30 ザット・イズ・ザ・クエスチョン
翌日。僕は、前にも増した重い気持ちを引きずって登校する羽目になった。
昨夜鮎子先生から聞いた「真相」の全てが、重く圧し掛かってくる。
異形になってしまった師匠。
そしてそれは不可逆だという事実。
その異形は、自らを殺めた奴らに復讐しようとしている。そしてその復讐は着実に進んでいる事も。
…しかもその復讐の手助けをしていたのが、誰でもない鮎子先生だったという事実。
明言こそしなかったが、鮎子先生はこれからも復讐の手助けをするだろうし、またそれができるだけの力もある。
…僕はどうすればいいのだろう。
師匠を殺したブラッディーオーガの連中には、怒りと憎しみの感情しかない。あいつらには相応の制裁を受ける責任がある。かといって、姿形が変わり果ててしまったとはいえ敬愛する師匠、それに親しい鮎子先生が犯罪を犯すのを放っておくほど、僕はニンゲンができている訳ではない。
僕の知り得る全ての情報を警察に話してしまって、連中を社会的に糾弾しようか?…いいやダメだ。その為には異形がどうの、古代の象形文字がこうのなんて話をしなければならない。そんな話、誰が信じてくれるものか。カミサマから聞きました!なんて言うのは以ての外、下策中の下策だ。下手をすれば僕の正気が疑われてしまうよ。
嗚呼、気が重い。吐き気さえしてくる。いっその事、今日は仮病でも使って――体調不良なのは間違いないのだが――欠席しようとさえ思った。第一、只のいち高校生に過ぎない僕が背負い切れる様な問題じゃない。…かといって、全てを放り投げて他人事でございます、あっしにゃあ関わりのねェ事でござんす、御免なすってなんて上州新田郡三日月村出身の渡世人めいた台詞を吐きたくもない。
ブラッディーオーガのメンバーの内、すでにダークとザックは鬼籍に入った。今頃は三途の川を渡るのに苦労している頃だろうさ。それに、風の噂にハッシュはザックの死体を目にして以来、精神病院に担ぎ込まれていったままだというし、残す所はあの傲慢なジョンソンの奴だけになった。
鮎子先生が言うには、そのジョンソンこそ、まさにこの惨劇の原因、きっかけともいうべき「幸運を呼ぶギター盗難事件」の犯人かもしれないそうだ。もっとも、それはあくまでも仮説であって確証はない。むしろ心証という奴に近いみたいだ。もちろんそう言い切るだけの「何か」を知っているにしても、それを証明できるだけの決定打と言える証拠はないと思う。証明できない以上、たとえそれがカミサマのお言葉だとしても、無条件に信じる事はできない。天上からの託宣に涙して頷く様な時代じゃないのだ。
そう、今は法と秩序の時代なのだ。しかし、目下僕が頭を抱えているこの問題は人知の範囲を軽く凌駕してやがる。何という二律背反、アンビバレンツ。
嗚呼、本当に僕はどうしたらいいんだ?
シェイクスピアの戯曲「ハムレット」の第三幕・第一場の「To be,or not to be」なんて名台詞を思い出す。アレは「生か死か」なんて訳されているけど、実は意訳なんだよな。正確には「(父王の復讐を)為すべきか、あるいは為さざるべきなのか」というハムレット王子の葛藤の言葉なんだ。だから「このままでいいのか、それともいけないのだろうか」なんて訳した物もあった。いずれにせよ、アレは復讐を決行するか否かの葛藤を表現した物だった。
「復讐」。僕が抱えている問題もまさにそれだ。でもこの「復讐」の問題で悩んでいる僕は、あくまでも「部外者」に過ぎない。当の「復讐者」自身はきっと悩んでなんていないだろう。もしかしたら、悩むだけの理性すら失っているかもしれないけれど。
所詮、僕の立ち位置は、エルシノアの王子とは違った物に過ぎない。だから彼の選んだ選択は、僕にとっては役に立ちそうもなかった。
ホント、僕はどうしたらいいんだろう。ざっと・いず・ざ・くえすちょんだぜべいべー。
夕陽の差し込む放課後の図書室。僕は溜息をついて、読んでいた「ハムレット」を閉じた。
…400年前の文豪の言葉も、僕に光明を見出させてはくれなかったのだ。ちくしょう。
失意を胸に図書室を出ようとしたら、廊下で文ちゃん先輩と出くわした。
「ああ志賀君、ここにいたのですか。今日は生徒会室に来ないから、どうしたのかと思いましたよ…志賀君?」
すみません文ちゃん先輩。さすがに今日は、校内見回りにご一緒できるほど気が乗らなかった物ですから。
でもそんな僕の心境なんて、彼女にはとっくに見透かされていたみたいだ。
「む。やはり元気がありませんね…昨日の事、ですか?」
彼女は周囲を見渡して誰もいないのを確認すると、小声で囁いた。
「…はい」
「…私に何かできる事があればよいのですが…あ、そうだ志賀君、昨夜、慰撫を見かけませんでしたか?キミが帰った後で――」
「かいちょ、見回りお疲れ様でーす」
声がした方を見ると、テニスウェア姿の水嶋さんが手を振っていた。おんなじユニフォーム姿の女子たちも一緒だ。どうやら、これから部活の時間らしい。文ちゃん先輩はにこやかに手を振り返してから、小声で「…ちょっと場所を変えましょう」と僕を促した。
僕たちはそのまま廊下を歩いてゆき、南校舎の2階にある生徒用の玄関を出て外階段を降りた。この外階段の裏側はちょっとした陰になっているから、そこで話そうと思ったのだ。
「何か飲み物でも飲みながら…」と、文ちゃん先輩は、最近ここに設置されたばかりの自動販売機に向かって歩いて行った。
あ…この自販機って…
思わず、目頭が熱くなってしまった。そうだよ。この自販機って、あの日…本郷さんが設置してくれた物じゃないか。
「あ!ご…ごめんなさい!私ったら…」
自販機を見つめたまま立ちすくしてしまった僕に、文ちゃん先輩は即座にその心境を察してくれたみたいだった。そうだ。あの日、お仕事で我が校にやってきた本郷さんたちは、汗だくになってこの大きな自販機を設置してくれたのだった。そこに文ちゃん先輩も生徒会長として立ち会ってくれていたから、僕の気持ちに気づいてくれたのだろう。
目を閉じれば、あの日の師匠のちょっと照れくさそうな笑顔が思い浮かぶ。その笑顔も、もう思い出の中にしか遺されていないのだ。
「志賀君?…あの…」
「あ…大丈夫です。えっと、あの生意気…じゃなくて慰撫の奴の事、でしたよね?」
僕は極力、頬に力を入れて、無理やりな笑顔を作ってみた。…いささか不自然な感じになってしまったかもしれないけれど。でもこうしなくてはならないのだ。僕の気持ちをここまで察してくれる愛しいまいはにーさんに、いらぬ心配をかけたとあっては漢が廃ってしまう。
今の僕には、そんな彼女の存在が、どれほど心の支えになってくれている事か。
「あいつなら、僕が帰る途中、追いかけてきましたよ…あ!」
「え?慰撫がどうして志賀君を…?」
…今度は僕が油断してしまった。しくじったなぁ。彼女の気遣いに甘えてしまって、つい口が滑ってしまった。そんな事まで話してしまったら、あいつの文ちゃん先輩への気遣いも無碍にしてしまうじゃないか。あいつはあいつなりに、マスターである文ちゃん先輩に心配を掛けまいと、あえて彼女の前では「知り得た情報」の一部を口にしなかったのだ。それを僕だけには伝えておこうと、わざわざ追いかけてきたに違いない。
でもここまで言ってしまったら、その情報も説明しなければならなくなる。たとえトボけたところで、察しのいい彼女の事だ。僕の嘘なんて見抜いてしまうだろうし。
真実を言うべきか、言わざるべきか。
嗚呼、またもや「To be,or not to be」だよ。英国の偉大なる戯曲家さんの紡ぎし名台詞たるや、何と汎用性のある事か。
しばし葛藤した挙句、僕は慰撫から聞いた事、そして鮎子先生が僕の部屋にやってきた事をカミングアウトする事にした。
「やはり彼女に嘘や隠し事をしたくはない」。それが、僕の文ちゃん先輩に対する最大の誠意なのだと気づいてしまったんだ。
僕が昨日の事を包み隠さず打ち明けている間、文ちゃん先輩は目を閉じて話を聞いてくれていた。…ちょっと意外だった。僕はもっと、彼女が動揺するものとばかり思っていたから、その冷静な姿勢にはちょっと感動してしまった。さすがは稀代の大魔導師の名前を継ぐ少女だというべきか。
とりあえず、慰撫の奴には心の中で謝る事にした。すまねえ、つい口が滑っちまったい。
「…そうでしたか。鮎子おねえちゃんが…」
溜息交じりにそう言った文ちゃん先輩だったけど、その目はどこか遠くを見ていた。
考えてみれば奇妙なものだ。僕が本郷さんを敬愛するのと同じく、いや、おそらく多分それ以上に、文ちゃん先輩は鮎子先生の事を慕っている。互いの敬愛するその先達さんたちが、今、人知を超えた力で一人のニンゲンを殺めようとしているのだ。もちろんその対象は、制裁を受けるだけの事をしでかしたのだけれど。
僕たちは校舎の壁に寄りかかって、少し温くなってしまった缶コーヒーを口にした。
…前にも、こんな温くなったコーヒーを一緒に飲んだ事があったっけな。
「…文ちゃん先輩は…どうしたらいいと思います?」
僕は彼女の横顔を見つめながら聞いてみた。すると彼女は手にしたコーヒー缶を見つめながらこう言った。
「…私は…おねえちゃんを止めたいです。止めなければいけないと思います」
即答だった。その口調は穏やかな物だったけれど、強い意志が感じられた。
…また感動してしまった。うだうだと悩んでばかりいるこの僕などとは違う。
確固たる信念が、この小柄な体の中で静かに燃えているのだと思うと、彼女の事がいっそう愛おしくなった。やはり彼女は男だ女だなんて事以前に、ニンゲンとしての魅力が溢れていると思う。
僕たちは善後策を話し合った。次に狙われるのは、やはりジョンソンだろう。あいつに手を掛けた時、「ミスター・サンドマン」の復讐は完結する。ならば、あいつを見張っていれば、必ず異形…そして鮎子先生はまた姿を現すだろう。事前に鮎子先生に掛け合おうとも思ったけれど、会った所で、あのカミサマの意志が変わるとも思えない。そもそも、今日はどこにいるのか、校内でも先生の姿を見かけないし。
問題は…異形が姿を見せた時にどうするか、だった。二人で散々話し合ってみても、これだけは結論を出せなかった。ええい、そこは出たとこまかせだ!
「あ、そうだ。万が一の時の為に、またこれをお渡ししておきますね」
そう言って彼女が差し出したのは、倉澤先輩の時にもいただいた、文ちゃん先輩お手製のあのブレスレットだった。これには魔力が込められていて、互いに呼応するブレスレットのどちらかが引きちぎられると、もう片方が急激に発熱する事で異変を知らせてくれるというアイテムだ。これには前にも助けられた。
後は…ジョンソンの奴を見張るとは言っても、僕たちは高校生の身、本職の探偵みたく常にあいつの周囲に張り付いている訳にもゆかない。さてどうしたものかと頭を悩ませてたら、意外な所から救いの手が差し伸べられた。
『明日の夜、石村興業に仕事で行くんだけれど、志賀君、君も同行してくれないかな?』
その夜、帰宅したら音楽プロデューサーのトミーさん…冨澤さんが、そんな内容の電話をくださった。何でも、あそこの社長さんとジョンソンを交えて「ブラッディーオーガの今後の活動についての話し合い」があるのだそうだ。そんな場所に何で僕が?とうかがったら、あのフューリーアレイでの顛末を、その場に居合わせた目撃者の一人として証言してほしいとの事だった。なるほど、そういう事でしたか。
あの追悼ライヴ以来、ジョンソンたちの動向も分からなかったから、僕はとりあえず情報収集のつもりでこのお誘いを承諾させていただいた。
トミーさんとの電話を切った後、僕は念のために文ちゃん先輩の家にも電話を入れておいた。
『あらー志賀くん?この間のハンバーグ、どうだった?』
電話に出た唯さんの開口一番がこれだったのだが。
「あ…その節はご馳走様でした。大変美味しかったですよ」
『わお!嬉しい事言ってくれるじゃないの!ね、ね、またご馳走しちゃうから、近いうちにまたいらっしゃいよ』
相変わらず朗らかな人だなあ。文ちゃん先輩の性格はきっとお父さん似に違いない。ご本人にはまだ会った事はないけれど、僕はそう確信した。
「はあ…ありがとうございます。…で、あの、文ちゃん先輩はおられます?」
『あらごめんなさい?今呼ぶからね。あ、そうそう、先生にも今度こちらにいらしてくださいってお伝えしてね?…文ちゃーん?お電話ですよー』
電話の奥で「はーいママー」という文ちゃん先輩の声が聞こえたので、僕は笑いをこらえるのに必死だった。ちなみに「先生」というのは僕の母の事だ。唯さんは、母が趣味で教えている袋物細工のカルチャースクールの生徒さんの一人だったりする。
『はいお電話変わりました、文です』
さっきとはうって変わって、いつものクールでお淑やかな彼女の声が聞こえてきたので、僕はまた意地悪をしたくなってしまった。
「ママ、にはハンバーグ美味しゅうございましたとお伝えください」
『ぴゃっ…!?ま、また聞こえちゃいましたか?』
「ええまあ。何となくというかそこはかとなくというか」
唯さんは、「ママ」と呼ばないと返事をしてくれないって文ちゃん先輩から聞いているのだ。
『そ…それはもぉいいですからぁ。意地悪しないでくださいよぉ』
ふふふ、困ってる困ってる。きっと受話器の向こうでは真っ赤になっているに違いない。
冗談はさておいて、僕はトミーさんの電話の内容を説明した。彼女は自分もついてゆきますって言ってくれたけど、その申し出は謹んでお断わりさせていただいた。だって話し合いの席にはジョンソンの奴も同席するんだよ?そんな場所に彼女を連れていったりしたら、またもや一触即発、修羅場か鉄火場になりかねない。もしそんな事になったらトミーさんにも迷惑が掛かってしまうし、第一、ジョンソンの奴を見張るという今後の計画にも支障をきたしかねない。
『むー。私って信用ないんですね』
受話器を通して、彼女のむくれた声が伝わってくる。そんな声ですら可愛いと思ってしまう。
だって、僕以外の誰にも、文ちゃん先輩は決してそんな声を聞かせはしないだろうから。
ちょっとした満足感を胸に、僕は電話を切った。
…さあ、これからが勝負どころだぞ?志賀義治。虎だ、虎だ、僕は虎になるのだ。男の根性、見せてやれ。




