第一章 不死身の雌蝶と五匹の野獣 1
もはや例年通りとなった〝異常〟な猛暑に日本全国が苦しむ中、ここ鬼母塚でもまた一つの夏日が平和に、とは行かずやはり平日通り極めて殺伐に終わりかけていて、別けてもその背景にある狂乱の度合いに関しては本日起こった事件のうち十指には入るであろうそれが、この薄暗い一室にて闌を迎えつつあった。
この部屋は凡そ40平米の長方形で、剥き出しのコンクリートはどこも赤黒い染みで汚れており、天井には古びた蛍光灯が連なっていて、それが照らすのは、両腕を水平、両脚は垂直、その他の関節も真っ直ぐ、即ちほぼ十文字に、手枷と足枷を用いて壁に張り付けられた少女と、それぞれの片手に思い思いの〝道具〟を持って彼女を取り囲む五人の少年である。程度の差こそあれ全員が息を切らし、淋漓たる汗で濡れているが、その理由は開け放たれた窓からも微風さえ入らないが故の蒸し暑さばかりではない。
「うっ……」
暫く続いた沈黙を破るように満身創痍の少女が喘ぎ、ほとんど唯一関節の自由な首を僅かに動かすと、顔にかかった緩やかなウェーブを描く亜麻色の長髪が微かに揺れ、饐えた汗の臭い以上に苦く生臭い温血が香った。
少女の体に張り付いた血染めの襤褸切れはしかし、ノースリーブでベアトップの白いワンピースとしてどうにか原型を留めており、その襟元は依然、乱れた呼吸で波打つ乳房の下半分を締め上げるように包み、二つの大きな球としてそれを整えてはいたが、裏を返せば上半分の被覆は皆無であり、寄り添った胸の肉が人の字を逆さにしたかの如き谷間を作り上げ、男たちの視線はまだ傷のないそこへと少なからず偏っているものの、全身に刻まれた夥しい切り傷、殊に剥き出しとなった大腿の損傷は酷く、それを舐め回す目もまた活発だ。
この五人は皆、少女と同じく見る者の九分九厘が十代半ばから後半と判じるであろう外見かつ、服装も黒いTシャツとダメージジーンズで共通しているのだが、部屋の中央にて少女の真正面で血にまみれた匕首の峰を使い眉間を押さえるハリネズミさながらに金髪が逆立った男をはじめ、辮髪でサングラスの男がサバイバルナイフ、刺青スキンヘッドの男がアーミーナイフ、長い茶髪で糸目の男がハンティングナイフ、丸い眼鏡をかけた短い黒髪の男がケーパーナイフと、雰囲気も道具もまちまち。ただ、彼らの刃とそれを握る手は一様に血みどろ。
「遺言があンなら今の内だぞォ? 公理に仇なすズベ公よ」
金髪の男が少女の乳房に脇から物打ちを当てがい、嗄れた声で彼女を呼ぶ。
「ま、もう痛みで何も考えらンねェかもしれンがな」
彼は手の甲で額の汗を拭い、腰を低め、楽しげに目を細め、ゆらゆらと震える重瞳で項垂れた少女の顔を覗き込んだ。
対する少女は、乱れた髪の空隙から双眸を垣間見せる。その目は小止みない涙に溺れて些か虚ろではあるが、エメラルドグリーンの瞳は柔らかい煌めきを保っており、確かな焦点で相手を見つめ返すだけの生気は残っていた。
「は……はばかり様……」
唾液に塗れた少女の唇から零れたのは、甘く澄んだ声。
「はァ?」
瞬く間に男の表情が曇った。少女の口元に、微笑の欠片を見つけて。
「こ、この程度の拷問で遺言を残していたら……私が一日に使う言葉はほとんど、辞世になってしまいます……」
度重なる絶叫のせいで幾分掠れ、片息のために途切れ加減ではあるものの、紛れもなく少女の声音であり、そして場違いなまでに余裕と落ち着きを感じさせる口吻。その台詞は汗血の臭いが充満するこの拷問部屋に、まるで優しい歌声の如く響いた。
それは彼女の肉を切る直前まで男を苛立たせ、脅かしていた、不可視の力である。武器を持った男五人に捕まり、若頭が発した「なるたけエグいヤり方で殺せ」という命令を聞き、拘束と殴打と脅迫と罵倒の果てにここまで連れてこられる、そんな状況下で、この女は弱音を漏らすどころか微笑に乗せた挑発すら繰り返していた。気が触れたのだろうと思いたかったが、何しろ相手はあの一族。奴らと対峙するといつも、底知れない恐怖や屈辱を感じて仕方ない。言うなればそう、生物としての〝格の違い〟みたいな……。
「テメェなァ……!」
彼は少女の汗を含んだ前髪を掴み、青筋の立った顔をいっそう近づけた。
「これからナニされっかわかってンのかァ? ここまでのはほんのウォーミングアップ! ただのお、あ、そ、び! 拷問ってのはこ、れ、か、ら! ワカルうううっ? オレらがナニもンか知った上でナメた口きいてンだろーなッ! なァ?」
そう怒鳴りながら、匕首の先端で少女の深く窪んだ腋窩をぐりぐりと抉る。そこから流れた鮮血は汗の水粒と混じり合ってワンピースに染み入り、じわじわと赤い面積を増やして行く。
食いしばった歯の奥から濁った悲鳴を漏らす少女の手足がのたうち回り、首と両肩が不規則かつ細かく動き、それに合わせて汗ばんだ鎖骨も上下する。が、被虐者の弁舌は止められない。彼女は悶えながらも悲鳴を飲み込み、確然とした口調でこう答えた。
「夜叉神公彦率いる武力組織GOZU第七分隊所属、広域指定暴力団《鬼母塚武侠連合》來摩百逸会長お抱えの工作員。全員が会長の私生児。拷問でしか猛らない選りすぐりの変態さんたち。特に好きなのは女性の乳房を切り刻むこと。これから最後の仕上げに、私のそれにも同じことをしたあと辱めるおつもりなのでしょう? 汚らわしい。恥を知りなさいっ……」
脂汗で総身を濡らした少女が暗い面持ちでこれを言い終えると、男は拷問をやめた。震える彼の肩に、辮髪の男が手を置いたから。
「抜け駆けすんなよジュンちゃん」
息を荒げつつ、〝ジュンちゃん〟は振り返る。準備万端とばかりに得物を構えた、血を分けた仲間たちを。
「オッパイ切るときゃみんな仲良く、だろ?」
「へへっ、ムキんなってやがんの」
「アホらし。とりま乳腺はオレの嫁」
真っ赤に輝く彼らの刃が、少女に迫る。
「さーてズベ公。一族のミルク玉ン中はどうなってンのか、見せてもらうぞォ……!」
なのに彼女は悲鳴もあげない。その理由は五人が少女に触れる直前、明らかとなった。
耳を聾する轟音によって。
それは少年五人を一斉に振り向かせたが、部屋を守る鉄の扉が外からの攻撃を受け、その頑強なる錠前が破られて生じたものであるとすぐさま悟ることができたのは、傷だらけの少女ただ独り。
そして涙と激痛で霞んだ彼女の視野には、予想と違わぬ〝五人〟が収まっていた。
「あンだテメェら!」
ジュンちゃんが怒鳴る。工作員の五人は揃って刃の矛先を出入り口に並び立つ五人へと向ける。自分たちとそう変わらない年齢と思しき少年たちに。
「乏しい防備だ。人々から奪った金の使いどころを間違えている」
ゆっくりと右肩を回しつつそう言い放ったのは、硬質の短い黒髪が精悍な顔立ちを飾る少年。姿も声も謹厳実直の四文字がよく似合うのだが、力強い眼差しと逞しい長身より迸る気迫は凄まじく、白いTシャツや黒いボトムス越しにも鋼さながらに凝縮された筋肉が透けて見えるかのようだ。
「無視すンじゃねえ! 何もンだワレら!」
ジュンちゃんが喚く。
「危険物の回収にあがりゃっしたぁ」
赤いコートのポケットに手を突っ込んだままそう言い表わしたのは、長い金髪を肩背まで伸ばした少年。猫背の体に羽織った長袖のそれは裾も黒いズートパンツの膝に届くほどで、倍音を含んだその低声は不穏であると同時に飄逸であり、ナイフのように鋭い切れ長の目は悪辣な微笑を隠さない。
「は? 意味わかンねーし!」
ジュンちゃんが騒ぐ。
「姫を危険物扱いはいただけないね〜。まあ事実だけどさ」
携えた鞄を漁りながら軽やかな声でそう言い返したのは、セミロングの茶髪にカールを付けた少年。中性的な目鼻立ちは淡い笑みに彩られて涼しげではあるものの、その指股には電光石火の早業で取り出されたメスや注射器が犇いており、グレーのポロシャツとジーンズに包まれたやや小さな体を補って余りある。
「やンのかゴルァ!」
ジュンちゃんが吠える。
「うるせェよ腰抜け、いつまで吠えてんだ」
敵意燃え盛る瞳で工作員を睨み半身に構えてそう言い捨てたのは、深紅のソフトモヒカンが怒髪天を衝く少年。その髪型も、唸るような口気も、眉間に皺を寄せた形相も、黒いタンクトップから伸びる引き締まった筋肉に覆われた腕も、同色のショートパンツの下でステップを踏む足も、全てが荒々しく、獰猛。
「なっ……待て、オレらは……」
今さら述べるまでもなく、彼ら工作員は怯んでいた。五人ともども、肩を寄せ合って。
最初こそ虚勢を張ってはいたものの、敵共が何者であるかを思い出すための時間は充分だったので、その過程で夢や希望が、それに勇気が萎んで行くのは必然だったのである。
特別な事情により一族の少女、それもとびきりの上物を拷問にかけるまたとない機会を得たは良いが、そいつには物騒な噂が付きまとっていた。しかしあくまで風説。鬼母塚有数の暴力団に仕える身ともなれば、小娘一人に遅れを取るなど男が廃る。そう意気込んで引き受けたこの仕事、まさかこんな連中が、こんなメンバーが相手だったなんて……。
「おやおや。これは予想外です、GOZUの諸君」
悠然たる足取りで進み出るなりそう言い始めたのは、スクエア型の眼鏡と七三分けにした軟質の黒髪を煌めかせる少年。痩せぎすの体に長袖の白いワイシャツ、群青色のネクタイ、灰色のスラックスと、床しい身形や優雅な物腰にも関わらず、口角は嗜虐的に吊り上り、レンズの奥では下がり気味の目尻に縁取られた冷たい瞳が嗤っていた。
「愚者は彼我の戦力差を測れないとばかり思っていましたが、早くも恐れ慄き戦意喪失とは」
彼のそんな嘲弄が決め手だった。
「舐めンじゃねえぞッ! クソどもッ!」
ジュンちゃんが叫ぶ。裏返った声で、最後の意地で。
彼が握り締めた刃を高々と上げて外敵に向かって行くと仲間たちはこれに倣い、相手側もそれぞれの形で応じる。
かくして乱闘が始まり、室内は喧騒に包まれたのだが、心身の限界を迎えた少女の瞼はゆっくりと閉ざされ、その五感は夢の世界へと落ちて行った。