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雌蝶の夢  作者: 土干士工
第一部
4/8

第一章 不死身の雌蝶と五匹の野獣 3

「あ、蝶々……」

 花壇の手入れに勤しんでいた少年の口から、そんな呟きがこぼれた。

 燦々と降り注ぐ真夏の陽光を浴びる向日葵ひまわりの上を、二匹の蝶が戯れつつ、複雑な曲線を描いて飛び去って行く。少年はその愛くるしさに見惚れて作業を中断。額に浮かんだ汗を手の甲で拭い、ため息を一つ。

「お嬢様、大丈夫かなぁ……」

 彼は眉をひそめて振り返る。焦げ茶色の煉瓦で造られた、古びた洋館を。特にその二階を。

 平凡かつ垢抜けないこの少年は童顔で、茶色の目はやや暗く、自信の欠如を物語る反面、思慮の深さをも湛えていた。小柄なその体にまとった白いジャージは汗染みだらけで、そのだぶついた着こなしが野暮ったい印象に拍車をかけてはいるものの、特に器量が悪いわけではなく、上述の特徴が一種の愛嬌とならなくもない。

 ところが、この善良そうな少年を脅かす五色の声が、件の洋館から聞こえて来た。それは程よく混ざり過ぎて、言葉の意味は疎か、怒っているのか笑っているのか泣いているのか、それとも無意味な叫びなのか、はたまたその全部なのか、弱気な少年には分からない。

 けれど一つだけ、確かなものがある。自らの胸裏に渦巻く、負の感情だ。

「始まった……」

 恐怖、嫌悪、屈辱、羨望、侮蔑……。

 少年には分からない。なぜ〝お嬢様〟はあんな連中を仲間にしたのか。なぜ幼少より特別な関係である自分を差し置いてお嬢様は、〝あの五人〟と触れ合うのか。

 彼が睨みつけるその先、二階に当たる格子窓には白いレースのカーテンがかかっていて、今すぐに中の様子を窺う術はない。階段を使ってあの部屋へ走るか、梯子を使ってそこまで登るか……。

 間違いないのだ。そこにいるのは。あの全員が。


 事実、姫花と五人はそこに揃っていた。明るいアイボリーを基調としたアール・ヌーヴォーの意匠が息づく、約60平米のリビングルームに。

 部屋の中央、窓を背にしたソファはやはりアイボリーで、その真ん中には洋館の所有者、即ち姫花が座っていて、袖がない真紅のネグリジェを着た彼女の肌にはまだ痛々しい傷痕が残っており、腕や太ももに巻かれた包帯の数量も尋常ではない。澄んだ青で花柄をあしらった白いティーカップを口元へ運ぶ右手も僅かに震え、傷のない顔は柔和な笑顔で華やいではいたが、薄っすらとそこに浮かんだ汗は痩せ我慢でも隠し切れない痛みの証拠だった。

「姫、まだ休んでいた方がいい」

 腕を組んで窓際の壁にもたれた短い黒髪の少年、讃良さわら武揚たけあきがそれを見兼ねて静かに申し入れる。

「いいえ、おかげさまで五体満足ですから」

 紅茶を一口味わった姫花はカップをソーサーに置き、振り返って、満面の笑みを相手に捧げた。

「五体満足の基準低すぎね?」

 彼女の向かって左隣で脚をテーブルに乗せて座っている長い金髪の少年、諸見里もろみざとれいが口角を釣り上げて冷やかす。

「そうでしょうか」

 小首を傾げて姫花は笑う。

「でも流石だよねぇ。たった五日でこの回復、綺麗なお肌も元どおり」

 今度は向かって右隣で脚を組んで座っている茶色い巻き髪の少年、生駒いこまゆずるが姫花の太ももに指の背で触れて褒め称える。

「謙さんの投薬が効いたからです。ありがとうございました」

 彼の手を握って姫花が微笑む。

「おいっ!」

 謙が反応を示す時間あらばこそ、扉の近に立っていた赤いソフトモヒカンの少年、弓納持ゆなもち北斗ほくとが声を荒げて姫花の耳目を引いた。

「お前、そいつに変なことされなかっただろうな?」

 彼は眉間に皺を寄せ、心なし顔を赤らめる。

「ふふっ、ご安心ください。あったとしてもせいぜいご覧の程度です」

 姫花はわなわなと乳房に忍び寄る零の魔の手を片手で掴んだ。

「つれないぜ、姫」

「やっぱり怒ってる? 僕ら助けに駆け付けたの遅かったもんねぇ」

 未だ手首を押さえつけられたままの謙が苦笑い。

「いえ、そんな……皆さんに夜分遅くに集まっていただいて、しっかり助けていただいた私が怒るだなんて……」

 両手を離した姫花は顔色を変え、おずおずと屋中を見渡す。

「今回ばかりは驚きましたよ」

 姫花の真正面で一人用のソファに腰掛けていたメガネの少年、祁答院けどういん聖夜しょうやが緑茶の入ったグラスをマホガニーのテーブルに置いて優しく微笑む。

「一族に追われる身でありながら暴力団の集会に単身乗り込んで行かれるとは、恐れ入りました」

「すみませんっ……私こそ皆さんから怒られる立場ですよね……」

 居住まいを正し、肩を窄めて姫花は俯く。

「なんの。お陰で五人の工作員から有益な情報を引き出せましたから、大きな収穫でしたよ。全ては姫のご活躍あってこそです。我々にはとても真似できません」

 その口調に皮肉の色は微塵もない。そして他の四人にも、非難の気配は見られない。その部屋にはただ、姫花への忠愛と尊敬と信頼と賞賛と恋慕とが五人分、混ざり合って満ちていた。

「ありがとうございます……本当は一人で帰るつもりだったのですが、不覚を取ったばかりに情けない姿をお見せしてしまって……」

「どうせまた情に絆されたんだろ」

 電子タバコを咥えた零が言う。

「ゴキブリも殺せないんだから無理しなきゃいいのに」

 テーブルを支えに頬杖をついて謙が言う。

「そういう荒仕事は是非俺にと、いつも言ってるんだがな……」

 渋い微笑を浮かべた武揚が託つ。

「あのよ……」

 伏し目がちにそう切り出したのは北斗である。そうしてまたもや姫花の注意を引いた彼は、彼女に向かってこう続ける。

「あんま無茶すんじゃねぇぞ。なんつーかその、お前に死なれると俺、色々と困んだよ……」

 直後、本人と姫花を除いた全員が腹を抱えて笑い転げた。

「言った! 言いやがった! マジであの臭いセリフを!」

「しかもこのタイミングで……!」

「なにこれ思いっきり愛の告白じゃん! 頭おかしいよこの人! やっばお腹痛いぃぃっ……」

「弓納持君、君には諧謔の才があるようですね」

「みなさん笑っちゃ駄目ですよ。北斗さんとってもかわいいでしょう?」

 そんな姫花の悪意なき言葉が追い打ちをかける。北斗の顔はみるみる真っ赤に染まり、その眉間には皺を通り越して青筋さえ浮かんできた。

「上等だテメェらまとめてブチのめしてやんよ! かかってこいやあああああああッ!」

 声を裏返して彼は叫ぶ。

 つまりそれらの集合体こそ、花壇の少年が聞いた五色の声なのだ。

「で、でも! あの人たちが変態さんである意味助かりました」

 自らが招いてしまった騒ぎを収めようと、姫花も声を振り絞る。これは彼女の狙い通り、即座に一同を鎮め、関心を集めるだけの効果があった。しかしそれだけに、乳房を両手で隠しながら発した次の言葉が彼らに及ぼした効果も、度外れだったのである。

「だって、こんな恥ずかしい部分、皆さん以外の殿方には触らせたくありませんもの」

 恐ろしいまでの沈黙。そして硬直。五人の少年が神妙極まる面持ちに変わるまで、一秒も要さなかっただろう。

「失礼。それは換言すれば、我々になら触らせても良いと?」

 聖夜がずれてもいない眼鏡を中指でかけ直す。

「えっ、あの……」

 姫花の笑顔が引きつった。

「姫の救出を呼びかけたのは私ですので」

 眼鏡の奥で氷のような瞳が煌めく。

「はい、感謝しております……」

「では報酬をいただきましょう」

「えっ」

 そこからが早かった。軽々とテーブルを乗り越えた聖夜が姫花を抱き寄せ、彼女の胸元に手を伸ばし、そこへと顔を近づけたのは。

「やっ……聖夜さんっ! いけません! まだ私、心の準備が……」

 胸と聖夜の腕を押さえて涙目で、姫花は叫んだ。必死の抵抗だ。

「一度だけ、どうか一度だけでも……」

 目口を節穴みたいに丸くして、聖夜はすがる。

「ざッけんなよクソメガネ! 万年発情期のアホ猿が!」

 聖夜のネクタイを引っ張り謙が怒鳴る。

「離れろ馬鹿! 今死んでも行き先は地獄だぞ!」

 聖夜の肩を押さえて武揚が喚く。

「一度だけなんだ? 一度と言わず二度でも三度でもくたばってみっか?」

 聖夜の髪を掴んで北斗が吠える。

「おーしおし、せいぜい潰し合え。俺ぁお前らが弱った後にじっくり姫をいただくからよ」

 ソファの脇に退いた零が、姫花から離れた四人の小競り合いを眺めつつ小声で呟く。

「っといけね、今のうちに精力つけてくるか」

 後ろ髪をかいた彼が踵を返して扉へ向かったその時、それは音を立てて開かれた。

「あ?」

「あ!」

 零と駆けつけた少年が見つめ合い、ほぼ同時に声を上げる。

「なにやってんだあんたら……!」

 把手を握る手を震わせて、誰にともなく少年は問いかけた。

「あー……まあなんか、初の月面着陸を巡る戦い的なやつ?」

 少年の目に飛び込んできたのは、部屋の中央で激しくもみ合う四人──彼らはいつの間にか、それぞれがそれぞれを相手とした乱闘を始めていた──と、ソファに座り込んで唖然とそれを見守っている姫花。しかも彼女の亜麻色の髪とネグリジェは乱れ、エメラルドグリーンの瞳は潤んでいる。

 ふつふつと怒りがこみ上げてきた。そのエネルギーを使えばなんでも出来る気がする。しかし同時に、彼は知っていた。五人の少年が、何者であるかを。


 目にも留まらぬ突きを打ちまくるのは、讃良武揚。千年の歴史を誇る武家に生まれ育ち、父親から叩き込まれた古武術を以て武神と謳われた男。

 両手に握ったメスを振り回すのは、生駒謙。薬学並びに医学のスペシャリストであり、かつては国会議事堂の襲撃も企んでいた元テロリスト。

 変化自在な攻撃で他を寄せ付けないのは、弓納持北斗。弱冠十三歳でギャンググループのリーダーに上り詰めた後、格闘家デビューを果たした天才。

 如何なる技も紙一重で躱しまくるのは、祁答院聖夜。学問、芸術、格技とあらゆる分野に秀で、裏社会においても若き帝王として注目を集める超人。

 そして目の前にいるのは、諸見里零。日本最大とも言われる窃盗団の長だった風雲児で、数々の死線を越えてきた生ける伝説。

 とても自分が敵う相手ではない。

花月かづき……」

 ふと少年の姿を認めて、姫花はその名を口にする。

 けれど慈愛に溢れたその声を聞き逃した花月は、少年たちへの嫉妬を込めて、唸るようにこう言った。

「傷の癒えきらないお嬢様を囲んでこの乱痴気騒ぎ。許さないぞ。許さないからな……五匹の野獣め……」

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