01 ディアー・チェスター=アトキンス!
2月の寒空、空っ風の吹く中、わが校(の一部)を震撼させた「鬼橋会長ご乱心事件」も、とりあえずの収束を迎えた。
今回の事件の中心にいた鬼橋 文生徒会長、通称われらが「文ちゃん先輩」は、僕の知らない所でずいぶんと大変な目に遭っていたらしい。それは心身共に相当なストレス――冗談でなく、生死にかかわる様な物だったみたいだ――をもたらした物だったと見えて、問題が解決してからも、彼女のやつれ様は、傍から見ていても痛々しいほどだった。
そんな状態にありながらも、不出来な後輩(かつ彼氏)の僕だけの為に、学年末試験に向けた私的勉強会を開いてくれた彼女の意志の強さは、まさしく「鉄血宰相」あるいは「アイアンメイデン」の異名に値するに相応しいと言えたのだった。
もっとも彼女に言わせれば、「志賀君を放ったらかしにしておいた方が、よほどストレスが貯まるばかりじゃないですか」との事だったのだが。
…はあ。この勉強会ってば、ストレス解消の場なのですか。
とはいえ、彼女のストレス解消、あるいはリハビリテーションの場らしきこの勉強会は、同時に理系科目が壊滅的な僕にとって、まさに渡りに船でもあった事は否めない。ましてや、今回と同様に彼女が「教官」役を買って出てくれた、先の学期末試験におけるそれはそれは見事としか言い様のない僕の轟沈っぷりを振り返れば、この学年末試験はまさしく「捲土重来」なのであった。
ここで一句。
土煙、起こしてみせよう もう一度。うぃず・文ちゃん先輩と。
…お粗末。
その文ちゃん先輩も、「今度こそキミを男にして見せる」と豪語してくれていた。
聞き様によっては艶めかしくも受け取れてしまう言葉だったけれど、当の文ちゃん先輩本人はまったくと言ってよいほど、そういった意味合いを含めてはいなかったみたいだ。
もっとも、この「ご乱心事件」の渦中においては、一時期の彼女の言動には、何かとどきりとさせられた事も多かった。
度を越したフィジカル・コミュニケーション。
思わせぶりな言動。
そして…媚びた仕草。
彼女は僕にその小柄な身体を摺り寄せて、僕の頬についたソースをぺろりと舐め、そして僕に抱きついてきた。
そのどれもが、まったくもっていつもの彼女らしからぬ所業だった。
…正直に言おう。僕だって男だ。それも心身ともに健康な…健康過ぎる16歳。そりゃあね、少しくらい…いやそれなりに…ええいてやんでえ。ええ、ええ、そりゃあとっても興味ありますよ、異性とのアレとかソレとかコレとかはね。そらもう思いきり。
ましてやそれが、自分に好意を持ってくれている、小柄でささやかな胸元で黒髪ロングの1学年先輩の美少女さんだったとしたら、なおさらの事だと断言できる。
断言、ですよ?懺悔じゃあない。
…嬉しくない、なんて事があるわけないじゃないですか。
けれども。
それは、僕が大好きな「文ちゃん先輩」の姿ではなかったんだ。
いつも凛としていて礼儀正しくて、それでいて時々ヘンな所で天然な女の子。
とっても背が低いのに、存在感だけは僕なんかをはるかに凌駕する生徒会長様。
意地っ張りで頑固で、それでいて僕の事を気遣ってくれる先輩さん。
あの時の文ちゃん先輩は、そういったいつもの彼女から一番遠い姿だった。
それも仕方あるまい。
あの時の「彼女」は、彼女ではなかった。
現代に蘇った原初の象形文字、その中の「オンナ」とやらが文ちゃん先輩を操っていたのだ。
詳しくは書かないが、そんな得体のしれない異形どもに意識を奪われた彼女が巻き起こしたのがこの事件の真相だったのだ。文ちゃん先輩に罪はない。
思い返してみれば、彼女との距離が急速に接近したのは、ある事件の中でだった。
僕がとある「秘密」を知ってしまい、その「秘密」の守護者である彼女に命を狙われるという、ごく普通の男子高校生にはそうそう経験できない様な鉄火場にして修羅場。
生死を掛けた葛藤、ぎりぎりの極限状態の中で育まれた絆。
もしかしたら、それはいわゆる「吊り橋効果」とか言う奴の仕業だったのかもしれないが、だとしたらそれはずいぶんと難易度の高い所にあった吊り橋だったと思う。
何せ、その「秘密」とやらは、僕たちが暮らしているこの「セカイ」の成り立ちに係ってくる様なスケールだったのだから。
「『セカイ』を相手に愛を掛けた男、志賀義治」。
…うん。こう書くと何だかカッコいいぞ。意外に凄かったんだな僕ぁ。
そんな経緯の中、お互いの気持ちを確かめ合った二人。だからといって、僕たちの間が高尚だとかプラトニックだとか即物的なんかじゃないとか…そういった訳では決してない。むしろ生徒会副会長の鉄ヶ谷センパイとか水嶋さん、それに腐れ縁の悪友森竹などに言わせれば、僕たちは世にいう「バカップル」とやらなのだという。何だそれは。まったくもって謂れのない誹謗中傷だ。激しく異議を申し上げたい所だ。
まあ何だ、殺伐とした出会いと過分な経緯があったとはいえ、要するに僕たちはごく普通の、実に平均的な高校生カップルに過ぎない…はずである。
こん。
丸められたノートが僕の頭を軽く叩いた。
「…集中力が欠けてきたみたいですね?」
麗しき教官殿が、ちょっと怒った様な顔で僕の顔を覗いていた。
「そんな事ないですよ」
「とてもそうは見えませんでしたけど?どうせ、この勉強会が終わったら、どの曲を弾こうかなんて考えていたのでしょう?」
「それは違いますよ」
「む?ではどんな事を考えていたのか、一応、被告の意見陳述をうかがいましょうか」
あ。怒ってはいるみたいだけど、それ程でもないんだな。もしも本気で怒ってたら、問答無用で僕の頬っぺたは左右に引き伸ばされていた所だろう。
「えっと…文ちゃん先輩の事を考えてました」
途端に真っ赤になる文ちゃん先輩。うん。こういう所が可愛いんだ。
「え…な、何を言っているのですか。冗談はやめて…ください」
「冗談じゃないです」
そうだ。僕は本当に文ちゃん先輩の事を考えていたのだ。嘘ではない。
「だって大好きな彼女の部屋で、当の本人と二人っきりでいれば、そりゃあ色々と考えてしまいますよ、そりゃあ」
「い…色々と?…色々と??」
「はい。そらもう、色々と」
…黙ってしまった。
文ちゃん先輩自身も言っていたが、彼女に取り憑いていた象形文字のせいで、性的な方面の「知識」はだいぶ身についてしまったそうだ。僕の一言に、何だか過敏な反応を見せてくれている所もまた可愛いな。別に、そういった意味じゃなかったんだけど、こういうリアクションが見れるのならば、誤解されるのもまた悪い物ではない…と思う。
「あ…あの、志賀君も疲れてきたみたいですし、ちょっとお茶にしましょう…ね?」
彼女はそう言って、そそくさと立ち上がって部屋から出て行ってしまった。
とん、とん、と階段を降りて行く足音さえ可愛いと思ってしまう今日この頃の僕。
文ちゃん先輩がお茶を入れてくれている間、手持無沙汰になってしまった僕は、何気なく部屋の本棚を眺めていた。自分の彼女はどんな本を読むのだろうなんて興味は、誰もが多かれ少なかれ抱く物だと思う。
スペインの異端派宣教師を先祖に持つという、代々続く魔導師の家系の、それもその象徴ともいうべき名前を受け継いでいる彼女の事だから、まさかの「ネクロノミコン」とか「妖蛆 の秘密」なんて稀覯本が並んで…いたりしたら嫌だなあ。
…ほほう。栗本薫に新井素子か。意外に普通、というべきか。「グリーン・レクイエム」?うん。これは僕も泣いたっけ。いい本だった。
後は味気ない参考書とか辞書とか。…あ、芥川とか内田百閒とかもある。中島 敦も。こちらは彼女らしいなあ。外国文学とかは…あ、トマス=ブルフィンチの「ギリシャ・ローマ神話」見っけ。フレイザーの「金枝篇」も。どっちも岩波版だけど。さすがは魔導師。定番は押さえていますねえ。…うわ、「プルターク英雄譚」までくると、ちょっとマニアックだと思いますよ?
マンガとか雑誌の類が皆無という所はさすがと言うべきか。僕の部屋の本棚とはえらい違いだな。
本棚という物は、その持ち主の個性と嗜好が思い切り露呈してしまう物だ。あと性格も。
本の並べ方が雑だったり無頓着なニンゲンは、基本的にそれ以外の部分でもだらしがないと思う。根拠は僕自身なのだから、ここは断言してしまうぞ。
…だんだん、彼女のプライバシーを覗き見しているみたいな気分になってきた。少しだけ気が咎めもするけれど、反面、妙に気分が高揚してしまうのも否めないな、こりゃ。
本棚の片隅には、それ程数は多くないものの、カセット・テープも並んでいた。
ギターを嗜む身としては、彼女の愛読書と同じくらい、いやそれ以上に彼女の好きな曲というは気になるもの…だよなあ、やっぱ。
僕はその数本を手に取ってみた。「サイモン&ガーファンクル・ベスト」!よっしゃ、これはどこのご家庭にもあって然るべき物だな。…言い過ぎかもしれないけど。
これはやっぱり鮎子先生の影響かなあ。…僕の影響だったら嬉しいけれど。…えっと、こっちは…「スコット=ジョプリン」?誰だ?「メイプルリーフ・ラグ」?…「ジ・エンターテイナー」…あれ?こっちはどこかで聞いた事ある曲名だなあ。こっちのカセットは…あ!「チェット=アトキンス」!?ギターのカミサマじゃないか。
僕と付き合いはじめるまで、彼女はギターと言う物には興味なかったって言ってたはずだけど…でもそういえば、今は亡き倉澤副部長が、文ちゃん先輩の好きな曲として彼らの名前を挙げていた覚えがあるな。それを聞いた時もちょっと驚いたけれど、まさか本当だったとはなあ…
『何を呆けておられるのかしら?』
僕の背後で女の子の声がした。慌てて振り向いたけど、そこには誰もいなかった。
「…?」
『どこをご覧になっているの』
もう一度声がしたので、驚いて目線を下にやると、そこには時代がかった黒いドレスを着た美少女が、ティートレイを抱えていた。
浮世離れした美少女である。身長60センチの。
美少女は、身体のサイズには不釣り合いなティートレイを抱えて立っていた。
「えと…あの…」
僕はこの美少女…生きる人形――名前を「慰撫・弐式」という――が苦手だった。
文ちゃん先輩や鮎子先生と付き合いだしてから、僕もそれなりに「異形」という存在と関わりができてしまった。
「異形」。ニンゲンとは決定的に相容れない異質のモノども。
「妖怪」「魑魅魍魎」「化け物」「怪物」「物の怪」「悪魔」「モンスター」「デーモン」。
それに…「おばけ」。
呼び方は様々だけれども、どれも共通して言えるのは「異質」な存在という事。その方面の専門家…というよりも「根源」である鮎子先生に言わせれば、「深い海の底の神殿で永劫の眠りについているカミサマの観ている夢の中の歪みから生み出されたもの」だという。
ちなみに僕のいるこのセカイ自体が、その「カミサマ」の観ている夢の中の出来事に過ぎないのだともいうのだが、そんなスケールの大きな話なんて、一介の高校生に過ぎない僕の頭にはとても理解の域を超えているので実感はない。
そう語る剣城鮎子先生――わが高校の養護教諭――は、その「カミサマ」と存在を同じくするというご大層な存在なのだそうだ。
要するに、この世の闇に巣食う「異形」の大元を辿ってゆけば、そこには僕の良く知っている、我が校の誇る美人の養護教諭が屈託のない笑顔でたたずんでいるという事になる。
で、我が愛しの文ちゃん先輩は、その「カミサマ代理」の鮎子先生を代々守護してきた魔導師の家系の出身で、彼女はその「守護者」の第四代目に当たるとの事だった。
基本的には「オカルト」なんてモノは信じないのが信条の僕だけど、これまで様々な事態に巻き込まれてきて、その主義も多少揺らぎつつもある。というか、慣れてしまった。
たとえば今、僕の目の前でこちらをじぃ…と見つめているこしゃまっくれた生き人形。
こんなのに目の前でうろちょろされてたら、嫌でも信念がぐらついてしまう。
このお人形さんこそが、先の「ご乱心事件」事件の首魁、というか元凶だった。
詳細は省くが、文ちゃん先輩に取り憑いていた象形文字「オンナ」が、最期にその身を隠したのがこのアンティーク・ドールの中だった。で、文ちゃん先輩と闘って返り討ちにされたこの人形を、文ちゃん先輩の従妹さんとやらが「魔導」で再構成したのが「コレ」らしい。
蘇ったこのお人形は、それまでの己が悪行を深く反省したのかどうか、文ちゃん先輩の「使徒」として彼女と同居する事になった。
ニンゲンとは相容れないはずの異形のひとつである「コレ」なのだが、どうやらよほど変わり者と見えて、今ではすっかり鬼橋家の一員となってしまっているみたいだった。
友好珍獣ピグモンみたいな物…か?
『…そんなにじろじろ見ないで頂戴。厭らしい』
慰撫・弐式は、あたかも気難しいご令嬢の様な高飛車な口調で抗議してきた。
「見てないよ。急に声がしたので驚いただけだ」
『ふん。どうだか』
「お茶を運んできてくれたのかい?お前が」
『レディに対してお前呼ばわりなんて、何て失礼な』
「はいはいレディ慰撫。謹んでご相伴に預からせていただくこの光栄、ヤツガレ如き凡俗には身に余る後生の大事でござい」
『誠意の欠片も見当たりませんわね』
慰撫は生意気にも溜息をついた。よく出来てるなあ。
僕がコレに苦手意識を抱くのは、「異形」という存在と言う以前に、万事この慇懃無礼な言動に閉口させられてしまうからだった。
そもそも僕は文ちゃん先輩、それに同じ美術部員の塚村さんくらいしか親しい女の子がいない。そんな駆け出しの冒険者みたいな僕が、こんな口を開けば猛毒を吐いてくる様なボスキャラレベルの異性(?)の相手ができるわけがないのだ。
「くすくす。志賀君も、この子とすっかり仲良くなりましたね」
やや遅れて、文ちゃん先輩が戻ってきた。手には美味しそうなお菓子がたっぷりと盛られたお茶菓子入れ。
「…別に仲良くしているというわけでは…」
『そうですわ。このわたくしが、こんな庶民と慣れあうなどと』
「くす。息も合ってますね。よかった」
文ちゃん先輩は屈託なく笑った。
むしろ僕の方が不思議に思う。
聞けば、文ちゃん先輩はこいつのせいで一度は死にかけたそうだし、最期はコレが滅茶滅茶になるまで破壊したそうだけど…よく、そんな因縁ある相手と同居していられるものだと感心してしまう。
「まあ、『悪い部分』は真礼が全部取り去ってくれたそうですし、この子もなかなかよくやってくれていますしね」
『わたくしはマスター・アヤの使徒ですもの、当然の事ですわ』
慰撫は自分に合ったサイズの小さなティーカップのお茶をひと口、こくんと飲むとそう言った。運んできたお茶を、給仕係が一番最初に飲むのかよ。
「ふふ。志賀君もお疲れでしょう。さ、少し休憩しましょうね」
「あ…はい。いただきます」
僕は彼女の淹れてくれた紅茶を口にした。あ、この微かにすぅっとする風味は…
「…ダージリン、ですか?」
「ご名答。志賀君も紅茶の風味が分かってきたみたいですね」
「恐れ入ります。美味しいですよ」
これは鮎子先生のお蔭だった。保健室にお邪魔させていただくたびに彼女がお茶を淹れてくれるものだから、僕もいつしか利き茶の真似事くらいはできる様になってしまったのだ。
「鮎子おねえちゃん程じゃありませんけれど、私もそれなりに研究してみたのです。お湯の温度とか茶葉の開き具合とか」
『わたくしも、マスター・アヤの淹れてくれたお茶は気に入ってますわ』
ああそうですか。
「ありがとう慰撫。やはりお茶をいただくと、気分もリラックスできますね…音楽でも流しましょうか?」
「あ、はい」
文ちゃん先輩は立ち上がって、本棚にあったカセット・テープの1本を取ると、レコーダに挿入して再生スイッチを入れた。
程なくして心地よいギターのフレーズが流れ出してきた。…往年の女性コーラス・グループのヒット曲「ミスター・サンドマン」のアレンジ版。こちらは歌無しのインスト・ヴァージョンになっている。チェット=アトキンスという、現代ポップス界におけるギターの基礎を確立した大御所のプレイだった。僕も詳しくは知らないが、何度かラジオで聴いた事のある曲だった。
ギター1本だけで、メロディとベース・ラインを同時に弾いてしまうという神技ギャロッピング奏法。やはり凄いなあ。聴き惚れてしまう。
「くす。珍しいですね。志賀君がギター以外の音楽に関心を持つなんて」
文ちゃん先輩が笑った。…どういう事だ?
「でも、いい曲ですよね。ピアノのイージー・リスニングですけれど」
…は?
「ちょっと独特なピアノの音色が特徴みたいですね、このチェット=アトキンスさんっていうピアニストは」
はぁ…??
「…あの、文ちゃん先輩?」
「何でしょう」
ロマンチックな曲調にうっとりとした顔の文ちゃん先輩が言った。
「えっと…その、チェット=アトキンスって、ギター弾きなんですけど。ピアニストじゃなくて」
文ちゃん先輩がきょとんとした顔になった。
「…くす。志賀君たら冗談ばっかり」
「いえ、冗談じゃなくて、本当です」
「またまたぁ。ギターでこんなに複雑な演奏ができるわけありませんよ」
いえ、ホントーなんですってば。