第二章 花間に彷徨う 3
眠れる花月を夢の世界から此岸へと引き戻したのは、聴き慣れたベヒシュタイン製アップライトピアノの馥郁たる音色だった。柔らかな分散和音、切ない旋律と、それは久しぶりに聴く楽曲で、彼女との思い出がぎっしり詰まった美しい小品なのだが原語のタイトルが思い出せず、あれこれ思いを巡らすうちに甘い香りが鼻腔をくすぐり、これを契機に意識と五感の覚醒が始まって、シーツの肌触りは絹、ピアノの音がすぐそこから、つまりここは自室ではないなどと心付いて瞼を開くと案の定、細やかな幾何学模様の白いレースと同色の天蓋が清らかな陽光を浴びて煌めいていたため、昨夜の記憶がゆっくりと蘇ってきたものの、寝惚け眼の彼が最愛の少女を脳裏に描きながら上体を起こした直後、ちょうどホ長調に変わったところで演奏は途切れ、予想通りの少女がぼやけた視界に映じた。
「おはようございます、花月」
ピアノの前に置かれた漆塗りの黒い椅子へ座ったまま両手を膝に置き、首を90度右へ回して顔だけを花月に向けた姫花が、昨日までは体の彼方此方に巻いていた包帯を解いて未だ傷痕が消えない素肌にノースリーブの白いネグリジェを身に纏った彼女が満面の笑みを浮かべ、それまで室内を満たしていた調べが人になったかの如き優しい声で朝の挨拶。
「おはようございます、お嬢様……」
一方の花月はベッドから動かずに頭痛の震源地たる後頭部を押さえて締まりのない微笑を作り、視力の戻り始めた目を凝らして女主人を暫く眺めたが、間も無く自分の服が白いTシャツと灰色のスラックスから白地に青い水玉模様の寝巻きに代わっていることに気付き、謝意と羞恥と邪欲に悶えて吃る。
「す、すみませんお嬢様……僕、いつの間にか寝てしまって……」
彼がそう詫びつつ、そそくさとベッドから這い出すと、姫花も素早く椅子から立ち上がり、やや表情を曇らせて即座に言う。
「いいの、そのままでいて」
花月にとって姫花の命令は絶対──少なくとも本人はそう思っているので、彼はベッドに戻り、指先や瞼、呼吸に至るまでを止め、次の言葉を待った。
「夜遅くまで手当てをしてくれたのね。いつもありがとう」
「いや、そのっ……はい……こうして寝てしまいましたが……」
この辿々しい返答を聞いて、姫花は再び喜色満面。
「花月っ」
「はい?」
二人は開け放たれた窓から注ぎ込む初夏の斜光と白いレースのカーテンを揺らす北方の森に濾過された冷たい微風が溶け合う空気の中、二メートルほどの距離を置いて瞳で接吻を交わすように暫し見つめ合い、それぞれの面持ちをひと時も変えぬまま、互いが聞き取れないであろうほどの小さな吐息を揃って漏らした。
「久しぶりにお話をいたしましょう」
悠然たる歩調で姫花は花月の元へと歩み寄る。真紅の絨毯を踏む足に履いた室内用の白いバレエシューズを音もなくしならせて、嫋やかに。
「何のですか……?」
俯いた花月は自分の足元、つまりベッドの端を椅子代りに座った姫花の方を上目遣いに見やり、足を折り畳んで問う。
「これからのこと。それから、あの方たちについて」
「ああ、はい……」
〝あの方たち〟と聞いた途端、花月の顔は歪んだが、彼はすぐにおもてを上げ、そこに緊張を漲らせてこう尋ねた。
「そういえば、彼らは……?」
「先ほどお帰りになったわ。まだ襲撃に備えたほうがいいと、夜通し警備にあたってくださいました」
「はぁ、そうなんですね……」
彼は再度うな垂れ、その顔をますます曇らせる。『やっぱり僕は必要なかったんですね……』と、胸裏に嘆声を響かせて。
「花月、まだあの方々を嫌っているの?」
姫花は上体を傾け、仄かに陰った花月の顔を覗き込む。
「それはそうですよ。昨日だってお嬢様の前で大騒ぎ。室内で殺し合いなんて、とんでもない連中です」
花月は煌めきを保った姫花の顔を見つめ返し、語気を荒げる。
「まさか、本気でやるわけないでしょう? あの方たちにとってはあれが特訓なのよ」
「だとしても、場所と時間は弁えるべきでした」
「花月は真面目なのね」
「それだけが取り柄ですから」
最愛の女性が浮かべるきらびやかな笑顔から目を逸らした彼の声が、いよいよ暗む。
「そんなことないでしょう? 花月にはすごい特殊能力があるじゃない。おかげさまで何度も助けられています」
片や姫花の視線はますます熱く花月を焦がして行く。
「ぜんぜん足りませんよ。お嬢様に仕えるたった一人の執事として、あんな力だけじゃ……」
「私はそれで十分だと思うけれど、花月はどんな能力がほしいのかしら」
「お嬢様をお守りするだけの力です。僕一人であの五人に負けないくらいの……」
「どうして? そんなにあの方々を憎まなくても……」
この朝、初めて彼女の声に影が差した。
「だって……」
再び姫花と目を合わせた花月の表情もまた、影の中にある。
「だってあいつらは、お嬢様を殺そうとしてたじゃないですか!」
この怒声を浴びた姫花は口を半開きに、輝きを失った瞳を僅かに震わせ、最も忠実だったはずの家来に弱々しい眼差を注いだ。しかし花月は言い終えてなお怯まず相手を睨み、瑞々しい桃色の唇が動くのを待つ。それは十秒ほど続いたが、姫花がおもむろに口を閉ざし、喉を微かに膨らませて生唾を飲み込むとその小さな音で花月の顔は青ざめ、間も無く淡い陰影を帯びた静かな女声が室内を潤した。
「それは昔の話。今は違います」
微笑に乗せた姫花の返答を聞くや、花月もくすんだ男声で静かにこう言い返す。
「覚えてますよ、僕……忘れません。奴らとの戦いで、どれだけお嬢様が傷ついたか……」と、上目遣いに。
「あれは仕方なかったのよ」
微笑を濁さず姫花は宥める。
「いや、思い出してください。あの連中は何者でしょうか? 五人とも前科持ち。全員が犯罪者です。しかもみんな変態で、血に飢えた野獣じゃないですか!」
「法律なんて時の為政者が決めているだけで、絶対的な掟ではないでしょう?」
「僕が言いたいのは! 奴らは平然と人を傷つける、場合によっては殺しもやる、暴力の塊みたいだってことです!」
「それなら私も変わりません」
「ぜんぜん違いますよ! お嬢様は違う!」
「どうして? 何が違うの?」
「優しいからです。お嬢様は誰よりも優しくて、思いやりに溢れていて……」
小首を傾げた姫花の優しい問いかけに、花月の反論はみるみるディミヌエンド。彼は頻りに口を震わせたがそこから言葉は流れず、そんな虚しい発言の気配さえやがて、唇の両端を均等に釣り上げた姫花が作る穏やかな沈黙の中へ、薄雲が風に吹かれて青空と消え行くように溶けて込んだ。
「花月、あまり私を美化しないでね。今あなたの目の前にある私だけが私の全てではないのよ」
くすくすと笑う姫花の顔には、花月の怒号を被る以前とは違う妖しい笑顔が咲き初めている。
「美化なんてしてません……僕はずっと、お嬢様に守られてきたから……」
背筋を伸ばして答える花月の額から汗が吹き出す。
「あなたこそ思い出してみて。私が何をしてきたか覚えているかしら。そしてこれから私が成し遂げようと考えていることは、いったい何でしょうね」
「でも、それは、利己的な動機で目指してるわけじゃないでしょう……!」
裏返った声による反駁だった。
「そうとも言い切れません」
大輪を思わせる微笑で以て、姫花は返す。
「え?」
「だって、長年の夢ですもの」
もはや花月に抗弁の余地はなかった。
単なる確認だったのだ。怖かったから回りくどい方法に頼っただけの話。その結果、改めて思い知らされた。『僕よりもあの五人の方がお嬢様に近い』と、残酷な現実を。
「ねえ花月」
またも俯いた花月を呼ぶ姫花の声はしかし、弟を慈しむ姉のそれであるかのように柔らかい。それこそ『誰よりも優しくて、思いやりに溢れて』いる少女の口振りはかくやあらんと彼に感じさせる、底なしの包容力がある。
「人は変われるのよ。その人が望んだ通りに、少しずつだけれど。世界も同じ。だからこうして私たちは戦っているの。分かってくれるわよね?」
抜け殻のようになった花月は虚ろな瞳で姫花を見つめ、無反応。
「大丈夫、怖がらないで」
そう囁いた姫花は両足を擦り合わせるようにして靴を脱ぎ、裸の足をベッドに上げると膝で体を支えて四つ這いに、花月へ迫った。彼女のしなやかな右腕が上がり、その手は花月の頬に伸びて、指先が優しくそこを撫でる。
「憎しみの対象を少しだけ変える。それが変革への第一歩。もちろん簡単なことではないけれど、それはとても大切な課題です。あなたにとっても、あの方達にとっても、それから私にとっても……」
花月は様々な花をより集めたかの如き芳香とネグリジェから覗く豊胸の谷間に息を呑み、逃げるように上体を倒して仰向いた。
「僕はっ……」
絹の白い夏掛けを両手で握りしめた花月が言う。
「僕はお嬢様には変わってほしくありません……」
「何が心配なの? 言ってみて」
四つ這いのまま髪の一部を垂らして家来に顔を近づける姫花の物腰は、依然として嫋やかだ。追い詰められた花月は左右上下に目を走らせ、呼吸を乱す。
「色々ありすぎて……」
「それではわかりません。お互い不満があったら遠慮なく言う約束でしょう?」
「つまらない話です」
「いいのよ。聞かせて」
「実は、僕があの五人を憎む一番の理由は、お嬢様を、その……」
「はい」
真っ赤に染まった花月の顔を、姫花は神妙な面持ちで覗き込む。
「お嬢様の心を奪うのではないかと、それが心配で……」
数秒の間があった。
いそいそと視線を姫花に戻した花月が見たものは、恍惚たる表情の彼女がちょうど薄っすら口を開いた瞬間である。
「かわいい子」
それが小暗がりの中でも艶めく姫花の唇から、雫のように溢れた言葉。
「妬いているのね、花月。いままであまり構ってあげられなくて、ごめんなさいね」
「いえ、そんな……ただの下僕に過ぎない僕なんかがお嬢様にそんな感情を抱くなんて、身分不相応で……ただ僕は」
いっそう取り乱した花月の口は、姫花の右手に抑えられた。
「いいのよ、変わっていない証拠を見せてあげる」
そうして彼女はもう一度、相手の口を塞いだ。ただし、今度は唇によって。
二人の頭部が重なり、花月は手足の指を忙しなく動かしては濁った撥音を漏らし、姫花は両手で自らの上体を支えて足の指を広げ、丸々と突き出した尻を緩やかに振りつつも声はあげない。一分後、熱く照り始めた朝日の中で、二人の唇は糸を引いて離れた。
「あの方達にはこんなことしないでしょう? 花月は特別」
人差し指の側面で唇を拭う姫花は落ち着き払っており、額に汗を滲ませてはいるものの淫らな雰囲気はなく、相変わらず弟を思う姉のように淑やかである。花月とて大差はなく、息を切らし、汗にまみれて仰臥を続け、虚空を見つめてはいるが、その目には確たる精彩が宿っている。
至近距離で二人は見つめ合い、一切の動きを失って時の流れに身を任せた。そこに言葉は必要なく、それまで聞こえなかったものに二人は耳を奪われる。風の音、鳥の声、カーテンのはためき、草木のそよめき、互いの息遣いや心音にまで。
「だから、私を信じてくれる? 私の夢を」
「信じます、当然です……」
*
姫花と花月は枕を並べ、言葉も行為もなく数分を過ごした。
沈黙を破ったのは後者である。
「そういえば……さっきの音楽のタイトルも《夢》でしたよね。原題はなんでしたっけ」
「Rêverie」
半分ながらフランス人の血を引く姫花は、流暢な発音で母の母国語を喋った。
「ああ、そうでした。どうしても思い出せなくて……」
花月がわなわなと体を震わせて上体を起こす。
「どうしたの、花月?」
不安に顔を歪めた姫花もそれに倣う。
「ああ、すみません……お耳に入れておきたいことが……」
「見えたのね?」
「はい、夢の〝内容〟も思い出しました……また敵が増えそうです……」
「そう……詳しく聞かせてくれる?」
姫花は花月の手を握って微笑み、尋ねた。それが不倶戴天の敵に関する情報だと予感しつつ、家来の手前、自身も震えるほどの恐怖と憤激を必死に堪えて。




