21 ザ・フラットボード・カスケーズ
「…おんぬしさまぁ。まぁたあのおじさんたちがきてますよお?」
文の、まだ7歳と言う年齢に見合わない様な少し大人ぶった声に、店の奥から鮎子が顔をのぞかせてみると、なるほど、ここ数日、連日の様に店のショーウィンドゥをのぞきにやってきている二人連れの男たちの姿があった。
前年、この高崎の街で「悠久堂」を再開してから、早くも一年が過ぎた。
鬼橋家の分家の娘の文は、頼みもしないのに、時々「おてつだい」と称してはこの店にやってくる。学校が夏休みに入ってからは、こちらも連日の様に押しかける様になった。
文はよくできた娘で、万事手際よく事を運ぶ。客への応対も、年齢からすれば過分な物と言えた。普段は鮎子一人でひっそりと経営しているこの店も、可愛らしい少女が人加わっただけで、幾分華やいだものになった。
もっとも経営者の鮎子自身にとっては、店の経営状態など、実はあまり関心なかった。
彼女にとっては、この店はただ単に趣味でやっているに過ぎないのだ。
しかし文はというと、それがどうも納得がゆかないらしい。彼女に言わせれば、
「おんぬしさまにひもじい思いはさせられないのです」
と、年甲斐もなくこしゃまくれた口調になる。そんな生真面目な幼い少女に、鮎子はとても愛おしさを感じている。
――それは何も、「今生」に限った事ではなかったが。
鮎子にとって、「鬼橋 文」という少女は、彼女で四人目だった。
剣城鮎子と「鬼橋 文」。
この二人の女性の間には、「縁」などという陳腐な言葉では語りきれない絆がある。
それはすでに半世紀以上にも渡る物だった。
「敵」として出会った初代。傀儡師として類稀なる才覚を示した二代目。寡黙でひたすら己が宿命に殉じた三代目。そして今、目の前でてきぱきと店の中を飛び回っている四人目の幼い少女。…彼女はいったいどんな人生を歩んでゆくのだろうか。
「んもぅ!どうしましょうかおんぬしさまぁ?」
鮎子が昔日の思い出に浸っていると、困った様な顔をした文が、こちらを見つめていた。
「…へ…何?文ちゃん」
「聞いててくれなかったんですかぁ…?おんぬしさまぁ…」
「ん?ああ、ごめんごめん。で、何の事だっけ?」
「…あそこでお店の棚のぞきこんでるおじさんたちですよお」
「別にいいんじゃない?」
「でもぉ、あの二人、ここの所いっつもあそこで見てるだけなんですよお?なぁんにもお買い物しないくせに」
「お客様に、お店の商品に関心を持ってもらえるだけでもありがたいじゃないの」
「…お金を払わない奴らはお客さまって言いませんよ、おんぬしさま」
「お客様を『奴ら』なんて言っちゃいけませんよ?それに言ってるでしょ?わたしの事は『御主様』じゃなくて『おねえちゃん』って呼んでって」
「でも…『きばしあや』としてのお役目が…あの…おんぬしさま?」
「…『おねえちゃん』」
「おんぬし…さま?」
「…………」
「あの…?」
「…………」
「あゆこ…おねえ…ちゃん?」
「なぁに?文ちゃん。よく聞こえなかったよ?」
「鮎子おねえちゃん……ひゃあ!?」
途端に鮎子の表情が緩んだかと思うと、文は鮎子に抱きしめられてしまった。
「あーもう可愛いなぁ文ちゃんは。べりー・きゅーと!まーべらす!」
文の小さなほっぺたに、次々とキスの嵐が浴びせられた。それは永くアメリカで暮らしてきた剣城鮎子にとっては、ごく自然な親愛の情の表現ではあったのだが。
「ひゃあ!ちょ…ちょっとおんぬし…じゃなくてあゆ…あゆこ…おねえちゃぁ~ん!?」
その気持ちだけは十分すぎるくらいに伝わっては来るものの、当の文にとっては無闇に刺激が強いだけで、あまり歓迎できたものでもなかった。
「…あの…お取り込み中の所をすみませんが」
気がつくと、店の外にいた男たちが、いつの間にか店内に入ってきていた。話しかけてきたのは背の高い、やたらと筋肉質な体格の男の方だった。
「…ほぇ?」
思わず、文を抱きしめた手の力が緩む。ここぞとばかりに鮎子の魔の手(?)から逃れる事に成功した文は、とりあえずそそくさと安全な場所に移動すると、こほん、と咳ばらいをひとつ。
「…いらっしゃいませぇ」
絵に描いた様な営業スマイルになった。
「今日はのぞき見だけじゃないんですね?何をお求めでしょーか」
「のぞき見たぁキツイなぁ」
黒いTシャツからはみ出した太い腕で、リーゼントにキメた髪を掻きながら、その大男は苦笑した。
「…いえね、オレのツレが、そこの棚に飾ってあるギターが見たいって言うんでね、ちょっとばっかし弾かせてもらえねぇかな、と」
「…なんだ。やっぱり買うってわけじゃないんだ」
文は露骨に呆れた顔になった。
「文ちゃん?だめでしょ」
「でもお…鮎子おねえちゃん」
「へぇ。お嬢ちゃんは文ちゃんっていうのかい。よくできた子だなぁ」
「人の名前を聞いた時…あれ?聞く時だっけ?…とっ、とにかくあなたも名前を名乗りなさいよ!」
「…キミ、そこのお蕎麦屋さんの息子さんでしょ?」
それまで二人の会話を黙って聞いていた鮎子が口を開いた。
「へ?オレをご存じで?」
「無頼庵摂津屋さんには時々行くもの。お気に入りなんだ」
「そいつはありがとうございます。へぇ、オレは摂津屋の跡取り、善養寺宗佑衛門ってケチな男でさぁ」
宗佑衛門と名乗った大男は、深々と頭を下げた。
「これもご縁でさぁね。今度ウチの店におみえの際は、飛び切りのおもてなし、させてもらいまさぁ。…で、代わりと言っちゃ何ですが」
宗佑衛門は後ろを振り向いて、まだ店の入口に立ったまま、ショーウィンドゥのギターを凝視している連れの男を見た。
「ほら、信太郎ちゃん!お前さんからもお願いしなよ」
「あ…ああ」
信太郎と呼ばれた男は、宗佑衛門とは対照的な印象だった。
やせっぽちで体格もさほど大きくない。筋肉質の宗佑衛門と較べると、それが一段と際立ってしまう。とりたてて二枚目と言う程でもなく、地味な印象だった。
しかし、棚のギターを見つめるその視線には、どことなく情熱めいた物も感じた。
「お…お願いします。ちょっとだけでいいんです。僕に弾かせていただけないでしょうか」
「いいよ。わたしもキミの弾くギター、ちょっと聴いてみたくなっちゃった」
鮎子はあっけらかんと応えると、ショーウィンドウの所まで歩いて行き、棚の鍵を開けた。
慣れた手つきでその古ぼけたギターを取り出した鮎子は、そのまま信太郎に手渡した。
「はい。チューニングはどうする?弦も張ったまま、ずいぶん経ってるから音色は保証しないけど」
「あ、大丈夫です。いつも音叉を持ち歩いてますから」
音叉をイスの縁で叩くと、ポーンという涼やかな音が響く。そのまま音叉をギターのボディに当てると、音量は共鳴して大きくなった。
その音に合わせて5弦をA音に合わせ、そのまま手慣れた手つきで他の弦も順に調律してゆく。
チューニングをすませたギターを手にして、信太郎は目を輝かせた。
「いいなぁ…グレッチ・ホワイトファルコン!ずっと憧れだったんです」
「最近じゃ、あまり流行らないモデルみたいだけどね」
「いいんです。僕は流行り廃りなんて気にしてませんから」
「いい心がけね。ね、何か弾いてみせてよ」
「あ…はい」
信太郎は一度、深呼吸をすると、驚異的な速さでギターを爪弾きはじめた。
ピックも手にしていない。純粋に指だけで6本の弦から自由自在に音を生み出してゆく。
それはまるで急流の如くだった。水が一気に流れて行く様に、次から次へとメロディーが進んでゆく。
普段は静かな悠久堂の店内が、奔流する音に満たされてゆく。
それが、アンプも通さない、たった一本のギターから吹き出し続けているのだった。
予想を超えた高いレベルの演奏に、鮎子は軽い感動を覚えた。彼女の横では、文も目を丸くして信太郎のプレイに目を奪われていた。
曲は一気に下降してゆくフレーズで、唐突に終了した。
演奏はほんの2分ちょっとで終わったが、その場にいた誰もが一瞬の事の様に感じた。
ぱちぱちぱちぱち。
鮎子が満足そうに拍手した。つられて文も小さな手を叩く。
「へぇ…『カスケード』かあ。チェット=アトキンスの曲ね」
「え?この曲をご存知ですか?」
今度は信太郎が驚く番だった。
「あはは。去年までアメリカにいたからね。チェットのステージも生で観た事あるよ。あとポール=サイモンとかマール=トラヴィスとかジェリー=リードとかもね」
「うわぁ!いいなぁ…僕なんて、その誰もレコードでしか知らないんですよ」
「レコード聴いただけでそれだけ弾ければ大した物ね。あは、キミ気に入っちゃった」
「あっ、ありがとうございますっ!」
信太郎は深々とお辞儀した。
「で、どうする?そのギター、買う?」
すると、信太郎の顔が沈んだ物になった。
「あ…ええっと…すみません。僕、お金が無いんで…ちょっと…」
「じゃあ、またしまっちゃいますね」
文が、信太郎の手からギターを受け取ろうとしたその時。
「文ちゃん。ちょっと待って」
鮎子は文を制止して、信太郎の方を向いた。
「ね、キミ。…キミはプロの人?」
「あ…いいえ。まだアマチュアです。一応バンドは組んでるんですけど、まだ名前も無い様な状態でして…」
「ふぅん…。じゃあさ…」
鮎子はそのギターを、信太郎に一週間だけ預ける事を提案した。代わりに一週間後、そのギターを使って彼のバンドの演奏を聴かせることを条件に。
信太郎と宗佑衛門は、何度もお礼を述べると、ハードケースに入れられたギターを大事そうに持って去っていった。
二人が去った後、もちろん文は猛反対したのだが、店主の権限で鮎子はそれを押しのけてしまった。
「おんぬ…おねえちゃんはヒトが良過ぎます!」
「あは。わたしヒトじゃないもの」
それから一週間後の夜。鮎子は中央通りのはずれにある「フューリーアレイ」というライヴハウスに足を運んだ。文も、自身は当然付いてゆくつもりだったのだが、ライヴの開演時間が遅いために、さすがに母親の唯からストップが掛かってしまったのだ。
信太郎たちのバンドは3人編成だった。ギター兼ヴォーカルの信太郎。ドラムスは信太郎の学生時代の後輩、それに臨時参加のベースは、この店のオーナー自身だった。
予想に反して、宗佑衛門自身はメンバーではなかった。彼はどうやら、信太郎の幼馴染との事だった。
鮎子の来店に、信太郎は感激して再び何度も礼を述べた。
それから彼らの演奏がはじまった。客の入りは上々。彼らは名前も無いバンドながら、少なくとも市内ではそこそこ人気がある模様だった。
演奏スタイルは、すでに時代遅れともいえる古いロックンロール、いわゆる「ロカビリー」が主体だった。
エルヴィスやエディ=コクランの曲が次々とプレイされてゆく。たったの三人編成でありながら、信太郎の繰り出す様々なギター・テクニックが、それを補って余りある重厚なアレンジを繰り広げていた。
その音を生み出していたのは、もちろん鮎子から託されたグレッチ・ホワイトファルコンだった。
グレッチ・G6136ホワイトファルコン。
1955年に発表されたホロゥ(空洞)構造のこのギターには、真っ白なボディの上に大小様々なゴールド・パーツという、誰もが思わず目を見張る様な美しさがある。それはまるで白地の上に金モールで飾られた、気高い海軍の士官服の様でもある。
職人の手で細部にまでこだわって作られたこのギターは、それ故「世界で最も美しいギター」とさえ称されている。もちろん価格も、グレッチ社のギターとしては最高額。まさにギターの貴族と呼ぶにふさわしい風格を持つギターだった。
ただし1970年代に入ってからは、ディスコ・ミュージックなどの人気で、ギターと言う楽器そのものの人気にも陰りが出てきた。まだハード・ロックなど一部分野では活躍しているものの、一般的な音楽ファンの間では、ギターへの関心も薄れてきていた。
鮎子がどういった経緯でこのホワイトファルコンを手に入れたのかは不明だが、その貴重な一本は今、信太郎の手で時に華麗に、時には激しく唸り声を挙げている。
演奏は進み、最後の曲になった。
『…えっと…次でラストです。この曲は、このグレッチを託してくれた恩人に捧げます』
信太郎はそう言うと、先日の様に一度深呼吸してから、一気にギターを弾きはじめた。
曲は、まだ見ぬ恋人との恋に憧れる少女の想いを綴った「ミスター・サンドマン」。
元々はザ・コーデッツという女性コーラスグループの曲だが、後にチェット=アトキンスがこれを見事なギター・インストにアレンジした。
信太郎たちが演奏したのは、このアトキンス・ヴァージョンだった。
店内には甘く切ない雰囲気が満ちていた。観客の誰もが、己の青春時代を思い出して曲に酔いしれていた。
ステージが終了すると、信太郎はギターを抱えたまま、すぐに鮎子の元に駆け寄ってきた。
「とてもいい演奏だったよ」
「あっ、ありがとうございました!これで、地元で最後にいい思い出ができました」
「最後?…キミ、どこかに引っ越すの?」
「あ…はい。今度、僕、東京に行くんです。都会に出て、プロへの道を進んでこうと思います」
「わぉ!それは楽しみね。期待してるよ」
「ありがとうございます。剣城さんには感謝の言葉も見つからなくて…」
そう言いながら、信太郎はホワイトファルコンを彼女に手渡そうとした。
「うーん…ちょっと待って」
「あ…そうか!いくら何でもこのままじゃまずいですよね。ちゃんとウェスで綺麗にしてから、ケースに入れて…」
「そうじゃなくって。…ねぇ、そのギター、気に入った?」
「はい!それはもちろんです!こんな素敵なギターになんて、もう二度と出会えないでしょうし…」
信太郎は、手にしたギターをもう一度名残惜しそうに見つめた。
「ふぅん。じゃ、それあげるね」
「は…?」
その、あまりにも自然な鮎子の口調に、信太郎は最初、彼女の口にした言葉の意味を理解できなかった。
「あの…それってどういう…」
「そのギターをキミにプレゼントするって言ったよ?」
「ええっ!?でも…僕、そんなにお金無いですし…」
「キミも面白い事を言うんだね?キミは誰かにプレゼントする時に、お金取るヒト?」
「あ…いえそんな…でも…」
「せっかくなんだ、店主さんのご厚意に甘えちゃいなよ」
戸惑う信太郎に、宗佑衛門が肩を叩きながら言った。
「でも…あの…いいんですか?」
「うん。いいよ。その子も、キミみたいなギター弾きさんと出会えて喜んでるし」
「あっ!ありがとうございますっ!」
信太郎は深々と頭を下げた。
「…実はね、そのギターは『幸運を呼ぶギター』なの。そのギターを手にする限り、キミには幸運が舞い降ります。…手にしている限りは…ね」
「へぇ!凄いじゃねぇか!よかったなぁ信太郎ちゃん」
「本当に何とお礼を言っていいのか…剣城さん…あなたは僕にとって女神さまみたいな方だ」
「…女神じゃなくてカミサマなんだけどね」
「へ?今何と?」
「ううん。何でもないよ。その子、大事にしてあげてね」
「はい!もちろんですっ!」
「あ、そうだ信太郎ちゃん。せっかくだから、この女神さんに、バンドの名前も付けてもらわねぇか?何たってこの店主さんは、信太郎ちゃんにとって幸運の女神さまなんだからよ」
「あ…そうか。…剣城さん、勝手な申し出ですみませんが、お願いできませんか」
「あ、面白そうだからいいよ?…うーん…そうだなぁ…」
その時、鮎子の脳裏に浮かんだのは、先日の悠久堂での彼の鮮烈なギター・プレイだった。
あの時も、彼がプレイしたのはチェット=アトキンスの「カスケード」だった。
「うーん…たとえば…『カスケーズ』…とか?」
「あれ…でもその名前のバンドって、もうありましたよね?」
「リズム・オブ・ザ・レイン(邦題:悲しき雨音)」などのヒットで知られる、1960年代に活躍したアメリカのバンドに、その名を冠したグループがあった。
「あ…そうだったね。うーん…じゃあこうしよう。『ザ・フラットボード・カスケーズ』」
「ザ・フラットボード・カスケーズ…?あの、どういう意味でしょうか」
「フラットボードは『平らな板』。で、カスケードは『急流』。『どんな平らな板の上でもぐんぐん流れてく勢い』っていうの、どうかな?」
「わぉ!それいいじゃねぇですか!信太郎ちゃん、いただいちゃいなよ」
バンドのメンバーも、笑顔で頷いている。
「あ…うん…うん!そうだね。…本当にありがとうございます、剣城さん」
「鮎子でいいよ」
事の一部始終を見ていた他の観客たちからも拍手が起こった。その拍手はいつしか、アンコールを求めるリズムへと変わってゆく。
「ほれ、信太郎ちゃん?」
宗佑衛門に背中を押されて、信太郎は再びステージに上がった。
「…えっと…みなさん。今夜は本当にありがとうございました!たった今、僕らのバンドの名前も決まりました!ザ・フラットボード・カスケーズ!」
客席からは祝福の拍手と歓声。
「僕たちザ・フラットボード・カスケーズはここ高崎から、東京の…全国の…いいえ、きっといつか世界のステージに立ちます!!今夜はそのスタートです!!」
信太郎は昂ぶる心の全てを、己が指先から弦に叩きつけた。その思いはアンプを通して何倍にも、何十倍にも膨れ上がって、聴く者すべての心をも揺さぶるサウンドとなってゆく。
その夜。高崎市内の小さなライヴハウス「フューリーアレイ」で、ひとつの伝説が生まれたのだった。