのなら、安心して任せることができる。
そして、きっと五月は目を覚まして、これまでずっとつらかった運命の傷を、癒してもらえるのだろう。
そうゆかりは思った。
「ありがとね。そんなに想ってくれて。……じゃ、あたしはちょっと席を外すから、しばらく二人で過ごしな。あいにく桜空と桜月もいるが、別に構わないだろう?」
「はい」
「よろしくね。あと、連絡が来たかもしれないけど、佳菜子ちゃんたちと友菜ちゃんたちもこっちに飛んでくるってさ。そん時は勝手に入ってくるだろうけど、あの子たちも三人のことが大好きなんだ。一緒に見舞ってくれ」
「わかりました」
そのとき、病室の扉がノックされる。
少しざわざわしているので、ちょうど今来たのだろう。
「失礼します。ただいま入ってもよろしいでしょうか?」
「ちょうど来たみたいだね。ちょうどいい。改めて話をした方がいいだろう。どうぞ!」
ゆかりの返事を合図に、ガラガラと扉が開かれると、そこには今話していた、佳菜子たちが勢ぞろいしていた。
「大変なところすみません。あの……、五月たちの様子は?」
恐る恐るといった表情で麻利亜が尋ねてくる。
「……残念だが、まだ目を覚まさない。ただ、三人とも容体は安定している。今は待つ時だね」
「そうですか……」
まだ目を覚ましていないことに、みんな肩を落とす。
ひょっとしたら、という思いもあって飛んできたのだのだが、再び話せるのは、もう少し先のことなのだからしょうがない。
それでも、みんなにとっても三人は大切で、かけがえのない存在なのだ。いくら容態が安定しているとはいえ、不安で身を裂かれるような思いだろう。
現に、それは裕樹とゆかりも同じだ。
それでも、信じている。
絶対に帰ってくると。
絶対に幸せになると。
それは、みんながいなくてはいけない。
だから、少しでも前を向いて欲しかったので、裕樹は意を決して切り出した。
「みんな」
いきなり裕樹に声を掛けられ、まさか声を掛けられるなんて思わなかったのか、みんな驚いたり、困惑したりしている。
それでも、大切な五月の友達だというのは変わりないのだ。
その子たちが落ち込んでいるのなら、前を向けるように支えたいと思った。
「お見舞いに来てくれてありがとな。きっと、三人も喜んでくれてるよ」
「いえ……、当然のことですから」
友菜の言うとおり、五月たちの友達のみんなは当たり前のように考えてくれている。
しかし、それは当たり前ではないはずだ。
みんなが五月たちのことを大好きで、大切に思っているからこそ湧き上がる気持ちだろう。
「ありがとう。そんなに想ってくれて。だから、大丈夫。きっとその気持ちは伝わる。絶対、三人とも戻ってくるよ」
「裕樹さん……」
李依たちは、それでも不安な気持ちを隠せないように、茫然と裕樹の言葉に聞き入る。
いくら信じているとはいっても、目の前で決して覚めない夢を見ているかのように微動だにしない姿を見ていると、どうしても不安の方が勝ってしまう。
正直、それはこの場にいるもの全員が同じだ。
それでも、と裕樹は思っていた。
「それに、な。俺たちが信じなかったら、他に誰が五月ちゃんたちが目を覚ますって、戻ってくるって信じる? 五月ちゃんたちが一番信じて、五月ちゃんたちを一番信じているのは、俺たちだろ? 五月ちゃんたちが不安に押しつぶされそうなとき、手を伸ばしてきたのは俺たちだろ?
だったら、絶対に帰ってくるって、幸せになれるって、信じてあげないと、五月ちゃんたちがかわいそうだと、そう思わないか? それに、今まで約束を破るようなことをしたか? してないだろう?
だから、大丈夫だ。絶対、帰ってくるよ。……五月ちゃんを、桜空ちゃんを、桜月さんを、信じて、待とう」
確かに、不安でいっぱいだ。
それでも、以前の五月たちは同じように不安に駆られていた時、みんなを、裕樹を信じて、わずかな救いの糸をつかんだ。
今度は五月たちを信じないと、その時五月たちが信じたものは一体何なのか、わからなくなってしまう。
なにより、五月たちの想いをないがしろにしてしまうことになりかねない。
そんなことは、裕樹にはできないし、したくもない。
今は待つことくらいしかできないが、絶対に起きると信じなければ、裏切りのように思える。
だからこそ、その想いをみんなにぶつけた。
少しでも前を向いて、信じて待つことができるように。
「信じる、か……」
裕樹の言葉を柚季をはじめ、みんなが噛み締める。
五月たちへの気持ち、五月たちの気持ちに思いを巡らせて。
そして、今信じてあげなかったら、どう思うだろうか。
裕樹の言うとおり、裏切りに他ならない。
それは、友達失格で、一緒に歩いていく資格はないと思った。
「……そうだね。信じてあげなきゃね!」
亜季が声を上げると、徐々にみんなも前を向き始める。
「確かにね。ずっとあたしたちのこと信じてくれたもんね。今度はあたしたちの番だ」
「いつまでもくよくよしてたら、ミーちゃんに怒られちゃう。ここは、絶対に帰ってくるって、信じて待とう」
佳菜子と麻利亜、そしてみんなが口々に前向きに言葉を発する。
五月たちを信じると。
絶対に帰ってくると。
それまで、待っていると。
もう先ほどまでの不安に打ちひしがれて、沈んだ空気はない。
曇り空に日が差し込んだような、明るい空気になった。
「……大したもんじゃないか、裕樹」
その空気を作ったのは、まぎれもなく裕樹だ。
ゆかりは感心するが、裕樹は当然のことをしたと思っているので、素直に受け取れない。
「いえ。俺たちは一番信じなきゃいけないですから。これくらいしないと、三人に、特に五月ちゃんに怒られそうです」
「そんなに謙遜しなくてもいいんだよ? 言うだけなら簡単なのに、みんなを励ませたんだから。自信を持ちな。五月だって、あんたの女になれて、誇らしいだろうよ」
「あ、ありがとうございます」
「そうそう。素直が一番だよ」
ようやく裕樹が気持ちを受け取ってくれたので、ゆかりは笑みを浮かべた。
「さて、そろそろお暇しよう。あとは、裕樹。頼んだよ」
「任せてください。目を覚ましたら、すぐ連絡しますので」
「ああ。頼んだよ」
そのままゆかりはみんなに声をかけてから病室を出た。
※
それから毎日裕樹はお見舞いを続けた。
野球部の練習を休んでまで、五月たちのそばに居続けた。
夏休み中だったのは不幸中の幸いだったかもしれないが、それでも大切な人の方を優先したのは変わらない。
それでも、監督や選手たちは理解してくれて、毎日キャッチボールや、投げ込みなどの練習をすることを条件に許してくれた。
最近は五月と一緒にキャッチボールをしていたが、父親に協力してもらっている。
裕樹はみんなに感謝しながら、今日も殺風景な白い廊下を歩き、五月たちの下へ向かう。
他のみんなは学校があるので、休むことができず、その代表としてもだ。
ただ、五月に対しては、目を覚ました時に誰より早く、「お帰り」と言いたい。
……だって、大好きだから。
物思いにふけりながら歩いていると、いつの間にかいつもの病室につく。
今日は、五月たちが倒れてから四日目。
信じると決めたが、まだ目を覚まさず、目を覚ましてからの毎日が待ち遠しい。
とにかく早く目を覚ましてほしいなと思いながら、ノックをして、「失礼します」と言ってから病室に入った。
それに応える声は、まだない。
「……」
扉を閉じ、部屋の中を見渡す。
三人は、まだベッドに横になって、深い眠りについている。
ここ数日、同じ状態だ。
裕樹はまだ帰ってきていないことに落胆を隠せず、ため息をついてしまう。
ただ、こればかりは仕方ない。
ひたすら信じて、待ち続けるしかない。
裕樹は五月のベッドのそばにある椅子に腰かけ、五月の手を握った。
透き通るような色白の肌はとてもきれいで、温かい。それなのに、力を加えたら折れそうなほど、小さくて、細い。
その手に触れるたび、胸が高鳴り、心が喜ぶが、肝心の彼女は眠ったまま。
その指に自分の指を絡めるが、向こうから握り返すような感触はない。
……おいていかれそうで、少し怖い。
それでも、絶対に帰ってくると、信じると言い聞かせる。
「……五月ちゃん」
早く、目を覚ましてほしい。
いつものように、キャッチボールや、おしゃべりをしたい。
手を握り返してほしい。
いつまでも、そばにいてほしい。
とにかく元気な姿の五月が恋しかった。
……その時だった。
「……?」
不意に、裕樹は自分の手が握りしめられたようなぬくもりが広がった感触がした。
(……まさか!?)
とっさに視線を五月の手を握っている手に向けると。
「……っ」
先ほどまで、力なく開かれていた五月の指が、絡まれていた裕樹の指を離さないように、力強く握られていた。
恐る恐る五月の顔へ視線を向けると。
「……あはは。おはよう、裕樹」
……顔を上げて、とりあえずといった印象ではあるが、裕樹が手を握っていてくれたことに、うれしそうに、気恥ずかしいように、顔を赤らめながら笑みを浮かべていた。
……帰ってきてくれた。
帰ってきてくれたのだ。
「……五月ちゃん!」
思わず叫び、五月の手を抱えるようにして両手で握りしめる。
「よかった……、本当に良かった……」
「あはは……、どうしたの? それに、ここはどこ? 見慣れない……」
そこで五月の言葉が止まる。
「……? どうしたんだ?」
「……桜空、ご先祖様」
五月の視線をたどると、その先には、眠り続ける桜空と桜月がいた。
五月はその姿を見て、声が引きつっている。
もしかしたら、なにがあったのか思い出したのかもしれない。
それで、最悪の想像が浮かんだのかもしれない。
「……思い出したのか?」
「うん……」
その想像は当たった。
心なしか、五月の声は震えていて、暗くなってしまう。
とても辛そうで見ていられない。
裕樹は早めに安心してもらいたくて、すぐに状況を説明することにした。
「……そうか。だけど、大丈夫。まだ目を覚ましてないけど、無事だよ。あとは目を覚ますのを待つだけ。たぶん、魔法の影響だと思う」
「……そうなの?」
「ああ。俺が嘘をつくはずないだろ? 現に、五月ちゃんが目を覚ましたんだし」
「それはそうだけど……」
一応状況はつかめたのか、声色はいつも通りに戻ったが、それでも不安をぬぐい切れないのだろう、桜空と桜月の方に視線を向けていた。
やがて裕樹に視線を戻すと、恐る恐るといった感じで尋ねた。
「裕樹、わたしたちの体の状況はどうなの?」
「……原因不明、らしい。前もこういうことがあったけど、魔法の影響だと思ったんだが、違うのか?」
「たぶん、魔法だね。どうしても原因不明になるから。時間はかかるかもしれないけど、とりあえず大丈夫だと思う」
魔法のことを知っているからか、五月は不安を抱えながらも状況を整理できたのだろう。少しばかり顔が引きつっていたような気がしたが、元気も戻ってきたようだ。
「だけど、体調は大丈夫か? 数日寝込んでたんだぞ?」
「あはは……。ごめん。ちょっと体を起こせそうにないや。すごくだるい。魔法を使った後遺症だね」
「そうか……」
ただ、やはり先日の戦闘の影響は残っているらしい。
どうしても不安になるが、顔が曇っているのに気付いたのか、五月は言った。
「あ……、きっと大丈夫だよ。時間がたてば治るし。でも、激しい戦闘だったから、ちょっと時間がかかるかもしれないけどね」
「でも、大丈夫そうなんだな?」
裕樹は重ねて尋ねる。
大好きな人が、大切な人が遠い所へ行ってしまわないか心配だった。
その裕樹の気持ちがわかったので、五月は柔らかな笑みを浮かべた。
「うん。とりあえず、生きてるよ。それに、ちゃんと倒せたから、ようやく終わったよ。あとは、とりあえず……」
「……? どうした?」
五月はいったん口を閉じ、なにやら集中している。
なにをしようというのかと考えていると、五月の手から光があふれ、その口からは聞きなれない言葉が紡がれた。
「マジカル・シェア。リカバリー。ヒーリング」
その瞬間、光が桜空と桜月へと向かっていき、体全体を包み込み、一瞬のうちに消えていった。
もしかして、魔法なのだろうか?
「魔法か? 大丈夫なのか?」
「うん。大丈夫。これくらいなら、なんてことはないよ。それで、これは治療したり、魔法を使うための力を分ける魔法なの」
「つまり、二人に力を分けて、早めに回復してもらおうということか?」
「うん。そう」
どうやら、五月は二人に早く目を覚ましてほしくて魔法を使ったようだ。
ずっと裕樹たちが不安だったように、五月も不安なのだろう。
肉親のようなものなのだから、なおさらだ。
「そっか。でも、今は休んでおけよ。こんなに体がボロボロになるまで頑張ったんだから。お医者さん呼んでくるよ」
「あ、待って」
部屋を出ようと立ち上がろうとした時、五月に呼び止められる。
振り返ると、顔を赤らめながら視線を惑わしていたが、やがて意を決したようにまっすぐに裕樹を見つめた。
「……出る前に、もう一回手を握って」
「……ああ」
裕樹がもう一度両手でその色白の小さな手を握る。
少し先ほどよりも温かくなっていたが、五月が無事に帰ってきてくれたという証でもある。
なにより大好きな人の温もりを感じることができて、いつまでもこうしていたい。
ただ、五月の体のことを考えると、そろそろ呼びに行かなくてはいけなかった。
「じゃあ、そろそろ行くな」
「うん」
名残惜しくて、最後まで五月の手の温もりを噛み締めながらゆっくりと離していく。
五月も名残惜しそうに互いの手を見つめていたが、離れると、裕樹の顔へと視線を向ける。
「……五月ちゃん」
「……?」
不意に呼ばれて、五月はきょとんとして、首をかしげる。
「……大好きだ。無事に帰ってきてくれて、ありがとう」
「え!? えと、その、なんで急にそんなこと言うの!?」
急な国に五月は取り乱すが、裕樹は五月に微笑んでから、今度こそ病室の扉へと向かう。
その取っ手をつかもうとした時だった。
「……裕樹!」
五月に呼ばれ、振り返る。
五月は顔から湯気を上げ、俯きながら視線があっちこっちいっていたが、それが収まると、ぼそぼそとつぶやいた。
「……わたしも大好きだよ。そばにいてくれてありがと。そして、……ただいま」
その姿が、声が、仕草が、全てが、例えようもなくかわいくて、どうにかなりそうだ。
一瞬で顔が燃えるように熱くなる。
今すぐ抱きしめに行きたい。
ただ、まだ五月の体調は万全ではない。
裕樹は、懸命に自分の心を抑えながら、なにも言うことができずに部屋を後にしてしまった。
もしこのままもたもたしていたら、気持ちを抑えられなかったかもしれない。
次回、第二十三話「お疲れ様」。明日投稿になります。お楽しみに。