第二章 花間に彷徨う 4
「思い出していただけましたか?」
《大蛇田商会》本社ビルのロビーにテラス戸沿いに設えられた漆黒のソファに腰掛け、マホガニーのテーブルを隔てた真向かいにて両手で顔を覆って項垂れた七緒を食い入るように見つめながら、午後の光に蝶の髪飾りを煌めかせて霙は尋ねた。
「ええ、その節はお世話になりました……」
七緒は左隣に座った安東の険しい視線を浴びつつ、柔らかな物腰を崩さない霙に頭を下げる。彼女は眼前で微笑む自称〝生きた嘘発見器〟をここへ通して話を聞くうち、すっかりあの時の記憶を取り戻していた。悶絶に値する自分の言動を。
それはちょうど一週間前、何も上手く行かず、連日の蒸し暑さと激務によるストレスとプレッシャーのせいで治りかけていた水虫も悪化し、ままよ自棄酒をと行きつけの居酒屋でひとり酔い潰れていてところ、突如現れた少女に声をかけられ、彼女を相手に延々と愚痴をこぼした挙句、激務による過労と泥酔ため人事不省に陥り救急車を呼ばれかけたが、それには及ばないと制して代わりにタクシーを呼んでもらい、それを使って這々の態で自宅へ辿り着いたのである。問題は居酒屋で相手と交わした約束で、酔っていた七緒は霙の能力を高く買い、班長の権限を利用しての面接を受け合っていたのだ。そのとき霙に渡した名刺にオフィスの電話番号が載っていて、彼女は七緒が言いつけた通りの日時にそこへ電話をかけたと言う。
「気をつけてくださいよ。お酒に弱い上にすぐ記憶が飛ぶんだから」
上司を横目で睨む安東が静かに、しかし険のある口調で言う。
「気をつけます……」
恥じ入った七緒は再び両手で顔を覆い、項垂れた。
「でもなんていうか、ますます親しみが湧きました。〝栄宮の女豹〟と称えられた伝説の女性にも意外な一面があるんだなーって」
いくぶん眉を下げた霙が場をとりなすように笑う。
「その呼び方やめて、黒歴史だから……もう許して……」
背を丸めた七緒の声はいっそう弱々しく震え、その指も震え、女にしては短く切った爪が表皮に食込まんばかりだ。
「ところで佐伯さん。君はどうして弊社を志望しているのかな?」
未だ身悶え続ける班長に代わり、履歴書も持ってこなかった少女の顔を覗き込んだ安東が愛想よく尋ねる。
「実はあたし、縣班長の大ファンなんです。だから嘘を確実に見抜くこの能力で縣班長のお役に立ちたくて、《大蛇田商会》様に入社を希望してます!」
「なるほどぉ?」
彼は目を釣り上げ、口を尖らせた。
「大ファンってあなた、まさか変な噂を真に受けてないでしょうね……」
指の間から霙を覗く七緒の瞳には、狼狽の色があざあざと滲んでいる。
「ご安心ください! そんな時にも役立つのがあたしの能力なんす。縣班長について取材した人達から得た情報の取捨選択だってお手の物です!」
「ちょっとやめてよ……」
「怖いですねえ」
安東はそう笑って、ますます動じた七緒を冷やかしたが、彼の皮肉の半分は明らかに霙への懐疑も含まれていて、それを感じ取ったらしい少女は心持ち眉を曇らせて、彼に目を移した。
「安東さんは信じてくれないんですね」
「やる気は感じますよ」
「そうじゃなくて、嘘を見抜くって能力にいて」
「いや、信じてます」
「嘘です。あたし、分かりますんで」
「証拠がないよ」
「さっきだって、電話を途中で切ったじゃないですか。誰でもわかりますって」
「あれは、その……ははは」
目を逸らした安東が苦笑い。霙はにこやかに彼と顔をあげた七緒を見つめたまま「まぁ怪しさバリバリてっのは自覚してますけどね」と付け足した。
「でもねえ佐伯さん」と、口を開いたのはやはり安東。
「嘘を見破る能力とか役立ちたいからとか、それだけじゃ採用は難しいと思うんだよね。この業界は危険で荒っぽくてしかも汚れてて、ドラマとか漫画に出てくる正義のヒーローとかそういう感じじゃまったくないんだよ。確かに仕事は警察っぽいけど実際は株式会社だから利益優先だし、顧客も偏ってる。それに警察と違って手段を選ばない。なんでもありだ。見たところ君、まだ未成年でしょ? 僕はやめといたほうがいいと思うなぁ……」
「縣班長も同じご意見ですか?」
霙は助けを求めるような丸い瞳で七緒を見やる。
「ごめんね佐伯さん。あの時は酔った勢いで尋問役にでもと考えてたんだけど、それにだってやっぱり危険が伴うし、本音を言えばあなたにはこんな仕事して欲しくない」
七緒はようやく顔を上げ、神妙な面持ちでまじまじと霙を見つめつつ、腹の奥底から絞り出したような声で言う。
「そんな……あたしこれでも危険には慣れてるんすよ!」
「体術の心得は?」
「な、ないです……でも、体力と覚悟はありますから、これから必死に修行します!」
「犯罪組織に関する知識は?」
「これから必死に勉強します」
「武器や機械のスキルは?」
「これから必死に練習します……」
ここで七緒のため息、次いで安東の空咳、それから霙の釈明。
「甘ったれてるのはわかってます。ただ、やる気だけは誰にも負けないつもりです。高校もやめちゃったし、他に取り柄もないけど、雇って頂けるなら命もろとも捧げるつもりでここに来ました」
「命って……あなた今いくつなの?」
「十六っす!」
「班長より十三歳下?」
目をしばたいて安東が叫ぶ。
「勝手に歳バラすな! ていうかなんでわざわざ私と比べた?」
鋭く彼に向き直って七緒も叫ぶ。
「ご心配なく。あたし縣班長のことは大抵知ってますよ。この街で一番情に厚くて義理堅くて、判官贔屓で正義感が強くて、あたしにとって理想のヒーローです」
そう言って笑顔を取り戻した霙に、七緒は驚いた。真っ直ぐな目だったのだ。不憫なまでに、改めて呆れるほど純粋に。
「けどあなた、探偵事務所に所属してるんでしょ? そっちはどうするのよ」
表情を引き締めた七緒の声は、戸惑いを隠せず非力に響いた。
「ボスと喧嘩してやめてきました」
「喧嘩?」
七緒が問う。
「ボス?」
矢継ぎ早に安東が尋ねる。
「あたしはそう呼んでたんすけど、その人と最近、ちょっと意見が合わなくなって……だからその……あたしこれ以外なんも取り柄なくて、でも縣班長みたいに世のため人のために戦う人の役に立てるならと思って、つまり、あの、ようするに、その、この命、惜しくありませんっす! どうか使ってやってください!」
霙の頭が深々と下がり、安東の目尻も下がり、七緒は声調を下げて、こう返した。
「ダメよ」
彼女の相好は厳しい。
「えっ……」
霙は髪を振り乱して頭を上げ、大きな円を描く双眸と半開きの口を七緒に向けて一時停止。
「話を聞く限り、あなたが持ってるのは人の偽を見抜く能力だけでしょう? いざと言うとき身を守る術がない。そんな子を私の一存で業界に入れるわけにはいかないの」
「いや、でもっ……あたし、ほんとに覚悟はできてますよ? こう見えても根性はある方っす! 腕っ節はあんまりですけど、喧嘩なら学校で日常茶飯事でしたから……」
「違う。そうじゃない。あなた今朝のニュース見なかった? 特務機関の社員が十三人が惨殺。うちの社員だっていつそうなってもおかしくないの。それは強いとか弱いとかじゃなくて、血も涙もない連中と戦うにはこっちも相応に残酷にならなきゃいけないって意味なのよ。想像してみて。仕事仲間が目の前で殺されて、あなたは正気を保っていられる? 人の道を踏み外さずに生きていける? 私はあなたを守る自信がない。物理的にも精神的にも。だから、今回は酔った勢いで面接を受け合った私が悪いんだけど、それでもお詫びに入社を許すことなんて私にはできません。本当にごめんなさい」
昼下がりのロビーに沈黙が訪れた。冷厳な面持ちのまま微動だにしない七緒と、目元を潤ませて微かに顔を震わせる霙と、目だけを動かして両者を交互に見る安東。三人の間に言葉はなく、その耳に入るのは傍を行き交う人々の足音や会話ばかり。
十余秒の後、この空気を変えたのは、やや口調を和らげた七緒だった。
「それに」と、彼女は力なく項垂れる。「私はあなたが思ってるほど、立派な人間じゃないから……」
しかし、それを聞いて、霙の口辺は俄かに綻ぶ。
「やっぱり、縣班長は理想のヒーローでした」
「皮肉はやめてよ。反省してるんだから……」
相手の反応に意表を突かれた七緒は微かに眉宇を集め、すごすごと視線を逸らした。
「ごめんなさい、皮肉じゃないっす。ただ、嘘が見えたので……」
「嘘じゃないわよ」彼女は霙に目を戻す。「謙遜でもなんでもなく、私はあなたに尊敬される覚えはありません。心が読めるなら分かるでしょう? これが本心だってことを」
「はい。縣班長の言葉に嘘はないです。あくまで縣班長の言葉には、ですけど」
「どういうこと?」
「それはあたしを入社させてくれたら教えます。大事なことなんで」
霙は強気に目尻を上げて前のめりに、真正面から七緒の顔を覗き込んで挑みかかるような口吻だ。
「まさか、あなた……」
七緒の剥き出しな額にうっすらと光る微量の汗が滲む。
明らかな狼狽を示した彼女に安東も目を奪われ、いっそう顔色を曇らせたが、何か自分の与り知らない恐るべき話題が二人の間で言外の疎通により取り交わされている気がして、そこへ足を踏み入れる決心がつかずに口を噤んだ。
「そこまで教えてよかったの? なんとなく予想は付いたんだけど……」
そう尋ねる七緒が無理に浮かべた微笑は、却って緊張を物語っている。
「構いませんよ。これも交渉材料ですし、気に入って頂けたらなら仮採用ってことで、ひとつどうでしょう」
得意満面。
十三歳も年下の少女に主導権を握られかけているとなれば、酸いも甘いも噛み分けた七緒とて内心穏やかではない。
「なるほどね、あなたの前で不用意なことは言えないってわけ……」
彼女は降参とばかりに肩を落として再度ため息をつき、またもや安東の怪訝な眼差しを浴びた。
「そうなりますね」
無邪気に勝ち誇った霙と、無表情に押し黙った七緒が見つめ合い、暫しの沈黙。
「あの……」
おずおずと右手を上げた安東がようやく、目尻を下げつつ控えめな声量で話に加わる。
「そろそろ、お時間が……」
彼は誰にともなくそう告げたが、確かに時刻は一時半を過ぎており、それは本来、多忙を極める特務機関の社員であれば誰しも何らかの任務に当たっていて然るべき時刻だった。安東の指摘を受けて自身のアナログ腕時計に素早く目を走らせた七緒は、その鋭い眼差しを霙に転じると慎重に言葉を選ぶような語調でこう切り出す。
「ごめんね佐伯さん、今日は取り敢えず帰ってもらえる? もう少し考える時間が欲しいのよ」
「はいっ! いつでも構いませんよ、雇ってくださるなら。ずっと待ってますから」
屈託のない笑顔で答えた霙に半ばつられる形で、七緒はこの場において始めて、やや困惑の色を混ぜ合わせつつも、朗らかな微笑を相手に与えた。
「あたし、絶対に諦めませんからねっ! 縣班長に認めてもらえるまで頑張るっすよ!」
帰り際の少女が威勢良く残したその声と言葉を、七緒は複雑な思いで噛みしめる羽目になった。
「スパイって感じはしませんでしたけど、如何お考えです」
ガラス張りの自動ドアを通ってビルを出て行く霙の背中を見送る安東が、声と表情を影らせて上司に意見を求める。
「そうね。けど念のため、酒松くんにあの子の身元を洗うよう、指示を出しといて」
彼と同様に、何度もこちらを顧みては会釈を繰り返し今ようやく姿を消した少女を見送っていた七緒の返答は、部下の予想を超えていた。
「一般人かもですよ?」
それは法的にまずいのでは、という危惧が彼にはあった。
「分かってる。でもあの能力は地味だけど厄介よ。味方にするにも問題が多いし、敵に回られても面倒でしょ」
「班長は信じるんですか、あの確実に嘘を見抜く能力ってヤツ……」
やおら立ち上がった安東が口元を歪ませる。
「まだまだ現場経験が足りないわね、安東くん。いい? この世には常識では考えられないことなんて、いくらでもあるのよ。特にこの業界ではね」
彼に続いて腰を上げた七緒は、自分より背の低い部下を大上段に見下ろして言う。
「はぁ……」
「困るのよね、能力と認識が釣り合ってない若者って。そういう子は自分に与えられた力の大きさに気づかないまま大人になるの。この街にはそんな人間がいっぱい。もうウンザリ」
「そういえばさっきの子、高校中退とか言ってましたね。まさかあの学園の生徒じゃないでしょうね」
「だとしたらちょうどいいじゃない。情報も集めやすいでしょ」
七緒が手ぶらで歩き出す。
「まあ、そうですけど……」
鞄を持って班長の後を追う安東は小刻みに頷き、数年前の記憶が静かに蘇ってくるのを心地よく感じていた。
『あいつら、元気でやってるかな』
しかし、彼のそうしたノスタルジーは、ビルを出た七緒が事件の現場とは反対方向に進んでいると知った途端、煙のように消えて無くなった。
「あれっ? 班長、どちらへ?」
冷房の効いたロビーと、強烈な日差しや湿気を伴う炎暑との温度差に眩暈を覚えた安東が、素っ頓狂な声で尋ねる。前方の彼方には小高い山々が連なっており、そこには古惚けた家屋が広大な緑地を隔てて点在するだけだったが、彼は大手企業の高層ビルが立ち並ぶこの通りとは対照的なそこに班長の用がある気がしてならず、事実としてその方面行きのバス停がかなり歩いた地点にあると知っていたので、なんの説明もしてくれない上司への不信感と違和感を早々に催しての質問がこれだった。
「味沢先生のところ」
ビルを出て約五分、黒いハンカチで頻りに額と首筋の汗を拭う七緒は、胸元を開いた白いワイシャツの局所を既に湿らせている。
「あの盲目の……」
安東は二ヶ月ほど前に一度だけその人に会い、名前も顔を覚えていた。やはりあの山々の中、鬱蒼とした雑木林を抜けた先にある鄙びた集落にて、忍者屋敷のような古家においてである。
「ええ」
「ええ?」
「仕方ないでしょ。新米のあなたに教えるにはまだ早いと思ってたんだけど、良い機会かと思って」
「はい?」
上司の正気を安東は疑った。暑さのあまり頭がどうかしたのかと、あの風変わりな少女に洗脳でもされたのかと、そうでなければ歳をばらした復讐を受けているのかと、様々な不安が脳裏を掠める。そんな彼をよそに七緒は「超常の力を証明します」と付け足してますます部下を追い詰めた。
「ご冗談でしょう?」
「私だって行きたくないわよ。あんな人のとろこ!」
暑さと行き先を理由に苛立った七緒は、隣に並んだ部下を睨んで怒鳴りつける。
「あの変態ジイさん、ただのご隠居探偵じゃなかったんですか」
「変態で爺さんでご隠居探偵で、そして化け物ね」
「ば、ばけっ……」
心当たりはあった。味沢と出会う前から、子供の頃から、この世には、特にこの街には、化け物と呼んでも過言ではない人間が、いや人間の定義から外れたような存在が日夜、想像を絶した力を以て社会を動かしているのだと……学校ではそんなものはあり得ないとばかり教えられて育ったものの、いざ大人になってみれば逆の説明を会社の上司から、ついでに見ず知らずの少女から受けるだなんて、そんな理不尽があるのだろうか……。
ふと、安東は、延々と街路樹が続く通りの向こうから、白地に青い百合の花模様をあしらった日傘が、その下を仲睦まじく歩くひと組の男女が、木下闇より現れるのを見て息を呑んだ。それを持っていたのは、半袖のブロードワイシャツと黒いスラックス姿の平凡かつ大人しそうな少年だったが、相合傘の中で控えめに肩を寄せる少女の方はエメラルドグリーンの瞳に亜麻色の髪、白いベアトップの袖なしワンピースと非常に目立つ姿容を誇り、通り過ぎる人々の大半も彼女を振り返っては目を丸くしていた。安東も我知らず少女に見惚れて顎を外し、彼女が傍を過ぎるまで視線を逸らさなかった。
「綺麗な子ね」
心なし棘のある語勢で七緒が呟く。
「あっ、ええ? はいそうですね?」
未だ理性の戻りきらない安東は声を上擦らせて返した。
「気をつけてよ、ああ言う綺麗な子に限って裏があるんだから」
「班長、それ嫉妬でしょう」
「違う! ハニートラップの話よ。実際に多いのよ、このところね」
ハニートラップか……。確かにあの少女には人の心を操る不思議な力が備わっていそうではあったけれど、邪な気配は全く感じなかったし、寧ろあれほど美しい少女に操られる男がいるなら、その人は随分と幸せだろう、と安東は思った。たとえその先に、破滅が待っていたとしても。