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忘れないで、生き延びて

作者: 三矢 由巳

 これを目にしたあなた、騙されたと思って最後まで読んでください。


 私はこの「小説家になろう」で恋愛物や時代物をおもに書いています。

 時代物を書くには、ある程度、当時の人の生活を調べないといけません。そこで気付いたこと、考えたことを以下に書きたいと思います。


 以下に書くのは江戸時代の人々の一生です。



出生

 すでに、この時点で、生まれることができなかった子どもが大勢います。

 飢饉になると親は自分が生き延びるだけで精一杯。子どもを育てるのは不可能ですから、貧しい家庭なら堕胎という選択肢を選ばざるを得ません。

 大名の中には、正室の悪阻(つわり)があまりにひどいために、堕胎したということもあったようです。

 また、現代と同じように流産もあります。妊娠検査薬などないですから、妊娠に気付かず、本人も気付かないで流産していたということもあったでしょう。妊娠したとわかっても、現代のような医療機器がありませんので、胎児の異常に気付けないことも多かったはずです。農家などはおなかが大きくなっても働いている女性が大勢いますから、体調を崩して流産ということもあったでしょう。

 あなたの田舎にいる御年寄でこう言うおばあさんいませんか。

「子どもが生まれる日の朝まで田んぼの草取りをしていた」

 これは何もお姑さんに意地悪されていたわけではありません。姑が結婚当時すでに死んでいた私の親戚の老婆がそうだったのです。それくらい働かないとやっていけなかったのです。農薬も田植え機も刈り取り機もないのですから。

 彼女は丈夫で十人余りの子どもを生んで一世紀近く生きましたが、そういう人ばかりではありませんから、無理をして親子ともどもということもあったかもしれません。

 それから性病。江戸時代は遊廓があり、梅毒や淋病にかかっている男性が大勢いました。配偶者にうつれば、胎児にも影響を与えます。流産や死産の原因になります。無事に生まれても、妊娠中や出産の際に感染し先天性の梅毒を患っていることもあります。ペニシリンなどの抗生物質はありませんから、発症すればどうしようもありません。当時は梅毒の薬といえば、水銀です。でも、水銀には中毒の恐れがあります。効かない上に水銀中毒になってしまうのです。

 幸運にも何の問題もなく出産までこぎつけても、試練が待っています。

 普通の庶民は現代のように助産師も医者も立ち合わず、近所の経験豊かな女性が子どもを取り上げるわけで、逆子や胎盤の異常などがあった場合、非常に危険なことになります。

 医者や産婆であっても、現代のように超音波があるわけではありませんから、正しい判断ができないこともあります。お産で子どもが、あるいは母親が、最悪二人とも死ぬというのは庶民も大名も変わりありません。暴れん坊で有名な八代将軍吉宗も紀州藩主時代に正室を死産で失っています。

 無事に生まれても、明らかに障碍(しょうがい)があるとわかった場合、貧しい家では医者に診せることもできませんから、死産ということにしてしまいます。どうやって? それは御想像にお任せします。

 お金持ちなら、この子は宝子だということで大切に育てられることもありますが、そういう幸運な子どもは多くはなかったことでしょう。



幼少期

 現代では生後数か月後から予防接種が各市町村で計画的に実施されます。

 ですが、当然のことながら、江戸時代に予防接種はありません。種痘も幕末近くなってからの話です。

 現代で予防接種が行なわれる病気は、当時の人々にとっては対策がなく、命取りに、あるいは、重い障害をもたらすことになりました。

 手元に地元の役所から配布された小児用の予防接種の計画表があります。

 ヒブ・小児用肺炎球菌・四種混合(ジフテリア・百日せき・破傷風・ポリオ)・ポリオ・BCG・麻しん・風しん・日本脳炎・水痘・B型肝炎。

 麻しんは 麻疹(はしか)。これは危険な病でした。合併症がありますから。私も流行で大名の姫が亡くなったという話を小説のエピソードの一つとして書きました。その際、薬として白牛の糞が用いられていたことも書きました。でも、とても効能があるとは思えません。

 水痘、別名水疱瘡。これも危険な病です。実は私の時は予防接種がなかったので、小学校低学年の時に罹患しました。その痕が頭に残ってます。髪に隠れているのでわかりませんが。大人になって抵抗力が弱まりこのウイルスが暴れると帯状疱疹になります。

 ヒブはあまり聞き慣れませんが、これが原因で細菌性髄膜炎になります。江戸時代は原因がわからず熱が出るので風邪と思われて重症化、死亡したり後遺症が残ったりしたこともあったでしょう。

 肺炎は子どもや老人に多いので、江戸時代も多くの子どもが亡くなっていたことでしょう。七代将軍家継は急性肺炎と思われる症状で数え年八歳(満六歳)で亡くなっています。

 四種混合のジフテリア・百日せき・破傷風・ポリオも危険な病です。当時は衛生状態は今とは違いますから、怪我をして傷口から細菌が入って破傷風になることも多かったはずです。

 BCGは結核予防ワクチン。今も結核で亡くなる人は少なくありませんが、戦前は国民病と言われた病です。当然、子どももかかります。日本脳炎はコガタアカイエカが媒介する病。発症すると死亡率が高く、助かっても子どもには重度の障害を残すことがあります。

 B型肝炎は最近接種されるようになったようですが、このウィルスに感染すると肝臓ガンにかかるリスクが上がります。

 いずれも体力のない子どもにとっては危険な感染症です。

 また、現代では接種されていない天然痘も危険です。死亡率が高く、治っても顔にあばたが残ったり、失明したり。幕末に海外から日本に来た人々は盲人が多いことに驚いています。天然痘による失明が多かったことがうかがえます。

 幸い天然痘は撲滅したので、今は種痘はありません。他の病気も撲滅はしていませんが、現代は接種のおかげでかかる子ども、死亡する子どもは減っています。

 江戸の子どもたちはたくさんの感染症から生き延びなければ大人になれなかったのです。

 そうそう、忘れてはいけないのは鉛。将軍や大名の子どもには乳母がつきましたが、彼女達は白粉(おしろい)を塗っていました。その白粉が胸のあたりまでべったりと塗られていました。授乳の際に乳児がそれをなめて白粉に含まれる鉛を摂取してしまうということもあったようです。鉛中毒は貧血や便秘、筋肉の麻痺、知的障害をもたらすことがあります。ここにも危険がありました。




事故

 大人になっても、危険は減りません。

 まずは火事。

 特に都市部は家が込み合っているので、いったん火事が起こればすぐに燃え広がります。

 江戸では明暦三年の大火で十万人亡くなったと言われています。

 江戸だけでなく、大坂・京都やその他多くの城下町で大火が起きています。

 さらには地震。家の倒壊で亡くなる人が多かったようです。また、宝永四年の地震の際は各地で津波が起こり多数の死者が出ています。

 それから飢饉。江戸時代の気候は基本的に寒冷でした。隅田川が凍ったほどです。夏に冷害や洪水があれば稲の不作となります。ウンカという虫の大発生で起きたのが享保の大飢饉です。農薬などありませんから、いったん大発生すれば止めることなどできません。

 飢饉とは逆に食あたりもあります。冷蔵庫も冷凍庫も防腐剤もありませんから、腐敗を止めることはできません。食中毒になったり、寄生虫の入った魚を食べてしまったり、食べるのも危険がいっぱいです。

 交通事故もあります。大八車に轢かれたという話があります。この場合の被害者は子どもで、大八車の引き手が処罰されています。ただ、よほどの大都市でないとそういう事故は起きないでしょう。



脚気(かっけ)

 ビタミンB1の不足から起きる病です。ひどくなると心臓の機能が低下し脚気衝心となり心不全で死亡することもありました。十四代将軍家茂の正室和宮も脚気衝心で亡くなっています。

 田舎から江戸に出て白米を食べるようになると起きたので、「江戸患い」とも言われていました。田舎に帰って麦飯や玄米を食べると治るのです。

 ビタミンB1を多く含む食材は豚肉ですが、当時は豚などの四足の肉は食べない習慣ですから、不足するのも当然です。うなぎにも含まれていますが、毎日うなぎというわけにもいきません。

 蕎麦には含まれていますので、江戸では経験的にいいとわかったのか、よく蕎麦が食べられていました。


 

病気の流行

 幸運にも子どもの時にかからなくても、大人になってから麻疹や天然痘、水痘、風疹が流行すればかかる恐れがあります。予防接種がないのですから。五代将軍綱吉は麻疹にかかり、それが死因につながっています。

 インフルエンザも危険です。六代将軍家宣はインフルエンザで亡くなっています。

 他にもコレラ、赤痢等等、たくさんの病気が流行しました。



出産

 女性の場合は出産も危険です。

 上でも書きましたが、現代のような機器がありませんから、危険な状態になっていてもわかりません。

 それに今よりも低年齢の結婚もありますから、早過ぎる妊娠で母体に負担がかかるということも。

 「一目でわかる江戸時代」によると、信濃国湯舟沢村の死亡率を調べると二十代から四十代前半の女性の死亡率が男性を上まわっています。この年代は妊娠できる年齢ですから、やはり出産のリスクが死亡率に関係しているようです。


 

老年期の病気

 当時の統計を見ると、壮年期を無事に迎えれば長生きができたようです。

 といっても、年をとれば相応に病も増えます。

 仏教の影響で四足のものを食べない習慣があったので、動物性たんぱく質の摂取は現代よりも少なかったと思われます。魚も毎日は食べられなかったでしょう。

 栄養状態が決してよいわけではありませんから、感染症をこじらせて肺炎というのは多かったのではないでしょうか。



 というわけで、生き残った老人達は頑丈な人達です。

 身体が丈夫で一生懸命働いて蓄えもあり、食事もそこそこいいものを食べ、お酒も嗜み……。

 と、ここで当時の食生活を考えてみましょう。

 上にも書いたように動物性たんぱく質の摂取は少なく、白米ばかり食べるとビタミンB1は不足がち。一方、おかずは野菜や豆類、きのこ、海藻が多かったでしょう。調味料は味噌・醤油等。煎り酒というのもあります。そばを食べればビタミンB1不足を補えるでしょう。

 現代の私たちからは健康的に見えますが、問題は味付けです。梅干しの塩分はテレビの料理番組のテキストを見ると、梅の重さの十五パーセントほどですが、当時は三十パーセント越えです。どこに行くにも自分の足を使いますし、農家も漁師も機械はないですから、すべて力仕事で汗をかきます。塩分濃くないと仕事になりません。

 梅干しだけでなく味噌も醤油も塩分が多いのです。冷蔵庫がないですから保存には濃い塩分が必要なのです。

 若くて活動量が多い時分はいいかもしれませんが、年をとって活動量が減っても同じような食生活を送っていれば、塩分取り過ぎということになります。

 当然、高血圧になります。

 というわけで、脳卒中のリスクが高まります。

 お酒もほどほどならいいですが、「養生訓」を見ると、やたら酒の飲み過ぎを戒めています。よほどのん兵衛が多かったのか……。

 酒の飲み過ぎもよくありません。

 それに住宅事情で雪隠は母屋から離れていたりします。寒い冬は温度差があって血圧の変動も激しいことでしょう。

 というわけで卒中で倒れる老人がやたら多いのです。

 八代将軍吉宗も卒中で右半身麻痺になります。十三代将軍家定の正室天璋院篤姫も卒中で亡くなっています。

 ちなみに脳梗塞、脳出血、くも膜下出血を総称して脳卒中と言います。江戸時代にはX線撮影もCTもMRIもないので、脳の中で何が起こっているかわかるはずもありません。



 え、ガンはどうなってるかって?

 たぶん、ガンになった人はいたはずです。華岡青洲は全身麻酔で乳がんの手術をしていますから。

 乳がんはしこりに気付けばわかるガンですから、比較的わかりやすかったかと思います。

 現代でもしこりに気付いて病院で調べたら腫瘍だったということがあります。近頃は有名人がかかっているので、がん検診受けている人も多いかと思います。しこりがなくても検診を受けたら発見されることがあります。これを読んでいる方で三十代以上でまだ行っていない方は検診に一度は行ってください。殿方で御覧になっている方は奥さまやパートナーに検診に行くように勧めてください。また、お若い方はお母様に検診に行くように勧めてください。別に医療関係者ではありませんが、私の周囲でも発見が早くて助かった人がおりますので。それを思えば、マンモグラフィーで少々胸を押さえられても我慢できます。

 最近は乳がん検診を市町村で行なっているところも多いはずです。金銭的負担もそう多くはありません。そういうのを上手に利用していただくといいかと思います。

 今の医学なら発見が早くてきちんとした治療を受ければかなりの確率で治る病気です。国立がん研究センターのがん情報サービスのサイトによると、統計では治療を受けたⅠ期の患者の五年相対生存率は99.9パーセント、Ⅱ期で95.4パーセント。くれぐれも怪しい民間療法で大事な時間とお金を浪費するようなことはしないでください。薬でもない何かを食べたり飲んだりしただけで治るような病気ではありません。

 


 でも、他のガンは相当悪くなるまで自覚症状がありません。恐らく気付かずに別の病気だと思われたり、身体が弱って感染症にかかったりして亡くなった人もいたのではないでしょうか。

 労咳だと思っていたら肺がんだったとか、腹にできものができたと思っていたら胃がんだったとか。知らずにいた人も多かったことでしょう。徳川家康と息子の秀忠は胃がんだったようです。医師が腹部に触れたらしこりがあったということですから。

 何より年齢も関係します。

 国立がん研究センターの統計では年齢別のがんによる死亡率は男女とも六十歳代から増加しています。

 江戸時代、果たして六十になるまで生きていた人がどれほどいたのか。乳幼児期の高い死亡率を乗り越え、天災や火事や飢饉を生き抜き、はやり病にかからず、脚気にもならず、女性は無事にお産ができて……。

 手元にある「一目でわかる江戸時代」には「各地に残っている『宗門改帳』のデータから江戸時代の平均寿命を算出すると30歳台から40歳代になるようだ」と記されています。

 つまりがんによる死亡率が高くなる年代になる前に亡くなっている方が多いということです。これは一般庶民も大名も変わりません。

 大名の中には島津重豪(一七四五~一八三三)のように酒豪で元気で長生きした人も稀にいますが、大名の死亡平均年齢は四十九・一歳です。同じ島津家の出の重豪の父重年(一七二九~一七五五)やその兄宗信(一七二八~一七四九)のように二十代で亡くなる大名も少なくはありません。

 大名もまたがんの多くなる年齢よりも早く亡くなる方が多かったのです。

 

 

 当時は病気の番付表というのもあり、人々は病気を人の名になぞらえて、笑いの種にもしていたようです。恐らく、現代よりも様々な病気が身近にあったのでしょう。病人はあちこちにいたのです。

 今なら病院で診察、入院、手術となるような病も、健康保険制度がないですから、治療費がかかってそう簡単に医者に診せることもできません。大名の奥方様や商人に飼われている(ちん)が医者(狆専門の)に診てもらえるのに、金のない人間は診てもらえないというなんだかやりきれない話にもなるわけです。

 医者の免許制度がないので、名乗れば誰でもすぐ医者になれます。上手な医者にかかることができれば幸運ですが、そうでなければ、命取りにもなりかねません。

 そんな環境で生きていたのです、私たちの祖先は。

 様々な危険を乗り越えて、次に命をつないだのです。

 そう思うと、自分の命、あだやおろそかにはできません。自分だけではなく他の方の命も。

 また、私もそうですが、よく自分は不運だとか、ついていないと思うことがありますが、生まれて育って成人したというだけでも、実は江戸時代に比べたら幸運な話なのです。



 だから、なんだと言われればそれまでですが。

 ただ言いたいことは一つ。

 あなたの命は、一生懸命過酷な時代を生きてきた多くの御先祖から受け継いだもの。

 忘れないで、生き延びて。




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― 新着の感想 ―
[良い点] 「現代の贅沢な暮らしを捨てて、江戸時代に戻ろう」なんて簡単にいう人に、ぜひ読んでいただきたい内容です。 過酷な環境で生き延びて、命をつないでくれたご先祖様に感謝。
[一言] 本当に書かれている通りですね。 しかも日本は戦前くらいまで一般の庶民は江戸時代とあまり変わらなかったようです。
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