18 クロスロード・ブルース
正直に言って、僕は少し浮かれていたのだと思う。
それはそうだろう?だって自分が心に描いていた、「こうありたい」「こんな人みたいになりたい」なんて理想像の人と出会えたのだから。
文ちゃん先輩にこういう事を言うと、彼女は気を悪くするかもしれないけど、ある意味、彼女とお付き合いできた時より僕の心は昂ぶっていたんだ。男女の間という物は、それはそれで葛藤を含めた愛おしさという物があるけれど、本郷さんとの出会いは…何と言うのかな、「理想の自分がそこにいた」みたいな驚きと感激と衝撃があった。
…もちろん、同性愛的な要素はまるでないぞ?竹宮恵子先生の「風と樹の詩」だって読むけれど、僕にはそっち方面の素養はまったく持ち合わせてはいない。
本郷さんって人は、あれだけギターが上手いのに、まるで驕った部分がない。とても自然体で飄々としていて、まさに「大人の男の人」だ。…そりゃあ、最初の印象は「冴えない中年のオジサン」くらいに思っていたさ。彼は決して二枚目さんじゃないのも事実だ。だけど、その中身は凄かった。ギターの腕前もそうだけど、何よりもその人間性に僕は惹かれた。
僕は勝手に自分の理想像に祭り上げてしまうくらい、あの本郷信太郎さんという人に憧れていた。そう、それは浮かれていた――と言い換えてもいいくらいの心境だったんだ。
――だから、その知らせを聞いた時、僕は目の前が真っ暗になった。
水曜日の放課後。僕はいつもの様に文ちゃん先輩との校内見回りにゆこうと生徒会室に向かっていた。
もちろん、背中にはギター・ケースを背負って。どうせ一通り見回った後は、鮎子先生を交えた屋上でのセッションになるだろうと思っての事だった。
ステージ・デビューを済ませて、一皮むけたつもりの僕だった。
自分のギターのレベルがグン!と上がってきているのは自覚できている。
たった一人きり、ただ自分自身の為だけ、マスターベーション的な物に過ぎなかった僕のギター・プレイをここまで引き上げてくれたのは、もちろん鮎子先生のお蔭だった。
そして。
そのギター・プレイに確たる方向性を示してくれたのは、間違いなく本郷さんだ。
鮎子先生は…「カミサマ」という、地上に住まうニンゲンたちにとって最高至上の呼称があるからそれでいいと思うけど(他にどう呼べばいいのだ?)、僕が本郷さんを「師匠」と呼びたくなったのは、そういった心境からだったんだ。
…この間のライヴは残念だったけど。無粋な邪魔があったのは返す返すも残念だったよ、まったく。ブラッディーオーガの連中なんて死んじまえばいい!なんてさえ思った。
…それが現実の物になるとは、この時の僕には、まだ予想もできなかった。
生徒会室に向かう途中、廊下の先から文ちゃん先輩が走ってくるのが見えた。
あれ?僕が来るのが待ち遠しかったのかな?でもダメだなあ。生徒会長サマ自らが廊下を走ってくるなんて。他の生徒たちに示しがつきませんよ?
彼女は僕の姿に気がついたのか、こっちに向かってきた。
「志賀君!よかった、ここにいたのですね」
「やあ文ちゃん先輩…って、え?」
「挨拶はどうでもいいのです!一緒に来てください」
にこやかに挨拶する僕の手を彼女は掴んだ。そのままされるがままに引っ張られてゆく僕。
…何だか去年の秋の頃に戻った様な既視感。もっともあの頃、引っ張られていたのは僕の簡易型ネクタイだったこと思えば、だいぶ事情は緩和されたなとも思う。
…これが何の事情なのかは分からなかったけれど。
…事情?あの冷静な…うーん、恋人として言わせてもらえば、たまぁ~に短気でそそっかしい所もあるけれど、まあ表面的には冷静で通っている文ちゃん先輩がだ、これだけ動揺する
様な事態なのだ。きっと尋常でない事態が起きた、あるいは起きつつあるのだろうなと僕は理解した。
僕が連れて行かれたのは、職員室の隣にある応接室の前だった。
一般の生徒にとって、この部屋は校内でもあまり縁がない場所だと思う。応接室という所は、基本的には校外からの来客をお迎えする場所なのだから。お客さんをお迎えするのは先生方、あるいは文ちゃん先輩の様に生徒会の役員たちのお役目だもの。
一瞬、何か悪い事でもしたっけな…?とも思ったけど、そういう時には「生徒指導室」と呼ばれる恐ろしい場所があるしね。いやそれ以前に、僕にはやましい所など微塵もない…はず。
先週のライヴハウスでの騒動の件かな…?でも、あれは僕には無関係だったし、少なくとも手は出していない。ブラッディーオーガの連中が勝手に暴れて自滅しただけだ。
夜間の外出が問題になったとか?それだって問題はないはず。きちんと事前に届け出は出して先生方にも了解はいただいてある。それに何と言っても、生徒会長サマにご同伴していただいたというのは大きい。その生徒会長サマ自身が騒動に加わっていた…なんて事は大きな声じゃ言えないけどね。
「鬼橋、入ります」
ドアをノックする文ちゃん先輩の声にも、どことなく緊張している気配が感じられた。
「どうぞ」
部屋の中から声が聞こえた。…あれ?この声は…
部屋のソファに座って待っていたのは、吉澤社長さんだった。ウチの教頭の加藤先生もいた。
「やあ喜栄さんとこの。急に押しかけてきて申し訳ない」
「あ、こんにちは。この間はお世話になりました」
僕はちょっと安心した。相手が吉澤さんなら、少なくともヘンな話だとか悪い話ではないだろう――僕はそう考えていた。ただ、彼が僕に何の用があるのだろう?という、ささやかではあるが、どことなく不安も伴った気持ちだけはあったけれど。
そしてその不安は…的中してしまった。
「――本郷さんが失踪した…!?そんな…まさか!?」
吉澤さんの話によると、本郷さんは今週になってからまだ一度も出社していないとの事だった。真面目な彼が無断欠勤するのはおかしいと、吉澤さんはすぐに本郷さんの家に連絡を入れたそうだけど、彼の実家のお母さんも、本郷さんの所在は分からないとの事だった。
彼が最後に家を出たのは先週の土曜日の午後。
そう。あの「フューリーアレイ」でのライヴの日の事だった。
彼の足取りが分かっているのは、フューリーアレイでのライヴの後、お店の片づけをしていた時までだった。つまり、僕たちもご一緒していたあの時が最後だった。
僕と文ちゃん先輩は先に帰らせてもらったから、彼が失踪したのはその直後くらいだった事になる。
「…母親思いの本郷君の事だから、彼女に黙って姿をくらますなんて事は考えられなくてねえ…まさかとは思うが、何か事件にでも巻き込まれたんじゃないかとも考えたんだァね。聞けば志賀君も、あン時に本郷君と一緒にいたそうだし、何か心当たりはないかいね?」
事件と聞いて、すぐに思い当たった事があった。
「ブラッディーオーガの連中が怪しいと思います」
僕は躊躇いなくそう答えた。あの夜の騒動の事も。横で聞いていた加藤先生はちょっと顔をしかめていたけれど、そんなのはどうでもいい。
それより本郷さんの事が心配だ。まさか、あの事を根に持った連中が、彼をどこかに監禁でもしているんじゃないだろうか?あんな愚連隊まがいの連中だもの、それくらいはしかねないと思う。
「ああ…あのロクでもない連中の事かい」
吉澤さんも、城址公園での一件で、連中の事を快くは思っていないみたいだった。
「ワシもまず考えたのはそこなんだいね。で、すぐに本郷君と連中の事務所にも問い合わせてみたんだけんども」
ああ…そういえば本郷さんと連中は、同じ事務所に所属していたんだっけな。
「本郷君が失踪したと思われる時間には、あのぶらでー何とかとやらには、アリババがあるそうなんじゃ」
「アリババ…?あの、もしかしてアリバイの事ですか?」
「ん…?ああ、それだいね。その…アリバイ?もあるそうなんだいな」
文ちゃん先輩の質問に、吉澤さんは苦笑した。
「アリバイが…?」
「ああ。連中はあの後、お店の主人からすぐに事務所に抗議の電話があって、そこの社長に呼び出されて説教されておったそうなんじゃ。これはその…石村とかいう社長も証言しとる」
「そうなんですか…」
「でな、石村社長と連中は、その夜の3時頃には、一度お店の方にも謝罪に来ているそうなんじゃ。それまではずっと社長と行動していたそうなんじゃて」
「警察には連絡したんですか?」
「ああ、もちろんだとも。石村社長も捜査には協力すると言ってたそうだいね。『本郷はウチの看板ですから、ぜひ探し出してください』と言ってたそうだいな。志賀君も、何か心当たりがあったら連絡してくれないかい」
「もちろんです…」
僕は吉澤社長に一礼して、応接室を後にした。
…ちくしょう。本郷さん、いったいどうしちゃったんだ。
あの夜、ちゃんと約束したじゃないか。近いうちに、またちゃんとライヴやってくれるって。
あの時にもらったウェスタンハットだって、とっても大切にしてるんだ。次のライヴには、絶対これ被ってゆこうって思ってるよ?そしたら師匠、きっと喜んでくれると思う。僕はこれぞ師弟の絆です!って笑って言おうと思ってる。思ってるんです。それだけじゃない、僕はもっともっと師匠にギターを教えてもらいたい。ギターってこんなに楽しい物なんだって事を、もっと再確認してゆきたいんだ。そしていつか、師匠と一緒にギターを持ってステージに上がってみたいとさえ思っているよ?師匠がチェット=アトキンスなら、僕はその相棒のポール=ヤンデルみたいになってみたい。…ジェリー=リードにはなれそうもないけど。師匠の華麗なギターと、それを支える僕のバッキング。二本のギターが生み出すアンサンブルを聞きたいのは他の誰でもない、僕自身なんだ。
師匠との出会いは、僕にとっては奇跡みたいな物だった。これからもっともっと聞きたい事、教えてもらいたい事は山ほどあるのに…どこ行っちゃったんだよ師匠…。
「志賀君…?」
文ちゃん先輩が、僕の袖を引っ張った。
「あ…ああ、はい?何ですか」
「志賀君…大丈夫ですか?顔が真っ青ですよ」
え…僕、そんな顔してました?
文ちゃん先輩は黙って僕の手を握ってきた。…あれ?
「…ほら。手もこんなに震えちゃって…」
彼女の瞳は、真っ直ぐに僕を見つめていた。
あ…あれ…あれれ…?
どうしちゃったんだろう。何だか目の奥が熱くなってきた。
「あ…文ちゃん先輩ぃ…」
僕は情けない声で彼女の名を呼んだ。
「大丈夫。きっと大丈夫だから…ね?」
僕は文ちゃん先輩と手を繋いで、生徒会室に向かった。冷静になってみれば、男が泣きながら女の子と手をつないで歩くというのは少し恥ずかしい気もするけれど、今は彼女の小さな手が、とても温かく感じられた。
生徒会室の前までやってくると、文ちゃん先輩は微笑んだ。
「…さ、入ろ?今日は兼子も真子もきてないはずだから」
「…はい」
部屋に入ると、文ちゃん先輩は備え付けの電気ポットでお茶を淹れてくれた。
「このお茶は兼子が持ってきてくれたんですけど、なかなか美味しいんですよ」
「…いただきます」
湯呑みのお茶を口元に含んでいると、文ちゃん先輩がこちらを見ているのに気付いた。
「…何か?」
「くす。やっぱり志賀君は、お茶が好きなんだなぁって…そう思いました」
「…どうしてですか?」
「お茶が好きな人って、ただ飲み干しちゃうんじゃないんですよ?必ず、口の中に広がる風味を堪能してから喉に流し込むんです。癖みたいなものですね」
へー、そういうものなのか。僕は子供の頃からずっとそういう具合にして呑んできたし、第一、ウチの親父も母もそうやって飲んでるから、それが当たり前だと思ってたけど。
「さすが文ちゃん先輩。よく見てますね」
「くす。実は鮎子おねえちゃんの受け売りですけれど」
「あはは。いかにも鮎子先生が言いそうですね…って、あ!」
「どうしました?熱かったですか?」
「いいえっ!お茶はとても美味しかったです!そうじゃなくて、鮎子先生!」
「おねえちゃんがどうしましたか?」
「鮎子先生なら、カミサマの力で本郷さんを見つけられるかもしれません!」
「それは無理ね」
僕の後ろで声がした。
いつの間にやってきたのか、声の主は鮎子先生だった。でも僕はもう驚かない。彼女なら、瞬時にどこにでも姿を現す事ができる事は僕もとっくに理解している。
「あ、おねえちゃん!」
「鮎子先生!本郷さんを探し出してください!」
「だからね、それは無理なの」
「どうしてですか!?」
「だって…彼はもうこの世の物じゃないもの」
この世を統べるカミサマの口から、一番聞きたくない答えが返ってきた。
怖れていた、考えたくもない一番最悪の答えだった。
「…亡くなられた…って事ですか」
文ちゃん先輩の声も震えていた。彼女も僕と同じ気持ちだったのだろう。
「ううん。死んではいないよ」
鮎子先生は首を横に振った。
「じゃあ…生きててくれるんですか!?じゃあじゃあ、今どこに!?」
「だから、探すのは無理なのよ」
「どうしてなんですか!?」
僕は思わず机を叩いた。空になった湯呑みが振動で倒れる。
「今言えるのはね、『本郷信太郎というニンゲンは、もうこの世に存在しない』って事だけ」
「存在…しない…?」
「うん。そだよ」
鮎子先生の口調は、いつもの様にあっけらかんとしたものだった。その軽々しい様な口調に、僕は少しだけ苛つきを覚えてしまった。だからこの時は気づいていなかったんだ。
…鮎子先生が、どうして師匠…本郷さんの名前を知っていたのかという事を。




