第二章 花間に彷徨う 2
固定電話が無機的な音色で奏でる〝ある晴れた日に〟の旋律は社員の疎らなオフィスにうるさいほど響いたが、室内にたった一つのそれを取ろうと立ち上がる様子は誰にもなく、メロディが再び最初から始まったところでようやく窓際の机にてデスクワークに励んでいたリクルートショートの青年がため息をついて席を離れ、音の源が置かれた通路側にあるキャビネットまで歩いて行き、受話器を右手に持つが早いか愛想笑いを浮かべ、それを耳にあてがい爽やかな声で応じた。
「はい、こちら大蛇田商会でございます」
真夏の室内にもかかわらず、真っ白なワイシャツに紺色のネクタイを締め、漆黒のスラックスとぴかぴかの革靴で決めたこの青年へ、机に張り付いている数人の目が一瞬だけ集まる。
「あ、もしもし。あたし、私立探偵の者ですが……」
彼が受話器を通して聞いた女声は肩書きに反して初々しく、まだ少女と言える年齢ではないかと思われて、その口ぶりにもどこか未熟さが漂っていた。
「はい、お名前をいただけますでしょうか?」
青年は細い眉と高い鼻、それに丸く大きな双眸が目立つ柔らかで若々しい卵型の顔に浮かべた笑みを歪めながらも、口調だけは乱さない。
「佐伯霙です。あっ、事務所は椚原にあって、《小島田興信所》と言います」
「ありがとうございます。では佐伯様、本日はどのようなご用件で?」
「あの、実は今日の午後一時に、貴社の縣七緒班長とお会いする予定なんですけど、縣班長はいらっしゃいますか?」
ますます笑顔を曇らせた青年は受話器を左手に持ち替え、窓際にある自席の隣に座ってPCスクリーンを睨んでいる左右へ均等に分かれた黒いショートヘアの女に視線を投げたが、彼女は相手に一瞥もくれず作業中。
「ええ、おります」
「それではそのっ、面談のご確認を縣班長に……」
「左様でございますか。では申し訳ありませんが、本人をお呼びいたしますので、少々お待ちいただけますでしょうか……?」
「あ、はい。お願いします」
「はい、失礼いたします」
彼は受話器を置くと途端に顔を顰めて元いた場所に引き返し、隣の女に恐る恐る声をかけた。
「班長、お電話ですよ」
「誰?」
胸元の開いた半袖のワイシャツ、黒いミニのスリット入りタイトスカート、素足に黒いパンプスという出で立ちの七緒は、細かい字が並んだスクリーンから長い睫毛に覆われた切れ長の目を離さず、刺々しい声を出す。
「《小島田興信所》の佐伯霙と名乗る私立探偵の女性です。今日の午後一時に班長と会う予定だとかで」
首回りで水平に切り揃えられた彼女の後ろ髪が不意に揺れ、その額を晒した瓜実顔が難詰の色で以て青年の顔を見上げる。それから七緒は僅かな沈黙を経て面を下げ、深いため息をついた。
「班長?」
青年は直立不動で苦笑い。
「なんでオフィスの電話なんかに出たのよ。あれは部長の意向で取り付けられた飾りみたいなものだからほっとけばいいって教えなかったっけ?」
項垂れたまま七緒は問う。
「初耳です……が、班長。私立探偵と面会の約束してたって本当ですか?」
「イタズラに決まってるでしょ。全然身に覚えがないんだから。適当にあしらっといて」
彼女はもともと丸くない目を更に細めて顔を上げ、スクリーンとの睨めっこを再開。
「いや、でも、班長の名前とオフィスの番号知ってるって怪しくないです?」
「念のために番号控えときなさい。それと録音して声紋も取っといて。こっちは猫の手も借りたいくらい忙しいんだから」
キーボードを打つ音が会話に取って代わり、数秒経過。
「はい……」
愛想笑いも枯れ果てた青年は、再び固定電話へと足を向け、その受話器を取らなくてはならなかった。
「もしもし佐伯様、お待たせいたしました」
「あっ、もしもし? お会いできそうですか?」
自称私立探偵の声は明るく弾んでおり、少し聞かないうちにまた幼くなった気がした。
「それがですね、縣はたった今、急遽事件現場へ向かうことになりまして、今日は一日戻ってこれないそうです」
「なんで嘘をつくんですか?」
いっそう調子の高くなった声に真偽を見抜かれた青年の顔が、驚愕で引きつる。
「はい?」
間の抜けた声が漏れた。
「あたし分かるんです! 声を聞けばその人が嘘ついてるかどうか! 目を見ればもっとはっきり分かります! 謂わば歩く嘘発見器っす! 百発百中っす! そ、そう! あたしこの能力で縣班長のお役に立つって約束したんです! だか」
通話終了。
受話器を置いた青年は、如何なる声も通さなくなった固定電話を憎々しげに睨みつける。
「ったく最近の子供は能力とか異世界転生とか世界征服とか、いつまでもファンタジーワールドに生きてんだよと……いい加減現実を見ろと……」
思わず普段から抱いているそんな感慨が口をついて出て、もう一度数人の社員が彼に白い目を向けた。
「お疲れ安東くん、お昼行くわよ」
折りよく仕事を切り上げた七緒が青年の背を平手で叩き、同行を促す。
「あ、はい……」
安東は背中に受けた打撃で軽く仰け反った後、左右に揺れる班長の尻を追って歩き出したが、出入り口を抜ける際、立ち止まり、眉を下げて振り返り、固定電話に仄暗い眼差しを投げた。
「イタズラ、だよな……?」
数分後、彼は社内食堂にて七緒と向かい合い昼食を取っていた。しかしこの日、朝からとんでもないニュースが社内を駆け巡ったこともあり、彼の好物である生姜焼き弁当も減りが遅く、七緒のざる蕎麦もまた同じ。白いテーブルには飲食物の傍にタブレットが陣取り、二人の指と目もそちらに傾いていて、それは食堂に居合わせた社員の大半もまた同じ。
「ひどいですね、あの事件。今朝の社内報にあったやつ、《ビッグアイ》の従業員十三名惨殺って……これだけの被害も珍しいんじゃ……」
タブレットを操る手を休め、食事に取り掛かった安東は、箸に載せた白米を口へ運ぶ前にそう言って、しばらく途絶えていた会話を蘇らせた。
「しかもまた同じ手口」
最新の情報を漁っていた七緒も一息ついて箸を持ち、補佐が振った本日最悪最大の話題に乗る。
「はい。遺体の頭部に花束を突き刺して天使の輪よろしく円形に広げる……全員にです」
「いい趣味してるわね」
「これいろんな意味でやばいですよ。明日は我が身じゃないですか」
「そうね。怖気付いたなら今のうちに退職届出しときなさい」
音を立てずに蕎麦をすすり終えた七緒は、スマートフォンに届いたメールの確認と返信を始めた。
「嫌なこと言わないでくださいよ……自分だって危険には慣れてますし、生半可な覚悟でこの業界入ってませんからね。それより従業員の死に過ぎでこの職業がなくなりはしないかと、そっちが心配で……」
「なくなるわけないでしょ」
スマートフォンから目を離さずに七緒は答えた。
「そうですかね」
「当たり前じゃない。私たちはね、闘いのための闘いを強いられてるんだから」
「誰にです?」
「色々あるわよ。政府の意思、時流の必然、市場の原理……でもそれだけじゃない。もっと見えにくい何か。もっと強くて大きなもの……」
「班長、いつから詩人になられたんですか」
箸を動かすのも忘れて聞いていた安東は、作り笑いを浮かべて半畳を入れる。
「うるさいっ。女の勘ってやつよ」
相変わらず食事中も仕事を欠かさない七緒は、特に顔色を変えるわけでもなく、いつも以上に諦めきったような遠い目をして、スマートフォン越しに安東を見た。
「ふむ……」
なんだって非現実的、非科学的な話を好む人が増えているのだろうか、と安東は思う。しかし確かに、今の世の中、どんどん漫画や映画の世界に近づいているような……新興宗教の勃興、終末思想や陰謀論の流行、既成国家モデルの解体、テロリズムの嵐、並行世界への注目、人工知能の普及、バーチャルリアリティの発展、万能細胞の完成と、この変化はかなり昔から既に始まっていたのかも知れず、現実と空想の境界線も徐々に曖昧となりつつあるのではないか。しかもこの地、鬼母塚には鬼の血を受け継ぐ一族がいるなんて言い伝えもあるし、エージェント養成学校もあれば改造人間もいるしで、その意味でもここは夢と現が交わる領域と言えなくもない。最近は世界征服を目指す連中まで……。
「あっ、そうそう。班長はもうご存じです? あの〝暴力組織連続襲撃事件〟に関する妙な噂が囁かれてましてね、これがなかなか面白いんですよ」
安東はきな臭い空気を変えるために話題を転じたのだが、七緒の反応は渋かった。
「特務機関の社員ともあろうものが、流言にうつつを抜かしてどうするのよっ」
「まあまあ。この辛気臭い雰囲気の中、夢のある話題でもなきゃやってられないでしょう。もちろん、自分だって曲がりなりにもプロですので、現実と空想の混同はしませんからご安心を」
一通りの作業を片付けた七緒は脚を組み、手を空にして安東の顔を見つめる。
「もう大抵のことじゃ驚かないわよ」
「実はですね、このところヤクザ、マフィア、ギャングらを立て続けに襲撃してるのは同業者ではなく、世界征服を目指す第三勢力、それも百戦錬磨の若い連中じゃないかと一部のジャーナリストは見てるんです。で、その中には当社が何度も手を焼いた悪党がいるらしいと」
「ふぅん……その世界征服目指してるって情報はどこから出てきたわけ?」
七緒の表情は変わらない。
「内部告発らしいですよ」
「馬鹿馬鹿しい」
「しかもですね」
めげずに安東は続ける。
「それを束ねてるのが夜叉神一族の娘で、こいつがまた恐ろしく強いって噂でして」
「夜叉神一族って言ったら公安の幹部にいるじゃない。そこの娘が武力行使で世界征服を目指すなんておかしいでしょ」
「それはそうですが、あの一族も一枚岩じゃないみたいですからね。本家の下に多数の分家があって、夜叉神はその一つに過ぎないんですから。もしかするとあるのかもしれませんよ、複雑な事情、内部分裂、クーデター的な何かが」
そう語る安東の面持ちはどこか楽しげで、その口吻はもう、本人がかくあれかしと望むリアリストのそれではない。
「世界征服、ね……それを成し遂げてくれたら、少しはマシな世の中になるかもね」
対する七緒も些かの憧憬を滲ませて呟いたが、この台詞は安東の不安を煽り、かつ我に帰らせる効果を含んでいた。
「ちょっと、気をつけてくださいよ……? 特務機関の班長にあるまじき発言は……」
彼は慌てて周囲に目を走らせる。
「冗談よ。分かってますとも。私たちは警察が担いきれない諸問題の解決を請け負う民営特務機関。つまり内閣府お抱えの警備会社、株式自警団。それ以下でもそれ以上でもない……誰の言葉だったかしら」
そうして会話が途切れ、二人の表情は、仕草は元どおり。
個の思想が入り込めない組織の意志。理想との甚だしい乖離にも目を瞑り、これが現実と己に言い聞かせ、その色と形に合わせて自我を染めそして削り、放っておけばいつの間にか生えてくる雑草よろしく私情を刈り取る作業は痛みが伴うが必要不可欠。世界征服というもはや御伽噺の甘美な響きに耳を傾ける暇が一瞬でもあるならば、その人は幸せ。前を見ろ、前に進めと急かすのは、決して時の流れだけではないと二人は知っている。
「さてと、そろそろ肉体労働といきましょうか」
ややあって七緒が腰を上げ、切り出した。
「ですね」
安東も上司に倣う。
その時だった。少女の甲高い声が、満員の食堂に響いたのは。
「縣班長!」
彼女はその場の誰にとっても見慣れない少女だった。腰まで届く明るい金の毛髪はポニーテールで、その左側面につけられた銀色に輝く蝶の髪留めは広げた掌ほどの大きさを誇り頻りに揺れ、ぱっちりと開いたつぶらな目の中で茶色い瞳は忙しなく動き回り、黒いスレンダードレスと同色のハイヒールは見るからに慣れておらず、その歩行はぎこちない。
「お願いします……どうか、どうかお話だけでもッ……!」
悲痛な叫びだった。場数を踏んだ社員達が、呆気にとられるくらいに。
「あなた何者? どうやって入ってきたのッ!」
そんな少女に苗字を呼ばれた七緒は周章狼狽。彼女に詰め寄り、向かい合い、念のために臨戦態勢。
「受付の方はあたしの能力を認めて、通してくれました」
小柄な少女は長身の七緒を見上げ、あっけらかんと答えた。
「はあ? 能力?」
「覚えてませんか? あたし、ほら、人間嘘発見器っすよ! 居酒屋でお会いした!」
淀んでいた七緒の記憶に微かな光が差し、それが空手の半身構えを解かせる。
「居酒屋? 人間嘘発見器? もしかしてあなた……さ、さえ……」
「はい! 佐伯霙、さすらいの超能力者です!」
満面の笑みで、黄色い声で、少女は叫んだ。
夥しい視線が、七緒と霙に集まっていた。