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雌蝶の夢  作者: 土干士工
第一部
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第二章 花間に彷徨う 1

 闇を切り裂くバタフライナイフの一閃。既に男三人の動脈を断ち命を奪ったそれはしかし、持ち主の卓抜した技量故か人血の赤に汚れてはおらず、枠しか残っていない窓から差し込む三日月の弱々しい光さえ武勲を讃えるスポットライトでもあるかのように浴びて勝ち誇り、この荒れ果てた廃墟に不釣り合いな白銀の輝きを以て最後の一人となった獲物を脅かしていた。

 彼はたった一人の少年に一方的に追われ、傷つけられ、弄ばれるというかつてない恐怖によって乱れに乱れた呼吸を必死に抑えつつ、階段室を出て突き当たりの一室に飛び込み息を潜める。

 もう走れない。手足に刻み付けられた切り傷は深く、血が止まらない。しかし闘うわけにもまたいかない。あの少年は想像を超えて強く、万一にも勝機はない。

 ないないないない……助かる術がない。どこにもない。

 我が生涯はたった二十五年で終わるのか。大手特務機関に入社したのも、そこでの努力も無駄だった。しかも担当していた事件の主犯達に殺されるこの屈辱、堪え難い。恐らく、他の隊員達も今頃……。

 緩慢な硬い足音。革靴だ。あの少年だ。血の跡を辿ってきたのか、肩息を聞きつけてきたのか……。

「やめてくれ……降参だ……」

 命乞いしか選択肢はなかった。プロとしての矜持も何処へやら、仲間を三人も殺された怒りも何処へやら。

「いいか、これは愛なんだ」

 その少年は青白い顔をしていた。目鼻立ちは整っているのに、左眼を隠す黒い前髪と気怠げに目尻の下がった右眼には生気がなく、幽霊のようだった。

「頼む、やめてくれ! なんでもするから!」

 眼前に立って自分を見下ろす少年に、獲物は命乞いを繰り返す。対する少年は眉の一つも動かさない。

「分からないのか?」

 冷たい鉄のような声で少年は問う。そして相手の返答も待たず、やった。

「俺もだよ」と呟いて、獲物の頸動脈を断ち切って、命乞いの隙も与えぬ早業で。

「ああっ……」

 鮮血が迸る患部を両手で押さえて横たわった男は、断末魔と呼ぶにはあまりに呆気ない声を漏らし、激しく震えながら自分で作った血溜まりに溺れて行く。彼が動きを失うまでの約一分間、少年は獲物の血が革靴を汚すのもかまわず、依然として無表情でそれを眺め続けた末、台本の棒読みのような口調で言った。

「死んでくれてありがとう」と。

 それから少年は踵を返して最寄りの窓に足をかけ、これまた荒れ果てた中庭をそこから眺め下ろすと、何の躊躇いもなく飛び降りた。三階からである。

 着地の際、下半身の関節を全て曲げて衝撃に耐えた少年は、その三秒後、三日月を背に平然と立ち上がり、前方を見やった。三人の男女が肩を並べてやってきたから。

「そっちも片付いたみたいだね」

 真ん中を歩く長身痩躯の少年が、愛想よく笑いかける。ふちの赤い丸眼鏡に、柔らかな金の毛髪、白い半袖のワイシャツに白いスラックスと、ポロシャツもボトムスも黒い左眼を隠した少年と対照的だ。

「今、ちょうどな」

「結構結構。しかし皆殺しとは少々は参ったな。拷問にかける人間は多いに越したことはないのだがね」

「なぜ皆殺しにしたと分かる?」

 左眼を隠した少年の眉が微かに動く。

「そういう能力があるのだよ。君に特殊な能力があるように、僕にもね」

「ふん……で? そっちはどうだった」

「三人合わせて九人。大手と言っても所詮は民間人、拷問には耐性がないようだ」

「せーだいに吐いたなァ? 一本ッつ逆向きに指折ったらよ、いらんことまでペラペラとよ。お前んとっからもダダ漏れだったぜ?」

 こうせせら嗤った男はスキンヘッドに蜘蛛の刺青が踊っているのだが、その台詞や顔面の凶悪さに反して背丈は140センチほどしかなく、袖なしの革ジャンもジーンズもブーツもすべて、その幼児体形に合わせて作られたようだ。

「すぅぐ音を上げんだもぉん。もぅマジ手応ぇなさすぎぃ、っまんなぁぃ」

 スキンヘッドの小人に水を向けられた少女は亜麻色のボブヘアをふわふわ揺らし、血に染まった右手を舐める。赤いのはそこだけではない。ふくよかな胸を包む桃色の花柄トップスも、同じデザインのショートパンツも、白いフラットシューズも、返り血で本来の色調を損ねている。

「拷問か……専門外だし、たりぃな……」

 そうこぼしたのは左眼を隠した少年である。

「気持ちは分かるがね、これからは君にもやってもらわねばならない。何せ今朝もまた同胞が三人やられたのだから」

 金髪の少年は笑顔を絶やさず、俄然訪れた沈黙を確かめて先を続ける。

「三人とも意識不明の重体だ。拷問の形跡もあった。あのやり方は警察では勿論なく、特務機関でもないだろう。容赦がない」

「こゎぃょね、ゅるせなぃょ」

「誰か知らネェがいい度胸してやがるぜッ! あああブッコロしてェ!」

「目星はついています」

 最後の声に、その場の誰もが息を呑んだ。

 天上から舞い降りてきたかの如く縹緲として柔らかなその声音、そして微塵も気配を感じさせなかった登場に、全員が驚きを露わに月光の照らす方角へと顔を向ける。

 そこに立っていたのは、白銀に煌めく長髪を夜風に靡かせる、白子の少女だった。下がり目と瑞々しい唇には水彩画を思わせる儚げな微笑が漂い、透き通るような青い瞳は優美ながらどこか冷たい。水色のブラウスに淡い桃色のカーディガンを羽織り、膝丈の白いマーメイドスカートの前で慎ましく両手を重ねているのだが、ただそれだけで見る者に畏怖の念を与えずにはおかない神秘的な力が彼女にはあった。

「誰だ?」

 左眼を隠した少年は咄嗟にナイフを構える。『いつからそこにいた?』という質問は押し殺して。

「やめろバカッ! 元締めの情報くれぇ仕入れとけ!」

 ますます血相を変えてスキンヘッドの男が怒鳴る。

琢磨たくま君、こちらの方は水天宮すいてんぐう白龍しりゅう様だよ。GOZUの上位組織《ばく》の幹部であらせられる貴嬢だ。つまり我々の雇い主様だね……」

 額にうっすら汗を浮かべた金髪の少年が説き、左眼を隠した少年、琢磨はナイフを下ろす。

「そうか。それは失礼した」

「おいッ、口の利き方……! すんません白龍さん……こいつ新入りなもんで……」

 スキンヘッドの男は白龍に向き直ると卑屈な笑みを拵え、頻りに頭を下げた。

「いいのよ、みんなそう硬くならないで。私たちは志を同じくする友人なのですから」

 言って白龍は四人に歩み寄る。特に、琢磨の右目に視線を注いで。やがて彼女は彼の眼前で白いパンプスを履いた足を止め、そのナイフを握ったままの右手を両手でそっと包み込んだ。

くすのき琢磨さんね? 噂はかねがね伺っております。まだお若いのに一流の刺客だとか……心強いわね、歓迎いたします。これからよろしくね」

 そのオーロラみたいな少女を前に、琢磨は冷や汗が止まらない。 優しい口吻、穏やかな挙措にも関わらず、嫌な予感が胸裏を去らないのだ。

「ところで、その、目星とは?」

 琢磨は白龍から目を逸らし、話題を変えた。彼女の柔らかくも冷たい手を、恐る恐る、丁重に抜き取りながら。

「そ、そうです白龍様。宜ければ是非、我々に仇討ちの機会を……」

 金髪の少年が瞳を燃やして彼女に迫る。

「いえ、まだいけません」

 眉を八の字にして白龍は答えた。

「俺たちでは力不足ですか……?」

 スキンヘッドの男がもじもじと尋ねる。

「そうは申しません。ただ、あちらには厄介なパトロンがついているのよ」

「ぁ、ぁのぅ……そのパトロンごと叩きっぶすって、できなぃんでしょぉか……」

 恐々と意見を述べたのはボブヘアの少女。

「少なくとも今は、適時ではありません。けれど仲間たちを傷つけられて悔しい気持ちは、私も同じ……」

 つと白龍は顔を上向け、夜空に浮かぶ三日月を睨んだ。

「嫌な月。思い出してしまうわ……」

 微かな不機嫌の発露。それすら四人を怖気付かせるには十分で、真夏の夜は白銀の少女を中心として俄かに冷え込んだと思われたほど。

 が、彼女は間も無く我に帰って甘い笑顔を周囲にくばり、沈黙を破った。

「ごめんなさい。私としたことが心を乱してしまいました。そうね、残念だけれど、まだ彼女とは戦ってはいけません。あの子はいつか、私がこの手で、責任を持って、終わらせて上げなきゃいけないの」

「失礼ですが、もしや白龍様はその〝彼女〟? と面識がお有りなのですか?」

 金髪の少年は好奇心を隠しきれない様子だ。

「ええ」

 白龍は不可思議なくらい楽しげに頬を緩ませ、声を弾ませて言う。

「とっても可愛い、不死身の雌蝶よ」

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