31 スリップ・スライディン・アウェイ
で、その翌日の放課後になった。
トミーさんが「放課後、君の学校まで車で迎えに行くよ。もちろんその後は家まで送ってあげるから」なんて言ってくれたものだから、その日僕は、いつもの自転車ではなくバスで登校したのだった。
約束した時間に校門前に出てみると、そこにはウチの生徒たちの人だかりができていた。何だろうとその人ごみの間を縫って前に出たら、一台の高級そうな外車が停まっていた。しかもオープンカーだ。凄いなあ。僕は小学生の頃、いわゆる「スーパーカーブーム」って奴をぎりぎり通ってきた世代だけど、その車が何というモデルなのかは分からない。せいぜいアメ車なんだろーな、なんて事を想像する程度だ。しかもそれが正解かどうかなんて事さえ定かではないのだ。確実なのは、きっとお高いんでしょーねとか燃費悪いんだろうなとかいった庶民的発想が脳裏に浮かぶのが関の山だった。
そのオープンカーのドアには、Tシャツの上に革ジャン、ジーンズ姿の男の人が寄りかかっていた。うーむ。カッコいいなあ。その男の人はサングラスも掛けていたけど、僕にはすぐに誰だか分かったので挨拶する事にした。
「あ、トミーさん!お待たせしました」
「お!志賀君」
トミーさんはサングラスを外して会釈してくれた。途端に僕の背後から歓声が沸いた。
と、急に襟首を掴まれたので何事かと振り向いたら、クラスの女子の一人が僕の首ねっこを掴んでいたのだった。
「ね、志賀君!」
「な…何?」
「何で君が、『ジュエル』のトミーと知り合いなのよ?」
「ジュエル?何それ」
とは言ったものの、きっとそれはトミーさんのバンドの事なんだろうな、なんて事くらいは想像がついた。
「あ…うん。ちょっと…ね」
「ちょっとって何よ」
さて弱ったな。何と答えた物かと困惑する僕を気遣ってか、トミーさんは「じゃあ行こうか」なんて促してくれた。
言われるまま、僕はオープンカーのドアを開けて乗り込んだ。うわー、助手席が右側だ。親父の車には何度も乗せてもらってるけど、あっちは当然国産車だから、僕が座るのはいつも左側のシートだった。…どうにも違和感を覚えてしまうな。ハンドルもデカっ。
初めて乗る外車…というかオープンカーの迫力に圧倒されて、恐る恐るドアに手を掛けた僕とは対照的に、トミーさんはドアに手を置いて、ひょいっと颯爽と愛車に飛び乗った。…カッコいい!カッコいいぞ!
もちろん、車を取り囲んだウチの生徒たちからも歓声が起こった。
うんうん。その気持ちはよく分かるぞ。前に水嶋君が、ちょうどこんなポーズでソファを飛び越えてくるのを見た覚えがあるけど、こういうのが「ロケンローラー」なんだな。
…はぁ。僕なんかとはまるで「住むセカイ」が違うわ。溜息しか出ねー。
トミーさんは一度、短くクラクションを鳴らすと愛車をスタートさせる。低くて迫力のあるエキゾースト・ノートを響かせて、車は校門を後にした。
心なしか、いつも乗る親父の車の時とは景色も違って見えてくる。
「…何だか凄いですね」
「え?何がだい?」
「いやその…色々と。…何でもないです」
あっけらかんと答えたトミーさんに、僕は苦笑するしかなかった。
「急な話で呼び出してすまなかったね」
「あ…いえ。そんな事ないです。ところでトミーさん」
「ん?何だい」
「『ジュエル』って…トミーさんのバンド、ですよね」
「ん?ああそうだよ」
「有名なんですか」
「え…ああ、そこそこにはね。何曲かはチャートに載った事がある程度には」
トミーさんは軽く答えてくれた。でも、後で知った事だけど、それは「そこそこ」なんてレベルの問題じゃなかったのだ。彼のバンド「ジュエル」は、ちょっとでも国内のロックに詳しいファンなら誰でも知っているという、「超」が付く大物グループだったのである。…サイモン&ガーファンクル一途の僕は知らなかったけど。
本郷さんの「ザ・フラットボード・カスケーズ」が不幸にも解散してしまった後、トミーさんは独自にバンドを結成して活動を続け、やがてメジャー・シーンに躍り出た。そのバンドは数年の活動の後、惜しまれつつ解散したという。その後トミーさんは自身のレーベルを立ち上げてプロデューサー業に転向して現在に至っているらしい。
ちょっと悲しいのは、彼が本郷さんのバンドではなく、違うグループの方で世にその名を知られたという事だった。本郷さんだって…あんな不幸がなければ、きっと今のトミーさんみたいになっていたのだと思いたい。
車はやがて高崎市内を抜け、県道を北に渋川市に向かって行く。ふと空を見上げたら、いつしか空模様が怪しくなってきていた。雨が降ったら、オープンカーじゃあ濡れちゃうなあ。どうするんだろう…なんてことを考えているうちに、車は渋川駅前の市役所通り沿いにある駐車場に到着した。今日の目的である(株)石村興業は、ここから少しだけ歩いた裏通りにある古びた雑居ビルの2階だ。
「予定の時間にはまだ少しあるから、どこかで軽く夕食でも取ろうか?もちろん驕るよ」
トミーさんはそう言ってくれたけど、僕はせっかくですですけど、とお断わりさせていただいた。これから繰り広げられるであろう話し合いの事で緊張しまくっていて、あまり食欲がわかなかったのだ。
でもそれは、後にして思えば懸命だったと思う。結果論になるけれど、もしこの時に何か口にしていたら、きっと、全部胃から戻してしまっただろうから。
…あんな出来事を…目にしてしまったのだから。
石村興業の入っているビルには、エレベータどころか屋内階段すらない。あるのは壁沿いに走る外階段だけだ。あの会社はまだ2階だからいいけれど、最上階の4階の会社に勤める人は大変だなあなんて思いながら正面玄関の表示板を見てみたら、何だ、3階と4階の表示部分には「入居者募集中」って書いてあった。なぁんだ、要らぬ心配だったか。むしろ石村興業くらいしか入っていない、このビルのオーナーさんの経営事情に同情するよ。
僕たちは外階段を登っていった。…ここを歩くのも二回目だっけ。前回は文ちゃん先輩と一緒だった。まだ、ほんの数日前の事のはずなのに、もう随分と昔の様な気もする。そう感じるくらい、ここ数日の間に、僕の周囲では様々な事態が目まぐるしく起こっていたのだ。
文ちゃん先輩や鮎子先生と付き合いはじめてから、平凡ないち高校生に過ぎなかった僕の周囲には「異形」という得体のしれない存在が出没する様になった。「オカルト」なんていかがわしい物は基本的に信じない僕だけど、そんな「人外」の存在がいるという事だって疑えなくなってきたよ。多少は慣れてきた、という自覚も不本意ながら認めようじゃないか。
そんな僕でも、今回の出来事は気が重かった。ただただ気が重かった。倉澤副部長の時だって気が滅入ったけれど、今回の比ではない。ちょっと冷たい話かもしれないけれど、やはり、より身近な存在に起きた不幸の方がいっそう堪えるのだろうか。
そう。僕にとって本郷さん…師匠は、もはや「身内」と言ってもよい存在になっていたのだ。
師匠が異形と化してしまった、じゃあ退治しちゃいましょうなんて割り切った考えなんてできるわけがない。それどころか、そんな事を相談できる相手だって限られている。文ちゃん先輩と…慰撫くらいだ。鮎子先生は…論外。彼女は今回、事態の中心にいる側だ。
…もっとも、この世を統べる「カミサマ」である鮎子先生は、いつだって「異形」絡みの事件の中心に鎮座ましましているのだろうけれど。今回は、偶々…そう、偶々それが僕の身近で起きただけという事なのかもしれない。
では、僕はどうすればいいのだろう?
実は、いまだにその答えが出ない。この事態に僕が関わっていれば、きっと…いや絶対にあの異形と出会う時がくるだろう。それは断言できる。
いいや。断言…じゃないかもしれないな。もしかしたら、これは僕の「願望」に過ぎないのかもしれない。たとえ「異形」と化したとしても、僕はもう一度、僕が「師匠」と呼んだヒトに会いたい気持ちがあるのかもしれないのだ。
そこまで考えて、結局は振出しに戻ってしまう。
もし仮に、「師匠」と再会して…僕はどうすればいいのだろう?
師匠が異形と化してしまった、じゃあ退治しちゃいましょうなんて割り切った考えなんてできるわけがないんだよ!
……。鮎子先生ならどうするだろうか?
鮎子先生の立場は僕とは違う。彼女は「復讐」をアシストする側だ。
じゃあ、僕はその「復讐」を止めたいのか?
これだって分からない。「師匠」にニンゲンを殺させたいわけじゃない。
かといって、ブラッディーオーガの連中を許したくもない。
もっと率直に言わせていただけるのならば、あんな連中は地獄に堕ちてしまえばいいとさえ思っているのも、僕の偽らざる心境だ。
あいつらの仕出かした事は、きちんと「ニンゲンのセカイ」で罰せられるのが本当だと思う。
でも、事態はとっくに「人外」のセカイでの出来事になってしまっている。もはやニンゲンの法で縛る事なんてできないだろう。
それでも、僕の敬愛する文ちゃん先輩は「鮎子おねえちゃんを止めたい」と言い切った。
…凄いよな。たとえどんな事があっても、確固たる自らの意志を持っている彼女は凄い。
本人はあまりお気に召さないみたいだけれど、「鉄血宰相」「アイアンメイデン」の通り名は伊達ではないという事か。うだうだ悩むだけの僕なんかとはまるで違う。
…ところで。
ところでだけど、鮎子先生は、もしこの復讐を完遂できたとして…その後はどうするつもりなのだろう。
もしかしたら、「復讐」を完遂できたら、本郷さんは「成仏」するのかもしれない。
僕は「死後のセカイ」なんてのも信じてはいないけれど。ウチの一族が檀家になってる近所のお寺のおっちゃん…いや越智安行僧都もそう言ってるぞ?「死後のセカイなんてないない、ありゃしなーい」ってね。専門家がそういうのだから説得力がある。前に、じゃあ何でおっちゃんは念仏唱えるのさ?って聞いたら、あの破戒坊主、「それが仕事だからじゃ」とか抜かしよった。…大人の事情って難しい。
それはそれとして、もしも本郷さんが「本懐」を遂げたら、どうなるのだろうか。
やはり寄る辺である「怨念」が消えて無に帰すのか。
或いは「異形」としてそのまま存在し続けるのか。
…もし後者だとしたら、その時鮎子先生はどうするのだろう。
異形絡みにも、いつも基本的には無関心な鮎子先生が、今回に限ってはやけに積極的に動いているのも気にかかる。そこに鮎子先生の静かな、しかし底知れぬ怒りも感じてしまう。
「カミサマ」の怒りは、天変地異を巻き起こすとでもいうのだろうか?
1999年にはまだちょっと早いけれど。
それに、いくら何でも、鮎子先生はそんな事はしないだろう。だって、このセカイには文ちゃん先輩だっているのだ。鮎子先生を「おねえちゃん」と慕う彼女が。
そんな事を考えているうちに、僕とトミーさんは目的地にたどり着いてしまったのだった。
トミーさんがノックすると、慌てた様な勢いでドアが開いて、石村社長が飛び出してきた。
「こっ、これは富澤さん!お待ちしておりました!ささ、どうぞどうぞ」
ずっと年下のはずのトミーさんに、石村社長はやけに腰が低かった。僕の時とはえらい違いじゃないか。年下というなら僕だっておんなじだい。
石村社長は僕の姿にも気がついた。
「…んあ?君は何だね?部外者は帰ってくれないかな」
驚いた事に、石村社長は僕の顔すら覚えていなかった。これで会うのも三度目だぞ?そりゃあ、僕なんてただのアマチュアの高校生だよ?興業会社の社長サマから見れば、取るに足らない小僧だろうけどさ、さすがにちょっとムカついた。この調子じゃあ、前にここで本郷さんの事を聞いた事すら覚えてはいないだろう。
「彼は、僕の立会人として同行してもらいました」
「…こんな小僧、いや失礼、少年が、ですか?」
「彼は笠木君の事故の時にも、その場所に居合わせました。彼の意見も参考になると思いましたので…何か不服でも?」
「い…いえ、不服だなどとは…いえね、ちょっと驚いてしまった物ですから」
まだ僕を訝しがる石村社長だったけれど、トミーさんには逆らえなかったみたいだ。フューリーアレイでのジョンソンの態度の時も感じたけど、プロデューサーって偉いんだなあ。
石村社長に促されて、僕たちは事務所の中に入った。前回は入口の所で門前払いを食らっていたから、立ち入るのははじめてだ。
正直な所、いわゆる「芸能事務所」ってどんな所なのだろうという興味もあったけど、実際に目にしてみると、壁には無数のファイルが納められている書棚があったり、いくつかの事務机が並んでいる様な、ごく普通の会社にしか見えなかった。壁の上にはいくつかの賞状とか感謝状が入った額がずらーっと並んでいるのもそれっぽい。僕はもっとこう、虎の毛皮のカーペットとかが床に敷いてある様なゴージャスなのを想像していただけに、ちょっとがっかりしてしまった。流石にアイドルさんがきゃぴきゃぴ談笑しているなんて考えはしなかったけどね。第一、こんな田舎の興行会社にアイドルさんが所属しているわけがない。
事務所の中はアコーディオン式の衝立で仕切られていて、僕たちが案内された奥にはテーブルとソファが置いてあった。要するに、ここは応接室という事なのだろう。
僕たちが座ってから、石村社長も向かい側に腰かけた。こういう礼儀だけは、一応踏まえているんだな。
「この度はお忙しい中、こんな田舎までお越しいただきまして…」
「渋川は僕の地元ですから。それに今日は、秦君たちの今後についてもご相談したい事がありますからね。お気になさらず」
トミーさんの口調は、極めて事務的だった。
「はは、恐縮です」
石村社長は、さっきからハンカチで何度も額の汗を拭っている。よほど緊張しているのだろうか。
「…それで、秦君は?」
「あ…ああ、あいつ、まだこっちに顔を見せてないんですよ。自分の今後の活動方針の会議だというのに、あいつ、何を考えているのやら…」
「活動方針」という言葉を耳にした時、トミーさんの口元がちょっとだけ動いたのが見えた。
あれは…嘲笑のカタチ…に見えるけど…
「そうでしたか。主役が不在では、まとまる話もまとまりませんよねえ」
「いや全く、面目ない事この上ありません。あいつには、後でよっく、きっちりと叱っておきますのでご勘弁を」
恐縮するばかりの石村社長からは、最初に会った時の紳士然とした態度の欠片も感じられなかった。…あ、ポケットから二枚目のハンカチ出してる。最初のは、もうびしょ濡れじゃないか。
「では打ち合わせは彼が到着してからという事で。じゃあ石村さん?」
「は…はい?何でしょう」
「打ち合わせの前に、ちょっとお尋ねしたい事がありましてね」
「は…はあ」
トミーさんが次に口にした言葉は、僕が今日、一番聞きたかった内容についてだった。
「ほら、先日のフューリーアレイでハッシュ…橋本君が使っていたサブ・ギターの事についてなのですが…あれは、石村さんのコレクションとお聞きしましたが」
石村社長は最初、何でそんな事を聞くのかと不思議そうな顔をしていたけど、こう答えた。
「あ…ああ、あのギターですか。ええ、おっしゃる通り、あれは私のコレクションのひとつですよ。それが何か?」
「はは。…いえ、今時、グレッチのホワイト・ファルコンなんて珍しいと思いましてね。社長ご自身もギターを嗜まれるのですか?」
「いやいや、私なんてただの道楽程度ですから。休みの日に、ちょっと弾くくらいですよ」
「それはそれは。ぜひ一度お聞きしてみたいものですね」
「いやいや、それほどでも」
コレがいわゆる「大人の会話」って奴なのだろうけど、生憎とまだ未成年で未成熟な僕には、ただもどかしいだけだった。その苛立ちを視線に込めてトミーさんを見たら彼と目が合った。その目は「ここは自分に任せてくれないか?」なんて語っている様にも見えた。
「コレクションというくらいですから、けっこうな本数をお持ちでしょう?」
「ほほ、大した事はないのですが、ギブソンとフェンダーをそれぞれ20本程度ですよ。そうですねえ…一番の年季物は54年製のレスポール・ゴールドトップです」
おやま。自分のコレクションを褒められて、すっかりいい気分になってるみたいだ。
「それはまた貴重な…ところであのグレッチは、どちらでご購入された物ですか?実は私も、ああいうのを1本欲しいと思いましてね、ご参考にさせていただきたくて」
「ああ、あれですか。実は、あれは店で買ったものじゃないのですよ」
「ほほう…ではどうやってあのホワイト・ファルコンを…?」
僕には、そう言ったトミーさんの目が鋭くなった気がした。
「実はですね、あれはウチの秦が持ってきた物なんですよ」
え……?ジョンソンが…?
「あいつが昔…といっても数年前ですけどね、ウチの事務所に入った時に、手土産だと持ってきたのを譲り受けたんですよ。けっこう高価なギターですし、よくあいつが持ってたなと聞いてみても、曖昧な返事しかしませんでしたが」
ああ…何だか色々な疑問が、ひとつの線で結びついてゆく気がした。
石村社長の言葉が本当だとしたら…鮎子先生の推理が的を得た物だったとしたら…
「おはよーッス。遅れてすみませーん」
その時、まさにその疑惑の中心にいる男が、事務所に姿を現したのだった。