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三十と一夜の短篇

おでんとコミュニスト(三十と一夜の短篇第20回)

作者: 実茂 譲

 うちの社長はほんもののキチガイでね。いや、たまったもんじゃないよ。社長は常人じゃ考えつかないようなことをやってのけようとするし、それをやれと僕らにも命ずるんだが、常人では到底思いつかない命令なわけだから、僕ら正常なサラリーマンたちには社長の意図するところがさっぱりなんだ。おまけにに白鯨モビィ・ディックの兄弟分みたいにでかくて凶暴だから、怒りだした日にゃ手もつけられぬ。ぶん殴られないようせいぜい気をつけなきゃいけないのだ。まあ、うちの社長のキチガイ話なんてくどくど言っても仕方ないけど、そんな話に付き合わされるのも、おでん屋の宿命とあきらめてくれたまえよ。そんなわけで、もう一本、燗をつけてくれ。――まあ、社長の場合、生い立ちからして狂ってるんだから、どうしようもない。社長の母親ってのは生まれて間もない社長を橋の上から捨てちまおうとしたのだけど、というのも、そこらの大道の売卜うらないしに、この子には狂相がある、と言われたからだそうなんだ。つまり、顔を見て、将来キチガイになるって教えたのだ。なるほど、卦読みのジジイは間違ってなかった。社長は正真正銘のキチガイだからねえ。だけど、占い師に言われただけで、自分の子どもを橋から捨てるかい、普通? 捨てたりしないだろう? ましてや、純粋無垢な赤ん坊のころの話だ。いくら、売卜風情が狂相狂相と繰り返したところで、自分の子どもは珠のようにかわいいものだろうに、社長の母親はそれを捨てようとしたんだからねえ。キチガイは血筋なんだよ。

 社長って生き物はだいたい会議と称して部下を集めてだね、何か大きなことを言って、会社を引っぱるわけで、これは三井の総帥だって同じことなのだけど、問題はキチガイの度合いだよ。うちの社長は部下をみんな集めるとある日、突然言ったんだ。わが社はこれからバナナを売る! そう言ったんだ。うちは確かに果物会社だけど、商ってたのは津軽のリンゴであって、バナナじゃない。だいたい、バナナなんてすっかり台湾バナナの独走体制だから、僕らの会社が入り込む余地なんて、これっぽっちもありゃしない――ああ、燗酒が染みるねえ。体があったまる。ちょっとその蛸をくれ。あと昆布も。で、何の話だっけ? ああ、そうそう。社長がバナナを売り出すとか言い出した話だ。知っての通り、バナナと言えば台湾、と言われるくらい、日本のバナナ市場では台湾バナナが強い。独自の販売組合を持っていて、小売店に確実なバナナの供給を約束しているから、我々に入る余地はない。だいたい、台湾のバナナ農家は誰一人、僕らにバナナを卸したりしない。そう言いたかったけど、社長はまるで狂犬みたいによだれを垂らしながらバナナを売るんだっていい続けた。レスラーみたいな社長がそう言ったら、誰も逆らえない。キチガイな上になまじ膂力があるから、逆らった日にはぺしゃんこにされる。でも、僕は仕入れ担当だったから、きかずにはいられなかった。いったい、どこでバナナを仕入れるつもりですって。そうしたら、社長はまるで楽園を見るようなうっとりとした顔をして、フィリピンだ、とのたもうた。フィリピンなんて支社もないのに、どうするんですかと言ったら、社長は自ら買い付けに行くというんだ。もちろん、僕は仕入れ担当だからついていかねばらなないわけだけど、問題は英語だった。僕は多少使えたけど、社長はからっきしでね。社長に英語はどれだけ分かります? ときいてみたら、ワイフとオタンチン以外は分からんと返ってきた。社長はワイフとオタンチンの二つだけを駆使して、フィリピンへバナナを買い付けに行くつもりだったんだ。キチガイの考えることはさっぱり分からない。あ、飛竜頭がんもどきと巾着をくれ。それと燗を温めでもう一本。

 とにかく、僕は社長と二人、南洋行きの客船〈るそん丸〉に乗って、フィリピンへ向かった。フィリピンと言えば、米国の領土だから、船にはアメリカ人がたくさんいたけど、社長がアメリカ人を見つけるたびにワイフ! オタンチン! ワイフ! オタンチン! と繰り返すもんだから、こっちは赤面ものだよ。社長はそれが素晴らしい挨拶か何かだと思っていたけど、ざっと言ってみれば、お前の女房はオタンチンだと言ってるようなもんだからねえ、アメリカ人たちが本当の意味を知らなくてよかった。いくら、社長がガタイがよくても曲馬団サーカスの怪力男みたいなアメリカ人が十人くらいでかかってきたら、さすがに敵わないだろう。さて、大した事件もなく、無事フィリピンに着くと、社長は港へ走ってくる機関車に目をつけた。というのも、荷台には青々としたバナナがたくさんあって、それを土民たちがひいひい重そうに背負い込んで、貨物船に入れていた。社長はその機関車が走っていた線路を逆にたどっていけば、バナナの農園につけるぞ、と言い出した。そんなことしないで、馬車でも雇えばよかったのに、社長は歩くと言ってきかない。駄々っ子みたいなもんさね。線路を辿って、確かに大きなバナナ農園に着いた。見渡すばかりバナナの木が生えていて、持ち主はバックナーというアメリカ人だった。社長がワイフ! オタンチン!と叫ぶのはそのままにして、僕はバックナーにおたくのバナナを買いたいと話を持ちかけた。すると、親切にもバックナーはぜひ自分のバナナ農園を見て欲しいと言い出した。いま、思えば、やつが見せたかったのは、バナナじゃなくて、別のものだったんだけどね。やっこさんのバナナ畑は木と木のあいだに隙間なんてほとんどなくて、その道と来たら、恐ろしく狭くて、僕らが乗っているフォードのTがぎりぎりで通れるくらいの幅しかなかった。まるで緑のトンネルのようだった。畑はひどく甘ったるい臭いがした。何だか、いやな臭いだったんだが、樹を見上げると、冷たくてぶよぶよしたものが顔に当たった。僕が驚いて声を出すと、バックナーはきみが今、触れたのはコミュニストの足だよ、と言い出す。まったく信じられない話だけど、バックナーのやつは自分のところで働くフィリピン人をバナナの木に吊るしたんだ。吊るされた連中はみな子どもみたいに小さくて、白い穴だらけの服をつけていた。僕の顔に触れたのは、死体の足だった。社長は、このオタンチンにどうしてこいつらを吊るしたのかきけと言ってきたのできいてみたが、バックナーは肩をすくめて、こいつらはコミュニストだ、と言っただけだった。バックナーはストライキを企むコミュニストを吊るすとバナナが甘くなると悪趣味なことを言っていた。もっと吊るせるコミュニストが自分の農園にいないことが残念だ、バナナを甘くておいしいものにできるチャンスがないのと同じだからな、とゲラゲラ笑うのだからタチが悪い。警察もフィリピン土民を吊るして、バナナの値段が上がるなら構うこたないと野放しにしてる。めちゃくちゃなところに来てしまったなと思ったもんだ。でも、どうだろう。親爺も屋台にコミュニストを吊るせば、だしの旨味が増すかもしれんよ――おお、怒ったか。許してくれ。フィリピンはバックナー仕込みのアメリカン・ジョークさ。

 ともあれ、車は農園から屋敷のほうへ戻り、商談が始まった。社長は英語が分からない、バックナーは日本語が分からない。一応、僕が通訳としているんだけど、あの二人は自分の言いたいことを自分の使える言葉でひたすらがなり立てていて、ちっとも商談は進まなかった。僕が通訳してもきく耳を持たず、どんどん雰囲気が険悪になってきて、なんだか狂犬病にかかった犬が二頭、喉を嗄らしてわめき散らすのと大差がなくなってきたんだよ。こりゃ、どっちかが死ぬかもしれんな、と思い始めたころになって、急に二人の態度が変わった。肝胆相照らす仲にでもなったみたいにお互いの肩を叩き合って、無二の親友みたいになり出した。どうして、そんなになったかって? さあ、僕は知らんよ。でも、社長はキチガイだからねえ。キチガイに普通の人間の筋道を当てはめようとしても無理がある。キチガイってのは怒っていたかと思ったら、急に機嫌がよくなったりするもんだ。その逆もしかり。僕が思うに、キチガイ同士相通じるものがあったんだろうねえ。相手のバックナーだって、バナナの木に小作人を吊るして、バナナが甘くなるだなんて言う手合いだ。キチガイに決まってる。ところで、だしの染みた卵はないかい? ――ある。じゃあ、もらおうかな。すっかり体も温まったよ。しかし、フィリピンって土地は恐ろしい土地だよ。僕と社長はそれから二十余りのバナナ農園をまわって買いつけ契約を取ってきたのだけど、どの農園主もバックナーとどっこいどっこいのキチガイばかりだった。そのキチガイどもからかなり有利なバナナ買い付け契約を取ってくる社長も相当なもんだけどねえ。そういうところは素直にすごいと思えてくる。何せ、社長の使った英語はワイフとオタンチンだけなんだから。そもそもオタンチンは英語じゃないんだけど、社長はキチガイだからね。気にせんのさ。そんなこと。

 さて、わが社のバナナはいよいよ出荷のときを迎えた。フィリピンからやってきた貨物船には青々としたバナナが詰まっている。バナナっていうのは南の果物だから、南にいけばいくほど甘くなる。そして、フィリピンは台湾より南にあるというわけだ。――え? じゃあ、南極のバナナはもっと甘いのかって? 南極にバナナが生えるわけがない。馬鹿を言っちゃいかんよ。いや、馬鹿なのは社長のほうなんだな。本社で部下が一同に会したけど、みなわくわくしていた。最初はフィリピンのバナナを売るなんて不可能だと思っていたけど、それが実現することがはっきりしてくると、やはりみな嬉しさ半分でそわそわしてしまう。こっちは台湾バナナの牙城を切り崩すつもりでかかっていた。台湾バナナの四五〇グラム八銭に対し、我々のフィリピンバナナは五〇〇グラム七銭で提供できる。『バナナは台湾』から『バナナはフィリピン』と日本中で言わせる日は確実に、利札が払い込まれる優良社債の満期みたいにじりじり近寄ってきていた。喫緊の問題は商標だった。何せ社運をかけたバナナだから、とてもおいしそうで異国情緒を感じさせる素晴らしい名前で売り出す必要があった。果実は真珠のように白く、皮は天鵞絨のようにしっとりしていて。もう、我々は小売店販売組合を主要都市に設けて、ミルクホールや果物屋、百貨店、たたき売り香具師の連中へのバナナ供給の準備もしっかり詰めた。だから、社長がわが社のバナナの商標を『杜撰ずさん』と名づけたときは何かの聞き間違えかと思ったもんさ。専務が言った。

「あの、社長。ずさんというのはいいかげんとかそういう意味で使われるあの杜撰ですか?」

「そうだ。あの杜撰だ」

 どうしてそんな名前つけたんですか、ときけるだけの猛者はいない。社長は狂暴だからね。で、やんわり遠回しにきいてみた。

「そんな名前をつけてしまうと、わが社のバナナがいいかげんなものだと思われないでしょうか?」

「じゃあ、漢字ではなく、カタカナでズサンにすればいい。ズサンとはフィリピン語で『うまい』という意味だ」

「でも、フィリピン語に詳しい人がいたら、ばれてしまいますよ」

「そんなやつ、いるわけあるか。たわけ。わしはフィリピンに実際行ってみたが、しゃべってるのはみんな英語ばかりだ。フィリピン語など、どこにも使われていないんだからばれる心配は無用だ」

 そうなんだ。台湾バナナを薙ぎ倒し、今の世に出回った流行のズサン・バナナはこうやって生まれたんだ。仕事でフィリピンに行く日本人は何か食べると『ズサン、ズサン』と笑いながら食べているかもしれない。社長も罪なことをするよ。

 でも、どうして社長はバナナに杜撰なんて名前をつけたがったんだろう? それはみんながみんな不思議がった。社長はなるほどキチガイだ。ただ、バナナに杜撰と名づける異常さは社長の異常さとマッチングしない。誰かに噛みつくとか、電柱に登るとか、そういうキチガイ沙汰なら分かるけど、バナナに杜撰と名づけるなんて、社長にしては大人しすぎる。

 で、社長にたずねた。なぜ、杜撰なんて名前なんですか? 社長は立ち上がると、会議室の片隅に置いてあったバナナの房を持ち上げた。それはもう黄色く熟れた食べごろのフィリピン杜撰バナナだったんだけど、それを一本ずつ房からちぎっては僕らに配り始めたんだよ。そして、社長はバナナを耳に近づけろ、と言って、電話の受話器みたいにして、黄色い反ったバナナを耳に近づけた。みなが面食らって戸惑っていると、社長は怒り狂ってわめき散らし、バナナの声をきけ! と来たもんだ。社長にはバナナの声がきこえるらしい。とにかく、僕らも電話の受話器みたいにしてバナナを耳に近づけるけど、もちろん何もきこえないさ。よせばいいのに、誰かが社長にどんな声がきこえるんですかとたずねたときの社長の顔、そして、声は今でも忘れられない。社長は吊るされたフィリピン人みたいに顔を歪めて言ったのだ。バックナーのコミュニストが叫んでいる。悲鳴を上げている。バナナの木は血のように赤いザラメのごとき養分を吸い上げてはその実に注ぎ込む。その音はまさしくバックナーのコミュニストの断末魔の声なのだ。社長は言い終わると、僕のほうをクルリと向いて、お前はきこえただろう? と言ってきた。ノーと言ったら、大変なことになりそうだと思ったから、ハイと言って、社長の言う通り、あれはバックナーのコミュニストの叫び声だったと話を合わせた。すると、社長はすっかり満足げに指を腹の前で組んで、「見ろ、鈴川だけはきちんときこえている。他のものは杜撰な耳しか持っていない。だから、杜撰なんだ」と、こんな通りだよ。気味の悪い話だねえ。

 え? 今度、バナナを買ったら、耳を澄ませてみるって? ハハハハ。やめとけ、やめとけ。キチガイの真似事をするのは僕だけで十分だ。それより、しゃべりながら食べてるうちにすっかり体が温まった。熱いくらいだ。冷やで一杯もらおうかな。

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― 新着の感想 ―
[一言] 一月遅れで読んでいます。 そして読んで良かった! めちゃくちゃ好みでした。書籍ではめったにお目にかかれなくなったキチ◯イという言葉のチョイス好みでした。バナナの話題で「ふふ」と笑い、ワイフと…
[一言] いつも楽しく読んでます。banana zusanで検索した人(うっかり歌まで;と正直に名乗り出るべき)。出てくるよーなコトがまあミゴトに、書いてないですねなんで杜撰?読んでもワカラナイ、つか…
[良い点]  会話の合間に挟まれるおでんの種や熱燗が楽しいです。  一応は鯱用の、いや社長の見込みは当たったんだからいいですけど、大入り袋なんてくれそうもないですね。  すさまじきは宮仕え、意味は違っ…
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