33 ゼア・イズ・ノー・ジャスティス
それは、この場には相応しくない様な、朗らかなメロディーだった。ただ、その旋律を奏でるハミングは、あたかも地の底から…地獄の底から響いてくる様な、低くてくぐもった無気味な声だったけれど。
「な…何だこのメロディーは?どこから聞こえてくるんだ?」
石村社長が慌てた様に周囲を見回したけれど、その声の主の姿はどこにもなかった。
しかし狭い事務所の中、その声はなおも響いてくる。
「な…何だ…どう…いう……」
事態を呑み込めていないトミーさんの声が、次第に弱々しくなってきた。何か様子がおかしい…あれ…何だか僕も眠くなって…?
あ…そうか。この曲に歌われている「ミスター・サンドマン」って…元々は…眠りの妖精の事…だっけ…ああそうだ…たしかお伽話では…「眠りの砂」を相手の目にまぶして…眠りに誘う…って…いう…ダメだ…今寝てしまったら…
気を抜けば落ちてきそうになる瞼を、僕は親指で強引に押し上げた。すると事務所の壁に、何だか黒い染みの様な物が広がりつつあるのが見えた。その染みはやがてニンゲンの様なカタチになって…その染みは壁から抜け出してきた!
“BAM,BAM,BAM,BAM,BAM,BAM,BAM,BAM…BAM,BAM,BAM,BAM,BAM…”
実体と化しても、その不気味なハミングは止まらなかった。
僕は襲いかかってくる睡魔と戦いながら、そのハミングの主を見つめた。
身長はおよそ170センチくらいだろうか。全体的にほっそりとした体型みたいだけど、大きぼろぼろのコートを羽織っているのでよくは分からない。頭には深々とテンガロン・ハットを被っているけれど、その縁の影からは血の色をした目玉が見え隠れしている。びっしりと巻かれた包帯で覆い隠されている間から見える口は土気色。その包帯だって、悪臭を放つ何かの染みで薄汚れている。歪な形に歪んで伸びる右腕の先には…え?
その異形の右拳の指の間からは、凶悪な光沢を放つ金属製の長い鉤爪が伸びていた。
あれは、てのひらの側から釘を突き刺したのだろうか。
トミーさんと石村社長は、意識を失って床に倒れた。やはりあのハミングには、ニンゲンを眠らせるチカラがあるみたいだ。まずい、僕も耐えられないかもしれない…
異形は床に倒れている石村社長の横に立つと、無造作に彼の顔面に鉤爪を突き立てた。
ぐさ、だかごり、だかよく分からない不快な音がして、彼の顔から鮮血が噴き出した。
異形がゆっくりと鉤爪を引き抜くと、その先には血塗れの眼球が刺さったままだった。
その眼球は、重さでするりと抜けて床に転がった。
異形は石村社長の死体を跨いで、僕たちの方にやってきた。
「ハ…ィ、ミスタ・ジョンソン…ハァ…ウ…ディィィィィ…」
異形は、悪臭交じりの低い声を漏らした。
「な…何だテメェ!?…まさか…テメェ本郷か!?…テメェ、死にきれずに化けて出やがったのかよ!?」
いまだ意識を失わないでいたジョンソンは、異形を睨み返した。
「ハァァァァァウ…ディィィィィ…」
「てっ、テメェが…ダークとザックを殺したのか!?」
「アハァ?」
「オ…俺は、あいつらみたいにゃやられねえからな!殺されてたまるもんかよ!!」
ジョンソンはそう叫ぶと、手にしたグレッチで異形に殴りかかった。咄嗟の事で、異形がバランスを崩してよろめいた隙を縫って、彼はグレッチを手にしたまま事務所の外に飛び出そうとしたのだが。
「…!」
しかし彼は、ドアの外で立ち止った。…何だ?
異形の肩越しに見えたその様子に、僕は絶句させられた。
ジョンソンの前には、二人の男が立っていたのだ。
一人は、顔中に五寸釘がびっしりと生えたスキンヘッドの巨漢。
そしてもう一人の巨漢は…首から上がぐしゃぐしゃに潰れていた。それでもそいつはまだ動いているんだ!
五寸釘の方は間違え様がない。フューリーアレイのゴミ置き場で死んだはずのザックだ。
となれば…もう一人は、ロードローラーの下敷きになったというダークなのだろう。ジョンソンの前に立ちはだかった二人の男…いや二体の死体は、ゆっくりと彼に歩み寄ってくる。
「て…てめぇらも化けて出やがったのかよ!?」
ジョンソンと元メンバーだった二体のゾンビの距離は次第に縮まってゆく。しかしそれは旧友たちが再会を喜ぶという様には見えなかった。
そして最初に現れた異形も、ゆっくりと事務所の外に向かって歩き出した。
堪りかねたジョンソンは、かつて仲間だった二体の死体をギターでブン殴って、そのまま廊下に駆け出していった。あ…あっちの方向は登り階段…だよな?
サンドマンも彼を追って、ゆっくりとした歩調で向かっていった。
僕もジョンソンを追いかけようとしたけど、意識は薄れてゆく一方だった。
いけない…このままじゃ…
「…あちっ!?」
と、その時。僕は自分の左腕に急激な熱気を感じて、眠気が一気に吹き飛んだ。何事かと自分の腕を見たら、文ちゃん先輩からもらった腕輪が発熱していたのだった。
え…?まさか近くに文ちゃん先輩がきているのか…?
僕の意識は、そこで一度途切れかけた。
『ちょわ~っ!!』
突然、聞き覚えのある、どこか生意気そうな声がしたかと思うと、腕に激痛が走った。
「いってぇ~っ!!」
あまりの痛みに、薄れかけていた意識が一気に戻ってきた。何事かと腕を見ると、ちょっと大きめのフォークが刺さっていた。
『…目が覚めましたかしら?ヨシハルさん』
僕の横には、あのくそ生意気な生き人形、慰撫・弐式が立っていた。片手には、僕と同じ文ちゃん先輩特性の腕輪を持って。こいつにはかなり大きなサイズの腕輪は、もう切れていた。…ああそうか。こいつが自分の腕輪を切ったから、僕の腕輪が反応したのか。
「…お前が…このフォークを?」
『わたくしの力では少々足りないと思いましたので、天井から飛び降りましたのよ?結果は上々。思いの他深く刺さってくれましたわね。嗚呼、重力って素晴らしいですわ。癖になっちゃいそう』
…嫌な技を覚えやがったなこいつ。
「…いくら何でも、酷い事をしやがるな」
『そうでもしないと、寝坊助のヨシハルさんが起きないと思いましたので』
「そんな事ないやい。それはそれとして」
『な…何ですの?』
「…とりあえず、お礼だけは言っとくよ。ありがとうな」
僕は腕に刺さったフォークを引き抜くと、慰撫の頭を撫でてやった。
『た…大した事ではありませんわ』
あ。こいつ、照れてやがる。そうか。こいつの扱い方、何となく分かってきたぞ。
「お前…ずっと隠れていたのか?」
『マスター・アヤのご命令で、学校からずっとお車に同乗させていただいたのですわ』
「文ちゃん先輩が…」
『マスターも、直にここにくる手はずになってますの』
「…文ちゃん先輩には…こないでくれって言ったんだけどなあ」
『ヨシハルさんのため、だけじゃありませんことよ?』
「ああ分かってるさ。鮎子先生も止めなけりゃいけないものな」
『そういう事ですわ』
僕と慰撫は事務所の扉を抜けた。廊下の床には、ダークとザックのゾンビが横たわったまま、まだ蠢いていたけど、どうやら僕たちに敵意はないみたいだったから、そのまま放置しておいた。
外階段を駆け上がって屋上に出た。
外は、もう薄暗くなっていた。不穏だった空模様はいっそう不気味さを増していて、今にも雨が降り出しそうだった。
屋上の片隅には、血だらけになったギターを手にしたジョンソンが、息を切らしながら立っていた。その彼に向かって異形がゆっくりと歩いてゆく。
逢魔が刻とはよく言ったものだ。いままさに、異形がその姿を現している。
きっと鮎子先生も、どこかで事の顛末を見ているに違いない。
…僕はどうすればいいのだろうか。
その異形は…僕が「師匠」と呼んだ存在だった。
僕が心から敬服した大先輩。
僕を認めてくれた、はじめての先輩。
でも…今ここにいるのは…本郷さんであって本郷さんじゃない。
倉澤副部長と同じく、異形に取り憑かれてしまった哀れな犠牲者。
「…本郷さんっ!!」
僕は、思いのたけを込めて師匠の名前を呼んだ。
その声に、異形は歩みを止めて、こちらを振り向いた。
え…?もしかして、まだ自我が残っている…のか?
「…………」
しかし異形は何も答えない。答えたのは、追いつめられていたジョンソンの方だった。
「んぁ?やっぱテメーは本郷か!本郷なんだな?」
「…………」
「この死にぞこないがっ!テメェはいつもいつも、俺の邪魔をしやがりやがってよ!」
え…どういう事だ?
「覚えてるか?テメエが東京で活動してた時の事を」
「…………」
「…テメエはいつだって注目の的だった。ライヴやりゃ客が押し寄せるし、メンバーにも恵まれてた。デビューも決まってたそうじゃねぇか」
「…………」
「…俺とは大違いだぜ。俺なんかよぉ、ロクなメンバーも集まらねえでバンドは解散、仕事も辞めてスタジオのバイトで食いつなぐのがやっとだった…オメエらが浮かれてウチのスタジオにくる度に腹が立って仕方なかったぜ」
「…………」
おい、それってただの嫉妬じゃないか。勝手な奴だとは思っていたけれど、ここまで性根が腐ってるとは思わなかったぞ。
「…だからよぉ、いい気になってるテメエに一泡食わせたかったから、こいつをギってやったのさ!ザマァ見やがれ!!ぎゃははは!」
ジョンソンは、ホワイト・ファルコンを掲げた。
雷鳴が轟き、雨が降り出した。
「…あン時のテメエの顔は見ものだったなぁ?ええ?いつもの余裕はどこへやら、真っ青になってこいつを探し回ってたじゃねえか!ぎゃははは!」
「…………」
「…聞けば、後で後生大事なデモ・テープも火事で焼けちまって、デビューもオシャカになっちまったそうだなあ?ぎゃはは!でもなあ、言っておくが、そいつは俺のせいじゃないぜ?」
「…………」
「…何年か経って、この俺にもやっと運が回ってきたと思ったぜ。こんな田舎だけどよお、メンバーもどうにか頭数揃えて、事務所にも入った。やっとデビューも決まった…そこにオメエが現れた時には正直驚いたぜ?また俺の邪魔をするのか、ってな。まあ、そんな心配は無駄だったけどなあ?あの時のテメエにゃ、かつての輝きの残りカスも残ってなかったからなあ!?落ちぶれるだけ落ちぶれたテメエを見れて、俺は嬉しかったぜぇ?」
「…………」
「大物プロデューサーともコネができて、やっとテメエを追い抜いたと思ったんだぜ?…それがどうだ?富澤の奴、テメエなんかにペコペコしてよ、挙句の果てに、俺が作った曲まで奪いやがった!!」
トミーさんと本郷さんが、ブラッディーオーガのレコーディングのアシストをした事を言ってるのか?でも、「奪った」というのは違うと思うぞ?単に、自分たちの演奏技術のレベルが低すぎただけじゃないのか?
「…あの時俺は思ったよ。…本郷、やっぱテメエは俺の人生に邪魔ばかりしやがる、ってな!」
…何という勝手な言い草だろう。つまる所、このジョンソン――秦 正好という男は、自分の思い通りにならない人生への不満を、「本郷さん」という輝かしい才能を持った存在のせいにすることで紛らわせているにすぎないのだ。
「つくづく思ったぜ。…やっぱ俺の人生は、テメエを潰さなきゃあはじまらねえ、ってな」
「…………」
「…後は簡単だったぜ?社長やザックたちに、テメエがいかに下らねえ男か、どんだけクズなのかを言いつけりゃあ、テメエの評判は落ちる一方だった」
…こいつの事だから、きっとある事ない事吹聴しまくってたんだろうな。本気で腹が立ってきたぞ、この僕も。
「それが何だ!?テメエはいつもへらへらしているだけで、黙々と活動を続けやがってよ!俺たちがいくら虚仮にしてもよ、ちっとも堪える素振りもねえ。挙句の果てにゃ、そこにいるガキなんぞに『師匠』なんて呼ばれてよお、さぞかし気分良かったろうなあ?ええ?」
あ、このやろ。僕と師匠の間の事まで侮辱するのか。
「最後は勝手に死にくさりやがって!テメエは俺を殺人犯にまでしやがった!」
…!?こいつ、自分が犯した罪まで他人のせいにするのかよ?!
「…………」
ジョンソンの勝手な言い分にも、異形は何も応えなかった。
言葉が理解できないのか、それとも理解したうえで呆れているのだろうか?
「…へへへ。いいか本郷。そんなテメエに、俺はお返しをしてやるよ」
ジョンソンは不敵に嗤った。お返し…?こいつ、どうするつもりだ?
「…いいか本郷、全てはこのギターからはじまったんだよな」
ジョンソンは、手にしたグレッチを差し出した。あ…まさか…?
「盗まれただけで、あれだけ取り乱したテメエだ、こいつが目の前で壊されたら、どんな無様な顔を見せてくれるだろうなあ、ええ…?」
かつて愛用したギターを突き出されて、異形の動きが止まった。
「もっぺん…死ねやァァァァ…!!」
ジョンソンは、異形に向かってギターを叩きつけようとした。あ、ダメだ…!!あのギターを壊させちゃいけない!あのギターだけは!!そんな事をしたら、本郷さんの最後の希望が砕けてしまう!
咄嗟に止めようと前に出た僕の横を、一陣の風と共に小さな影が駆け抜けていった。
「…!?」
その影は振り下ろされたギターに激突して吹き飛び、床に叩きつけられてばらばらになった。
「な…何だこの人形は…?いきなり飛び出してきて…動いてるのか?」
「…慰撫…!?」
僕は、砕け散った生き人形の元に駆け寄った。
「お…おい慰撫、大丈夫か?しっかりしろよ!!」
『…急に飛び出したりしたら…危ない…のですよ?ヨシハルさん…』
「馬鹿野郎!何で…何でお前が…」
『…だって…ヨシハルさんがお怪我でもしたら…マスター・アヤに…どんな顔して謝ればよいのか…分からないじゃ…あり…』
「もうしゃべるな!」
『…わたくしは…大丈夫…なのですよ?異形を…あまりなめないでほしい…もの…』
「お…おいガキ!その人形…どうなってやがるんだ?」
「うるさいっ!お前は…お前だけは許せねえ!」
僕はジョンソンに掴みかかったけれど、うなじ辺りに強烈な反撃をくらってしまった。
目の中で星がちかちかして、僕は膝をついてしまった。
「…何だか分かんねえけどよ、ガキがケンカで俺に勝てると思うな!」
「…もう…やめろよ…悪いのは全部、お前じゃないか…いい大人が人のせいにするなよ…」
「うるせえぞくそガキがっ!」
ジョンソンは悪態をつきながら、何度も僕の背中を踏みつけた。僕にできるのは、砕けた慰撫の小さな体を庇う事くらいだった。
ひとしきり僕を踏み続けたジョンソンは、改めて異形に向かった。その間、どういうわけか異形は微動だにしなかったのだ。
「さ…さぁて本郷。思わぬ邪魔が入っちまったけどなあ、今度こそテメエに絶望を味あわせてやろうじゃねぇか!」
ジョンソンはそう言うと、グレッチを床に叩きつけた。
ギター弾きならば誰でも一番聞きたくない音を立てて、ギターが壊れた。美しいホワイト・ボディは二つに割れ、ネックも付け根から折れてしまった。
「…!!」
その時、微動だにしなかった異形が絶叫し、突然ジョンソンに襲いかかった。
「へ!やっとやる気になったかよ!このうすのろがっ!!」
ジョンソンは不敵に嗤うと、まだ手にしていたネックを無造作に横に放り投げた。
一瞬、異形の意識がそちらに向かう。その隙をついて、ジョンソンは懐から何かを取り出した。それは刃渡り30センチくらいある大きなナイフで、刃の片方がノコギリの歯の様になっていた。あれは…サバイバルナイフって奴じゃないか!
たしか、ついこの間公開されたスタローンの映画で、彼が使ってるのを見た覚えがある。
映画の中で、スタローンはこいつを手に千人もの警官隊と死闘を繰り広げていた。
「へへ…今度こそ引導渡してやらぁ!死ねや本郷ぉぉぉぉ…!!!!」
ジョンソンの突き出したナイフが、異形の胸を貫いた。




