第五話 婚礼の儀
今回から、タイトルを「魔女の約束」から「魔法の契りで幸せを」に変更いたしました。引き続きよろしくお願いいたします。
リベルとの結婚。
それは、桜空が感じていた、疎外感や、利用されていると感じる思いから解放する、対等な立場になるという桜空がしてほしかったことで、桜空にとっての救いだった。
そして、リベルはノア派、つまり、反政府派の息子なので、歩み寄りの象徴としても捉えられる。
バノルス王国の問題を解決する、きっかけになるはずだ。
その問題は、桜空の先祖の、リベカがバノルス王家に嫁いできたことから始まる。当時でも結婚に反対の声はあったみたいだが、それを押し切って結婚をした。
しかし、リベカの国の、ガリルト神王国にとって重要な、オラクルであったリベカがガリルトを去り、後任のオラクルであったものが「オラクル」を使えなくなったこと、リベカ自体も「オラクル」を使えなくなったこと、その子孫、つまりリベカの血を引く王家の寿命が、極端に短かったことから、「穢れた」という声が強まり、政権が脆弱化した。
そのため、王家の血を引き、リベカの血を引いていなかった、ノアの血を引くものこそが王にふさわしいという、「ノア派」が誕生したり、ガリルトとの関係が悪化したりしたのだ。
隣国であり、敵国の、マスグレイヴの侵攻や、王位を継げるのが桜空だけというのも、状況の悪化に追い打ちをする。
マスグレイヴの侵攻に関してだが、バノルスはその都度、リベカの血を引く王家が前線に立ち、その魔法で、国を守ってきた。
魔法は、マジカラーゼの種類で六種類に大別でき、それがどの魔法を使えるかという、適性にかかわるが、リベカの血を引く王家、つまり、フローラ以降の王家は、すべての属性を使えた。
また、魔法はマジカラーゼによって、マジカリウム、ポリマジカリウム、総称して「魔力」を産生して、ポリマジカリウムを排泄することで発現するが、リベカや、フローラ以降の王家は、その魔力が強かったらしい。
そして、強力な魔法道具である、神器は、全属性に適性がないと使えない。リベカや、その血を引く王家は、みな全属性に適性があったため、神器や、様々な魔法を使えた。
だからこそ、前線に立ち、防衛することができたのだろう。
ただ、その分、体への負担が強い。そのために短命だとも、桜空は考えている。
マスグレイヴが攻めてこなくなる保証はない。しかし、王家は存続の危機。ガリルトとの関係も悪い。
だからこそ、桜空とリベルの結婚は、数少ないバノルスの吉報で、国を安定させるきっかけになるはずだ。
二人も互いに愛し合っていて、この難局を、乗り越えられるだろう。
そう、わたしは思った。
桜空も、同じ気持ちだった。
※
翌日は早めに起き、すぐに母上と朝食を済まして、その後に、成人の儀、婚礼の儀をすることになっていた。
いつもの朝のように準備をして、召使いさんたちに挨拶しながら、母上の部屋の前に立つ。
ノックをすると、中から「どうぞ」と返事がし、ドアを開ける。
「母上。おはようございます。よく眠れましたか?」
母上は、ベッドの上で体を起こして、書類をあさっていた。いつも通り、私が来るまで雑務をしているようだった。
「おはようございます。サラファン。ちょっと緊張してしまって、少し眠りが浅かったかもしれません。ですが、体調は大丈夫なので、心配しないでくださいね
……それよりも、サラファン。お誕生日、おめでとうございます」
それを聞いて、何のことかと思ったが、なんてことはない、今日は、私の誕生日だ。
ステラ三年十四月十四日。それが私の生まれた日。
今日は、それから十五年がたつ。
私が大人になる日。
そして、リベルと結ばれる日だ。
「ありがとうございます。まあ、だからこそ、今日、成人の儀と婚礼の儀をするのですけどね」
母上はうれしそうに微笑む。
「そうですね。今日からサラファンは大人の仲間入りで、妻にもなるんです。まだ私もいますから、サラファンの成長とか、……子供とか。すごく楽しみにしてますよ、サラファン」
上機嫌のためか、軽口を挟んでいて、母上の調子はかなりいいように思える。
それは、当然のことかもしれない。
子供の成人の儀、婚礼の儀を見られたのは、王家では、リベカ様の娘である、フローラ様以来のことなのだから。
リベカ様や、フローラ様より後の王は、皆、子が成人する前に、崩御されてしまったのだから。
娘の晴れ姿を見られることに、幸せを見出しているのだろう。
今日一日、母にとって、幸せの一日になるはずだ。
そして、私の子供が生まれたら。
孫の顔を見るのも、母にとって幸せの一ページになるだろう。
だからこそ、希望に満ち溢れて、顔をほころばせているのだろう。
母上につられて、私にも笑みが浮かぶのは、当然だった。
今日は、私にとっても、人生の中で一番になるくらいの、幸せの一日になるのだから。
「楽しみにしていてくださいね、母上。でも、まずは、今日の儀式の私の晴れ姿を楽しみにしてくださいね。
最高の幸せを届けますよ」
娘の晴れ姿を見る。
当たり前のようで、当たり前でない幸せを、母上は楽しみにしていたに違いない。
その願いを、叶えることができる。
これほどの幸せは、なかなかない。
「ありがとうございます、サラファン。
サラファンも、最高の時間を楽しんでくださいね。
……リベルとも、ね」
最後の一言で、夫婦で一緒に過ごすことの意味を思い出し、気恥ずかしくなるが、それもまた幸せの一つなので、その時が、その先にあるさらなる幸せが。
今はただ。待ち遠しい。
その時の私は、そう思っていた。
その時の時間の一つ一つ、そのすべてが、幸せだった。
愛する人と一緒にいられて、愛されて。
大変ではあるけれども、未来が、希望で輝いていて。
すごく、幸せだった。
そして今も、その幸せに浸りたい。その日々が恋しい。
そんな幸せが、永遠だったらいいのに。
本気で、そう思う。
……五月には、悪いけども。
※
成人の儀、婚礼の儀は、ペトラ礼拝堂で執り行われることになっていた。
私は、母上との朝食を済ました後、ペトラ礼拝堂の一室で、着替えなどの最後の準備をしていた。
私が着る純白のドレスは、美しく輝き、それがあるだけでも人を魅了する。それだけでなく、今まで貴族の婚礼の儀に出席したことがあるのだが、そのドレスは、着るもの皆を美しく、可憐にしていた。最高のドレスで、彼女らに最高の時間を与えるもののように思った。
それを私が纏う。皆にとっての最高の時間を、私も味わう。
それを、母上に見てもらえる。リベルに見てもらえる。
その至福の時を、今、迎えようとしている。
着替えを済まし、鏡で私の晴れ姿を見る。
純白で、ふんわりとしたドレスをまとった私は、まるで、幼いころ読んだ絵本に出てくる、白い妖精のようだった。
厳かで、美しくありながらも、可愛らしい。
自分でいうのも変かもしれないが。
私が一番、輝いているように思った。
「姫様。そろそろ時間になります。準備はよろしいでしょうか?」
ノックの後、サムエルの声が届く。
いよいよ、成人の儀、婚礼の儀が始まるのだ。
「……はい」
返事をして、扉に向かい、開けると、案の定、礼服を着たサムエルが私を呼びに来ていた。
「……ご立派に、なられましたね、姫様」
私の晴れ姿に、目を奪われているようだ。それだけでなく、私が小さいころから見ていたサムエルは、その成長がうれしいのだろう。
「ありがとうございます、サムエル。
……では、参りましょうか」
サムエルの後ろについて、礼拝堂の入り口に向かう。
そこに着くと、礼拝堂から、オルガンによる前奏が聞こえてきた。
成人の儀が始まったのだ。
成人の儀、婚礼の儀は、正式な礼拝の方法で執り行われる。普段の祈りは神であるガリルトにこちらから話しかける形式だが、正式な礼拝は、ガリルトとの会話形式になっている。具体的には、前奏を聞き、讃美歌を歌い、聖典を読み、祈り、説教を聞き、献金をし、再び祈り、讃美歌を歌い、後奏を聞くというものだ。
この礼拝の中で、洗礼を組み合わせることで、ガリルトに成人したこと、結婚したことを伝えるのだ。
前奏を聞いていると、曲が盛り上がってくる。
「……姫様」
サムエルが小声で合図をする。
いよいよ、礼拝堂に入る。
「サムエル。ありがとうございます。行ってきますね」
そう声をかける。
礼拝堂に入る扉が開く。
そして、私はオルガンの演奏の中、長椅子に座る参列者に見守られて、前へと進んだ。
壇上には、母上の姿が見える。私の晴れ舞台だからか、久しぶりに椅子に座った姿を見せている。
母と目が合う。母は目を細め、笑みを浮かべていた。私もつられて顔が綻ぶ。
私の晴れ姿を見られて、一言では言い表せないほどのよろこびを抱いているのが分かった。それぐらい、うれしそうだった。
私もつられて顔が綻ぶ。
晴れ姿を見せられて、とても幸せだ。
その脇には、全部で十二ある省の長が座っていた。
財務省の長で、私の父のペテロ、経済省の長で、私の祖父のヨハネ、公安省の長、アンデレ、外務省の長、バルトロマイ、法務省の長、ピリポ、宮内省の長、マタイ、農林省の長、トマス、国土省の長、タダイ、水産省の長、アルパヨ、総務省の長、シモン、魔法省の長で、リベルの父、ゼベダイ、軍事省の長で、ノア派の筆頭、ユダ。
この者たちが、バノルス王国の幹部ともいえる。このうち、トマスから順番に、ユダまでがノア派の者である。また、ゼベダイはユダの弟子である。
その者たちの視線を浴びながら、私は壇上へと向かい、あらかじめ私が座ることになっていた席へとたどり着く。
ほどなくして、前奏が終わり、それを合図に私は座る。
そして、壇上の机の前に、式を取り仕切るマタイが向かい、礼拝堂にいる一同を一瞥する。
「これより、成人の儀を始めます。讃美歌、第六判第二十四節」
マタイの言葉で、母上を含めた礼拝堂に会する皆が起立し、オルガンの伴奏に合わせて讃美歌を歌う。ガリルトを褒めたたえる歌詞と曲の組み合わせによって、礼拝堂は厳かな雰囲気に包まれる。
歌い終わると、次に聖典をマタイが代表して読み、その場にいる私も含めた全員が、手元の聖典の該当する箇所に目を通す。
聖典に記されているのは、ガリルトから魔法を授かったころの神の言葉や、人間のやり取りとされているが、詳しいことはわからない。ただ、それが人々を導く道標になっているのは確かで、礼拝形式でもある成人の儀、婚礼の儀で読まれるのは当然のことだった。
そして、今読んだのは、ガリルトから魔法を与えられた人間が、魔法を使えない人々を導く決意をするという、節目に読むことが多い箇所だった。
魔法を得た人間は、魔法を使えない人々を導き、豊かに暮らした。この魔法を使えるものの子孫がガリルト神王国、バノルス王国を築き、魔法を使えない人々は、マスグレイヴ帝国を築いたともされる。だからこそ、ガリルト、バノルスは魔法が発展する一方で科学は未発達、マスグレイヴはその反対になったともいわれているのだ。
このせいで、マスグレイヴを差別的に見るものも、ガリルトやバノルスでは一定数いるが、この伝説のように、今度はバノルス国内、そしてガリルトとマスグレイヴとも分かり合えて、ともに発展していけたら、どんなにいいことか。
反発が出る考えかもしれないが、私は今日成人し、結婚するのだ。双方にとって悪くない選択だと思えば、それを実現するために尽力しよう。
その思いを新たにする。
※
「祈ります」
聖典を読み終えると、マタイの指示で、皆が目を閉じて手を組み、祈りの態勢を整える。
そして、マタイが祈りの言葉を述べる。
私が成人すること、結婚することを交えて、その幸せが守られること、国をより良い方向へ導けるように成長すること、国の繁栄、平和などを祈った。
祈りが終わると、次は洗礼をすることになっていた。
つまり、私が成人したと、認められることになるのだ。
「それでは、ただいまより、洗礼を始めます。
王女、サラファン・トゥルキア・バノルス、前へ」
いよいよ、成人の儀の中心となる、洗礼を始める。
「はい」
私は返事をして、壇上の机の前に行く。机の反対側に立っていたマタイは、机に置いていた小さなボウルを持って、私のいる側へと移る。
そして、マタイがボウルの中の水に手を付ける。
そのまま私の頭につけ、頭を濡らすというのを数回することで、洗礼とするのだ。
いよいよ、頭につき、成人と認められる――。
その時だった。
「マジカル・デリート」
その声と同時に。
ドーン!
爆音が響く。
その衝撃に巻き込まれ、吹き飛ばされる。
「ぐはっ……」
壁にたたきつけられ、意識が遠のく。
「ネヴァー・ブレイキング・シールド!」
母上の叫び声。白魔法の壁を建てようとしたみたいだ。
しかし。
パーン! パーン!
何か破裂したような音が響く。
その瞬間、参列者の席の方が、光った気がしたかと思うと。
「あっ……。ぐっ……」
肩や足に強い痛みが走り、思わず呻く。見ると、血で純白のドレスを紅く濡らしていた。
……ありえない。
母上の魔法ならば、私の体に傷をつけられることはない。
それが、傷ついている。魔法が発現していない。
いくら体の弱い母上とはいえ、魔法を発現できないはずがない。
母上も驚いたようで、何度もその呪文を叫ぶのが聞こえる。
私もその魔法を叫ぶ。
何度も。
傷を治す黄魔法、痛みをとる、複合魔法も使おうとする。
何度も、何度も。
それでも、魔法が発現する様子はなく、手にも痛みが走り、血が流れる。
「なんで……」
魔法を使えないのだろうか。そもそも、体の中で魔力を練っている感覚がまるでない。
魔法を使うときは、多少はその感覚はあるが、その感覚がなく、魔法を使えそうもないのだ。
おそらく、ポリマジカリウムを産生できていない。
それに、直前に聞こえた、「マジカル・デリート」も気になる。
だが、それに気を取られている場合ではない。
この状況は、かなり危ない。魔法を使えなくては、こちらが一方的にやられてしまう。
殺されてしまう。
私が、母が、みんなが。
そのことは、国が滅ぶことも意味する。
すべてが無に帰する。
その想像が頭に浮かび、背筋が寒くなる。
それはだめだ。
とりあえず、すぐそばの母上とこの場から離れようと思った。
「母上! ひとまずここから離れましょう! このままでは、一方的にやられるだけです!」
母上も頷く。
「そうですね。サラファン、ひとまず控室に逃げましょう。
……話は、それからです」
父上も含めた、省の長達とも避難したかったが、まずは王と王女の私たちの安全が先決だった。
私と母上は、壇上の端にある扉から、控室に入る。
依然予断を許さぬ状況で、気が抜けない。
「はあ、はあ、はあ……」
しかし、母上の息遣いが荒い。
「母上、大丈夫ですか?」
今それを聞いても意味ないのに、母上に聞いてしまう。
「だ、大丈夫です……。ちょっと、はあ、はあ……、疲れてしまって……。そ、それより、さ、サラファン、大丈夫なのですか、その怪我……」
母上は、私の傷に気付いたようだ。
「今のところは大丈夫です。それよりも、早く反撃しないと! このままでは殺されます!」
しかし。
母上は、懐からイオツミスマルを取り出すと、私に手渡した。
「持っておいてください。私より、サラファンが持っているべきです。イオツミスマルの空間にはヤサコミラ・ガリルトもあります。
……それを持って、ここから、早く、逃げなさい」
……。
……え?
「な、なにを言っているのですか? 神器は王のもので、最近では神器を持つものが王とみなされているともいわれているのですよ? それを私に渡すなんて、王位を譲ることと同義です! そんなの、今やるべきことじゃない!
それに、母上は? 私が逃げるのですから、母上もそうですよね?
でも……」
「いい加減にしなさい!」
私の必死の反論を、母が一喝する。
思わずひるみ、反論が止まる。
「魔法を使えなくなった私たちでは、反撃するのは無理があります! それぐらい、サラファンにもわかるでしょう? いくら公安省の警備があるといっても、魔法が使えない中では、こちらが圧倒的に不利です! それに、その中でもこちらを襲撃できているということは、何かしらの科学的な兵器に違いありません!
これでは……、こんなこと、言いたくないですが……」
母の顔が、悲痛に歪む。
こちらから反撃しようにも、なぜか魔法を使えない。
科学的な兵器を使われている。
その中で、科学的には遅れているうえに、警備にあたっている公安省のほとんどは、魔法で警備をしている。
勝ち目など、ない。
国の中枢のものが、そう言っては駄目だが、こちらから状況を好転させる手段が、ない。
……逃げるしかなかった。
ほかのみんなを、国民を、見捨てて、逃げるしか、この国を存続させられない。
王族である私や母が、死んでしまうわけにはいかない。
……国民を失った国など、国といえるかは甚だ疑問だけれども。
しかし。
「確かに、その通りです。
ですが! なぜ神器を私に渡すのですか? 母上も逃げるのですから、私に渡す必要などありません!」
母もまずはこの場から逃れて、反撃の機をうかがう。
そうするはずなのだから、神器を渡す必要など、無い。
「……私も、精一杯、頑張りますよ。
ですが……、もう、走れそうも、ないんですよ……。逃げられそうにないんですよ。
だから、今のうちに、渡した方が、いいと思ったんです」
母は、寝たきりだった。それを、今日は無理しているといえる。
そして、先ほどの母の息遣い。
……体が、耐えられない、言うことを聞かない、動かない。
それは、つまり。
母は、逃げられないということ。
ほぼ間違いなく、捕らわれるということ。
最悪……。
でも、そんなの、認めたくない。
諦めたくない。
「母上、しっかりしてください! ここで諦めては駄目です!」
「しっかりするのはあなたです、サラファン!」
私が再び反論しようとするが、またしても一喝される。
「なんですか? 私を負ぶってでも逃げようというのですか?
そんなの、敵に追いつかれます! もし私たち全員捕まったら、この国は終わりですよ?
そんなのいいのですか? いいわけない!
だから! ……一番、生き残れる、あなたが、持っていてください。
……あなたの晴れ姿、見られて、本当にうれしかった。
私も見られないと思った。
でも、見られて。
あなたに会えて。
私は、本当に。
幸せでした」
この瞬間に幸せだったと言った母の顔は。
涙を流しながら。
今まで見たことのないような、最高の笑顔をしていた。
「は、母上……」
でも、今生の別れのように思えて。
母が、自分の死を受け入れているように思えて。
素直に、受け入れられない。
「そんなこと、言わないでください。大丈夫ですよ。私たちは、みんなは助かります。
だから……」
その時だった。
扉がぶち抜かれ、その穴から火花が発せられ、同時にパーンという音もする。
「ぐっ……」
母が、呻き声をあげる。
腹のあたりが、紅いもので染められていく。
「母上!」
すぐさま母に駆け寄る。
しかし。
不意に体を押されたかと思うと、私は地面を転がる。
またパーンと音が響く。
母の肩からも赤く染まっていく。
母の足元は、まるで、紅い海のようだった。
「……い、いきなさい! は、早く……! わ、私は、だい、じょう、ぶ、です……!」
大丈夫なわけがない。
「早く! サラファン! いきなさい! こっちを見るな!」
しかし、母は、最期の力を振り絞って、乱暴な言葉を使ってでも、私を逃がそうとする。
だから。
逃げるしかなかった。
母を見捨てることと知りながら。
……見殺しになることを知りながら。
結局、私は。
何もできない、ただの女だった。
でも、最期くらいは、別れの言葉を伝えたかった。
「母上……。今まで、……ありがとう、ござい、ました……。
もっと、一緒に、過ごしたかったです……」
涙声になる。
もう、母と会えるのは。話せるのは。
最期だった。
「……さよなら!」
そう言い残し、母に振り返らず、隠し通路に抜け、私は走り始めた。
背後では、何度もパーンという音が響いていた。
誰かに気付かれないうちに、逃げようと必死だった。
母上を置いて。
誰かが追ってくる気配を、感じることができなかった。
それでも、追いつかれたら殺されるはずなので、逃げるしかなかった。
国が滅びないように。
母上のために。
私は最後まであがく。
次回の投稿は、令和二年一月二十四日です。