秋の野球少年
「やっと涼しくなりましたね」
十秒でエネルギーが補充されると言われているゼリーのパックを片手に、窓からグラウンドを覗く。
二階の中央部に位置する図書室の中、その奥にある司書室からは、グラウンドがよく見える。
放課後の運動部が出す掛け声が、秋の風と共に入り込んで来るのを聞きながら、司書さんを見た。
蛍光灯の光すら取り込み、キラキラと光を反射させる金髪が目に優しくない。
日焼けをしにくいのか、男にしては色白で、汚れ一つない白いシャツと薄いベージュのカーディガンのせいで、どことなく脆く儚い雰囲気を醸し出している。
「直ぐに冬になるよ」
にっこりと人好きのする笑みを浮かべた司書さんは、読んでいた本を静かに閉じる。
司書らしい仕事をしているところなんて見たこともないが、司書さんに限らず、この学校の図書室は図書委員がまともに機能していない。
利用者も少ないので、司書さん一人で問題ないと言えばないのかも知れないが。
「ウチの野球部はそれなりに強いけれど、公立高校だからね。室内練習場があるわけじゃないし、大変な時期だろうね」
「……あぁ、そう言えばそうですね」
残り僅かになっていたゼリーを啜りながら答えれば、くすくすと小さな笑い声が狭い司書室を満たす。
公立高校の割に強い野球部は、今年も今年でそれ相応の結果を残して夏を終えたらしい。
部活に所属していない身分の私からすると、その結果がどんなものなのかは分からないが、上機嫌の司書さんを見るに、悪くは無い、本当に良い結果だったのだろう。
司書の仕事をしていない時、夏場は良く、換気として開けていた窓から身を乗り出し、グラウンドの様子を眺めていた。
青い絵の具を塗ったくったような空と、それを切り裂くような白球を見ては、眩しそうに目を細めていたことを思い出す。
「それにしても彼、不調みたいだね」
デスクから離れて、窓際まで寄ってきた司書さんは、グラウンドを見て、目を細める。
彼、と言うのは今現在、秋空に白球を吹き飛ばされている相手のことだろう。
グラウンドの野球部が使う練習場で、最も目立つであろうマウンドの上に立ち、飛んでいった白球を目だけで追う彼。
先程からゼリー片手に眺めているが、司書さんの言う通り不調のようだ。
投げては打たれ投げては打たれを繰り返している。
「マウンド、下ろされちゃったね」
やはり、にっこりと人好きのする笑顔を私に向ける司書さんに、私は首を竦める。
空っぽになったゼリーの容器を握り潰し、部屋の隅に置いてあるゴミ箱に放り投げれば、ガコガコとゴミ箱を左右に揺らし、収まった。
ピッチャーというポジションが、どれほどの競争率なのか、またどれほどのプレッシャーなのか。
私にはさっぱり分からないが、マウンドを下ろされた彼は酷く動揺し落ち込んでいるのは分かる。
司書室に置かれている小さな冷蔵庫から、突っ込んで置いたコンビニの袋を取り出す。
「今日はもう帰るの?」
「その読み掛けの本、後書きだけですよね」
窓脇に背中を預けながら首を傾げた司書さんに、閉じられた本を指さしながら問い掛ける。
図書室に来てから、ずっと読み耽っていた本は、図書室のものではないらしい。
カバーも掛けられておらず、管理シールも貼られていないのを確認すれば、うーん、と酷く曖昧な答えが返って来る。
パラパラと音を立てて捲れば、栞の挟まっていたページは予想通り後書き間近だ。
どんな内容なのかは不明だが、特別話題になったような作品でもなく、奥付に書かれている出版日は数年前になっている。
「これ読み終わったら図書室閉めるつもりだったんでしょうし。今日はお先に失礼しますね」
よいしょ、という掛け声と共に、デスク脇に置いておいた鞄を持ち上げる。
私の言葉に対して、バレてたんだ、とでも言うように笑った司書さんは、窓を閉めた。
運動部の掛け声が遠くなる。
「気を付けて」
目を細めて笑う司書さんは、相変わらず蛍光灯の光をキラキラと反射させていた。
手を振られながら、頭を一度下げて司書室及びに図書室を出る。
***
ガサガサとコンビニの袋を揺らし、ほんのりと赤く染まりつつある廊下を歩く。
図書室は二階中央部で、図書室を出て右へ進む。
右奥にある階段を下りて行き、真っ直ぐに生徒玄関へと向かう。
すると、案の定と言うか、見覚えのある姿を見つけた。
真っ白なユニホームは、泥や砂で汚れて茶色に染まっており、その中の濃い色のアンダーウェアが覗いている。
野球部のユニホームだ。
「……生きてる?」
靴箱の側面に背中を預け、座り込むその姿に声を掛ければ、目深に被っている帽子の奥から色素の薄い瞳が現れる。
どんよりと濁っているような瞳を真っ直ぐに見つめ、生きてるね、と頷けば、直ぐに目を逸らされた。
先程二階の司書室から見ていたグラウンドにいた、マウンドを下ろされた彼だ。
マウンドを下ろされた後に、真っ直ぐに生徒玄関へやって来たらしい。
ぐったりと体の力を抜いている。
仕方ないね、と言うように芝居じみた動きで肩を竦めれば、彼が僅かに身じろいだ。
ガサリ、音を立ててコンビニの袋を突き出す。
白い袋では、中身が何かは直ぐに分からない。
彼が袋と私を見比べるので、焦れったくなって落としてやる。
流石の反射神経で袋を手にした彼は、こわごわとその中身を覗くが、別段危ないものは入っていない。
と言うか、中身は食べ物である。
彼がその中身を取り出し、食べ物の正体を顕にした。
ピンクの目立つパッケージに、プラスチックスプーンがセロハンテープでくっつけられている。
「何かに頑張る人も、一生懸命になれる人も好きだよ」
丸ごと桃の実が入っている桃ゼリーはとても美味しく、私のお気に入りである。
先程チャージ系のゼリー飲料を啜っていたが、あれよりも美味しいと思う。
彼は静かにゼリーのパッケージを撫でた。
その指先、爪の先は何か塗っているのか、マットに光っている。
「直ぐに冬が来て春が来て、また夏になるよ」
私の言葉に色素の薄い瞳が、これでもかと言わんばかりに見開かれた。
今にもこぼれ落ちそうな瞳を見ながら、被っている帽子を引っさげてやる。
うおっ、と驚いた声を背中に聞き、自分の外靴を入れている靴箱へ向かう。
ひんやりとした秋風が頬を撫でる。
ペリペリとプラスチックの蓋を開ける音が、生徒玄関に響いた。
きっと明日は、空飛ぶ白球を見ることはなさそうだ。