第六話 明日への羽ばたき 後編
その日から地獄だった。
「さ、五月……? これはいったい……」
桜空は五月から受け取った資料に戦慄する。
目の前には、源家に保存していた五月の教科書数十冊。
「ゲート」で取りに行ったが、いったん「ストレージ」という空間魔法に入れて五月が持ってきたものだ。
要するに、五月が今まで勉強としてやってきたすべての結晶が、今目の前にあるということだ。
「す、すごいね……。こんなにあったんだね……」
あまりの量に同じ部屋で勉強していたはずの友菜ちゃんも驚愕するしかない。
「……これが桜空の教科書。まずはこれを全部身に着けて、それから今回のテスト範囲だよ……」
「全部って……、あと十日ほどでですか……?」
不気味な笑みを浮かべる五月に、恐る恐る桜空が尋ねる。
「……十日? それじゃあテスト勉強できないじゃない……。一週間で覚えて」
「いえいえ! 無理です! こんなの、一週間で全部覚えられませんよ!!」
「だったら『タイム・コントロール』を使えばいいでしょ? ちょっと、いや、かなり疲れるかもしれないけど、大丈夫。あんたとわたしで分担して魔法を使えば、大丈夫」
魔法に頼るという反則に近い裏技を使うことになっては欲しくはないが、そうはいっていられないほど桜空はひどい。
そんなだらしないことにならないことを祈るばかりだ。
「大丈夫じゃないですよぅ!」
力いっぱい首を横に振るが、五月は有無を言わさず、小学校一年生の教科書から開く。
「ほら! 文句言わずやる! あ、友菜ちゃん、わからないところとかあったら言ってね」
「う、うん……。無理はしないでね」
「……無理しないと桜空は赤点だよ」
五月の冷たい視線に、友菜ちゃんも震え上がるしかない。
「ご、ごめん……」
「まあ、一応睡眠の時間も取るから大丈夫。それも含めて『タイム・コントロール』で、……ね。桜空」
「ふぇぇ……、五月の鬼ぃ……」
本当に王女だったのかと疑わしいくらい情けない桜空だったが、そんなのお構いなしに五月は勉強を一から、いや、ゼロから教えた。
「……で? 結局試験はどうだったのかしら」
三週間後。試験も終わり、みんなでクローバーにあるR・Yで食事をしているとき、リーちゃんが五月と桜空に尋ねた。
だが、二人とも疲れ切っていて、乾いた笑みを浮かぶことしかできない。
「あ、あはは……。一応、予定通りの日程でやれたよ……。まあ、ちょっとやりすぎちゃって、一か月以上の時間を過ごしてたけど……」
「あはは……、はあ」
桜空に至っては机に突っ伏すという愚の骨頂までしている。ただ、裏技を使うというある意味負け犬のような彼女にはお似合いなのかもしれないと、五月は心の中で毒づく。
「それに、一応テスト勉強も全部やって、桜空もわたしもかなり手ごたえがあるくらいまでできたんだけど……」
「だから二日休んでた、と」
柚季ちゃんの言葉にうなだれるしかない。
柚季ちゃんの言うとおり、五月と桜空は魔力消費性疲労症をおこしてしまい、あろうことか、テストが終わってから二日間寝込んでしまったのだ。
一応イオツミスマルからの魔力の供与によってテストを最後まで乗り切れたのは不幸中の幸いだが。
「それでそれで! 二人のテストの結果は!?」
そんな消耗具合などお構いなしに亜季ちゃんの元気な声が降ってくる。
ただ、まだ元気が出てこないので、なんとなく力が出てきそうだ。
それに、昨日結果をもらったのだから、なおさらだ。
「……わたしは、平均九十三。まあ十分じゃないかな」
「私は! 見事全部赤点を回避して、平均八十です!!」
五月は疲れが取れてないヘロヘロの状態で言ったが、桜空も同じくらいの体調のはずなのに、急に元気を取り戻した。
「……え? 本当なの?」
思わず柚季ちゃんが聞き返すほど、みんなにとって耳を疑う結果だ。
五月が高得点なのもそうだが、それよりも、この間まで泣き言を言って教えを乞うていた桜空が、平均八十点を取ったのだ。
しかも、魔法で一か月以上の時間にしたとはいえ、ゼロからのスタートなのに、だ。
「本当です! このイカサシを見てください!!」
桜空がカバンから、イカサシと呼ばれる成績表を取り出し、大げさに振りかぶってテーブルの上に置く。
それを見ると、確かに平均八十点だった。
「……さすがね。ちょっと話には聞いていたけど、五月がすごいならそのご先祖様もすごいってことね」
「ああ、もう! こんな高い点とれるなんて、うらやましいな!」
「それなら努力して、亜季」
「そうだよ。うち、ずっと見てたけど、ホントすごかったもん。ずっと勉強しっぱなし。あれだけ努力できる人初めて見たよ!」
「いやあ、それほどでも……、あるかもしれませんね!」
みんなの話題の中心になって、桜空はとてもうれしそうだ。
その笑顔を見ていると、教えた五月も自然と顔が綻び、一生懸命教えてよかったと思う。
そのせいか、自然と元気が出てきた。
「うんうん。桜空。わたしはうれしいよ。教え子がこんなに頑張っていい成績になったんだから。これからもいっぱいいっぱい教えるね」
「はい! よろしくですよ、五月!」
五月と桜空は完全に元気を取り戻し、R・Yで買ったウーロン茶の入った紙コップを合わせて、軽く乾杯のようなことをする。
「仲いいね、二人とも。ホントの姉妹みたい」
友菜ちゃんが微笑みながら言う。
「本当ね。姉が姉なら妹も妹ね。なんにもわからない桜空の成績がここまでよくなるんだから」
「本当にそう。五月やばすぎ」
「そうだよね! 五月頭いいし! 将来は先生とか!?」
先生。
亜季ちゃんの言葉に、思わず五月は目を丸くする。
「先生?」
「うん! 五月、頭いいし、桜空が高得点取れるほど教えるのうまいし! 向いてると思うよ!」
朗らかな笑みを浮かべながら亜季ちゃんは言う。
先生。
……五月にとっては、悪い印象が最初に来る。
中学校の教員どもが、イワキダイキのようなクズだったから。
そのせいで余計傷ついてしまった。
楓と雪奈、お父さんお母さんが死んでしまった時と同じ傷を植え付けられてしまった。
そんな、最悪のもの。
……そう。
最悪、だったのだ。
「……五月」
その時、五月は自分の手が誰かに包まれた。
その温かさに気付き、視線を向けると、桜空が心配そうに見つめている。
「……大丈夫だよ、桜空」
桜空だけに聞こえるよう小さく呟く。
「……早由先生とか、高井先生とか、優しくしてくれたから、もう大丈夫」
そんな五月の教員への悪い印象をぬぐってくれたのは。
間違いなく、この奥州女学院で出会った、二人の先生。
真実は話せないけれども、それでも五月――生徒のことを第一に考え、行動してくれる、本当の意味での先生だ。
そんな二人のように、なりたい。
そんな風にも思う。
その気持ちが芽生えると、不意に、心の奥から熱いものがこみあげてくるのを五月は感じた。
それは、自分と同じような思いをする子が生まれないでほしい。
もしそんな子がいたら、救ってあげたい。
守りたい。
みんな自分を守ってきてくれたのだから、今度は自分が。
そんな熱い思い。
それがぐつぐつと湧き上がってくる。
それを叶えることができるのは。
教師という、将来の道だった。
「先生、ね。……いいかも」
とびっきりの笑顔を浮かべる。
みんなに、将来の目標ができたことを伝えたくて。
桜空に、大丈夫だと伝えたくて。
「ありがと、亜季ちゃん。先生になりたいなって思っちゃった」
「おお! 五月先生! ここ教えてください!」
「なんか、友菜が先生って言ってるのを聞くと、すごく似合ってるわね。リーも五月は先生が似合ってると思うわよ」
「同じく」
「ありゃりゃ! ということは、五月の将来の夢は、先生で決まり?」
みんなの反応を見ていると、五月はうれしくて、とても心が満たされた気分だ。
五月先生。
頭の中で反駁しても、すごくしっくりくる。
教えるのも楽しい。
成長した姿を見るのも楽しい。
その子たちを、守りたい。
それができるのが、先生という仕事。
「……うん!」
だから五月は先生になりたいと思った。
もう教師という職業に、悪いイメージを持たない。
もしそんなことがあるようなら、自分が変えてやる!
いつの間にか、そんな決意が芽生える。
「……桜空」
茫然と五月を見つめていた桜空に、何の曇りもない笑顔で五月は言った。
「将来の夢、見つけたよ。わたし、がんばるからね」
そんな五月を見ていると、つらい目に遭ってきた面影が見当たらないと桜空は思った。
そうではなく、今の五月には、希望が満ち溢れていた。
ちょっと桜空は複雑な気持ちだ。
娘のように思っていた五月が、将来へ具体的な目標を持ち、羽ばたこうとしているのだ。
巣立ちを迎えようとしているのを感じて、寂しく思う反面、立派になってくれて、とてもうれしい。
でも、やはり桜空にはやりたいことをしてほしいし、幸せになってほしい。
それが、自分で決めた道で、先生だというなら。
それを、応援しよう。
桜空はそう思った。
「……そうですか。がんばってくださいね。応援、してますよ」
その言葉を受け取ってうれしそうな五月を見ると、とても愛おしく思った。
次回、第七話「久しぶり」。明日投稿になります。お楽しみに。