34 ノー・ヴェカンシー
プシャァァァァァ!
異形の胸から、どす黒い血が噴き出して…え…?
「ぎゃははは!やった、やったぜぇ!本郷、俺を殺せなくて残念だったな?しょせんテメエは俺にゃ勝てねえんだよ!」
勝ち誇った様にジョンソンが笑う。その顔にも、異形の返り血が浴びせられて…ええ…?
「そんな無様な姿にまでなってまで、この俺様を殺してみたかったのかぁ?ザマァねぇや、ぎゃはははは!」
返り血に染まった壮絶な顔面。歪なカタチに歪んだ口元から、異形を嘲る言葉が噴き出していた。
返り血…?あれは返り血…なのか?
だってそれは…その液体は、鮮血というにはあまりにもどす黒く、そしてあまりにもどろりとした感じだったんだ。
僕には、それが血…というよりも…まるでコールタールみたいに思えた。
ジャングルナイフで胸を突かれた異形は仁王立ちしたまま微動だにしなかったけれど、やがて力尽きたかの様に、ゆっくりと前のめりに倒れていった。
異形の身体で唯一動いているのは、今も床に吹き流れ続ける血(?)だけになった。
…死んで…しまった…のか?
「あーあ。やっちゃったねえ」
突然、この惨劇の場には相応しくない様な、おっとりとした声がした。鮎子先生だった。
「んぁ?だっ、誰だテメエ!」
突然姿を現した白衣姿の若い女に、流石のジョンソンも驚きを隠せないでいる。
「これ、キミがやったの?」
ジョンソンの問いには答えず、鮎子先生は仁王立ちしたままの異形の胸元を凝視した。
「お…俺じゃ…いや、これは正当防衛だ!こ…こんな怪物に襲われたんだ、俺だって命が惜しいし…」
「ふーん。キミも命は惜しいんだ?」
狼狽するジョンソンを、鮎子先生はさも愉快そうに見つめている。
「あっ、当たりめえじゃねぇか!それより女、オメエは誰だ?何でこんな所にいやがる!あ、そ…その恰好だと…オメエ、医者か何かか?ぁあ?」
白衣姿の鮎子先生を見たジョンソンは、そう思ったらしい。
「んー、どーかなあ」
鮎子先生は、口元を手で隠して意地悪そうにふふふと笑った。
「い…医者だとすると…もしかして警察とかも近くにいるのか?下の死体を通報した奴がいるんだな?」
「へーえ。下の階には死体があるんだね。わたし知らなかったなあ。怖いこわい」
鮎子先生は、また意地悪そうにふふふと笑った。
「な…!?」
言わなくてもいい事を口走ってしまった事に気づいて、ジョンソンの顔に焦りの色が浮かんだ。
「テメエ!医者じゃねえとすると…何者なんだァ?」
「うーんとねえ…通りすがりのカミサマ、かな?」
「はぁ?フザケんじゃねえ!テメエ、死体を見たんだな?」
鮎子先生の言葉に嘘はない。少なくとも言葉の中の普通名詞だけは。「通りすがり」というのは違うだろうけれど。もっとも、彼女の素性を信じる奴なんて、この場にいるのは僕だけだ。…ああ、そういえばこの異形――本郷さんも、かつては鮎子先生の事を「女神様」なんて呼んでいたそうだっけ。
「ね?その死体はふたつ?みっつ?生きが良かった?それともぐったりしてたのかな?」
「…テメエ…何言ってやがる?」
「それよりもねえ、あなたの顔、ちょっとヘンじゃない?」
「…何?」
鮎子先生に言われて自分の頬を触ったジョンソンは。
「な…何だァァァァ…!?」
目を丸くして叫んだ。
そう。奴の顔に浴びせられた異形の返り血…いや粘液は、顔の表面上を動き回っていたのだ。
まるでさざ波の様に、あるいはまるで意志を持っているかのように。
粘液どもは、奴の顔の上を徘徊していたのだった。
「ひゃあああ!!」
さっきまでとはうって変わった情けない声を挙げて、ジョンソンはその粘液を引き剥がそうとしたけど、それはまるでへばりつく蛭の様に、彼の顔にくっついたまま離れようとしなかった。
やっとのことで一部を引きちぎって床に叩きつけると、その粘液はナメクジの様に地面を這いずり寄って、また彼の足元から登ってくるのだ。
「な…何だこりゃ!生きてる…のか?ちくしょう!畜生!チクショォォォォ!!」
ジョンソンが必死に粘液を引き剥がすたびに、床に叩きつけられた粘液は彼の元に這い戻ってくる。
「たっ、助けてくれ!お…おい女、いや先生!何とかしてくれぇ!」
「あは、ごめんね?たしかにわたし、『先生』だけど」
ジョンソンの懇願に、鮎子先生はにっこりと答えた。
「キミの先生じゃないから」
それは屈託のない笑顔だった。そう、僕たちがよく知っている、わが県立業盛北高校が誇る、美人の養護教諭の、ごく日常の笑顔に過ぎなかったんだ。
でも、その口元から漏れたのは、冷酷な拒絶。
「ひぃやぁぁぁぁぁぁぁ――!!」
鮎子先生の笑顔に戦慄したのか、ジョンソンは奇声を挙げて逃げ出そうとした。
「あ!待てこの野郎!」
僕は慌てて奴を追いかけようとしたけれど、数歩進んだところで、ジョンソンは何かに躓いたかの様に転倒した。
「え…?」
よく見ると、倒れたはずの異形の手が、奴の足首を掴んでいたのだった。
「…ノォ…ヴェカンシィ…」
「なっ、本郷…?テメエ、離しやがれっ!この、このっ!」
ジョンソンは、自らの足首を掴む異形の顔を何度も蹴りつけた。しかし、一度獲物を掴んだ異形の手が離れる事はなかった。
「…ノォ…ヴェカンシィ…フォー…アス……ノォ…ヴェカンシィ…」
「この子は言ってるよ?『キミのお部屋はもう無いよ』って」
鮎子先生は、異形を必死に蹴り続けるジョンソンの傍らにしゃがみこんで、子供を諭す様な口調で語りかけた。
「ひ…え…部屋…?え…い…あ…あひゃ…あひゃひゃ…あひゃひゃひゃひゃ…うひ…ウひヒヒひヒひぃぃィィぃ…?あぎゃ…べべべべべべ…部屋ァ?あ…部屋ァ……?」
ジョンソンの正気は急激に喪われつつあった。それが自らを襲った理解不能の恐怖による物なのか、それともこの黒い粘液の影響による物なのかは定かではなかったけれど。
その間も、黒い粘液どもはジョンソンの身体を貪欲に侵食していくばかりだった。
やがて粘液は、ジョンソンの全身を覆いつくしてしまった。その姿は、まるでヒトガタに固まったコールタールの塊みたいに見えた。それでも奇怪な笑い声は続いていた。
「ウギャハハハハハ!…ギャーッハハハハ!……ァア?」
不意にジョンソン(だった何か)の笑い声が止んだかと思うと、そいつはおもむろに立ち上がった。
奴の足首を掴んでいた異形の手も、今はもう離れている。
「…ノォ…ヴェカンシィ…フォー…ミィ……」
黒い粘液に覆われた頭から、そんな言葉が漏れた。
新たに生まれた異形はキョロキョロと周囲を見渡すと、四つん這いになって走り出した。
「あ…逃げる?」
「だいじょうぶだよ」
咄嗟に追いかけようとした僕を、鮎子先生は制した。
「え…?」
次の瞬間、周囲が七色の閃光に包まれたかと思うと、爆発音の様な轟音が響いた。
「うわ…?!」
雨の匂いに混じって、肉の焼ける臭いがした。
「え……」
慌てて周囲を見ると、逃げようとしていた異形の身体が燃えていた。
どうやら、落雷が奴を直撃したみたいだった。
落雷の影響なのか、僕たちがいる雑居ビルの周囲も停電してしまったみたいだ。
仄暗い宵闇の中、立ったまま燃える異形は何度かもがいていたけど、やがて動かなくなった。
「こいつ…死んだ…んですか…?」
「身体だけじゃないよ」
「え…?」
「身体だけじゃない。精神の方も消えたね、これは」
炎に照らされた鮎子先生は無表情だった。
「…立てる?」
鮎子先生が差し伸べてくれた手を取って、僕はよろよろと立ち上がった。そのまま、倒れたままのサンドマン…本郷さんの所に向かった。
驚いた事に、異形はまだ動いていた。伏せたままだったけど、その肩が小刻みに揺れていた。
かつての姿からは想像もできない、それはそれはとても醜悪な姿だったけれど、嫌悪感とか恐怖心は不思議にわいてこなかった。
「…師匠…」
僕の声に、異形が反応した。真っ赤に染まった目が僕を見つめる。
僕たちは無言で見つめ合った。
何か言いたかった。何か言わなけりゃいけない。
でも、たった16年しか生きてきていない僕には、こんな時にどんな言葉を口にすればいいのかなんて、まるで分らなかった。それが悔しくて悲しくて、ただ目頭が熱くなってゆくのを止める事もできなかった。
「…………」
そんな僕を見て、異形――本郷さんは何か言おうとしたみたいだった。でもその唇の動きは弱々しくて、何と言ったのかは分からなかった。
そして、僕の師匠は静かに目を閉じた。まるで眠る様に。
ミスター・サンドマンは、自ら眠りのセカイに旅立っていった。
周囲が賑やかになってきた。おそらくさっきの落雷で、消防署が駆けつけてきたのだろう。
「…さ、行こ?」
僕の肩に手を置いた鮎子先生の声は、とても優しかった。
「…鮎子先生」
「なに?」
「鮎子先生は」
「ん?」
「鮎子先生は…もしも僕が…異形になったりしたら…僕を殺しますか?」
「……」
「答えてください」
鮎子先生はふぅ、と溜息をついた。
「ね、志賀くん…わたしの身近なニンゲンが異形になったのって、これが初めてだと思う?」
「え……?」
「こういうの、わたしはもう何度も経験してきたよ」
「……」
「もう、何度も。…何度も…ね」
「何度も…ですか…」
「うん。何度も。それでキミの質問だけど」
「…はい」
「殺さないよ、キミは」
「……」
「キミは殺さない。キミだけは殺さない。殺させない。何があっても…ね?」
「何が…あっても?」
「そ。だからね、今はおやすみなさい。疲れたでしょ?」
鮎子先生の声に導かれる様に、そこで僕の意識は途切れた。




