02 恋人を満足させる50の方法
とかくニンゲンという奴は、一度信じた――あるいは思い込んだ――出来事を覆えさせるというのは、なかなかに難しい事らしい。
ましてやそれが、自分に好意を持ってくれている、小柄でささやかな胸元で黒髪ロングの1学年先輩の頑固な生徒会長さんだったとしたら、なおさらの事だと断言できる。
「鉄血宰相」の異名を持つ愛しのまいはにーさんは、どこまでも真っ直ぐな人だ。
常に相手を正面から見据えて向かい合う。それが彼女の信条であり、信念であり、相手に対する信義なのだろう。
でも、真っすぐに見つめるというのは、時にはそれだけ視野も狭められてしまうわけで。
狭められた視野のまま、真っ直ぐ前だけを見つめて突き進むというのは、ある意味ではとても危険な行為でもある。特に彼女の様にものすごいスピードで突っ走ってゆくタイプはね。
もしもし文ちゃん先輩、たまにゃ横を向いてもいいんじゃないですかー。
僕がいくら「チェット=アトキンスはピアニストでなくてギター弾きです」と言っても、文ちゃん先輩は聞く耳を持ってくれない。
けんもほろろと雉も鳴く。僕が冗談を言っているのだと思い込んでしまった彼女に、取りつくしまはなかったのである。
少なくとも、彼女がチェット=アトキンスという人の演奏がお気にいりだというのは間違いないみたいだけどね。
たしかにチェット=アトキンスという人のギター・プレイは魅力的だ。文ちゃん先輩のハートをがっし!と掴んでしまったのも分かる。そういえば雑誌で読んだ彼のインタビューに、こういうのがあった。
『女性を口説くのに言葉は要らないよ。向かい合ってギターを弾いていれば、自然にいい雰囲気になってくれるからね』
…くうっ。ギターを弾く立場だけはおんなじなのに、どうしてこうも違うのか。カミサマ、僕ぁ多くは望みません。せめて目の前の小柄な1学年先輩のお頑固さんをうっとりさせる様なギター・プレイができるようになりたいです。
カミサマ、という単語を思い描いたら、我が校の誇る美人養護教諭の屈託のない笑顔が思い浮かんだ。
まあそれだって間違いじゃない。鮎子先生は本当に「カミサマ」なのだから。
こんな願い事を言ったとしたら、鮎子先生は何て言うだろうか。
『そうねぇ…ゴーインに唇、奪っちゃったら?』
…いやいやいや。そうではなくて。と言うか、それはもうやりました。ええ、ええ。あなたのくださった、それはそれは有難いご啓示のままに。
『…あは、ごめんね?じゃあ、目の前で実際に曲を弾いてみせたらどうかな?』
僕の妄想の中の鮎子先生は、悪びれもせずにくすくす笑ってそう言った。
お?…おおお?その手があったか!
そういえば何か月か前の「月刊ギター・ワールド」に、チェット=アトキンスの特集が載っていたっけな。何曲か譜面も出てた様な気もする。
何とか彼の曲を弾ける様になって、彼女の目の前で弾いてみせれば、頑固な文ちゃん先輩だって納得してくれるかもしれない。…もしかしたら、僕の演奏に彼女もメロメロになって、うっとりしてくれるかもしれないのだ。
うん、コレだ!まさに天啓。鮎子先生ありがとう。僕の妄想だけど。
僕は思わずぱんぱんと二礼二拍手で柏手打って、妄想上の鮎子先生に感謝の意を申し上げた。カミサマとしての鮎子先生の宗派は分からないけど、聞けば先生は、元は信州長野は上諏訪の神社の宮司の娘さんだったそうだから、ここはとりあえず神式でいいと思う。
恋人と別れる方法は50もあるそうだけど、それなら恋人を満足させる方法は、きっとそれ以上にあるに違いない。ましてや僕はジャックでもスタンでもロイでもない。ましてやガスでもキーでもないのだ。…何のこっちゃ。
「…あの、志賀君?」
…いやいや待てよ志賀義治。慌てちゃいけない。
仮に僕がギターを猛練習して、チェット御大の曲を弾ける様になったとしてもだ、そこに何か問題はなかろうか。
きっと彼女はこう言うだろう。
『で、お勉強の方はどうしたのですか?まさかギターにカマけて、サボっていたのではないでしょうね?』
…うん、そうだ。生真面目さんが生真面目なコートを着て生真面目通りへ生真面目に繰り出して生真面目にお買い物する様な文ちゃん先輩の事だ。間違いなくそう言うだろう。…鬼もかくやの憤怒の面で。
いかんいかん。これでは逆効果だ。
「あの…志賀君?そろそろお勉強の方に戻りませんか?」
そうだそうそう。ここは慌てず、まずは目の前の障害をクリアしてゆかねば。
まず文ちゃん先輩を納得させたうえで、彼女にあげようサプライズ。
…こっちの方がいっそう効果的じゃないのか?
「あの…志賀君?お勉強…」
そうだよ。お勉強なんてクリアして、学年末試験なんて障害は正面突破してしまえばいいのだ。その先には僕のギター・テクニックの向上と…そして文ちゃん先輩の笑顔と熱い視線が待っていてくれるのだから。
「文ちゃん先輩!」
僕は彼女の小さな両肩に手を置いた。
「は…はい?」
「お勉強!しましょう!!」
「あ…はい。その気になってくれたのならいいのですけれど…」
熱く決意を語り合う僕たちの横では、生き人形の慰撫がはぁ、と溜息をつきながら紅茶を飲んでいた。…クールな奴だなあ。
それからの僕は、それはもう見違える程に夢中で勉強に勤しんだ。
脇目も振らず、飽きもせず。大いなる目的の前に立ちはだかる障害に成り下がったお勉強など、もはや僕の敵ではなかったのである。
確たる目標こそがニンゲンを前へ前へと突き動かすのだ。そうして人類は歴史を刻み、文明を形作ってきた。僕のおつむの中で、もう一度ルネサンスとレコンギスタと宗教改革と産業革命が一斉に起きた様な気さえする。
それからの数日間、僕がどれだけ勉強したのかと言うと、さしもの文ちゃん先輩さえ僕を気遣って、もうそれくらいでいいでしょうと言い出したくらいだったのだ。
毎日、学校が終わると彼女の家にお邪魔してお勉強会。
夜7時半頃。自転車に乗って、そこから10キロは離れた我が家に帰って、入浴して軽く夕食を済ませたらまたお勉強。
午後11時半。勉強を切り上げて、その後は黙々とギター・トレーニング。なぁに、いつもよりは弾いていないさ。せいぜいが一日1時間半程度に過ぎない。
時計の針が午前1時を回ろうかという頃にベッドに潜り込む。それでいて朝4時半にはまた目を覚ましてまたまたお勉強。
…五丈原の孔明か、僕は。
この日課を繰り返すうちに、志賀義治の顔に生気が戻った――はずもなく。
いつも文ちゃん先輩と一緒にいて、なおかつ日に日にやつれて顔色が悪くなってゆくらしい僕に、悪友森竹などはあらぬ妄想をしていた様だったが。お前は何を想像しているのだ。
ともあれ、だ。僕の固い決意の前に、憎っくき学年末試験の一団は、尻尾を巻いて逃げ出していったのだった。見ていてくれたか僕の2学期の通知表?お前の仇は取った。僕は江戸の仇を長崎で討ったのだ。
ウチの学校は、総合成績と科目別に、試験結果の学年別上位50番までの生徒の名前を職員室前の廊下に張り出す事になっている。
その発表の日。僕は文ちゃん先輩と一緒に自分の名前を探してみた。
うん。総合27位。国語は学年3位で世界史は…おお、何と1位だ。英語は…ランキング外か。「生まれながらの文系」を自称する身としては、まあ想定内だな、うん。
問題の超難問だった数学アンド化学が共に50位というのは、これは僕にとって快挙としか言い様がない。
あ、文ちゃん先輩の目がハートになってる。
「やりましたね志賀君!私は、キミならきっとやり遂げてくれると思ってました。今日は土曜日で午後の授業はありませんし、帰りにどこかでお食事でもしてゆきましょう。ご褒美に、このお姉さんが奢ってあげますね」
文ちゃん先輩はドン!と自分の緩やかな胸を叩いた。
彼女が満面の笑みでいてくれるというのはいいものだね。
文ちゃん先輩の申し出は嬉しかったけれど、今日の僕には、まだやる事が残っている。
「文ちゃん先輩」
「なぁに?」
ご機嫌な顔の文ちゃん先輩。きっと、今回の試験結果を、僕以上に喜んでくれているのだろう。いや、僕だって嬉しくないわけではない。自分の努力が報われるという物は素直に喜ばしいけれど、僕自身にとっては、今回の試験なんぞ目標の前の単なる障害物に過ぎなかったのだ。真の目標はその先にあった。
「お食事いいですね。ぜひお願いします。でも」
「でも?」
「その前に、これから僕と一緒に、ちょっと屋上に来てくれませんか?」
「屋上?またギターを聴かせてくれるのですか?」
「はい」
「ふふ。今日はどんな歌を聴かせてくれるのでしょう」
今日の文ちゃん先輩は、僕が何を言っても好意的に受け止めてくれそうな感じだ。
そういえば先日も彼女の前で弾き語りした事があったっけ。ポール=サイモンの「アメリカの歌」。実はあれは、一計を案じた鮎子先生の企みだったのだが。
『私は今日の午後、出張でいないって事にするから、志賀くんは文ちゃんを屋上に連れ出して、どんな手段でもいいから泣かせちゃってね』
その意図する所もまったく見えないまま、僕は鮎子先生の指示に従った。でも、まさか文ちゃん先輩に手を挙げたり、ましてや悲しい思いなんてさせるわけにもゆかないから、ダメ元で僕は拙い歌を唄ってみたのだ。気持ちは伝わってくれるとは思っていたけど、その効果は予想以上。僕の指先と口元から漏れ出たメロディーは、彼女の心の琴線をも震わせてくれたみたいだった。それは、他ならぬ文ちゃん先輩と鮎子先生から教えてもらった「心の震え」そのものだった。僕と彼女の心が共鳴したからこそ、彼女の瞳から涙が零れ出てのだろう。
…しかしその直後に起きた事は、まったくの想定外だった。
彼女の瞳の奥から、得体のしれない「異形」が這い出してきたのだ。
後で知ったのだが、それは原初の象形文字「情欲」という異形だった。文ちゃん先輩の身体の中に取り憑いたそいつが、彼女の精神を操っていたのだという。そいつが無理やり這い出そうとした事で、文ちゃん先輩は失明寸前に陥った。苦痛にあえぐ彼女の姿に僕は狼狽し、叫んだ。「あっ、鮎子先生!!鮎子先生ったら!!どこにいるんですか!?いるんでしょう!?」
鮎子先生が、どこかで一部始終を見ているだろうという事は分かっていたんだ。僕の訴えに姿を現した鮎子先生は、あっという間に事態を解決してしまったのだが、こうなる事を想定していたのだとしたら、なんて酷い先生なのだろうとは思ったのも正直な感想だった。
もっとも、その後で、あの事件はさらにトンデモない、僕の理解を超えた最悪の方向へ突進していったみたいだけれども。
…でも今日は違う。今日は彼女を泣かせたいのではない。驚かせて、その後で喜んでもらいたいだけなのだ。その気持ちに偽りはない…ちょっとだけ打算はあるけれど。
彼女をうっとりさせたい。もっと好きになってほしいという気持ちを「打算」と言うのであるならば、ね。
途中、自分の教室に寄って、ロッカーに立てかけてある、僕の愛機を入れた黒いギター・ケースを持ちだした。中味はもう何年も使い込んでいる、国産の安いモデルのアコースティック・ギターだ。本当はチェット御大と同じ様にエレキ・ギターで弾きたい所だけれど、悲しいかな我が校には「エレキ・ギター禁止!」なる悪法がまかり通っている。比較的平穏な新設の我が校だけど、これだけは「くだらない伝統」なんてのになる前に、一刻も早く、強く改正を求めてゆきたい。ありえないとは思うが、文ちゃん先輩の後を継ぐ生徒会長選に僕が立候補するとしたら、その第一番の公約はこの悪法改正にしよう。…こんな校内の大局とは無関係な公約が支持を受けるとは思えないけど、政局に一石を投じてみたい気もする。
屋上のある北側校舎への渡り廊下までくると、誰かに後ろから肩を叩かれた。
「はーい志賀くん、文ちゃん」
白衣を着た「カミサマ」(養護教諭兼任)が、屈託のない笑顔で微笑んでいた。
「カミサマ」こと鮎子先生は、僕の背中に背負ったギター・ケースを見るなり、
「あ、そうかあ。試験も終わったもんね。また屋上の練習再開なんだね」
と、興味津々で聞いてきた。
「ええ、まあ」
「えー、ずるいなあ二人っきりで。何でわたしも呼んでくれないのよう」
…口を尖らせて抗議してくるカミサマというのはいかがな物だろうか。「威厳」とか「神々しさ」とか言った、神性に必須なアイテムはどこへやった?
「あ、おねえちゃんもご一緒にどうです?」
こちらは多少気を遣った様な物言いの文ちゃん先輩。誘わなかった事を素直に反省しているみたいだった。…人の気も知らないで。
二人と親しくなって以来、僕たちは主に放課後になると、あの屋上でちょっとした演奏会を楽しむ事が多くなった。10年以上をアメリカで過ごした鮎子先生の綺麗な発音の歌を、僕のギターで伴奏するのはとても楽しかったのだ。
しかも鮎子先生は、10年以上も前に解散したサイモン&ガーファンクルの生演奏を、実際のステージで観た事があるそうだ。これは本当に羨ましい。不老不死の彼女だから、その当時も今も容姿は変わらないそうだが、それより彼らの生演奏を観れた事の方がずっと羨ましいぞ、僕は。
「スカボロー・フェア」(偶々、僕がこの曲を演奏した事がきっかけで鮎子先生と親しくなった)をはじめとして「サウンド・オブ・サイレンス」「四月になれば彼女は」「キャシーの歌」「早く家に帰りたい」「アイ・アム・ア・ロック」なんて有名曲から「夢の中の世界」とか「フランク=ロイド=ライトに捧げる歌」「クラウディ」なんて実にマニアックなのまで、もうずいぶんとやったなあ。
鮎子先生が横で歌ってくれたおかげで、僕のギターもずいぶんと上達できたと思う。その事には深く感謝したい、それこそ二礼二拍手程度では足りないくらいだ。
でも、今日これからやりたい曲は、残念ながら「歌モノ」ではない。鮎子先生の美声がないのは少々寂しい気もするが、そういう曲なので仕方がない。それに…今日は文ちゃん先輩を驚かせたい、喜ばせたいという気持ちが先にあるから。正直…その、鮎子先生は、今日に限っては…お邪魔でもあるしなあ…
「そうはいかないわよお?」
鮎子先生は、ちょっとだけ意地悪そうな顔になった。え?今の口に出てた?
「くすくす。出てない出てない。顔に出てたもん。『今日は鮎子先生が邪魔だなー』って」
嘘だ。絶対に心を読んだでしょ?
「さぁて」
鮎子先生は手のひらを口元に当ててふふふと笑った。うーむ、いかにも怪しそうな笑顔だな。
「…ふぅ。まあいいです。鮎子先生にも、僕のギターの腕前の感想を聞いてみたいですし」
結局、僕たち三人は、いつもの様に揃って屋上にやってきたのだった。
土曜日の午後とはいえ、ここはいつも人気がない。もっとも、ほんの3ヶ月前に、ここで飛び降り自殺者(という事になっている)が出たばかりとあっては、好き好んでそんな場所にやってくる生徒もいないとは思うのだが。
その「事件」にも、実は僕たち三人は深く関わってしまったのだが、あえて深くは触れないでおく。…不幸な倉澤副部長のためにも。
そろそろ春も近い。この場所で初めて二人と話した頃はからっ風が冷たかったのに、今日は上着が邪魔なくらいだ。11月と3月はほぼ同じ気温だそうだけど、どうしてこうも肌に感じる印象が違うのだろうか。不思議だ。
僕はギター・ケースを床に置いて、愛機を引っ張り出した。
「今日は、聴いてほしい曲があるんです、文ちゃん先輩。それに鮎子先生も」