06 ギターマン
やがて実行委員会のボランティアさんによる挨拶があって、いよいよ高崎市・春の城址ふれあい公園フリー・コンサートは開催されたのだった。
一番手の吉澤老人の尺八は、まさに年季を感じさせる深みのある音色を奏でていた。演奏の合間に、時々「ハイッ!ハイッ!」とか自分で合いの手を入れて、観客の笑いを取るのも忘れない。こういうのは場数が物を言うのだろうか。
二番手。市女の音楽部二人組のアンサンブルは、クラシックやポップス、時にはアニメソングなんかを見事にピアノとクラリネットのアレンジに昇華している。
…みんな凄いなあ…こんな場所に、自分みたいなズブの素人なんかが出ていいのだろうか。場違いなのではないだろうか。
「うー…何だか緊張してきましたね」
僕の出番が近づいてきた頃になって、文ちゃん先輩がぽつりと言った。
「今さらですか?僕なんかとっくにガチガチになってますよ」
これは冗談でも誇張でもなかった。
今の僕は、「緊張」という文字すら思い出せないほど頭が真っ白になっていた。
今までずっと、自分と周囲の近しい人たちの前でしか演奏した事のなかった僕がだ、何の因果か――いや、これは明らかにとあるカミサマの陰謀だが――こんな場所にいきなり放り出されて緊張するなという方が無理だと思う。
「ど…どうしましょう…」
「いやどうしましょうって言われても…」
僕は、とりあえず愛用のアコースティックを手にしてみた。今までも、何か動揺したりした時は、とりあえずこのギターを手にしてみる事にしていたのだ。こうすると、不思議に気持ちも落ち着いてくれたのだ。…赤ちゃんが玩具のガラガラを手にすると泣き止むみたいな物だろうか。
…ところが。
どういう訳か、今日に限ってはその効果もまったく感じられない。ネックを握る左手には力が入らないし、右手の指に至っては、弾く弦を間違えてしまう体たらく。
ごく簡単なアルペジオすら弾けなくなってしまっている。
…おいおいマジかよ志賀義治。お前はそんなにギターが下手くそだったっけか?
「おー、緊張しとるんかい」
うしろから声を掛けられたので振り向くと、出番を終えた吉澤老人が、首にかけたタオルで汗を拭いながら笑っていた。
「あ…えっと……はい」
「初めてだもんなあ。気持ちは分かるけんど、諦めりい」
「…え?あ、諦めちゃうんですか?」
「かかか。こういうなぁ、誰もが一回は通る道だんべや」
ま…まあ、それはそうだろうけど、できれば醜態は晒したくないぞ?
「んなら、まずぁ自分が楽しみない」
「…は?」
「自分で楽しめなきゃ、聴いてる方はもっとつまんねえし」
「そういうものですか?」
「そういうモンだっぺ…お、そうそう、いい事を教えてやらあ。1曲目は、自分が一番得意な曲からやるといいっぺや」
「はあ」
「1曲目ってな、必ず何かがあるモンさね。緊張が抜けなかったり、マイクん音が大きすぎたり小さすぎたりな。1曲目は、やっぱ一番目立つ曲とかやりたいのが心情だけんども、そこで失敗しちゃうと、終わりまでずっとそれを引きずっちゃうぞい」
あ…ああ、なるほど。
「だからな、最初は一番得意で自慢できる曲で、自信をつけてみるのがよかっぺや」
これはいい事を聞いた。こういうのは経験からくる言葉だし、重みを感じるよな。
「かかか。後は…そうさなあ、横の彼女ちゃん?」
「あ、はい?」
急に話を振られて、きょとんとした文ちゃん先輩に、吉澤老人は、
「彼女ちゃん、ほれ、彼氏さんにちゅーでもしてやんない。かかか」
「…!?」
唖然とする文ちゃん先輩を背に、吉澤老人はかかか、と笑って去っていった。
その時、『どうもありがとうございましたー!』とアンサンブル・コンビの元気な声がステージ上から聞こえてきた。
あ…いよいよだ。
『次は…初出演の方ですね。ギター大好きな高校1生、志賀義治君です!今日はカントリー・ギターの素晴らしいテクニックを披露しくれるそうですよ?みなさん、楽しみですねー』
…おーい司会役のお姉さん、余計な事を言ってくれるなよー。あんまり過度の期待をかけないでほしいのだけど。それがそのまま、プレッシャーに化けてくるんだから。
司会のお姉さんの声には聞き覚えがあった。たしか地元出身の新人声優さんで、もう何作かアニメの吹き替えとかもやっているはずだ。まだまだ人気声優という程でもないと思う。
そうか、こういったお仕事もやるんだな。日曜日までご苦労様です。
『では、志賀義治君、どうぞー!』
声優さんに自分の名前を呼ばれるのはちょっと嬉しいけど…あああ、どうしよう。もう後には引けないし…
その時、突然、僕は頬に熱い吐息を感じた。…あ。
ちゅっ。
少しだけ照れくさそうな顔の文ちゃん先輩の顔が間近にあった。
「…おまじない、です」
文ちゃん先輩はそれだけ言うと、周囲をきょろきょろ見回して観客席の方に走り去って行った。
『…志賀さーん?』
司会のおねえさんの声に促されて、僕はバック・ステージから足を踏み出した。
…ぱちぱちぱちぱち。
まだまばらな観客席――とは言っても椅子ひとつなく、芝生の上に直に座っている方ばかりだったが――から、おざなりな拍手をいただいた。これすら初体験なんだよな、僕ぁ。
その観客席(?)には…ああ、いつの間にか鮎子先生が来ていた。横には僕の幼馴染で今は鮎子先生のお店「高崎悠久堂」の店長をしているアユミ姐の姿もある。ああ、文ちゃん先輩も一緒だ。他に知った顔は…さすがにいないか。いてもかえって緊張が増すだけだけど。
僕はステージの中央に用意された椅子に腰かけた。
僕は、実は立ってギターを弾くのはあまり得意ではない。ずっと椅子に座った姿勢でギターを弾く事が多かったし、ストラップで吊るされただけのギターは、どうにも不安定で、おまけにその姿勢だとネックを抉りこむ様な角度で握らなければならず、すぐに手首が痛くなってしまうのだ。
第一、かのチェット=アトキンス御大だってこう申されたそうではないか。
『ギターは本来、立って演奏する様にはできていない』と。
僕が腰かけたのを確認すると、何人かのスタッフさんが手際よくマイク・スタンドを持ってきてくれた。彼らもボランティアさんなのだろうか。
「…あ、ども」
「いいえ。頑張ってくださいね」
「あ…恐れ入ります。緊張しますね、やっぱ」
「マイクで聞こえてるぞー」
観客の一人がそう野次を飛ばしてきて、会場が笑いに包まれた。ははは…参ったな。
僕は深呼吸するとマイク・スタンドを手元に引っ張って言った。
「あ…あの、はじめまして。県立・業盛北高校1年、志賀義治と言います。こういう、大勢の人様の前で演奏するのはまったくの初めてなので、緊張してます」
…ぱちぱちぱちぱち。
「…じゃあ、さっそく行きます。聴いてください。『ミスター・サンドマン』」
スローで魅力的なアップダウン・フレーズ。そこからスィングするビートへのシフト。
親指にはめたサム・ピックでビートを刻み、同時にメロディを奏でるギャロッピング奏法。
もう30年以上も昔の曲なのに、いまだに色褪せない、夢見る様な曲だ。
夢中で弾いているうちに、いつしか僕の頭の中は真っ白になった。
無意識に動く指。それが弦に触れて音を生み、無数の音がメロディを紡ぐ。
自らが生み出したメロディが、空気中を渡って自分の耳に飛び込んできて、僕の脳を刺激する。刺激された脳は、新たなメロディを生み出すべく、指先に次の命令を送る。命令は交差神経を通って指先に伝わり、指はその命令の通りに動き、新しいメロディを紡いでゆく。
まるで永久機関の様なものだった。
2分半にも満たない短い演奏時間。気がついたら、僕は最後のリタルダンド(次第にテンポを落としてゆく)・パートを演奏していた。
最後のじゃらん…というダウン・ストロークで曲は終わった。
…………。
その時になって、僕は自分が目をつむったままで演奏していた事に気づいた。
観客さんたちは、みな黙ったまま。
え…受けなかった?
「…あ、どうも。『ミスター・サンドマン』でした」
…ぱち…ぱち…ぱち…ぱち…ぱちぱちぱちぱちぱちぱち。
最初は何人かの拍手だったけれど、次第にそれが周囲に広がってゆく。
タイムラグはあったけど、会場のみなさんは、概ね僕の初演奏を好意的に受け止めてくれたみたいだった。…何だか嬉しいぞ。
「あ…ありがとうございます!じゃあ、次は『キャノンボール・ラグ』って曲やります」
ぱちぱちぱちぱちぱちぱち。
最初はおざなりだったけど、今度の拍手には、ちょっとした「期待」を感じる事ができた。
はは、なんだか急にやる気が出てきたな。
僕はもう一度深呼吸。さあ、行くぞ!
前の曲とはうって変わった、最初から猛スピードのジャンプ・ビート。
指もいい感じに暖まってきた事だし。
BPM=200以上と言う高速テンポともなると、正確さはもとより「イキオイ」という物が重要になってくる。躊躇なんかしていられないのだ。おろおろしているうちには、曲はどんどん先に進んで行ってしまう。
イキオイ余って、僕はサム・ピックをギターのボディに何度も当ててしまった。メロディの中にゴツ、ゴツという打音が混じるけれど、それだって僕のサウンドの一部なんだ。
ただでさえテンポの速い曲だけど、その中盤からはさらに加速してくる。
後半に入ると、低音弦のベース・ランが出てくる。この辺りはもう、「荒れ狂う」という表現がぴったりだと思う。
僕は己の中にある激情を、弦に叩きつけた。
今の僕には、アドレナリンが燃料だった。
自然に体でリズムを取ってしまう。
僕にはバック・バンドもいなかったが、この指とギター、それに自然に刻むフット・ステップだけがあれば、それで十分だった。
ギターは無限の可能性を秘めた、人類が生み出した至高の楽器なんだ!
2曲目を終えた。
今度は絶賛の拍手をいただいた。
僕もいくらか余裕という物が出てきたので、ようやく観客席の方々の顔色をうかがう事ができた。
もちろん、まずは文ちゃん先輩の方を見る。あ、目が合った。あはは、彼女も気付いたのか、手を振ってくれてくれている。僕も軽く手を振り返した。
鮎子先生は…あ、腕組みなんかしてる。何だか弟子の試合を見にきた師匠みたいな雰囲気だな。「まだまだじゃのう」とか思ってるのだろうか?
何気なく舞台袖の方に目を向けると…あ、例のヘビセンターさんたちがこっちを見ている。
…何だか険しそうな視線だよなあ。
「どうもありがとうございます、じゃあ、次は何曲か歌モノを。大好きなサイモン&ガーファンクルの曲で…」
僕はその後も何曲かを演奏して、何とか自分の持ち時間をこなした。
人生初のアンコールまでいただいて、途中何度かトチったりはしたものの、最後は観客の皆さんの温かな拍手でステージを降りる事ができたのだった。
ギターを片手にバック・ステージに戻る時、ヘビセンターのメンバーさんたちとすれ違った。
何か言われるんじゃないかと内心びくびくしていたのだが、メンバーさんたちは各々の準備で忙しそうだった。
ギターを手にしたリーゼントさん――この人が水嶋さんなのかな?――は、すれ違う時に無言で僕の肩を叩いてくれたけれど。
バック・ステージでは、吉澤老人やアンサンブルさんたちが拍手で迎えてくれた。
感極まって、周囲の方々に見境なく握手してしまう。
そこに文ちゃん先輩も駆けつけてくれた。彼女は僕の胸に飛び込んできてくれたのだが。
「…志賀君」
「何です?」
「…汗びっしょりじゃないですか。風邪引いちゃいますよ」
「あ、そういえば」
まったく気がつかなかったけど、ステージという物はこんなにも汗をかく物だったのか。プロのミュージシャンに、太った人があまりいないのも分かる様な気がする。
彼女は苦笑しながら、ハンカチを差し出してくれた。汗を拭ったらとてもいい匂いがしたけど、次からはちゃんとタオルも用意しよう。
バック・ステージにギターを置いて、僕たちは観客席の方に移動した。
観に来てくれた鮎子先生やアユミ姐にお礼を言いたかったし、それにへビセンターさんたちのステージも気になったのだ。
何せ、僕は「ロックバンド」という物の生演奏を聴くのが初めてなのだ。気にもなろうという物じゃないか。
司会の声優さんがメンバーを紹介している間、バンドのメンバーさんたちは自分の楽器のセッティングに追われていた。…なるほど、ギター1本の僕なんかと違って、やはり色々と手間がかかるみたいだな。
鮎子先生の所に行くと、先生はにっこりと笑って出迎えてくれたのだが、
「…55点」
と、やや厳しい採点をいただいた。…赤点ですか?
周囲の観客席も、そろそろ賑わいを見せはじめていた。…ん?何だか中年のオバサマたちが多い気がするけれど。
『では、みなさんお待ちかねの”ザ・スネイクセンター”のご登場です!』
周囲の観客席から歓声が挙がった。へー、このバンド、そんなに人気があるのか。
ステージの中央に立ったヴォーカルの水嶋さん(?)が持っているギターは…おお凄い!米国グレッチ社製の「テネシーローズ」ってギターじゃないか!
チェット=アトキンス御大も愛用している、ローズレッド・カラーが美しい格調高いエレキ・ギターで、「セミ・ホロゥ」という特殊なボディ構造になっているのが特徴だ。
普通のエレキ・ギターは「ソリッド構造」といって、ボディにはほとんど空洞のない木材を使用している。弦の振動をピックアップで拾って増幅するのがエレキ・ギターの基本構造だけど、そのトーンには弦だけでなく、もちろん木材の共鳴も含まれる。
その使用している木材によって、それぞれのギターのトーンの「個性」が生まれると言ってもいいくらいだ。一般的には硬い木材なら硬いシャープな音、柔らかい木材ならばまろやかなトーンになると言われている。それはアコースティックも同じだけれど。
一方、そのアコースティック・ギターのボディは空洞になっている。弦の振動はボディのトップ(表側)面に大きく開いたサウンド・ホールを通ってボディ内部で共鳴し、増幅されて音が出るのだ。
で、彼が手にしているテネシー・ローズは、エレキとアコースティックの、ちょうど中間に位置する構造を持つ。
エレキ・ギターでありながら、そのボディの一部は空洞になっているのが面白い。
この構造により、このギターは通常のエレキ・ギターよりは若干深みのある、空気感を伴った独特のトーンになるのだという。
チェット=アトキンス御大の使用するモデルという事で、僕も最近、急に気になりはじめていたモデルだったのだ。
…でもあれ、結構高いんだよなあ。一介の高校生が、おいそれと買える様なお値段じゃないのだ。
僕がそんな羨望の目で見ていると、ヴォーカルさんはマイクに向かって叫んだ。
『イクぜマダム!!』
きゃーっ!きゃーっ!きゃーっきゃーっ!!
周囲で黄色い声が沸き上がった…って、え?ま…マダム?
声の主さんたちを見ると、これが皆さま揃ってどう見ても40代から50代くらいのオバサマたちだった。もちろん僕たちと同世代の女の子もいるけれど、圧倒的に多いのはオバサマたちだった。ファンの平均年齢層が高いバンドなんだなあ。
『せんきゅーせんきゅーせんきゅー!』
ヴォーカルさんは、手にしたグレッチで軽快なリフを刻みはじめた。そこにウッド・ベースとシンプルなセットのドラムスがビートを乗せてゆく。
シンプルなスリー・コードのロックンロール。か…カッコいいっ!
僕はアコースティック専門でやってきたけど、こういうロケンローだって嫌いと言うわけでもない。いやむしろ大好きだ。ザ・ビートルズだってザ・イーグルスだって。
僕は、基本的にはギターの入っている音楽なら何でも大好きなのだ。
でもここ数年、ヒット・チャートに出てくる様な曲はディスコ・ビートとかダンス・ミュージックみたいな、あまりギターが活躍してくれないジャンルの物が多くて、僕としては、これは大いに不服とするところである。どうやら現在は、ギターと言う楽器はすでに時代遅れの物扱いさえされている様な気もしてしまう。…何なのだアレは。そろそろ、ここいらでギターをガンガン弾きまくるギター・ヒーローが出てきてもいいじゃないかと思う。それは僕だけじゃない、セカイ中のギター・キッズの誰もが願っている事だろう。
そういえば最近、アメリカのチャートに、やはりグレッチを手にした「ストレイ・キャッツ」とかいう三人組のロカビリー・バンドがデビューしてきたそうだ。
ロカビリーだぞロカビリー!
アメリカ国内でも、とっくに忘れ去られた様な大昔のジャンルの曲とスタイルをひっさげて、しかもヒット・チャートの上位に食い込んでくるバンドが出てきたというのは、僕たちギター・キッズの希望となってくれるだろう。
「あ、私、こういうの知ってますよ」
文ちゃん先輩が、ふと意外な事を口にした。
おやま。こんなジャンルとは無縁そうだけどな。
「ほら、いかがわしい腰つきで『ふんのふんのふんのふんの』とか歌う奴ですよね?」
…何ですかそれは。