03 レッド・ホット・ピッカー
「あら、わたしはついでなのね」
「今日に限ってはそうです」
「あら断定?」
「はい」
僕は言い切った。普段は察しのいい鮎子先生だけど、今日はなぜか空気を読んでくれない…いいや、もしかしたら、彼女は全て分かっていた上でやってるんじゃないか?この人…というか「カミサマ」の事だから油断はできないのだ。
「いいじゃないですか。鮎子おねえちゃんも一緒なのはいつもの事ですし」
と、こちらは空気を読めない文ちゃん先輩。僕の決意もちったぁ察してほしいものである。まったくもって融通の利かない生徒会長さんであった。
僕はため息をつくと、愛機のチューニングをはじめた。ギターという物は実に繊細な楽器だ。気温ひとつ、湿度ひとつの違いだけでも弦のチューニングが狂ってしまうのだ。
使い慣れた440Hz、Aの音叉の腕の部分を床に叩きつけ、そのまま愛機のボディに触れさせると、ぽーん、という心地よい共鳴音が響く。倍音を含まない純音の響きだ。その音に合わせて、5弦開放の音を出し、二つの音の揺らぎが無くなるまでペグ(糸巻き)で調節する。ギター初心者によくある勘違いは、この時、音叉とギターの音の高低を聞き分けようとする点だけど、これではなかなかうまく調律できない。ほぼ同じ高さの音を、どちらが高いか低いかなんて聞き分けるのは、やはり慣れが必要だと思う。
チューニングのコツは、実はそこにはない。それよりも簡単で確実な方法がある。音の「揺らぎ」を意識すればよいのだ。ふたつの音の高さがズレていると、音同士の干渉が起きて共鳴音にうねりが出てくる。言葉ではうまく表現できないけれど、音の中に「うわんうわん…」と波打ったような響きが混ざっている感じになるのだ。
逆に、音叉とギターの音の高さが全く同じならば、完全に共鳴状態になって、このうねりはなくなる。これで基音となるAのチューニングは完了。
後はこの5弦の5フレットの音に合わせて4弦開放、次に4弦5フレットに合わせて3弦開放…といった具合に同じ高さの音を合わせてゆけばよいのだが、この時も揺らぎを意識してゆけばよい。
このコツを知った時、僕はそのあまりの勝手の良さに感激した。「ユリーカ!」状態だった。
…さすがに裸で往来に飛び出したりはしなかったぞ?念のために明記しておく。
「…さて、と。じゃあ、文ちゃん先輩。まずは聴いてください」
「くす。楽しみです」
僕は制服の上着を脱ぐと、シャツの袖をまくって気合を入れた。
右手の親指には、使い慣れた米国ジム=ダンロップ社製・型番94530のメタル・サムピックをはめる。これがないと、もはや僕はギターが弾けないくらい馴染んだモデルだ。
普通のフラットピック(三角形のセルロイドまたはプラスチック製の物)が1枚100円程度なのに較べると、1個300円くらいするお高いモデルなのが難点だけど、親指にはめるから演奏途中で落っことしたりしないし、ステンレス製だから割れてしまう心配もまず皆無なのがいい。田舎の楽器屋さんにはなかなか置いていないのが悲しい。今僕がはめている物だって、前に家族で上京した時に、無理を言って御茶ノ水の楽器街に寄らせてもらい、あちこちの店舗を探し回って手に入れた物だ。僕はよく失くすから、家にある在庫が無くなる前にまた仕入れておかなくては。
まずは右手の小指で5弦の7フレットを押さえて、そこから緩やかに弦を爪弾きはじめる。スケールを登っていって降りてくるだけの、ごく単純だけど不思議と人の耳に残るイントロのフレーズ。
「…あ、このメロディー…?」
文ちゃん先輩もさっそく気づいてくれた様だ。それはそうでしょう。これは、過日貴女もうっとりして聴いていたあの曲ですからね。「ミスター・サンドマン」。これを演奏しているチェット=アトキンスが、ピアニストでなくギター弾きだという証明をご披露いたしましょう。
同じ上昇&下降フレーズを二回。その間にじゃらん…とソフトなコード・ストロークでブレイク。さあ、本番はこれからですよ?
シンプルなイントロが終わると、この曲は途端に忙しくなる。ビートがややスィングしはじめるのだが、それを表現するために、このパートからは低音弦でベース・ラインとコードを、そして高音弦でメロディを同時に刻んでゆくという超絶テクニック、いわゆる「ギャロッピング奏法」を駆使しなければならないのだ。
左手親指にはめたサムピックでズンチャツ、ズンチャッ♪とビートを刻む。高音弦で奏でるメロディだって、実は単音でなく和音で進行してゆく。言うなればこの曲はコード・ワーク要素を多分に含んでいるのだが、普通のコード弾きの様にピックでジャカジャカやればよいというわけでもない。あくまでも一音一音、指で丁寧に弾いてゆかなければ、御大の様な柔らかなトーンにはなってはくれない。
この演奏をしている時の右手の動きは、かなり慌ただしく見えると思う。右手の指全てが6弦から1弦の間をくまなく動き回り、休む間もない。
それでいて、曲調はあくまでもソフトに、緩やかに。
元来、「ミスター・サンドマン」はチェット御大の曲ではない。この曲は1954年にリリースされた、パット=バラード作曲の歌だ。歌ったのはザ・コーデッツという女性4人組のコーラス・グループだそうけど、こっちのオリジナル版は、僕は実は聴いた事がない。
歌モノだから、当然歌詞もある。その大意は、恋に恋する女の子が、妖精に「私を夢の中へ連れていって。まだ見ぬ素敵な彼に逢わせてね」という、実に甘ぁい内容だったりするみたい。
ちなみに「ミスター・サンドマン」とはドイツの昔話に出てくる、眠りを誘う妖精の事だそうだ。
妖精、などというと、僕はよく演奏するサイモン&ガーファンクルの「スカボロー・フェア」を連想してしまう。あちらに登場するのは、ちょっと意地悪な妖精。その妖精は旅人に意味不明の質問を投げかけ、答えられないと妖精の国に連れ去ってしまうという。
思えば、この「スカボロー・フェア」こそが文ちゃん先輩、そして鮎子先生との最初の接点だった。あの時と同じ場所、同じ三人でいる所で、同じ様なモチーフの曲をやる事になるとは、何だか不思議な気もする。
「妖精」という同じ様なモチーフを使っていても、ずいぶんと雰囲気が違う曲だけどね。
神秘的な中にもどこかおどろおどろしい様な雰囲気を持つあの曲に対して、こっちはどこまでも甘く、あまぁ~く、を心がけてプレイすべき。
でも、そのソフトで優雅な曲を演じるためには、休む間もなく指を正確に動かしてゆかねばならない。…水面を優雅に渡ってゆく白鳥の気持ちが、何となく分かった様な気がする。
これを、紳士的な笑顔で余裕で弾いてしまうチェット=アトキンスというギター弾きは、やはり只者ではない。
僕は彼の様に満面の笑みで弾く…なんて余裕はないけれど、心を込めて一音一音を爪弾いていった。
1コーラス目が終わる。続いてイントロと同じフレーズを転調して展開。2コーラス目はガラッと雰囲気を変えて、ギャロッピング奏法ではなくコードだけでメロディを構築させてゆく。前のコーラスよりも、いくぶん演奏上の負担は軽くなった。
ここでやっといくらか余裕が出てきた僕は、文ちゃん先輩の顔を眺めてみた。
…あ。うっとりしてくれてる。…やったぜ!
彼女も僕の視線に気がついたみたいだ。目線が合った。
僕は思わず、気取ったウィンクをひとつ。
「…ぷっ」
…あれ?
「ぷっ…あは、あはは、あはははは」
おいこらまいはにー。なにゆえそこで吹き出す?笑いはじめる?
つられて鮎子先生もくすくす笑ってやがる。ああそうですか。それがカミサマの反応ですか。
何だかやる気もなくなってしまい、僕はそこで演奏を止めてしまった。
「え…あ、やめちゃうんですか?」
笑いながらも、何だか残念そうな顔の文ちゃん先輩。
「むー。だって笑わなくたって…」
「あ、え、いえごめんなさい。何だか志賀君の素振りが、あまりにも似合わなかったものですから」
「ふんだ。どうせ僕ぁ…」
そんな事、言われなくても分かってるさ。ダンディなチェット御大とは雲泥の差だよ。あのウィンクだって一時の気の迷い。鬼の霍乱、という奴だよ。
そういえば「霍乱」って本来は「揮霍掠乱」って言葉の略で、日射病や暑気あたりなど夏の病気の事を意味するそうだっけ。で、「鬼」は文ちゃん先輩の苗字…ではなく、普段は元気で病気ひとつしない人の事。普段元気な人が珍しく病気に罹るという意味だそうだけど、転じて、今では普段からは思いもよらない行動に出る場合にもこの言葉を遣うみたい。ただ「珍しく」という意味だけではないのが本当だけど、今の僕の場合は気の迷い、心の病からきたものだ…という事にしておきたい。いいやそうに違いにない。そうに決まった。
それにしても、こんな恥辱の場においてまで、言葉についてあれこれ考えてしまう自分の性根が情けない。これも「生まれながらの文系」の宿命なのだろうか。いや、むしろこれは「宿痾」というべき物だろうけれど。
「うん。今のウィンク、あまりにも志賀くんらしくなかったものね」
鮎子先生も文ちゃん先輩に同調してきた。…何だこのアウェー感。
…このウィンクは、僕の生涯の汚点だ。ちくしょう。せっかく途中までいい感じだったのになあ。本能寺で炎に包まれた信長もこんな事を考えながら果てていったに違いない。
何が「一期は夢よ、ただ狂へ」だ。カッコいい事言ってんじゃねえ。狂った挙句がこのアリサマでござい。
さすがに末期の舞をひと差ししてから腹を召すわけにもゆかないので、僕は代わりに床に指で「の」の字を書く事にした。
「あ、イジケた」
「はい。イジケました。たった今、二人の心無いリアクションのおかげで。ミュージシャンは繊細なのです。とってもでりけーとなのです」
「文ちゃん文ちゃん」
鮎子先生が文ちゃん先輩の腕を突っつく。何か促してるみたいだ。
「あ…はい?何、おねえちゃん」
きょとんとした文ちゃん先輩。
「察しの悪い子ねぇ。…何か言う事は?」
「あ」
「あ」、じゃないよまったく。
「あ…あの志賀君?とっても良かったですよ」
「うそだ」
「嘘じゃないです。…その、何と言うか、前に志賀君が言ってた事が本当だったという事は理解できました。今の志賀君の演奏、チェット=アトキンスさんとそっくりでしたよ」
…それは褒め過ぎだい。
「いえ…優雅さとかじゃなくて」
…違うのかよ。
「ええっと…何と言いますか、ギターでもピアノみたいな事ができちゃうんですね。私の認識不足でした。謝ります。ごめんなさい」
文ちゃん先輩はぺこりと頭を下げた。長い後ろ髪が前にぱさあっと垂れる。
頑固は頑固だけれど、改めるべき所は素直に改めてくれるのが文ちゃん先輩という人だ。
ええい、そんな可愛い所を見せられたら、惚れ直してしまうではないですか。
「ふむふむ。文ちゃんも志賀くんも赤くなった。うん、これは引き分けだね」
…いや、これは勝負じゃないですよ、鮎子センセ?
「でも驚いたな。こんな短期間でギャロッピングを覚えちゃうなんて」
いやそれ程でも…って、あれ?ちょっと待った。
何で鮎子先生は、僕がギャロッピング奏法を覚えようとしたのがつい最近だって事を知ってるんだ?ここ最近は学年末試験で忙しくて、先生とはほとんど会ってなかったし、もちろん僕のヒソカな決意だって話した覚えなんかないぞ?
「ん?ああ、その事?だって志賀君、私にお祈りしてくれたじゃない」
はぁ?
「『せめて目の前の頑固な1学年先輩のお頑固さんをうっとりさせる様なギター・プレイができるようになりたいです』って」
あ…そういえばそんな願い事をした覚えがあったな。「カミサマ」としての鮎子先生に、心の中で。
「…あの…もしかして聞こえちゃったんですか?」
「うん。聞こえたよ。カミサマだもの」
…あっけらかんと肯定されてしまいました。
「さ…さすがはカミサマ…」
「志賀君、最近、その言葉で全て納得してしまうのはよくない傾向ですよ」
文ちゃん先輩には注意されてしまったが、こんなのは納得するしかないではないか。他にどうせよというのだろう。
「わたしはね、『信者』の願い事くらいは聞こえちゃうんだ」
「さすがはカ」
じろ、と文ちゃん先輩に睨まれてしまったので、口に出しかけた言葉を引っ込める。
「いつもじゃないし、よほど近しいか親しいニンゲンの心の声じゃないと、よく聞こえないけどけどね」
むむむ。全校生徒の憧れの存在、鮎子先生の口から「親しい」なんて言われてしまうのは嬉しい事だけど、これからは迂闊に鮎子先生の事を考えるのはよそう。
「困った時のカミ頼み」ばかりではイケナイのだな、やっぱ。
「じゃあ、もしかしてあの時の助言は、僕の妄想なんかじゃなくて…」
「うん。ちゃんと志賀くんの訴えに応えてあげたでしょ?えっへん」
鮎子先生は自慢そうに胸を張った。豊かな胸の膨らみが、前をはだけた白衣越しにもよく分かる。
「何と言っても、このおっぱいを揉ませてあげた間柄だものね、志賀くんは」
「「ええっ!!??」」
僕と文ちゃん先輩の声が重なった。でも、その意味する所は全く違っていた。
文ちゃん先輩のは、意外な事実を知ってしまった衝撃を表現した「ええっ!?」。
そして僕のは…「やべえバレちゃった」という意味が多分に含まれた「ええっ!?」だった。
「……」
僕は恐る恐る、愛しのまいはにーさんを見た。あ、笑ってる?
「…ねえ志賀君?」
そのにっこりが、今はとっても恐ろしいです。
「…遺言の手続きに入りますよ?」
いきなりそこですか?いくら何でも、そこまで直球でゆかなくとも。
「い…いえあれは事故と言うか不可抗力と言うか…」
「自己?自己の意思でおねえちゃんのお胸を?こう、わしわしと?」
文ちゃん先輩は、小さな両の手のひらで何かを揉む様な仕草をしてみせた。
「何て厭らしい」
糾弾者文ちゃん先輩は、つん、とソッポを向いてしまった。
「あの…文ちゃん先輩?」
「ふん。どうせ私なんか、おねえちゃんみたいに立派な物、持ってませんものねー」
むむ、いかん。文ちゃん先輩の、最も触れてはいけない禁忌に話題が及んでしまった。
ど…どうしよう。…鮎子先生?
「くす。志賀くん、そんな訴える様な顔で見なくてもいいよ?」
一応、ハラスメントの被害者的立ち位置にいるはずのカミサマは泰然自若としていた。
「ねえ文ちゃん」
「何ですか」
「志賀くんはねえ、おっきなおっぱいよりも、小さくて可愛いおっぱいが好きなんだよ」
「な…どうしてそれをっ!?」
カミサマは、またもや手のひらを口元に当ててふふふと笑った。どうやら、そのポーズが最近の彼女のマイブームらしい。
「ふふふ。そこはカミサマだもん。聞こえちゃうんだよね。だから文ちゃん?」
「は…はい?」
「文ちゃんは自信を持っていいんだよ?文ちゃんは志賀くんにとっての理想の彼女、なんだから」
「そ…そうなのですか?」
文ちゃん先輩は、ちらちらと僕の方を見ながら言った。
「えと…はい」
僕は頷いた。何だか微妙に話題がズレている様な気もするし、僕の性癖が晒されている様な気もするけど、ここは大人しく肯定しておこう。そっちの方が無難だ…と思う。
「そ…それならいいのですけれど」
うわ、騙されちゃったよこの人。
「それはそれとして、本当に大した物ね、志賀くんは」
「へ?」
「ギターの腕前。ちょっと感心しちゃった、ね?文ちゃん」
「ええ。聴き惚れてしまったのも本当です」
いやそれほどでも。
紆余曲折あったとはいえ、今日の目的は達成できたので善しとしようか。
ところが、その直後の鮎子先生の一言に、僕の目は点になった。
「――だからね、もうそろそろ、街角でプレイしてみてもいいんじゃない?」