32 ハイダウェイ
「――で、石村さん。そのグレッチって、今、ここにあります?」
驚いた事に、トミーさんは、ジョンソンがやってきて挨拶をしたにも関わらず、まるで彼を無視したかの様に話を続けた。一応、今日の話し合いの中心人物である彼が、あたかもまだ、ここに来ていないかの如く。
「え…?あの…秦も来た事ですし、その話は置いておいて…おい秦!お前、遅れてきて何だその態度は!今日の話し合いを何だと思ってやがるんだ!」
「へ…あ…いやその…遅れて申し訳ないっス」
来る早々、頭ごなしに叱られたジョンソンは目を白黒させている。まあ、遅刻してきた本人の自業自得だと思うぞ?
「まあまあ石村さん。いいじゃないですかそんな些細な事は。…で、ここにあるならぜひ拝見せていただきたいものですねえ」
うわ。今日はたしか、「ジョンソンの今後の活動方針」とやらの打ち合わせのはず…だよな?それを「そんな些細な事」って言い切っちゃったよトミーさん。
「僕はもう、彼の『今後』については、確たる方針を決めてますから」
トミーさんはにこやかに笑った。…でも、その目は笑っていなかった…と思う。少なくとも、横に座っている僕にはそう見えた。ところが石村社長は、その「確たる方針」という言葉に安心したのか、「ああ、そうでしたか」と頬を緩ませている。…おいおい、注視すべきは、むしろ「今後」という部分だと思うけれど。トミーさんの口調は、明らかにそっちの単語の方を強調していた。…トミーさんってば、やっぱ何か思う所があるみたいだな。
「はあ…富澤さんがそこまでおっしゃるのならば…」
トミーさんの思惑も知らず、石村社長は彼の申し出を承諾した。もしかしたら、自分の会社のタレントの「今後」を左右する(かもしれない)プロデューサーのご機嫌を損ねたくないというのが本音かもしれないけれど。
「おい秦、奥の倉庫に行って、この間橋本に貸したあのグレッチ持ってこい」
「え…あ…あのギター…ですかい?」
「ほれ、お前がここに来た時に持ってきた奴だ。さっさとしろ!」
「え…いや…でもアレは…」
ジョンソンが動揺しているのは明白だった。あ、そういえばこいつ、この間のフューリーアレイでも、ハッシュがそのギターを持ち出したら妙にそわそわしていた様な…
そのホワイト・ファルコンに、何か思う所が…あるんだろうなあ。
「ほれ!富澤さんがアレをご覧になりたいと申されているのだ!早く持ってこんか!」
「え…と…トミーさん…が?」
ジョンソンの声はうわずっている。
「ああ、『今後』の参考に、ぜひ見せていただきたいんだ」
トミーさんはまた「今後」という言葉を口にした。でもその「今後」が、トミーさんにとっての「今後」なのか、それともジョンソンの「今後」を意味しているのかは分からなかった。
「…『今後』のために、ね?」
僕ははじめて、このトミーさん…富澤浩二さんという人の事が恐ろしくなった。やはりこの人、絶対に何か企んでいる!この人が味方でよかった。
「ほれ!早くせんか!」
「へ…へえ」
社長に怒鳴られて、ジョンソンの姿は事務所の奥に消えていった。
「いやー失礼しました。本当にあいつは気が利きませんで」
「いえいえ、なかなか大した男ですよ、彼は」
トミーさんの口調は穏やかなままだったけど、僕にはそれがとても恐ろしく、そして同時に、とても頼もしく思えてきた。
それからしばらくして、トミーさんと石村社長が取るに足らない様な世間話をしているうちにジョンソンが戻ってきた。手にはギター用の黒いハード・ケースを持って。
「お…お待たせしました…」
「やあ。どうもありがとう」
トミーさんは会釈しながら、ハード・ケースを受け取った。
「石村さん、さっそく拝見させていただいてもいいですか?」
「ああ、どうぞどうぞ」
「では失礼」
トミーさんが留め金を外してケースを開ける。僕も思わず固唾を呑んで、その中身に注目してしまった。
ケースの中は、年季の入った白いセミホロゥ・ボディのギターだった。金属のパーツはゴールドで、そのやや黄色味の入った白いボディー・カラーにとてもマッチしている。嫌味のない高級感の漂う、美しいギターがそこに納められていた。
僕がこのギターを目にしたのはこれで二回目だけど、その美しさには心ときめく物があった。ギター弾きなら誰だって、このギターを目にしたら同じ気持ちを抱くだろう。
…幸運を呼ぶギター、か。
「ほほう…これはこれは…」
「私のコレクションでは、グレッチはその1本だけなんですよ」
石村社長が自慢げに口を挟んだけれど、トミーさんの耳には届いていないみたいだった。
「…ちょっと触っても?」
「どうぞご自由に」
「ありがとうございます」
トミーさんはネック部分を手にして、ケースから丁寧にギターを取り出した。
「しかし意外ですなあ。富澤さんがこれ程までにギターにもご関心がおありとは」
「…ギターそのものに興味はありませんよ。僕は元々ドラマーですし」
「え…でも…それって…」
戸惑う石村社長に構わず、トミーさんはギターの各部分を念入りに調べている。
噂の「幸運を呼ぶギター」の特徴は、僕も文ちゃん先輩から聞いている。彼女が言った通り、確かにこのギターの1弦のペグ(糸巻き)だけが他と異なっている仕様になっているのは、もう確認済みだ。後はこのギターが、もしも本当に本郷さんの元から盗まれたギターその物ならば…その裏側部分は…
「…あ!」
トミーさんがギターをひっくり返した時、僕は思わず声を挙げてしまった。
石村社長とジョンソンが、何事かと僕を見つめてくるけど、仕方ないじゃないか。だって…
「…あー、やっぱりそうか」
トミーさんは満足げに頷いた。
「やっぱり…?何の事です?」
そうだろうな。事情を知らない石村社長には、まったく意味が分からないだろうな。
「…秦君。このギターは盗品、だね?」
「「ええっ…!?」」
ジョンソンと石村社長の声が重なった。
「な…何を根拠に!?」
「ど…どういう事なんです?」
狼狽する二人を見つめると、トミーさんはふぅ、と短く溜息をついた。
「…いえね、随分と昔…僕がまだ駆け出しの頃にいたバンドで使っていた、都内のとあるスタジオで、僕の大切な友人の持っていたギターが盗難に遭った事がありましてね…これとそっくりのホワイト・ファルコンが」
「…ど…どうして同じ物だと分かるんです…?」
「ほら、このバックの部分…塗装が剥がれて木目が出てますでしょう?」
そうだ。その大きな傷は特徴的な形をしていた。文ちゃん先輩の言っていた通り、地図で見る群馬県の様な「鶴舞うカタチ」の様な大きな傷だった。
「よくある傷だ!は…ハッシュだって使ってたから、その時についた傷じゃねぇのか!?」
ジョンソンの奴、動揺の余りなのか、口調もいつものぞんざいな物に戻ってやがる。
「この傷は、けっこう年季が経っているみたいだけどね。…石村さん、このギターは前にも橋本君に貸した事は?」
「い…いいえ。最近まで、ずっと倉庫にしまっておいたままでしたが、この間のライヴの時に、橋本が予備のギターがないなどと申した物ですから、じゃあこれを持ってけと渡したのが最初です」
「なるほど…まだ最近の事なのですね」
「だ…だからどうした!?まさか、お…俺がギったってのかよ!?」
「ギる」?…ああ、確か「盗む」って意味だったっけ?うわー、モノホンのヤンキーさん言葉を生で聞いてしまった。けっこう貴重な体験…かもしれない。
「はは…そんな事は言ってないさ。ただね…」
「ただ…何だよ…ですか」
「僕もすっかり忘れていたけれど、秦君」
「な…何ですか…」
「君…10年くらい前、世田谷の『ピルグリム』ってスタジオでアルバイトしていただろう?自由が丘の駅から奥沢に歩いて5分くらいの所にある…」
「お…覚えてねェなあ…」
「そうか…でもね、そこのスタジオで、定期的にドラムスクールを開いている前野君って後輩がいるんだけど、彼は君の事をよく覚えていたよ?ずいぶん色々と問題を起こしていたそうじゃないか。このギターが盗まれたのは、まさにそのスタジオでの事だった」
「秦…お前…まさか…」
「ち…違いますよ社長!濡れ衣です!!」
「昨日、前野君に電話して確認を取ってもらったんだが、ちょうど時期も重なるんだ。このギターが盗まれたのと、君があのスタジオを辞めた時期が…ね」
「偶然の一致だ!俺はあの頃、いくつもバイトかけ持ちしてたし…」
「じゃあもうひとつ。御茶ノ水の『ノーマッド』って中古楽器屋は知ってるかい?」
「…知らねえなあ」
「あそこの店長は国内でも有名なグレッチ・ファンでね、グレッチの事なら彼に聞けなんて言われてるんだが、このギターが盗まれた頃、これそっくりなホワイト・ファルコンを売りにきた若者がいたそうだよ」
「そんなことが分かる物か」
「分かるんだよ。彼は信用第一主義者だから、楽器を売りにきたお客さんには、必ず身分証明の提示を義務付けて、そのコピーを保管しているんだ。たとえ売買が成立しなくともね。で…だ。前野君の証言が気になって、いくつかのルートを当たってみたら…あったんだなあ。その店の顧客名簿に、君の免許証のコピーが」
「あ…あーそう言えば、ダチのギターを、頼まれて売りに行った事があったっけなー」
「そうかい。で、店長にも電話して聞いてみたら、彼もこのグレッチの事はよく覚えていたよ。パーツを交換した後とか…この傷とか。よく使い込まれているにしては、売りにきた君の態度が露骨に怪しそうだったから、買取は拒否したってね」
「……」
「このギターを盗んだ犯人は、あちこち売り先を探したけれど、結局どこにも買い取ってもらえなかったみたいだね。何年も経って、きっと犯人は色々と考えたんだろう。転売する以外の活用法を…ね」
…凄いなトミーさん。本業は音楽プロデューサーなんかじゃなくて、実は探偵さんじゃないのだろうか?
「お…俺には関係ねー事だ」
「そうかもしれないね。…じゃあ教えてくれないかな?君がこのギターを、どうやって手に入れたのか。このホワイト・ファルコンを。僕の尊敬する先輩、本郷信太郎先輩が大事にしていたこのギターを、どういった経緯で入手することができたのかを…ね?」
「本郷って…あの本郷の事か?何で本郷が?」
石村社長が唖然とした。そりゃあそうだろう、彼にしてみれば、まさかここで本郷さんの名前が出てきたのか分からないだろう。
あれ…?ちょっと待てよ?
その割には、本郷さんの名前が出た途端、この社長さんってば、けっこう動揺したみたいにも見えたぞ。
「えっと…それは…その…譲ってもらって…」
「誰に?」
「ほ…本郷に…」
「秦!お前、本郷がここにくる前から、奴を知ってたのか!?」
「…本郷さんから譲ってもらったなんて事は…ありえないよ。先輩は、このギターをとても大切にしていたからね。『幸運を呼ぶギター』だと言って」
「ケッ!何が『幸運を呼ぶギター』だ!そいつと関わりあってからロクな事がねえ!」
ジョンソンは吐き捨てる様に言葉を吐いた。あーあ、言っちゃったよ自分から。
「秦…!やっぱお前…」
「えと…ごっ、誤解ですよ社長!俺は何も…」
ジョンソンは、もはや狼狽するばかりだった。
するとトミーさんは、急に立ち上がって一礼した。
「そういうわけで、石村さん。独自に色々と身辺調査をさせていただいた結果、今後、秦君…ジョンソン氏のプロデュースを続ける事はご遠慮させていただきたい」
「なっ…!?」
石村社長は絶句してしまった。
「そ…そんな…お…俺のソロ・デビューは…?」
呆れた事に、ジョンソンは、今日の打ち合わせが自身のソロ活動のための物と思い込んでいたらしい。よくそんな飛躍しまくった発想ができるものだ、と逆に感心すらしてしまった。
「別に、このギターの事が気になって調べただけじゃないんだよ?最初に顔を合わせたレコーディングの時から、ずっとこれまで、君のそのプロ意識の欠落が気になっていた。メンバーに対する言動も問題が多いと思うが、何よりも、君の実力不足と向上心の無さに失望を感じたんだ」
「ふ…ふざけンなよこの野郎…!?」
「先の仙田君の追悼ライヴでも、君の態度は最悪だった。同じバンドのメンバーの死を悼む気持ちもない君は、ミュージシャンとしては最低だ。笠木君が失踪した時もそうだったね。あの時君は何と言ったかな?たしか…「『あいつのベースなんか当てにしていない』だった」
「あ…あれはほんの冗談のつもりで…」
「冗談?…そうか。君にとっての音楽は、冗談のついでに過ぎないんだね。はっきり言おう。君の音楽では、ヒトの心を震わせる事はできない。なぜならば、君の音楽は、どこまで行っても自分本位で独りよがり、そして他者を見下しているだけだからだ。僕は…少なくとも僕は、それを『音楽』などとは呼びたくもない。それはただの醜悪なマスターベーションだ」
「な…っ…!?」
トミーさんにここまで言い切られたジョンソンは、流石に言葉を失っていた。
「…君たちのレコーディングの時、偶然にも本郷先輩と再会できた時は驚いたよ。何で彼ほどの人が、こんな素人以下のバンドの所で働いているのか?ってね。君たちの演奏ができが余りにも水準以下だったから、僕は先輩と一緒にトラックを仕上げただろう?覚えているかな?」
「わ…忘れてねェよ…あんな屈辱は初めてだったし…」
「そうだろう?そう思うのが当然さ。だが、それが君たちの実力だったというわけだ」
「じゃ…じゃあ何でアンタは、そんな俺たちのプロデュースを請け負ったんだよ?」
ジョンソンの問いに、トミーさんは溜息をついて答えた。
「…本郷先輩に頼まれたからさ」
なっ…!?どういう事だ?まさか本郷さんがこいつらの後押しをしていたって事なのか?
僕の覚えた動揺は、同時に石村社長、そしてジョンソンと同じ物だっただろう。
「な…何で本郷が…」
「あの時本郷先輩は、『まだ未熟な彼らだけど、何とか君の力でカタチにしてあげてくれないか』って言ったんだよ。同じ事務所に所属したのも縁だからねって言ってね」
「え…そんな…本郷って、富澤さんに意見できる程の男だったのか…」
石村社長の声もうわずっていた。
「あんな時代遅れの落ちぶれた中年が…私は聞いていないぞ?そうだと知っていたら…」
…ダメだ。この社長、まるでヒトを見る目がないや。アンタは散々、本郷さんの音楽を侮辱してきたクセに。
「お…おかしいとは思っていたんだ。全国的に有名なプロデューサーが、いくら何でもウチの駆け出しどもの、よく分からん曲のプロデュースを引き受けてくれるなんて…」
おやま。逆に、散々褒めていたブラッディーオーガをそこまで言うか?恥も外聞もないお見事な掌返し、とくと見せていただきました。
それにしても、本郷さんって…本当にいい人だったんだなあ。善人過ぎる。でもそんな師匠に、あいつらは…
「…本郷先輩は、君たちの事を気遣っていたんだよ」
「…けっ。それで殺されてりゃ世話ねーわ」
まるで子供を諭す様なトミーさんの言葉に、それまでうなだれていたジョンソンが返した言葉は、周囲の空気を凍りつかせるに充分だった。
……あ。言っちゃった。
「馬鹿!秦!言うな!!…あ、いや…」
慌てた石村社長が制したが、時すでに遅かった。
「え…秦君…今、何と言った…?」
トミーさんが驚愕の表情で、カミングアウトした男を睨んだ。
そうだ。一応、本郷さんは、世間的には失踪者扱いになっているはずだった。師匠がすでに鬼籍に入っている――本当はそれですらないのだけれど――を知っているのは…鮎子先生から「事実」を告げられた僕たち以外では……師匠を殺めた…「犯人」だけ。
ん…ちょっと待て?石村社長も、今「言うな」って言ったよな?…うん、確かにそう言った。
まさか…こいつも共犯…なのか?本郷さんを殺した仲間だったのか!?
「秦君!本郷先輩は…殺されたのか!?…石村さん!?」
「あ…いや、それは…」
答えに窮する石村社長の顔は蒼白だった。一方、ジョンソンの奴は…
「あ…あぁ…?あひゃ、あひゃひゃひゃひゃ」
まるで気がふれたかの様に、厭らしい声でいきなり笑い出したのだった。
「秦…君…?」
「うわーっひゃひゃひゃひゃ!げらげらげら、ひゃっひゃっひゃっ」
「秦…お前…」
狂人の様な声でひとしきり笑い続けたかと思うと、彼は言った。
「…んぁ?ああ。ああそうだよ?俺たちが…いいや、この俺様が、あのクソヤローの本郷の馬鹿を殺してやったんだ!ザマァねーなぁ!」
「お…おい秦…?」
「社長だって言ったじゃねーですか。騒ぎになる前に、そんな死体はさっさと片付けちまえってさぁ?」
「石村さん…まさかあなたも…」
「い…いや知らん!私は何も知らん!知らんと言ったら知らんのだ!!」
再び笑い出したジョンソンの奇声と、狼狽して口から泡を飛ばしながら否定する石村社長の弁明が響く中、ふと――
“BAM,BAM,BAM,BAM,BAM,BAM,BAM,BAM…BAM,BAM,BAM,BAM,BAM…”
低く響く、無気味なのにどこか懐かしさを感じさせてくれるハミングが聞こえてきた。
そう。あの「ミスター・サンドマン」のメロディーが。