28 エンター・ザ・サンドマン
『…わたくしはすぐにお店の扉を抜けて、外に出たのです。彼らの気配はすぐに感じ取ることができましたわ』
湯気を立てる小さなティーカップを手にしたまま、慰撫はあの夜の事を語りはじめた。しかしその視線は目の前のカップではなく、どこか遠くを見ている様だった。
「…慰撫。彼らというのは、殺人を犯したのは、やはりあの…象形文字だったの?」
『ええ。彼らは間違いなく古の象形文字どもに相違ありません。かつて、このわたくし自身がそうだった様に』
「やはりそうでしたか…先日の一件以外にも、まだ別の文字が存在していたのでしょうか」
「いいえマスター・アヤ。あれは…わたくしと一緒に、かつて貴方のお体の中に寄生していたモノどもの成れの果て…でしたわ」
「え…だって…あの時、あなた以外の文字は…みんな…」
『…貴方のお体から取り出された時、咄嗟に逃げ出せたわたくし以外は、みな処分された、と?』
うん。その辺りは、文ちゃん先輩自身から僕も聞いている。具体的にどうやって取り出したのかは、言葉を濁して教えてくれなかったけど。あの経験は、きっと文ちゃん先輩にとっては思い出したくもない様な悍ましい経験だったのだろう。でも、とにかく逃げ出したこいつ以外の文字どもは、鮎子先生の手で処分されたはずだ。
「でも…そんな…だって…そんな…あの時、鮎子おねえちゃんが…」
文ちゃん先輩の顔色は真っ青だった。
『ええ。マスター・アヤ。私以外の仲間は、みなあの液体で溶解されました。…でも』
かつて古代の象形文字だった生き人形は、そこで言葉を途切れさせた。
「……」
そのまま、二人…というか一人の少女と一体の生き人形は、押し黙ってしまった。
少女は、その事実を信じたくなくて。
生き人形は、そんな少女の気持ちを思いやって。
「その言葉」を発するのを思いとどまっているのだろう。
「…生きて…いた、と?そういう事なんだろ?慰撫」
二人が口に出せない言葉を、代わりに僕が口にした。
それは僕ができる、精いっぱいの気遣いのつもりだった。
『……その…通りですわヨシハルさん』
慰撫は、僕の目をまっすぐに見返して肯定した。
「わ…私、ちょっと鮎子おねえちゃんに電話してきますっ!」
文ちゃん先輩は、よろめきながらも立ち上がって、部屋を飛び出して階段を駆け下りていった。いつも冷静な彼女らしくもない素振りだった。
部屋には僕と慰撫だけが残された。主人の動揺をよそに、使徒自身は冷静に紅茶を飲んでいやがる。
「…おい生き人形。お前、まだ隠してる事があるだろ?」
『そう見えますかしら?』
「ああ、見えるね。文ちゃん先輩には言えない様な事なんだろ?」
『ヨシハルさんにしては鋭いですわね』
「まずは教えろよ。ザックの奴を殺したのは、本当にあの象形文字どもの仕業なのか」
『そうとも言えますし、そうでないとも言えますわ』
「茶化すなよ。第一、お前は気配を感じたって言ってたけど、本当にそいつらの姿を見たのか?そいつらがザックの奴を殺したのを見たのかよ?」
『…わたくしが見たのは、一人の男だけでしたわ』
「…男?」
どういう事だ?ザックに襲いかかったのは、象形文字どもに憑依されたニンゲンだったとでもいうのか。
ああ、嫌な予感しかしない。そうさ、僕には、もう答えが分かっている気がする。
さっきの文ちゃん先輩の気持ちがよく分かった。答えが出ているのに、口に出したくもない、口に出したらオシマイ。そんな時、ニンゲンは沈黙するしかないのだ。
でも、僕は意を決して口を開いた。だって、その答えだって、あるいは間違っているかもしれないじゃないか。そうさ。そんなのは、僕の思い過ごしに過ぎないかもしれないし。
「な…なあ慰撫?その男の特徴とか分からなかったかな。えっと…背格好とか、何か話していたとか」
『歌を唄ってましたわ』
「歌…?」
『歌というか、正確には歌詞のない、メロディーだけの…何というのかしら』
「メロディーだけ…?ハミングか?」
『そう。それですわ』
「どんなメロディーだった?」
『こんな感じでしたかしら。♪♪♪~』
慰撫はそのメロディーを口にした。僕もよく知っている、僕自身もギターで弾いた事がある、そう、とてもよく知っている、あの曲のイントロのメロディーを。
「ミスター・サンドマン…」
『そんな題名でしたわね。前にこのお部屋で、マスター・アヤがカセット・テープ?とやらで聞かせてくれた曲でしたわね』
「ミスター・サンドマン」を唄う、異形にとり憑かれた男…か。嫌な予感はいっそう膨らんでしまった。
『それにヨシハルさん。あの男は、ある二人の名前を呟いていたのですわ』
「二人の名前?えっと…殺されたザックと、あと一人はもしかしてダークの奴…とか?」
『いいえヨシハルさん。あの男が口にしたのは…ヨシハルさん、貴方のお名前でしたわ』
……!!
今度こそ、僕は本当に言葉を失ってしまった。
嫌な予感は、もはや確信になった。
僕の名前を呼ぶ異形なんて、思い当たるのはただの一人しかいない。
『そしてもう一人のお名前は…』
「鮎子…おねえちゃん…なんでしょ?そうなんでしょ?慰撫」
部屋に戻ってきた文ちゃん先輩が、壁にもたれながら、震える声でそう言った。
『肯定ですわ。マイ・マスター』
「…何て事!!」
「ごめんなさい志賀君!こんな…こんな事になってしまうなんて…本当にごめんなさい!!」
「…文ちゃん先輩?」
文ちゃん先輩は僕に抱きついてきた。そのまま僕の胸で、震えながら泣き続けている。
「その男は…男の人は…」
ああ、それ以上、この人の口から言わせちゃいけない。僕はそう直感した。だから彼女の言葉を、もう一度僕が代弁したんだ。
「…本郷さん…なんでしょう?」
僕の問いかけに、ぴく、と彼女の身体が痙攣した。僕は思わず彼女の身体を抱きしめた。
「ひっく……。うん…。鮎子おねえちゃんは…そう言ってました」
《本郷信太郎というニンゲンは、もうこの世に存在しない》
鮎子先生の言葉が思い出される。
やはり鮎子先生は、嘘は言っていなかった。
本郷さんは…死んで、異形に取り憑かれた。異形に、なった…なってしまった。
《本郷信太郎というニンゲンは、もうこの世に存在しない》
そんな事は、とっくに予測していた。覚悟もしていた。
だけど。
この世を統べるカミサマの言葉は…やはりいち高校生ごときが受け止めるには重すぎた。
あ…だめだ。目の奥が熱くなってきた。
「志賀…君…」
そんな僕の心の奥を察したかの様に、腕の中の文ちゃん先輩が、僕を見つめていた。
感極まってしまった僕は、思わず、彼女を抱きしめる腕に力を込めた。
今の僕には、縋りつける誰かが必要だった。そんな僕を理解してくれる最愛の人が、いまここでこうして受け受け止めてくれているという事が有難かった。
前にも一度、彼女にはこうしてもらった覚えがあった。あの時、彼女は僕を慰めてくれていたっけ。
『大丈夫だから…大丈夫だから。…ね?』
そう言って、文ちゃん先輩は僕を抱きしめてくれた。そして魔法の呪文で、僕の精神を安定に導いてくれたのだった。
でも今は。
今、僕たち二人は、身に降り注いでくる絶望を恐れ、互いの身を寄せ合って小さくなるしかなかった。
でも不思議な物で、しばらくこうやって抱き合っているうちに、ほんのちょっとだけ、気持ちも落ち着いてきた。ああそうか。だから世の恋人たちは、こうやって身を寄せあうのか。
僕は文ちゃん先輩の震えが充分に収まるのを待って、会話を切り出してみた。
「…やっぱり、鮎子先生は…本郷さんが亡くなっていた事に気づいていたんですね…」
「…そうじゃ…ないんです…」
「…え?」
「おねえちゃんは…本郷さんがこうなる事を…前から予測していた…って…」
「ど…どういう…事…ですか」
「お…おねえちゃんは…本郷さんが異形になってしまうのを…前から予想していたって…」
…………!!
ああ…ああああ…あああああああああ‥‥
どういう事だ?文ちゃん先輩はいったい何を言っているんだ?
か…考えが纏まらない。
わけがわからない。
《君は…あの人には、あまり近づきすぎない方がいいよ…悲しい思いをしたくないなら…ね》
いつかどこかで聞いた、誰かの言葉が、またどこからか響いてくる。
うるさいな。そんな事なんて聞きたくもないよ。
いったいどこから聞こえてくるんだ?…ああそうか、僕の頭の中からか。
そういえば、前に誰かがそう言ったんだっけ。覚えてる覚えてる。
誰だよ、そんな不吉な言葉を言ったのは。
それにさ、その言葉は半分当たっているけど、半分は違ってるよ?
今の僕が感じているのは悲しみ…だけじゃあ、断じてない。
あとの半分、いやそれ以上に今の僕の心の中を占めている物、それは怒りだ。
誰に対してでもあるし、誰に対してでもない。
本郷さんを殺めた連中にも、その犯人を捕まえない警察にも。
もちろん本郷さんに取り憑いた異形どもにも。
僕の大切な、たったひとりの師匠の死に、何の関心も示さない世間にも。
この世のありとあらゆるニンゲンに対して、ただただ怒りを覚えてしまう。
いやいやそうじゃない。
そんなのはただの八つ当たりだ。分かっているさ。
そんなのは僕の勝手な思い込み。ああ、分かっているとも。
…あれ?思い込み?…思い込み…?
ちょっと待てよ?…もう一度、よく考えてみようじゃないか。
…本郷さんが、「ミスター・サンドマン」を口ずさむとかいう異形になったのは…いつだ?
彼は…「殺されてから」異形になったのか?
僕は最初、本郷さんは、おそらくブラッディーオーガの奴らに殺されて、それから異形に取り憑かれてしまったのだと思った。でも…果たしてそうなのか?
鮎子先生はこう言ってた。
《…恨みの感情なんて持っちゃだめ。心の闇からは、異形だって生まれちゃうんだよ》
本郷さんだってニンゲンだ…ニンゲン「だった」。
彼だって、時には自分の置かれた境遇を嘆く事もあったろう。
彼を侮辱し、虐げてきた連中を恨んだ事だって…きっとあったと思う。
もちろん、そんな苛酷な運命に対しても、本郷さんは必死に抗ってきたはずだ。
でもその負の感情が…もしかして異形どもを呼び寄せたのかもしれない――そんな気さえしてきた。
ああ、もう何が何だか分からなくなってしまった。
どうしてこうなってしまったのか。これから僕はどうするべきなのか。
結局、その夜、僕は文ちゃん先輩のお宅で夕食までご馳走になってしまった。彼女のお母さんの唯さんが、我が娘とその彼氏たる僕の、そのあまりにも落ち込んだ様を見て気を遣ってくださったみたいだ。聞けば、唯さんも若い頃…ちょうど今の僕たちの年頃には、先代の「鬼橋 文」と共に行動していたそうだし…その辺りは、何となく事情を察してくれたのかもしれない。それに唯さんは僕の母とも親しくて、こういう時に帰りが少しくらい遅くなっても、それは双方の親公認になってしまうのも助かる。少なくとも余計な気を遣う必要がない。…特に、今の様な心境の時にはね。
追記させてもらえば、彼女の手ごねハンバーグはとても美味しかった。
美味しい夕ご飯のおかげで、絶望的な気持ちも幾らか和らげる事ができた。美味しい食事の効果は絶大なんだな。
唯さんは「泊っていってもいーのよ?」なって言ってくれたけど、そのご厚意は、文ちゃん先輩と僕で全力で辞退させていただいた。いくら何でも、そういうのはまだ早すぎますよ、僕たちは。真っ赤になって辞退する僕たち二人を見て、唯さんは「ホント、仲がいいね」なんて笑っておられました。
文ちゃん先輩と唯さん二人に見送られて、僕は彼女の家を後にした…って、あれ?二人?
慰撫の奴はどこに行った?
比較的街中にある彼女の家から僕の家までは、およそ10Kmくらいの距離がある。自由の翼号のペダルを必死に漕げば、およそ20分くらいで帰れるだろうか。
3月も半ばになってだいぶ陽も伸びてきたとはいえ、周囲はもう真っ暗だった。街中は外灯の明かりで満たされていたけど、郊外を過ぎる頃になると、明かりの数も次第に少なくなってきて、それと反比例して暗闇が幅を利かせてくる。気がつけば、外灯の明かりは途切れ途切れになっていて、その間には闇が充満していた。
僕の家まではまだ遠い。悪かったな、どうせ我が家は郊外のそのまた先、市町村合併の前までは、住所に「字」どころか「大字」なんて余計な文字が付いてた様なド田舎さ。
嗚呼、素晴らしき哉、かあんとりぃらいふ。
まったく、「大字」なんて余計な文字、いったいいつの時代だよ?
……余計な文字が付いていた、か。
ホント、「余計な文字」なんてロクなモンじゃない。
本郷さんに取り憑いていたのは、先日文ちゃん先輩をも苦しめた「古代の象形文字」どもだった。あいつらのせいで、本郷さんは…僕の尊敬する師匠は「異形」になり果ててしまった。
「ミスター・サンドマン」を口ずさむ異形…その曲名を頂いてそう呼ぶとしよう。間違っても本郷さんの名前で呼ぶのは憚られる。今となっては、「本郷信太郎」という名前は、僕にとっては替え難い、とても、とても大切な名前になっていることに気づかされたんだ。
家に近づくにつれて、周囲に広がる暗闇の範囲が大きくなる。闇はいつもニンゲンの心を不安なモノに引きずりこもうとするものだ。いつしか僕は、はるか前方に朧げに見える次の小さな明かりの島に向けて、暗闇の中、必死でペダルを漕ぐ様になっていた。
呼吸も粗くなってくるし、制服の下にはうっすらと汗をかいていた。きっと今頃、僕の体内の生産工場では、物凄い勢いでアドレナリンを増産している事だろう。そんなに慌てる必要もない事は分かっているけれど、僕の身体を支配している「脳」という名のトップの判断は、発注もない様な製品をひたすら作れと指示を出しているに違いない。何という無能なトップだろうか。
…アドレナリンの大量分泌は、例えば怪我などの痛みも麻痺させるというけれど、心の痛みはどうなのだろうか。どうせなら、そっちの方も麻痺させてくれればいいのにな。
…あれ?
今、僕の横を何かが追い抜いていった様な…何だったんだろう?
暗くてよく見えなかったけど…何かの「気配」は感じた。
「気配」は次第に遠のいていった。
少し不安になりながらも、僕は次の外灯の下にたどり着いた。今はこの弱々しい明かりが、何だかとても頼もしく思える。
僕はちょっと安心して、自転車を止めてひと息つく事にした。見れば、ちょっと先にも小さな明かりが見えた。自動販売機の明かりだった。
街中にあるという最近噂の「コンビニ」なんて洒落た店とは違って、この辺りのお店はどこも早々に閉店している中、この自動販売機は終夜営業なのが嬉しい。ずっと夢中で自転車を漕いできたせいなのか、僕は喉の渇きを覚えた。食後の運動のせいで、ちょっと異がもたれる気もするし。そういえばアドレナリンの作用のひとつに「消化管運動の低下」なんてのもあるって聞いたっけ。たしか、生物の有本センセがそんな事言ってた気がする。まったく、ロクな事しないなアドレナリン。
僕はポケットの中をまさぐって100円硬貨を見つけると、自販機の前に立った。
何がいいかな…身体も暖まってるから、ホット系をセレクトするのは躊躇われる。けど、冷たい飲み物を口にするにはまだ寒い。この時期というのは、飲み物ひとつ選び抜くのもムズカシイよなあ。
しばし悩んだ挙句、僕はサイダーを選んだ。冷たいのは厄介だけど、その爽やかなのど越しの誘惑の方が勝ったのだ。
投入口にコインを放り込んでボタンをポン。一瞬の間をおいてガタン!と音がすると、お目当てのドリンクが取口に落ちてきた。
それを取ろうと手を伸ばしたら、その横から小さな腕がにゅっと伸びてきて、サイダーの缶を横取りしていった。
「うわぁ…!?」
『そんなに驚かなくてもよろしいですわ、ヨシハルさん』
声の主は、忌まわしき小生意気な生き人形サマだった。
さっき、僕を追い抜いていったモノの正体はこいつだったのか。
「あ…何だ、お前かよ。驚かすな」
『別に驚かそうと思ったのではありませんわ。…ところでこの冷たい筒、何ですの?』
慰撫は、僕の手からかすめ取ったサイダーを抱えながら、不思議そうに眺めていた。
「それはお前には猛毒だ。危ないから返せ」
『嘘を仰い。いくら辺鄙な田舎町だとは言え、そんな物騒な物が、こんな所にあるとは思えませんわ』
ちっ。鋭いな。
『貴方は今、お金を入れてこの筒を取り出しましたわ。きっとこの筒は、それなりに価値ある物と考えますが、如何?』
…ヘンな所で洞察力持ってやがるな。人形の癖に。
「あ…ああそうだよ。そいつはとってもあまぁくて美味しい甘美な飲み物だ。のど越しも最高だよ」
『…こんな冷たい筒の中に…その様な飲み物が?…本当に…美味しいのですの?』
うん。嘘は言ってないぞ。
「ああ、保証するよ。飲んでみるか?」
『後学の為にも、ぜひ経験してみたいですわね』
慰撫の目が、好奇心で輝きはじめていた。この辺りは、流石人類の英知である「文字」の本領?本分?…それとも本能か?まあいいや、そのどれかの為せる業なのだろう。
…もしかしたら業なのかもしれないが。
『では御相伴に預からせていただきますわ…どうやって開けるのかしら?』
慰撫は、自分の身体に不釣り合いな大きさのサイダー缶を、器用にくるくると回しながら、あれこれと観察していた。
『む…むむむ?』
あはは。こいつ、終いにはぶんぶんと振ってやがる。どうなっても知らないぞ。
「…開けてやろうか?」
『む?結構ですわ。英知を秘めた象形文字を出自に持つこのわたくしが、貴方如き庶民に教えを乞うなど恥ですもの』
失礼な奴だな。ああそうかい。ならばもう、庶民のヤツガレごときは何も申しますまい。
缶のあちこちを観察しているうちに、元・象形文字サマは、開け方に気づいたらしい。
『あ!分かりましたわ。ここの取っ手を引っ張るのですわね。するとこの切れ目が取れて…そうでしょう?』
「よく分かったな。正解だ。ご褒美にそれ、全部飲んでいいぞ」
「一応、お礼は申し上げますわ。では…うーん…きゃっ!」
慰撫はプルタブのリングを引っ張ろうとして、バランスを崩してしまった。流石に、こいつの体格では少々大きすぎたみたいだ。
「…持っててやろうか?」
『お…お願いいたしますわ。で…ではもう一度…う~んと…』
シュポン!しゅわわわわわ。
『ひゃっ!?』
開けた途端、勢いよく吹き出したサイダーに、流石の慰撫も腰を抜かしてしまったみたいだ。
『よっ、ヨシハルさんっ!今!いまっ…!?』
ほほう。こいつもこんな顔するんだな。可愛いじゃないか。
「くくく。驚いた様だな、あんなに振り回すからだ」
『…謀りましたわね』
慰撫の奴は、恨めしそうに僕を睨んできた。
「僕は何も言ってないぞ?お前が勝手に振り回したからだ。まあいいや、ちょっと飲んでみろよ、美味しいのは本当だから」
慰撫は、中身が半分くらいに減ってしまったサイダー缶を、恐る恐る口にした。
「こくんこくん。…!?」
あ、こいつ、間違って炭酸ジュース初めて飲んだ犬みたいな顔になってやがる。
犬に炭酸ジュース飲ませるのは、実はあんまりよろしくないのだそうだけど。前にウチのポールにコーラを飲ませようとして、母から怒られた覚えがある。何でも、炭酸その物はともかく、中に大量に含まれている糖分やカフェインが、犬には良くないのだそうだ。
まあ、こいつの場合は紅茶も飲む…嗜みになられますし、カフェインとかは大丈夫なのだろうけど、逆に炭酸には全くの無防備だったみたいだ。
『☆…!◆…!!××××…!!!!』
未知なる炭酸の衝撃を、全身でじたばたと存分に堪能された後、慰撫はふと、その意味不明なダンスを止めた。
『……。あー、こほん。ご馳走様。庶民の飲み物にしては、まぁまぁ美味しかったですわ』
あっそ。それは上々。お嬢様におかれましては、こんな庶生の飲み物を大変お気に召されましたご様子で何よりでござい。
ホントこいつ、何しに来たんだ?
『…ところでヨシハルさん』
慰撫は急に真面目な顔になった。
「な…何だよ」
『実は、もうひとつ、貴方にお伝えしたい事があったのですわ』
「もうひとつ…?」
『ええ。もうひとつ、とっても大事な事。そしてマスター・アヤの前では絶対に口にできない事を、ですわ』
「どういう事だ」
『ヨシハルさん?貴方はお気づきになりませんでした?』
「な…何を…?」
『あの異形が、どうやって標的どもの前に現れたのか。そしてどうやって姿をくらませたのか』
え…?そういえば、あの「ミスター・サンドマン」は、どうやってフューリーアレイまでやってきたんだ?誰にも見つからずに。…工事現場で死んだというダークの時はともかく、あんな街中の商店街にあるライブハウスに、異形が人知れずやってくるなんて、考えてみれば難易度高そうだけど…それにザックが死んだ時だって、あれだけ騒ぎになった中、どうやって姿をくらませたんだ?
「…おい慰撫。お前、もしかしてあの時、まだ他に何か見たのか?」
『肯定…ですわ。そしてそれは、マスター・アヤには言えない事…』
「お前…何を見たんだ?」
『不気味に嗤うだけのあの異形には、とても理性なんて感じる事はできませんでしたわ。陰からこっそりとその様子を窺っていたわたくしは…見たんですの』
「だから…何を?」
『…彼女はあの異形の前に現れて、あいつを連れて忽然と闇の中に消えていったのですわ』
だからそれは…え、消えた?彼女?
まさか…僕の知っている限り、そんな芸当のできる存在は、ただ一人しかいない。
『ここまで申さば、いくら愚鈍なあなたでもお気づきになるでしょう?』
まさか…その「彼女」って…まさか…
『貴方が“アユコセンセイ”と呼び、そしてマスターが“オンヌシサマ”とか“オネエチャン”と呼んでいる…あの御方…ですわ』




