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雌蝶の夢  作者: 土干士工
第一部
3/8

第一章 不死身の雌蝶と五匹の野獣 2

 蝶の優しい羽ばたきに導かれて目を覚ますと、そこは思い出の地だった。

 晴れ渡った午前の空はどこまでも青く、草原の緩やかな起伏は中天へ上りきらない太陽に淡い影を施されつつ森へ、そして稜線の彼方まで続いており、優しい風は柔らかな香りとうぐいすの囀りを運んできては頬を撫でる。小高い丘にはにれの樹が一本だけ聳えていて、この樹下で微睡むのが少女は好きだった。青々と梢に茂った若葉から、初夏の澄んだ光がこぼれ落ち、微風に揺らめく木漏れ日となって降り注ぐその中で。

 少女は薄眼を開けて、耳を澄ました。父の声が聞こえた気がしたから。

 彼女はまだ小さな蕾。しかし年齢にして二桁を数えないであろう幼さながら、豊かに波打つ亜麻色の髪に綾なされた顔は精巧な人形のように整っており、エメラルドグリーンの瞳は輝きは宝石さながら。未成熟な矮躯を包む白いワンピースは艶やかにきらめくシルク製で、足元に転がったバレエシューズもまた純白。つばの広い麦わら帽子だけが小麦色。

 ここへ来るときは必ずその組み合わせだった。父に似合うと言われて以来、白は彼女にとって特別な色。

「お父さま……?」

 身を横たえたまま、少女は呼んだ。けれど返事はない。聞こえるのは鳥たちの声と草木のそよめきだけ。この人里離れた高原にまでは浮世の喧騒も届かず、まるで人類が残らず死に絶えてしまったかのよう。

『お父様の仕業かしら。とても〝人間〟を憎んでいらしたから……』

 不意にそんな空想が起り、胸騒ぎを覚えて上体を起こすと、木陰よりもずっと深い黒が視界の隅に映えた。

「お父さま!」

 勢い良く立ち上がり、振り向いて、目を丸くして、声を裏返して、少女は叫ぶ。誕生日以来、二ヶ月ぶりの再会だったから。

「ここにいると思ったよ。元気だったかい、姫花ひめか

 大樹の裏から現れた父は色とりどりの花束を持っていて、どんな表情をしていたっけ……。

 少女は、姫花は思い出せない。まだ仲睦まじかった頃の父の顔が。

 世界が少し、暗くなった。

「はい! お父さまもお元気そうで……」

 父を見上げていた姫花は、彼の手による愛撫を頭に受けて言葉を詰まらせる。それから二人の足元に花束が落ちて、愛の奔流を感じさせる熱い抱擁があった。涙を拭うには充分な時間があった。

「よく生きていてくれた」

 互いの体が離れると、父は両膝をついたままそう言った。

「もう、お父さまったら大袈裟なんだから。私は不死身の雌蝶ですよ?」

「ははは、これはやられたな。でもね姫花、あまり自分の〝能力〟を過信してはいけないよ。当たり前の話だが、お前だって完全な不死身ではいのだからね」

「はい……」

 目も肩も声も、姫花は落とす。

「尤も、こんなこと私が言えた義理ではないな。我が子を私兵に育てておいて、調子のいい時だけ父親気取りなんておかしな話だろう」

「そんな……私はお父さまのためならどんな試練も……」

「いや、やめなさい。自己犠牲精神は好きじゃない。もしもの時が来たら、姫花。私を正しく恨んでくれ。決して許さないで欲しい」

 幼い少女に父の言葉は難しく、腹の底から冷たい水が湧き上がるような悲しみに襲われたけれども、その真に迫った口調からただ、こう返すしかなかった。

「努力いたします……」と。

 また少し、世界が暗くなる。

「良い子だ」

 沈黙。

 少女は膝を抱えて、父は両足を伸ばして、肩が触れ合いそうな距離で、それぞれ座った。

「ごめんよ姫花。せっかくの再会を暗い話で汚してしまった。しかし、これからはもっと住みやすい世界になる。私がしてみせる。絶対に」

 花束を娘に差し出して、父が言う。

 忘れられない顔だったはず。なのに思い出せない。

「私にもお手伝いさせてください。世界を美しく変えましょう!」

 うっとりと花束を受け取り、それを見つめて、少女は答える。

「ありがとう。姫花は姉妹の中で一番の頑張り屋さんだ」

 嬉しかった。父からの賞賛は最高の蜜、努力の糧だ。

「敢えて気になる点をあげるなら、敵に情けをかけすぎるところかな」

 苦しかった。父の思想に理解が及ばない不安は、地獄みたいに。

「お言葉ですがお父さま……それは、悪いことなのでしょうか……」

 そんな時にだけ、姫花は父に食い下がる。目を逸らし、裸足の指先を擦り合わせて。

「悪いとも。相手が善人ならまだしも、そうでないなら傷つくのは姫花だからね。時には命を奪う覚悟も必要だよ」

 ますます世界が、暗くなる。

「でも、お母様が仰っていました。どんな人も必ず誰かに愛されている。だから人の命を絶つことは誰かを悲しませ、誰かを憎しみで染め上げてしまう、と。私にも思い当たるふしはあります。お姉さまが殉職なさった時、叔父さまの訃報を聞いた時、それからシロが土にかえったとき、私は胸が痛みました。この感情は間違っているのでしょうか……」

「勿論、間違っていないさ。それはとても大切な感情だよ。でもね、放っておけば大勢の人を殺す輩もこの世にはいる。我々はそう言う連中と戦っているんだよ」

 必ずしもそうではないと、少女は既に知っていた。

「国家を成り立たせるものはつまり、暴力の一元化だ。これが不可能なら世界は阿鼻叫喚の大混乱に陥ってしまう」

 姫花の拇趾が、微かに震える。

「いいかい姫花、こう考えるんだ。常人よりも遥かに優れた体位を持つが故に、世界に蔓延る暴力を押さえつける職務に当たる。それが我ら夜叉神一族の天命なのだと」

 一段と世界が、暗くなった。

「はい……」

 あの時はほとんど分からなかった父の主張。子供だからと言って易しい言葉は使ってくれず、難しい話を遠慮なくしていたっけ。それでも父を愛していたから、咀嚼もせずに必死に飲み込み、お父さまは正しいのよと自分に言い聞かせた。

「見ていなさい姫花。この国はこれから変わってゆく。今は醜い争いや惨い戦いが後を絶たないが、それは愚かな人々が実権を握っているからだ」

「お父さまは目指していらっしゃるのですね。世界を守れるだけの力を?」

 宝石みたいな瞳を輝かせて、少女は父の顔を、不可視の顔を覗き込む。

「もっと強くて大きなものさ」

 そこから聞こえて来た声は、巨大な金属を途轍もない力で引きずったように荒々しく、黒々と濁っていて、身の毛がよだつほどに恐ろしかった。

『この生き物はお父さまじゃない』

 少女の脳裏がそんな言葉で埋め尽くされる。

 が、その〝生き物〟は逃げる少女を押し倒し、彼女の頭部に花束を突き刺した。するとその花束は天使の輪よろしく円形に広がり、生き絶えた少女を空高く浮かび上がらせ、風の速さで中天へと運んで行くのだった。

 世界は暗黒に閉ざされた。

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