19 バッド・フィーリング・ブルース
その翌日から、僕は文ちゃん先輩にお願いして、これまで放課後の日課だった校内の見回りを、しばらくの間キャンセルさせてもらう事にした。
理由は簡単。失踪した本郷さんの行方を捜したい一心からだった。
もちろん警察だって捜査してくれている事くらいは知ってるさ。でも、この事だけは人任せになんてできなかった。
僕は知りたかった。あの夜、僕たちと別れた後で何があったのかを。師匠の身に何があったのか、そして師匠がどこに行ってしまったのかを知りたかったんだ。…いや、むしろそんな事なんて、実はどうでもよかったのかもしれない。僕はただ、師匠…本郷さんにもう一度会いたかった…それが全てだったのかもしれない。
僕にとって、本郷さんは生まれてはじめて出会えた、肉親以外の「身近な大人」でもあった。一人っ子の僕には兄弟がいないから、たとえば「兄貴の友人」なんて存在もいなかったし。
フォークソング部の工藤部長さんに聞いた事があったけど、彼がギターをはじめたきっかけなんて、まさにその「兄の友人」の影響だったそうだ。彼の中学生時代、家に遊びにやってきた「兄の友人」が偶々ギターを持ってきていて、その演奏を間近にしたのが最初だったそうだ。もちろんその後、ギターもその人から教えてもらったそうだ。
…僕にはそう言った「出会い」がなかった。同じギターをはじめたきっかけだって、ラジオで耳にしたサイモン&ガーファンクルの曲に感動したからだった。以後、僕は誰にも頼らず、独学でギターを黙々と弾いて覚えてきただけだったんだ。
どこまでいっても「自分だけのセカイ」のまま。
きわめて独善的。閉鎖的なだけのセカイ。それが僕の「ギター」だった。
…かつてはね。
でも今は違う。文ちゃん先輩…それに鮎子先生と出会った事で、僕のギター・プレイは大幅に変わった。「生まれ変わった」と言ってもいい。
プレイ・スタイルとかが変わったんじゃない。それはもっと根源的な部分での変化だった。
こう書くと大仰にも聞こえてしまうけど、実はそんな大それたことじゃない。
それはたった一行で表せる。
「自分のためだけのギター」から、「誰かに聞いてもらうためのギター」への変化。
…たったこれだけ。
たったこれだけの事だけど、僕にとってこの変化は大きかった。「驚天動地」とかルネサンスなんて比喩もできそうだ。
ギターを弾く事の喜びが、今度は「聴いてもらう喜び」になった。これは大きい。
何となれば、「そこ」には相手がいる。自分以外の誰かを相手にする演奏。
そこには「伝えたい」という気持ちが生まれる。
どうすれば気持ちが伝わるか。どうすれば悦んでもらえるか。
自分のためだけのギターなんて、結局は「自分が気持よくなるためのプレイ」に過ぎない。
「自分の嗜好」なんて自分自身が一番よく分かっているもの、自分が好きな事だけやっていればいいんだ。
だけど、誰かを前にプレイする時はそうもゆかない。
いや、「人の為に、やりたくもない曲をやらなければならない事もある」…なんて事じゃないよ?そんなのはただの「都合」って奴に過ぎない。
「自分のギターで誰かを悦ばせたい」。これ…この気持ちこそが大事なんだ。
これは最近気づいた事だけど、こういった思いは、ある意味では「恋愛」とおんなじだ。
そう…この両者には、まったく同じ思いが働いているのだと思う。
「自分の思い」を、相手にただぶつけるだけなんてのは、それは恋愛なんかじゃない。
「たとえ分かってもらえなくていい」なんて言うのは、一方通行な感情に過ぎない。そんなのはただの言い訳だと思うんだ。
「赤心を推して人の服中に置く」なんて言葉がある。後漢を興した光武帝――劉秀って人の行いに感動した投降兵の言葉だそうだ。昔、何かの本で読んだ事があった。ええっと、たしか「降者、更に相ひ語りて曰く、蕭王、赤心を推して人の腹中に置く、安んぞ死を投ぜざるを得んや」とか言った文章だったと思う。
「赤心」というのは自分の嘘偽らざる心の事だ。光武帝はこれを「真心」ととらえた。人間には、誰でもこの「赤心」を持っている。この赤心を相手の腹の中に置くというのは、すなわち相手を信用して自分の心をさらけ出すという事だ。
自分の心をさらけ出す前に、まずは相手の事を信用する――言うなればノーガード戦法って奴。これは断じて「一方通行」とは違った物だ。
この事に気づく事ができたのは、もちろん文ちゃん先輩のおかげだ。
僕の、本当の意味での最初の「聴き手」が一番大好きな文ちゃん先輩だったという事が、僕にとっては何よりも「僥倖」と言っていい出来事だった。
「どうすれば文ちゃん先輩が悦んでくれるだろう?」
彼女とお付き合いする様になってから、僕はいつもそんな事を考えてきた。それは交際についてだけじゃない。それと同時に、僕はギターについてもおんなじ事を意識してきた。
毎日の校内見回りの後、鮎子先生を交えた、三人だけの演奏会。
それまでギターにはまったく関心のなかった文ちゃん先輩が、僕の演奏に次第に心を開いてくれていった過程。これこそが僕のギターに対する向かい方を変えていったんだ。
誰かに聴いてもらえる喜び。
そして、誰かが僕のギターで悦んでくれる喜び。
僕の演奏で誰かが幸せな気持ちになってくれたなら、それはもちろん僕自身の悦びになる。
そしてこの気持ちは間違っていない――そう確信させてくれたのが師匠――本郷さんだった。彼だって、きっとそれまでの人生の中で積み重ねてきた経験と思いを、自らのギターに込めて弾いてきたのだろう。だから彼のギターは僕の心を捉えたのだ。
まさに彼の赤心は、僕の心に響いた。共感できた。
だからこそ、僕は彼の事を「師匠」って呼びたいんだ。これまでも…これからだってずっと。
それなのに…どこに行っちゃったんだよ師匠…。
『本郷信太郎というニンゲンは、もうこの世に存在しないって事』
僕は鮎子先生の言葉なんて、あえて意識しない事にした。
だってそうだろう?いくらこの世を統べるカミサマだって、たまにゃあ間違えたりする事だって…あるだろう?あるに違いない。
だって…あの本郷さんが『もう存在しない』なんて事がある訳ないじゃないか!
僕は信じないぞ?
意外だったのは、文ちゃん先輩も僕と同じ意見だった事だ。
鮎子先生――カミサマの「ガーディアン」である「鬼橋 文」の名を受け継いでいる彼女にとって、鮎子先生の言葉は絶対のはずだ。その彼女が、僕と同様、今回はあえて鮎子先生の言葉を信じないと言い切った。
それは単なる「願望」に過ぎないのかもしれない。でも彼女も、本郷さんという人生の先輩に対しては好意を持ってくれているのは嬉しかった。
僕たちは、まず本郷さんとブラッディーオーガの連中が所属しているという芸能事務所に足を運んでみた。
「株式会社石村興業」という名前のその事務所は、意外な事に高崎市内にはなかった。
この会社があったのは、高崎市とは逆方向の渋川市内にある雑居ビルの中だった。
どうやらこの会社は、元々は伊香保温泉辺りの芸事を取り仕切っていたらしい。なるほど、温泉地にはこういった興業会社も多いしな。
で、今の石村社長の代になってから、本郷さんやブラッディーオーガみたいな「今風」の芸能方面にも事業内容を拡げたのだそうだ。
僕たちは県道高崎渋川線を走る路線バスを乗り継いで、渋川市内に向かった。
群馬県と言う土地は、こういった時は本当に不便だと思う。
他所の県ならば電車と言う手段もあるだろうけれど、わが県ではそうもゆかない。
…いや、そりゃあ鉄道だってある事はあるよ?でも、たとえば高崎の片隅にあるわが業盛北高校から電車で行こうにも、最寄りの駅はここから10数キロ先…なんて冗談の様な立地条件が行く手を阻んでくる。
それだったら、まだ路線バスの方がまだましだ。
…ここでは「まだまし」という部分に注目していただきたい。
そうなのだ。わが上州群馬県においては、路線バスだって、他所様とはずいぶんと勝手が違ったりする。
たとえば運賃。
高崎の「市内」であれば運賃は一律160円だけど、一歩でもその「郊外」に出れば、料金は突然跳ね上がってしまうのだ。160円が次の停留所で200円になり、後は一区間ごとに40~50円くらい上がってゆく。グラフにしてみるとこの急上昇の度合いがよく分か…いや、考えるのはやめておこう。気が滅入るだけだ。
僕の町だって一応は「高崎市」ではあるけれど、この料金設定ができた頃はまだ「市外」だった名残なのか、この「市内料金」は適応されていない。高崎市内の映画館で人気の話題作を観にゆくためには、入場料とは別にバス代を1,200円くらい用意してゆかねばならないのだ。…何だ、もうちょっと足せばもう1本、別の映画が観れちゃうじゃないか。
これは痛い。高校生にとってはかなり痛い出費だ。
もっとも、バス会社にだって言い分はあろう。わが群馬では「路線バス」といえども、その運行区間はかなり広い。都内の様に短い距離の間だけならば、料金だって均一でいいのだろうけれど、短くても20~30km以上に及ぶ運行距離を誇る(?)わが群馬では、料金を一律になんてしたら、それこそ経営が成り立たない。燃料費だって馬鹿にはできないのだ。
まあ、バス会社の言い分も理解はできるが、そこは資本の乏しい高校生の懐事情。理解はできるが納得はゆかないのも事実だった。
結局その原因を辿ってゆけば、わが群馬では公共の交通手段が限られている事に起因する。
電車やバスだってこんな状態。ましてやタクシーなんて論外だ。…アレはお金持ちの方々が乗る物だよ。とてもではないが高校生のお財布で挑める物じゃない。アレに乗るのは、たとえば家族の身に何かあったりした時の様な、お金には代えられない時間の時だけだ。
バスに揺られる事1時間。僕たちがいい加減うんざりする頃になってたどり着いたのは、冗談みたいな話だけど渋川駅の前だった。
…何で駅前に来るのに、わざわざバスに乗ってこなくてはならないのだろうか。
もう陽が落ちて繁華街の明かりが目立つ夜空を見上げて、僕たちは途方に暮れた。
目的の石村興業とやらは、駅前から走る市役所通りの裏通りにある古びたビルの中だった。
そのビルの玄関の表示板には「2F (株)石村興業」とあった。ここだ。
エレベータもない様なビルだったから、僕たちは壁添いにある外階段を登っていった。
2階の入口まで来ると、何やら騒がしい声が聞こえてきた。
怒鳴り声は、どうやら半開きになっているドアの奥から聞こえてくるみたいだった。
そのドアのプレートには、僕たちがこれからお邪魔しようとしている会社の名前があった。
…ヤだなあ。こんな大人の揉め事らしき事態の場に顔を出すのは気が引けてしまう。
『――で、ダークの奴はどうした…まだ来てない?どういう事だ!?』
ダークって…ブラッディーオーガのドラム担当のモヒカン巨漢だったっけ。
あいつら、またどこかでサボってるのかな。
『どこでサボってやがる!?さっさと見つけてこい!』
怒鳴り声の主も僕とおんなじ事を考えているみたいで、ちょっとだけおかしかった。
怒鳴っている声がするならば、そこには当然怒鳴られている相手もいるわけで。
もしかしたら、その相手は電話の向こうにいるかもしれないとも思ったけど、すぐにドアの向こうから誰かが飛び出してきた…って、あいつは?
よほど慌てていたのか、その相手は僕とぶつかりそうになった。
「馬鹿野郎!そんな所にぼさっと突っ立ってるんじゃねぇ!…って、テメェは!?」
僕を面罵してきたのは、案の定ブラッディーオーガのヴォーカル・ジョンソン氏だった。
「…おいクソガキ!テメェ何でここにいやがる!?」
ジョンソンは問答無用で僕の襟首を掴んできた。思わず文ちゃん先輩が間に入ろうとしたその時。
「おい秦!何をグズグズしてやがる!?さっさと…おい!そこで何をしてる!?」
ジョンソンの怒鳴り声が聞こえたのか、さっきの声の主がドアの奥から顔を出した。
その顔に、僕は見覚えがあった。
先の城址ふれあい公園コンサートの時、本郷さんの演奏に感激している僕に僕に向かってご高説をたれていた老紳士がそこにいた。
老紳士に一喝された秦ジョンソンは、慌てて僕の襟から手を離した。
「あ…いや何でもないんです社長…」
なるほど。この人が石村社長だったのか。
「ほれ!お前はさっさと言われた事やってこい!」
「へ…へぇ…」
ジョンソンは慌てて階段を降りていった。
「ああ…どうも、ウチの社員が何かご迷惑をかけてしまったみたいで…」
老紳士…石村社長はうって変わった笑顔で僕たちに話しかけてきた。さっきの憤怒顔とは別人みたいだった。そうか、こういうのが「営業スマイル」って奴なんだな。
「あ…いえ別に。ちょっと出合い頭にぶつかってしまっただけで…」
「そうでしたか。大変ご迷惑をおかけしました…あいつはどうにも粗暴な男でして…どこかお怪我でも?」
「あ…大丈夫です」
「あいつにはよく言っておきますので、どうかご勘弁を」
「あ、いいんですよそんな事。それより、その節はどうも」
「は…前にどちらかでお会いしましたっけ?」
石村社長は僕の事など、もう覚えていないみたいだった。ところが、僕がふれあい公園コンサートで彼と話した事を口にすると、彼は途端に態度を変えて、
「ん…ああ、あの時の君か。覚えているよ?うん、覚えているとも」
と、にわかにフランクな口調になった。絶対嘘だ。
「――で、今日はどんなご用だね?もしかしてウチの事務所のオーディションを受けてみたいとかかね?申し訳ないが、ウチは18歳未満はお断わりなんだよ」
…聞いてもいない事を断られてしまった。そんな事知るか。
「そうではなくて、あの…こちらにご所属されているという本郷信太郎さんの事について、少しお尋ねしたい事があるのですけれど…」
文ちゃん先輩は丁寧に言葉を選んで質問したけど、本郷さんの名を耳にしたとたん、またもや石村社長の顔色が変わった。
「ん…?あぁ?ウチの本郷がどうしたというのかね?」
「実は、数日前から彼の消息が分からなくなってしまったとの事で…社長さんなら何かご存じではないかと…」
「は!そんな事は私が聞きたいくらいだよ!大体、ウチも迷惑しているんだ!あいつが行方をくらませたせいでいくつもスケジュールが潰れたし、損害だって出ているんだ!おまけに何度も警察がやってきて色々と聞かれたしな!」
「警察が…?どんな内容でした?」
「キミたちには関係ない事だ!私は忙しいんだ!そんな下らない用事なら、さっさと返ってくれたまえ!」
石村社長は一方的にそう喚くと、事務所の中に戻ってドアを閉めてしまった。
ドアを乱暴に閉める大きな音が響いて、その後は静けさが戻ってきた。
「…すみません志賀君。私の聞き方が悪かったみたいで…門前払いをくらってしまいました」
うなだれる文ちゃん先輩。まあ、確かに直球のストレートだったものなあ。彼女らしいといえば彼女らしいけど。
「ま…まあ…仕方ありませんよ。僕が聞いても、結果は同じだったと思います」
「…何だか無駄足になってしまいましたね…ごめんなさい」
「いえ、いいんですよ。遅くなるし、せっかくだからどこかで何か食べて、もう帰りましょうか」
「うん。私もお腹が減りましたし」
僕たちは駅前の立ち食い蕎麦屋に寄って天ぷら蕎麦を注文した。そこのお蕎麦もそれなりには美味しかったけど、とてもじゃないが無頼庵摂津屋の味とは比べ物にならない程度だった。
失望感をお蕎麦で少しだけ打ち消した僕たちは、バスに乗って夜の渋川の街を後にした。
――でも。
この時すでに、事態は悪い方向に動き出していたんだ。
そう…振り返りたくもない、あの「惨撃」の方向に。




