第二十五話
「っざ、けんなよ!」
荒い声を上げながら、リディアリアを睨みつけてきた。
「それは、こっちのセリフ」
思ったよりもアストの体力が持ったことで、地面の至る所にリディアリアの血が付着していた。避けている最中に吐血したせいで、着ていた服も真っ赤に染まっている。脇腹はすでに感覚を失ってさえいて、手足の先も冷え震えが止まらない。
立っているのもやっとだった。
それでもリディアリアは力を振り絞って魔法を行使した。
(チャンス! 逃しは……しない!!)
「《魅了》、短剣を手から離し、意識を手放しなさい!」
魔力が魔法として、魔核を通して体外へと放出される。これをきっかけとしてピシリと大きな亀裂が魔核へ入ってしまったのを感じた。
(ライトニングが来るまで持つかな。持って、欲しいな)
魔法には最低限の魔力しか使っていない。《魅了》という魔法を覚えたての子が使ったような、子ども騙しのような威力しか持ち合わせいない。それでもリディアリアは一縷の望みにかけるしかなかった。
アストは膝をついても決して離しはしなかった短剣から、ゆっくり、ゆっくりと手を離していく。カランと渇いた音が静寂な森に響いた。意識はリディアリアの魔法によって、暗闇へと誘われていく。
(そのまま落ちて。お願い)
もう魔法は使えそうになかった。だから祈るしかない。
しかしその瞼が落ちようとしたとき、アストは思ってもみなかった行動をとった。
「う、そ……」
地面へ落ちた短剣を震える手で拾うと、瞼が落ちるその瞬間、己の足を刺したのだ。痛みによる呻き声を上げるものの、その声には嬉しさが混じっていた。その証拠に口元に歪な笑みを浮かべている。
「残念、だった、なァ?」
「っ……」
普段のリディアリアの魔法ならば、即効性で効果が切れることなくアストは意識を失っただろう。しかし今回の魔法は子ども騙しのような魔法。いくらアストが精神的にも身体的にも疲労が出てきたところで使っても、リディアリアがタイミングを計り違えてしまえばその効果は薄くなる。
タイミングを計り違えたつもりはなかった。魔力が今一歩のところで足りなかったのだろうか。
「魔核を奪うまでは、死んでも死にきれねェンだよ!!」
(いや、違う。私が計り違えたことが一つだけある。この男の魔核への執着心だ)
アストの戦い方からして、魔術を使う者ではないことはわかりきっていた。そして魔核を売って金持ちになりたいことも。けれどそこの部分にまさかこれだけの執着心を持っているとは思ってもみなかったのだ。
ゴホリと血を吐きながら、気持ちの悪い咳をする。
(もう魔法は使えない。これ以上使ったら……確実に魔核が壊れる)
大きな亀裂が入ってしまった以上、何がきっかけで壊れてしまってもおかしくはない状況にある。ただでさえ、半壊している魔核を酷使している状態なのだ。むしろ使わなくても壊れる可能性は高い。
(せっかく魔物が魔族に戻れるってわかったのに。まだ確証はないけど、この事実によって、新しい魔核を私の中に入れたら生きれる確率が上がったのに)
これではここまで来た意味がない。
悔しくてたまらなかった。
短剣を刺した足を引き摺りながら、脇腹を抑えたまま逃げるリディアリアの後をアストは追ってきた。追いつかれるのも時間の問題だろう。
そう思いながらも、諦めることだけはせずにただライトニングたちの方へ向かっていると、ここにいないはずの魔族がリディアリアの元へ走ってくる姿が見えた。
黒い髪に、魔族特有の赤い瞳。
それは大好きな魔王、ディティラスのもので。
「でぃ、てぃ……」
もしかしたら、幻覚を見ているのかもしれない。それでももしかしたら、と名前を呼んでしまう。ディティラスはそれに応えるかのように顔を歪ませながらリディアリアの体を己の体で包みこんだ。
「ほん、もの?」
幻覚だと半ば本気で思っていたリディアリアは、見覚えのある感触と慣れ親しんだ匂いに、思わず尋ねてしまう。
「当たり前だ」
「そっか」
それは紛れもないディティラスの声だった。
「馬鹿者が。こんな体にまでなって」
「ごめ」
「謝るな。気付かなかった俺も悪いんだ。ライトニングから事情は聴いた。それとこの状況もな」
どうやら余命のことを知られてしまっているらしい。そのことにライトニングへの苛立ちと、もう隠さなくていい安堵の気持ちが胸の中に広がっていった。
リディアリアを片腕に乗せ、その姿をアストから見えないよう、羽織っていた外套でリディアリアの姿を隠してくれた。外套越しにアストの耳障りな声がした。
「だれだ、テメェ」
「俺が誰かなんて今はどうでもいい。こいつを害したのは貴様だな」
「へっ、それがなんだって」
アストが最後まで言い終わることはなかった。
「ならばここで死ね、と言いたいところだが、その左手を見る限り生かされているのだな。生かしてはやるが、楽に生きていられるとは思わないことだ。《人形》」
吸血した者を一時的に操ることができるヴァンパイアの種族魔法《人形》。アストの血を吸っていないにも関わらず、ディティラスはこの魔法をアストに対して行使した。これこそがアストが魔王となった所以ともいわれている。
血を吸っていない相手を己の意のままに操ることができる。男女の差も種族も関係なく、だ。そしてディティラスの魔力は魔族随一。敵うものがいるはずもなかった。
外套に隠されているせいで、状況把握は難しい。それでもアストが急に静かになったことから、意識を混濁かなにかさせたということだけはわかる。
「リディ」
アストをいとも簡単に無力化させると、ディティラスはリディアリアに被せていた外套を取り、地面へと敷いた。その上に壊れ物を扱うかのような仕草でリディアリアを寝かせる。
「ディ……っごほ」
ディティラスの名前を呼ぼうにも、血の混じった咳が邪魔をして、呼ぶことすらできない。ならばとディティラスに触れようと手を動かしてみるも、ぴくりと指先が動くだけでいうことを聞いてはくれなかった。
そんな些細な動きディティラスは見逃さなかったのだろう。ディティラスはリディアリアの手を両手で握りしめてくれた。
「大丈夫だ。すぐにライトニングたちも駆けつけてくる」
視線をディティラスからスノウマリーに行くよう指示した方角へと向ければ、その方向から誰かが走ってくる姿が見えた。けれどすでに視界がぼやけているリディアリアにはそれが誰なのか検討もつかない。
それでもリディアリアの近くへきてすぐさま声をかけてきたことから、ライトニングであることが判明する。遅れてルナの声を聞こえてきた。
「リディアリア、死なせはしません」
「リディアリア様っ!!」
青い光がライトニングの手を通してリディアリアの体を包み込む。それはリディアリアの負った傷を徐々に治していってくれた。
(でも……)
リディアリアは心の中に呟く。
(魔核はもう壊れてしまう)
ライトニングの魔法によって、体の治療が開始された。だから魔核の崩壊も止まるかと思っていた。
しかし一足遅かった。
体の傷が癒えても、魔核のヒビが治ることはない。そしてヒビが入る音が鳴りやむこともなかった。
パキリ、ピキ。
ガラスにヒビが入るような独特の音を立てて、魔核に複数のヒビが入っていく。
そのヒビ同士が結合し――ついに砕け散ってしまった。
 




