幕間 1
掃除を終えた本郷が「フューリーアレイ」を出たのは、午後10時過ぎだった。
まだ高校生の義治たちは、あまりに帰りが遅くなってもいけないので、もうずいぶん前に帰宅させた。
今夜のライヴは散々な形で中途半端に終わってしまったが、彼の気持ちは不思議なくらい高揚していた。
こんな自分を「師匠」と呼んでくれる少年。それは本郷にとっては新鮮であり、また純粋に嬉しい出来事だった。
これまでの自分の人生は、あまり恵まれた物とは言えなかったと思う。幸運が舞い込んできた事だってあったものの、それはいつもあと一歩という所で自分の手からすり抜けて、どこかに飛んで行ってしまっていた。
あとに遺ったのは虚しさだけ。
大きなチャンスであるほど、それを逃した時の喪失感が大きい。
彼の人生は、幸運を掴んでから、それを逃してしまうまでの繰り返しばかりだった。
いつの頃からか、彼は「幸運」という物を信じる事ができなくなっていた。
昔日を思い出す。
まだ若く、希望に満ちていた日々。
自分なら何でもできる、道は常に開けていると信じる事ができた日々。
仲間もいた。愛する恋人もいた。
手元には「女神さま」から譲ってもらった幸運のギター。
これがある限り、自分の未来は明るい――そう信じていた頃。
思えば、あのグレッチ・ホワイトファルコンを無くした時から、自分の人生はどこか狂ってしまったのかもしれない。
夢が破れた。ほんの些細な手違いで。
仲間が去っていった。ほんの些細な間違いで。
恋人が離れていった。ほんの些細なすれ違いで。
気がつけば、自分にはなぁんにも残っていなかった。
それからの人生は、ただの惰性。
無気力な日々を過ごした後で故郷に戻った。
小さな会社に就職して日々の糧を得る事も覚えた。
故郷の友人は快く迎えてくれた。その事には感謝している。
彼にはいつか恩返しがしたいと思いつつも、いまだそれは為されていない。
せめてもの救いは、就職した会社の社長が昔気質のいい人で、不器用な彼の事を何かと気に掛けてくれたことだった。
社長の勧めで再びギターを手にして、街角に立って歌う事もはじめた。
そのうちにそれがそこそこ話題になってきて、いくつかのライヴハウスからも声が掛る様になった。地方の新聞の日曜版の片隅の記事くらいには載せてもらえる様になった。
地方の芸能事務所らしき所に、所属契約ももらえた。
かつてほどの栄光には至らないものの、少しくらいは「自分」を取り戻せてきた。
それなりに忙しい日々を過ごしていたら、気がつけばあっと言う間に10年が過ぎていた。
その頃になって、やっと笑う事も思い出せた。
笑える様になったら、気持ちにも余裕が出てきた…いやそれはむしろ逆か。
笑う事ができる様になったから、気持ちにもゆとりが生まれたのだろうか。
ただ…まだ「幸運の女神さま」に会える勇気は出せなかった。
あの幸運を呼ぶギターを無くした…奪われてしまった事をどう詫びようか、どうやって謝ればよいのか、まだ思い切る事ができなかった。
先日出会った志賀義治と言う少年。
彼を見ていると、かつての自分を思い出す。
ギターに夢中で、前だけをみつめて突き進んでゆく少年。
――あれは、かつての僕の姿だ――
そう思うと親しみもわくし、何か力になってあげたいとも思う。
はは。こんな無様な自分が出しゃばってしまうと、彼は迷惑に感じるかもしれないけれど。
でも、その少年は自分の事を「師匠」などと呼んでくれる。
照れ臭いし、面はゆい。
しかし嬉しいのも事実だった。
だから彼が今日、本当に自分のライヴに足を運んできてくれたのには感激した。
その後は…色々とあったが、どうせ自分の人生なんて常にトラブルばかりじゃないか。
彼には自信をいただいた。
彼と話していると、かつての自分が持っていた高揚感を取り戻せる様な気さえしてくる。
出会ってからまだほんの数日だけれど、いきなり愛すべき弟ができた様なものだ。
「…弟、なんて言うと彼は気を悪くするかな?でも親子と言うほどの年の差でもないし…甥っ子、って感じなのかな?」
本郷は苦笑いした。
まぁ…何でもいい。彼には色々とギターを教えてあげたいしな。教えれば、彼はどんどん上達する事だろう。その成長を見守ってゆくのも悪くない。
その時になって、彼は店にギターを置き忘れていた事に気がついた。
これはしくじった。大事な商売道具じゃないか。…でもまあいい。どうせまた近日中には今夜の穴埋めライヴをやる事になったのだ。家に帰ったらすぐに電話して、その日まで木村さんに預かっていてもらおう。
「…そうだ!その時は志賀君にもステージに上がってもらって、セッションでも――」
――ドウッ!
突然、後頭部に鈍い痛みが走った。
「グァ…………!?」
訳も分からず、本郷は地面に倒れ込んでのたうち回った。
「あ…あ…あ…」
その彼に、数人の大男が容赦なく蹴りを入れ続ける。
「テメェ、いい気になるなよォ…!?」
「雇われモンがっ!!」
「死んじまえ!!」
本郷は堪らず、胃の中にあった物を吐き出してしまった。それでも暴行は止まらない。
次第に意識が遠くなってぐったりとなった彼の耳に、誰かがこう言っている声が聞こえた。
「おい、誰かくる。はやく車に乗せちまえ」
じりりりり。じりりりり。…がちゃ。
『はいもしもし、石村ですが…何だお前たちか。こんな時間にどうした?…ああ、その事か。木村さんからもう連絡を受けたよ…まったく馬鹿な事をしてくれたもんだ。後で菓子折りでも持って謝りに行くんだな…あぁ?馬鹿野郎!もちろん自腹に決まってるだろう!?テメェで蒔いた種だ、私は知らん!…まだあるのか?…どうした?黙り込んで…何だ?よく聞こえないぞ?もっとはっきり言え。…あぁ?……どういう事だ?…殺したぁ…!!??殺したってどういう事…馬鹿野郎!!オレは知らん、知らんぞ!?…で、死体は…ああそうか。誰にも見られてないんだな?…多分?たぶんじゃないだろう!!…いいか、とりあえずその事は誰にも言うな!?いいな!?それと――』
吐き気を催す悪臭。
皮肉にも、それが本郷の意識を取り戻させた。
ここは…どこだ…?
もうほとんど目が見えなかったが、周囲が真っ暗だという事は理解できた。
今は…夜なのか…?
手も足も動かせない。体中に激痛が走る。
…自分はこのまま死ぬのか…
感覚が麻痺してしまったせいなのか、目前に迫った死という現実には恐怖もわかなかった。
ただ――どうして?――という疑問が浮かぶ。
疑問はすぐに憤りに変った。
どうして――僕が?――
理不尽だ。こんな事で自分の人生が終わってしまうのか…!?
「死にたくない…」
急に死への恐怖が沸き上がってきて、本郷は無我夢中で腕を前に伸ばした。
それは残り少ない「生」そのものに対する執着だったのかもしれない。
伸ばした先に何かがあった。
それは柔らかく、お世辞にも心地よい感触の物ではなかったが、彼は夢中で握りしめた。
握りしめたてのひらのの中で、「それ」はじたばたと暴れている。…生き物なのか?
「それ」はやがてくちゅっ、と潰れてしまったが、そのまま拡散して急激に大きくなった。
本郷の身体は、すぐに黒い粘液に包み込まれてしまった。
不思議に不快感はない。
むしろ、「それ」にはまるで失った自分自身を取り戻せた様な安堵感すらあった。
次第に意識が遠のいてゆく。
ああ…これが「死ぬ」という事なのだろうか…?
もう一度、最期にこの世の有様を見たくなって、彼は目を見開いた。
「――!?」
目の前に誰かが立っていた。
真っ暗な闇の中に、白い服――白衣…?
「女神…サマ…!?」
かつて彼に幸運をもたらしてくれた「女神」が、そこにいた。
これこそ、まさに邂逅だった。
最期の最後で、あの「女神」に感謝と謝罪を伝える機会を得る事ができたのだ。
彼は女神の名を呼ぼうとしたが、喉の奥まで詰まった黒い粘液のせいで言葉も出せない。
せっかくのチャンスなのに…また自分は…!!!!
そのまま、彼の意識は混沌の闇に呑み込まれていった。
彼の目に最後に映ったのは、「女神」の悲しそうな瞳だけだった――




