05 メイン・ストリート・ブレイクダウン
当日の朝。前の晩から緊張と興奮であまり眠れなかった僕は、朝の5時前にはベッドから這い出してしまった。
うー…どうにも落ち着かない。
もしや、と思ってカーテンを開けたものの、外は呆れるくらいの好天だった。
…僕の祈りは、天には通じなかったらしい。えいちくしょう。もう金輪際、カミサマなんて信じねーからな?
…もっとも、その存在自体は否定しない。何と言っても、そのカミサマの一人が、ウチの高校の保健室にもいるのだからね。
茶の間に顔を出すと、いつもの様に、親父が長火鉢で鉄瓶のお湯を沸かしていた。
戦前生まれの父は、春夏秋冬を問わず毎朝4時には起きて、炭火で沸かした鉄瓶のお湯でお茶を淹れるのが日課だ。
「親父、おはよ」
「ん」
いつもの通りの朝の挨拶。これも年間通して変わらぬ、日常の第一幕。
「眠いのか」
「うん…あまり眠れなかった」
「じゃあ、まずお茶でも飲め」
「うん。いただきます」
僕は愛用の備前焼の茶碗で、父の淹れてくれたお茶をいただいた。
鮎子先生のおかげで、最近は紅茶の方にも親しみを感じる様になってはきたものの、やはり子供の頃から飲み慣れている、父の淹れてくれた緑茶の味も捨てがたい。
渋みの中にも甘さのある緑茶の風味が、僕の寝ぼけた頭をすっきりさせてくれた。
「そういえば、親父は今日のライヴ、来てくれる?」
「畑の柵きりがあるのに、のこのこ街なんか出かけていられるか」
あ、やっぱそうですか。
戦前生まれの父が興味を持つ音楽といえば、東海林太郎と藤山一郎、それに「バタヤン」こと田畑義夫くらいだった。子供の頃から聴かされてきたおかげで、僕も「影を慕いて」くらいはギターで弾けたりする。というか、そもそも愛用のギターを買ってもらった条件が、中二の時の学年末試験の成績アップと、この「影を慕いて」を覚えてギターで弾いて聞かせる事だったのだ。
この「影を慕いて」は、古賀メロディーの代表的な曲だ。クラシックの奏法をベースとした中にもブルースっぽいオブリガートなどが出てくる、ギターのフィンガー・テクニックの基礎を学ぶのにもちょうどいい曲なのだが、父がそれを見越して言ったのかは定かではない。たぶん…いや、きっと違うだろうけど。
今回のいきさつだって、それを父に最初に話した時の感想も「そうか」で終わってしまった。
なお、母に話したら「それはよかったねぇ」と喜んではくれたのだが、「じゃあ観にきてくれる?」との問いには「わたしはそういうの、よく分かんないから」とやんわり断られてしまっていた。ちなみに母が好きなのは「東京ロマンチカ」だそうだ。
朝食を済ませてから、部屋に戻って本番前最後の練習をしていると、外で車の止まる音が聞こえた。
ややあって、母が「義治?文ちゃんさんがお迎えに来てくれたよ」と僕を呼んだ。
呑気な母は、なぜか文ちゃん先輩の事をそう呼ぶ。何だそれは。
会場へは、文ちゃん先輩のお母さんの唯さんの車で行く事になっていた。鮎子先生もトランスポート役を買って出てくれたのだが…僕は何があっても先生の車にだけは乗りたくなかったので丁重にお断りした。それは文ちゃん先輩も同じだろう。
鮎子先生の運転が荒いとか暴走するとか、そういった理由ではない。…ないのだが。
…何と言うか、制限速度をきちんと守りながら、あれくらい寿命の縮みそうな運転をするドライバ―さんを、僕は他に知らない。先日、何の因果か僕はその事実を知ってしまった…というか、この身でそれを嫌というほど痛感させられたのだった。
玄関に出てみると、母と唯さんがにこやかに話していた。母は袋物細工の伝統工芸師の資格を持っていて、唯さんは先日、その教え子の一人になったので、彼女は僕の母を「先生」と呼んでくれている。僕は「今日はお世話になります」と挨拶したのだが、袋物関係の話題に夢中の二人には、どうやら僕の声は聞こえなかったらしい。
形だけとはいえ一応、挨拶は済ませたので、僕は自分の部屋に戻った。
窓の外を見ると、文ちゃん先輩の姿が縁側の外に見えたので、僕はガラス戸を開けて彼女を部屋に向かえ入れた。
そういえばつい先日、まだ冷え込む夜の闇に紛れて、パジャマ姿にマントを羽織った彼女がこの場所に立っていた事があった。
その直前、彼女は例の「ご乱心事件」の元凶との決着をつけたばかりで、その時、僕は彼女の「告白」を受けた。そして二人は…。
「しょうもないですね、母親たちは」
くすくす笑いながら、文ちゃん先輩は僕の部屋に入ってきた。きちんと靴を揃え、「お邪魔します」の言葉も忘れない。その時だってこちらに背を向けて上がるのではなく、一礼してからこちらを向いて部屋に上がり、それから振り向いて靴を揃えるという、マナーの教科書にも出てそうな礼儀の正しさを見せてくれている。
その彼女は、今日はいつもの制服姿だった。心ヒソカに、今日はどんな私服姿を見せてくれるのだろうと期待していた僕の当ては外れてしまったけれど。
その文ちゃん先輩は、僕の部屋を珍しそうに見まわしていた。彼女をここに招き入れるのも初めてではないけれど、やはりまだ新鮮に感じてくれているのだろうか。
「あーすいません。まだ部屋も片付けてないんですよね」
「ふふ。男の子の部屋、ですね」
彼女の言葉に一瞬、どきりとした。…まさか「アレ」、片付けていなかったっけ?
そりゃあ、ここは年頃の男の部屋だもの、彼女には見せられないアレとかコレとかソレのひとつやふたつ置いて…いや隠してあったりもするのである。
「志賀君の匂いがします」
…ちょっと恥ずかしくなる。
「…え、臭います?」
「…この匂い、好きですよ。何となく落ち着くんです…あ」
何気なく言った自らの一言で、彼女の顔が赤くなる。つられてこちらも赤面してしまった。
「…あ、あー、こほん。志賀君、さ、行こう」
「え?僕が…最高?いやそれほどでも。照れますよ」
あれ…?文ちゃん先輩の顔が呆れた様な表情になった。…何でだ?
「キミは何を言っているのですか」
「へ…?今、僕が最高だって…」
「さあ、行きましょうって言ったんです」
…?あ、そういう事ですか。何だ残念。
「それよりも、早く身支度してください。ギターは私がケースに入れておきますから」
「あ、はい」
彼女に促されて、僕は慌てて上着を脱ぎはじめたのだが、
「…いっ、いくら何でも、私の前で服を脱がないでくださいってば!!」
両手で目を塞ぐ文ちゃん先輩。でも、その指の隙間から、僕の上半身をまじまじと見ているのがバレてますけど。
「いやんえっち」
おどけた僕の前に、ジーンズが飛んできた。ベルト付だから、下手に当たったりしたらけっこう痛いかもしれない。
「いいから早く着替えなさいっ!!」
…怒られてしまった。
部屋を出て着替え、また部屋に戻ると、文ちゃん先輩の方も僕のギターをケースに入れ終えていた。
「さあ、いざ出陣!ですよ志賀君。えいえいおー」
…あらま。彼女にしては珍しく、勝鬨の声まで挙げちゃって。
いつもの彼女からは想像もできないくらい、今日の文ちゃん先輩は浮かれていた。
もしかしたらプレイヤーたる僕本人以上に、この日がくるのを楽しみにしていてくれたのかもしれないな。
文ちゃん先輩は一刻も早く出かけたいらしく、自分で僕のギター・ケースを背負ってくれたのだが、慣れない物、ましてや彼女の身長にはいささか…いやかなり大きなギター・ケースを背中にしたせいなのか、バランスを崩してふらついてしまった。
「あ…あらら?あらららら?よよよよよ?」
あっちへふらふら、こっちへふらふら。…何だかペンギンみたいだな。
うーむ。こんな文ちゃん先輩も可愛いなあ。
…というか、ギター・ケースに隠れて上半身が見えないのですが。
唯さんの車で送ってもらって、僕たちは高崎市内の城址公園にやってきた。
この場所は元々、市の庁舎があった場所だ。それが郊外に移転した後の敷地を公園にして、市民に開放しているのだ。
…そういえば県に奉職していた僕の親父は、ここにあった庁舎に勤務していたんだっけな。僕がまだ小さかった頃は留守番電話なんて便利な物はまだなくて、日曜日には、たまに親父が電話番として休日出勤していた事もあったっけ。
僕も親父について行って、休日の半日をこの場所で過ごす事も多かった。
僕にとっては、ここは縁も思い出もある場所だったりする。
その場所に、今こうして、一大決心をして立っているというのも、何だか感慨深いな。
親父はいつも正午には仕事を切り上げ、僕を近くのトンカツ定食屋に連れて行ってくれるのが楽しみだった。…ようし、今日の出番を終えたら、文ちゃん先輩とあのお店に行ってみようかな。
今朝は予定外に早起きしてしまい、朝食の時間も早かったせいなのか、まだ朝9時だというのにもかかわらず、軽く空腹感を覚えた。
それともノスタルジーとは、時には空腹を伴う物なのだろうか。
お腹が減ると、普通は気力も衰えてくる物だけど、なぜか今日の僕は逆にやる気が出てきた。
それはやはり、思い出の場所にいる、という感慨が大きかったのかもしれない。
公園の南側は旧・高崎藩のお城があった場所だけど、現在は音楽センターが建っている。
かつては徳川第三代将軍・家光の弟、駿河大納言忠長公が謀反の疑いで自決した、血生臭い歴史を持つ場所だけど、今ではよく歌謡コンサートなども開催される賑やかな場所だ。
イベントの出演者たちは、まずこちらの敷地に建てられたテントの受付所で、出演手続きをする。とはいっても、すでに申請時の書類に大体の演奏分野とか希望する時間帯、使用楽器などは記載してあるので、後はその確認と、自分の主演時間帯を教えてもらうくらいなのだけれど。
僕の出番は…ああ、午前中だ。多少、時間は前後するだろうけど、おそらくは10時半からの30分間か。出番を終えてお昼に出るのにちょうどいいくらいだな。
…他にはどんなバンドとか出ているのだろう。
ちょっと気になって、僕は手作りっぽいコピ-のパンフレットを見てみた。
僕は、自分の他に楽器をやる様な知り合いとかいないし、ましてやバンドの生演奏を聴くというのも、考えてみれば実は今日が初めてだという事に気づいた。…ついさっき。
…今まで自分の練習に集中するあまり、そんな事にも気づきませんでしたわな。
ええっと…午前中の出演者は…へー、一番手は何と尺八をやるお爺ちゃんじゃないか。
その次がピアノとクラリネットのアンサンブルの女子高生二人組で、その次が僕か。
さすがはアマチュアの寄せ集めコンサート。実にバラエティに富んでるなあ。
僕の次は…あ、やっとロックバンドらしきグループみたいだ。名前は…む…?「ザ・スネイク・センター」?
…メンバーさんの中に藪塚本町出身の人がいるのかな?あそこには全国的に有名な「ジャパンスネークセンター」があるし。
あそこはその名の通り、セカイ中のヘビさんを一堂に集めた場所だ。
でっかいのからわりと可愛いのまで、ヘビさんばかりをわんさかごちゃまんと集めた所。
施設の中には「ヘビ料理」なんてのを食べさせてくれる食堂まであるという、何とも至れり尽くせり感が満載なのだとか。
県民には「ヘビ園」なんて呼ばれて親しまれているのか、はたまた恐れられているのかよく分からないテーマパークだけど、正式名称はたしか「日本蛇族学術研究所」と言って、毒蛇の血清なんかも管理する、れっきとした研究機関…のはずだ。
参加メンバーの代表者は…「水嶋真悟」さん(16)か。あれ?僕と同い年じゃないか。この人はどんな曲をやるのかな?
…まさか、いくら何でも僕みたいな古臭い分野じゃないだろうけど、ちょっと興味が出てきたぞ。いったいどんなバンドなんだザ・スネイク・センター?
受付を終えた僕は、道路を横断して公園内に戻ってきた。
敷地の東側には、ごく簡単な作りのステージができていた。
ステージとは言っても、板箱を敷き詰めて地面より一段高くなっているくらいの簡素な作りだった。…これじゃあ、ちょっと派手にジャンプとかしたら、床が抜けてしまうのではないだろうか。
それでも一応、バックステージらしき場所も作られていた。ただ衝立を立てて、後ろを隠しただけの物だったけれど。なるほど、出演者はそこで出番を待つ様になっているのか。
衝立の中に入ると、もう何組かの出演者さんたちが待機していた。
くつろいでいる人もいれば、念入りに打ち合わせしているグループもいる。
文ちゃん先輩は、芝生の上に腰かけて、ケースから出した僕のギターを丁寧に磨いてくれていた。こういう心遣い、嬉しいなあ。あ、僕の姿に気づいたみたいだ。手を振ってる。
「お待たせしました。手続き、終わりましたよ」
「はい、お疲れ様でした。出番は何時からですか?何番目なのですか?」
「えっと…10時半くらいです」
「待ち遠しいです」
「…今から緊張してますよ、僕ぁ」
「ふふ」
と、僕たちの笑い声に交じって、わははともう一人の笑い声が聞こえた。しわがれた、年配の方の声だった。
「あんちゃん、今日が初めてかい?見かけねえ顔だけんども」
振り向くと、紋付で袴姿の老人が、けらけらと笑っていた。その手には、かなり使い込まれた尺八。…そうか。この方がトップバッターさんなんだな。
「あ、ども。今日はよろしくお願いします」
新参者の礼儀として、僕はぺこりとお辞儀した。
「ほほぉ。若ェのに、なかなかどうして礼儀正しいあんちゃんだんない。気に入った。あー、名前は?」
「あ、志賀です。志賀義治」
「…志賀…?親父さんの名前は何なん?」
「喜栄って言いますけど…それが何か?」
「喜栄さん…?もしかして県職の?」
「あ、はい。そうです。もう退職してますけど」
「あー、そうなんかい。喜栄さんの息子さんかい。こりゃ驚いた」
「父をご存じなんですか?」
「もちろん知ってらいね。喜栄さん、軍隊にいた頃は射撃が上手くてなあ」
そういえば、僕も親父自身から聞いた事あるな。連隊の射撃大会では、いつも賞を取ってたって言ってたけど、アレ、本当だったんだ。ちょっと意外。
「ここも昔は、15連隊があってなあ」
あ、それも聞いた事がある。駐屯地から見た旧・高崎城跡のお堀端の桜がとても綺麗だったそうだけど、残念ながら今年はまだ時期が早いのか、花は開いていない。
「おじさん、僕の父のお知り合いですか?」
「ん?ああ、連隊じゃ、一緒の小隊にいたんだいね。戦争が終わってからも、復興事業で世話ンなったしの」
「柿作りですか?」
「おうよ!市内の柿農家は、みーんな喜栄さんの指導で柿、作りはじめたん」
へー、ウチの親父って、そんなに立派だったのか。
「今日はよろしくお願いします」
「喜栄さんに、神郷の吉澤がよろしくって伝えてくんない」
僕は吉澤老人に、もう一度お辞儀した。こういう予想外の出会いと言うのも、地域交流の楽しみのひとつなんだろうな。
吉澤老人は手を振って、自分の荷物の置いてある場所に戻っていった。
「よろしくお願いしまーす!」
今度は女の子の声がした。振り向くと、制服姿の女の子の二人組だった。こちらはクラシック組さんたちなのか。
僕も挨拶を返した。
「私たち、市女の音楽部なんです。あなたは?」
「あ、ただのギター弾きなんです」
僕の答えが面白かったのか、音楽部さんたちはけらけらと笑った。…そんなに変かな?
「と…とりあえず、今日はよろしくお願いします」
「お願いしまーす」
音楽部ガールズさんたちも、自分の場所に戻っていった。
今まで経験なかったけど、こういう交流もいい物なんだなあ。やっぱ、同じステージに立つ間柄として、ご挨拶しておいた方がいいのかな?
午前中の組は…後は件の「ヘビセンター」さんたちだけだな…ロックバンドさんみたいだけど、誰なんだろう…?
周囲を見回すと…あ、あそこの人たちみたいだ。
目線の先には、いかにも!といった風体の方々がいた。
三人組で、誰もがリーゼント。
素肌の上に、袖無しの黒いジャケットを直接着ている。下は当然のごとく、スリムな革のパンツにブーツときた。腕にはタトゥー…だけど、アレはたぶん、マーカーか何かで手描きした物だよな、やっぱ。
いかにも「ザ・ロックンローラー!」ってオーラを全身から漂わせている方々だった。
うーん…ワルそうだ。
パンフレットによれば、代表者の「水嶋さん」って、僕と同い年だそうだけど…何だか声を掛けづらいなあ。雰囲気負けしてるというか、ちょっと近寄りがたい気もする。
文ちゃん先輩を見ると、彼女もヘビセンターさんたち(?)を、何となく神妙そうな顔で見つめていた。
「…文ちゃん先輩?」
「む…どうしましたか?」
「あの人たちにも、ご挨拶しておきます?」
「そうですね」
僕たちは、二人揃ってヘビセンターさん(?)の所へ歩いて行った…のだけど。
「…寝ている?」
「…みたいですね」
ヘビセンターさん(?)たち三人組は、片肘ついて芝生の上でぐっすりとお休み中だったのだ。…余裕あるなあ。