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17 ライトニング・ロッド

 で、週末である。

この日が来るのが、本当に楽しみだった。

チケットはすべて当日券との事なので安心していたが、万が一という事も想定して、僕は予定していたよりもずっと早く家を出た。

もちろん文ちゃん先輩も誘った。彼女も本郷さんの音楽は気に入ってくれたみたいだ。

考えてみれば、彼女と僕の音楽の好みが一致したのは、これが最初だったと思う。

もちろんチェット=アトキンス御大という基本軸はあったけれど、「一緒に聴きにゆけるミュージシャン」ができたのが大きかった。何せ、お付き合いをはじめた頃の文ちゃん先輩といえば、まるでギターには関心がなかったくらいだもの。

それが今回、お誘いしてみたら即座にOKをいただいた。

「ああ、本郷さんのライヴですか。いいですよ。また聴けるなんて楽しみです」

と、こうだよ。やったぜ!

本郷さんの素晴らしい演奏を聴いて、帰りにはまた一緒にお食事でもして、演奏の感想なんかを話し合うんだ。きっと楽しいだろうなあ。

自分の趣味を理解してくれる彼女、か。

なんて素晴らしい存在なんだ。これも一重に本郷さんのお蔭でございます。

南無八幡大菩薩、本郷大明神様。ありがたやありがたや。

そしていつかはなろう、僕もあの人みたいに、みんなを心底楽しませる様なギター弾きになってみせるんだ。

ああ、今僕は本当に充実している。

素晴らしい彼女ができて、心の底から「師匠」と呼べる人にも出会えて。

「志賀君…顔がにやけてます。そんなに楽しみなんですか?」

待ち合わせ場所に着くなり、文ちゃん先輩からはそう言われてしまったが。

「え…?そんな顔してますか僕」

「…私と会う時よりも嬉しそうです」

「へ?あ…いやそんな事ないですよぉ?…それより、鮎子先生は、やっぱこれないんですか?」

「ええ…おねえちゃん、今日は都合が悪いって言ってました」

うーむ…ちょっと気にかかるなあ。どうも、鮎子先生は本郷さんを避けている様にも見えるし…誰とでも如才なく付き合える彼女にしては珍しいと思う。

二人の間に、何があったのだろうか。…何事かはあったに違いないと思うけど。

 目的の「フューリーアレイ」というライヴハウスは、中央通り商店街の片隅にあった。

入口には、油断していると見落としてしまう様な地味な看板が立てかけられていて、その横には色の剥げかけた黒いボードにチョークで「本日18:30~ 出演:本郷信太郎、ザ・ブラッディーオーガ」と書いてあった。

そのお店は、階段を下った先の地下にあった。…なるほど、こんな商店街の中にあるから、きっと防音の都合もあるのだろう。

それでもドアを開ける前から、若干の音が漏れ出ていた。…リハーサル中なのかな?

僕はライヴハウスに来るなんて初めての経験だけど…いいよなあ、こういう感覚。もしもいつか、僕自身がこういう場所に出演する事があったとしても、こういう感覚には心地よさを覚える事だろう。…それともこんなモノじゃなくて、もっともっと気持ちは高ぶるのだろうか?

ドアの取っ手を握りしめると、その手からも音の共鳴を感じる。

ああ…ここから先は、音楽が主役の異空間なんだ。

僕は何か神聖な物に触れる様に、恐る恐るドアを押しやった。

するとさっきよりもじっと大きくて重厚な…リアルで生々しいギターの音が聞こえてきた。

たった一本のアコースティック・ギターの音だけど、僕はその音が生み出す存在感に圧倒されてしまった。目で見なくても分かる。これは本郷さんが今この場で生み出しているギターのトーンだ。間違いない。

店内はさほど広くはなかった。三十席程度の椅子があって、所々には丸テーブルが並べられている。床から一段高くなっているステージも狭く、ドラムセットが奥に押し込まれた様に設置されていた。その前にギターとベースとヴォーカルとかが立ったら、もう身動き取れないんじゃないだろうか?

「あ、いらっしゃーい」

中々ダンディな中年の男の人が挨拶してきた。この人がここのオーナーさんなのかな?

「すみませんね。まだ開店時間じゃないんだけど…」

「あ、そうですか」

「あと一時間くらいしたら開場しますんで」

「あー木村さん。その子たちはいいんです。入れてあげてくれませんか」

僕たちの姿に気づいた本郷さんは、オーナーさんを促してくれた。わぁ、嬉しいなあ。本郷さん、こういう事も気遣ってくれるんだ。

「やあ志賀君!本当に来てくれたんだね!」

「もちろんですよ師匠!」

僕たちは固く握手を交わした。少し汗ばんだ本郷さんの左手の指先は、驚くくらい固くなっていた。そうだ、これがギター弾きの指なんだ。

「そっちの彼女は…ああ、この間の生徒会長さんでしたか。その節はありがとうございました」

「いいえ。こちらこそお世話になりました」

文ちゃん先輩も律儀にお辞儀をする。…以前よりずっと自然体に思える仕草だった。

先日、フォークソング部の西島君から、僕が以前よりも丸くなったなんて言われた事を思い出した。彼はそれも彼女のお蔭かな?なんて言ってくれたけど、僕から見ればその文ちゃん先輩だってずいぶん変わったと思う。…それともこっちが本来の文ちゃん先輩なのだろうか?

「すみません。待ちきれなくて、もう来ちゃいました」

「いいよいいよ。こんな僕の演奏を聴きに来てくれたなんて光栄の至りさ。せっかくだから、リハーサルも見ているかい?」

「ええっ!?いいんですか?」

「いいですよねえマスター?この志賀君、僕の弟子なんです」

…うわー!師匠に「弟子」って言ってもらっちゃった!

「ああそうなのかい。本郷君のお弟子さんなんて凄いじゃないか。君、名前は?」

「はいっ!志賀義治ですっ!県立業盛北高校の1年生ですっ!」

すると木村マスターさんは、ああ、と頷いた。

「その名前には聞き覚えがあるぞ?…ああそうだ、君、先週の城址公園に出てなかったかい?」

「え…?あ、はい!出てました」

「そうかいそうかい。僕も聴いてたよ、君の演奏」

「ええっ!本当ですか!?」

「ああ。本郷君と一緒にね。ほら、『キャノンボール・ラグ』やったろう?あの時の本郷君、何だか悔しそうな顔してたよ?しまった先にやられた~なんて言ってね」

木村マスターはおかしそうに笑った。

「そりゃそうでしょう?まさか、あの曲をやる酔狂なのが、まさか僕以外にいたなんて思わないじゃないですか」

本郷さんもけらけらと笑った。つられて僕と文ちゃん先輩も大笑い。

「志賀君だっけ?君もカントリーとか好きなのかい?」

「はい!チェット=アトキンスとかマール=トラヴィス、大好きなんです」

「ほぉ…?今時の子にしては珍しいなあ。将来有望だな、な?本郷君」

「ですよねえ」

「なあ志賀君?君もそのうち、ウチの店に出てみるかい?」

「ええっ!?いいんですか!?」

これは凄い。まさかのお誘いをいただいてしまった。

「はは。今はまだまだだけど、もう少し腕を磨いてくれば、ウチとしては大歓迎だよ」

「恐れ入ります」

まぁ…今の腕じゃダメって事だよな。それも納得してしまう自分が情けない。

「…そういえば、今日もあの…ブラッディーオーガも出るんですよね?」

「ああ」

「でも、それにしちゃあ、まだあっちのメンバーは誰も来ていないみたいですけど」

「ああ、今日は『逆リハ』だからね」

「逆リハ?」

「逆リハーサルの事だよ。出演順とは逆の順番でリハーサルをやる事なんだ」

「どうして、わざわざそんな事をするんですか?」

「あはは。そうすれば、最初の出番のバンドのセッティング時間が要らなくなるじゃないか。最後にリハしたバンドが、一番手としてそのセッティングのままでスタートできるんだよ」

ああそうか!実に合理的な方法なんだな、逆リハって。ひとつ勉強になった。

「…それにしても遅いな。もうそろそろ、奴らもリハしないと間に合わないんだが…」

木村マスターが、壁掛けの時計を気にしながら言った。

(やっこ)さんたち、はっきり言って演奏は上手くないしなあ…音作りだって…」

あ、やっぱ専門家さんからみてもそう思えるんだ、あいつらの演奏は。

「あ、でも、レコードの音はちゃんとしてましたよね?」

僕は率直な疑問を口にした。

「あ、志賀君、彼らのシングル聴いたんだ?」

「あ…はい。あのコンサートの後、お店に行ったらけっこう売れてたんで、ちょっと気になったものですから…あの生演奏聴いた後でレコード聴いてみたら、何だか驚きました」

「うーん…」

本郷さんはちょっと思案顔になって言った。すると木村オーナーがこう言ったんだ。

「…実はね、あのレコードの演奏、彼ら自身じゃないんだよ」

「へ?本当なんですか!?」

「あのレコードでギターとベース弾いてたのは、この本郷君なんだよ」

木村オーナーが口にしたのは、驚くべき真相だった。

「本当ですか!?」

「あ…うん。今の事務所に入った時に、社長から言われたんだ。スタジオ・ミュージシャンで参加しろってね」

「そうだったんですか…」

「ドラムだって、ウチの店の常連のバンドのドラマー君なんだ。何せ彼らの演奏は、聴けたモンじゃないからねえ…」

木村オーナーも、呆れた様な口調で言った。

「でも…本郷さん、ロックも弾くんですか?…あ」

そこまで口にして、僕はある事を思い出した。

「…フラットボード・カスケーズ…?」

僕が言ったその一言に、本郷さんの顔色が変わった。

「あー志賀君、その名前は言わないでくれるかな?」

慌てた様な木村オーナー。…やっぱ、そのバンドには何かあったのだろうか?

「あ…志賀君、えっと…」

本郷さんもちょっと口ごもってしまった。何だか事情はよく呑み込めないけど、とりあえずここはこの話題には触れないでお――

バタン!

お店の中に漂いはじめた、どことなく気まずい雰囲気を吹き飛ばすがごとく、ドアが威勢よく開けられた。

ブラッディーオーガの連中だった。粗暴で乱雑な奴らだけど、今だけはちょっとだけありがたいと感じた。…ほんのちょっとだけど。

「なんでェ!まだちんたらリハやってんのかぁ!後がつかえてンだぜ?さっさと済ませろよ、あぁ!?」

ヴォーカルのジョンソンは、店内を見渡した後、開口一番で上から目線の物言いで言った。

もちろん、遅れてきた事を詫びた言葉は一言ももなかったのは言うまでもない。

「…ちょっと困るよ(はた)君。ちゃんと約束の時間に来てくれなけりゃ」

「あーすみませんね。ちょっと用事が入っちゃって」

さすがのジョンソンも、出演先のオーナーさんには逆らえないらしい。それはそれとして、あのジョンソンとかいう奴、本名は秦っていうのか。

「…とにかく頼むよ?もうすぐ開場時間だし…」

「へいへい。おら野郎ども、リハはじめるぞー」

ジョンソンの掛け声とともに、巨体の連中がぞろぞろとお店に入ってきた。

ステージの中央の椅子に座っていた本郷さんは、ギターを持って席を立った。

「ほれ!椅子もさっさとどかせよ!」

あの日僕と対峙したスキンヘッドの巨漢、ええと…名前はザックだったっけ?…がその椅子を乱暴に蹴り飛ばした。その椅子は本郷さんが手にしているエレキ・ギターのボディにぶつかった。狭い店内に嫌な音が響く。

「あっ!?」

何て事をするんだ、あの野郎!

「…そういう事はやめてくれないかな?笠木君」

それでも本郷さんは、きわめて冷静な口調で抗議した。…やっぱ大人だなあ。

「んぁ?何だオメェ、まだいたのか?…いつ辞めるん?」

ザックこと笠木は、小馬鹿にした口調で本郷さんを侮辱した。

「……」

「社長も酔狂だよなー。この男を、いつまでも事務所に置いとくなんてよお。…なぁ本郷サンよ?社長から辞めろって言われたンだろ?」

「…そんな事は一度も言われてない」

本郷さんは、少々ムッとした口調になった。それもむべなるかな。

「オレはオメェと一緒に仕事するのは楽しくねェんだよ」

ザックは言いたい放題だ。…何があったか知らないが、人前であからさまに他人を侮辱するなんて、何て品のない男だろう。

ザックに続いて入ってきたドラムのこれまた巨漢ダーク、それに神経質そうなギターのハッシュとやらも下卑た笑い声をあげていた。

自分たちなんて、満足に演奏ひとつできないクセに。

…やっぱこいつら、僕は好きになれない。

横を見ると、さっきから押し黙ったままのまいはにーさんの瞳にも、怒りの色が浮き出はじめていた。

「…おいおい。ウチの店でつまらない騒ぎはしないでくれよ?」

さすがに木村オーナーも見かねたのか、仲裁に入った。

「…へっ。大体、何でいつもこの男が俺たちの後なんだ?レコード・デビューもしてねぇこいつが!?」

あれ?でも本郷さんのレコード、あのお蕎麦屋さんに飾ってあったよな…?

まだ不満げだったザックも、他のお客さんが店内に入ってきたので、それ以上は何も言わずにセッティングの作業に入っていった。

…結局、ザ・ブラッディオーガのリハーザル時間はゼロ。遅れてきたうえ、くだらない暴言を抜かしているからだ。自業自得って奴だ。

 お客さんの前でセッティングを終えると、それがそのままブラッディーオーガのステージ開始となった。

ドカドカドカドカドカドカドカドカ…ぐわぁーん!

ツーバス…はいいのだけど、実に不安定なダークのドラムに、ハッシュとザックのギターが重なった。こちらもタイミングがまるで揃ってない。もっと練習しろよ。

「オーイェー!ウィ・アー・ザ・ブラッディーオーガ!!」

秦ジョンソンが金切り声で叫ぶと、まばらな拍手が起こった。

「オーイェーオーイェー!前のリハの奴が手間取ったせいで、いきなりぶっつけ本番のスタートになっちゃいましたけど、今夜はヨロシク!」

…おいおい。自分たちの不手際を、本郷さんのせいにするのかよ?

『じゃあ1曲目だ!『血塗れブラッディ』!!』

ジョンソンのカウントと共に、いつの間にか馴染んでしまったあのイントロが流れる。

それでも、本郷さんが弾いたというレコード盤の安定感など皆無、較べるべくもないレベルの演奏には、何度聴いても好感は持てなかった。

それは僕以外のお客さんも同じだったとみえて、彼らのステージに対する反応は冷めた物だった。

 中には、あのレコードを聴いて興味を持ち、このお店に足を運んだお客さんもいたかもしれない。この間のコンサートと違って、彼らはこの演奏にお金を払ったのだ。このブラッディーオーガと言うバンドは、その彼らを裏切った。

トラブルとかじゃない。これは、彼らの怠慢が招いた当然の帰結だっと思った。

あの日出会った紳士は、本郷さんの様な演奏は、後には何も残らないって言ってた。

でも、このブラッディーオーガの演奏なんて、後に残る以前に、今こうして聴くこと自体が苦痛だと思うぞ?

 ブラッディーオーガのステージが終わった。

僕も経験してみて分かったけど、このステージという場所に立つと、お客さんたちの反応と言う物は、実にダイレクトに伝わってくるものだ。

ウケている・いないなんて事はもちろん、お客さんの一人が欠伸(あくび)でもしようものなら、それははっきりと分かってしまうのだ。

今日の惨憺たるステージの出来栄えは、もちろんバンドのメンバーたち自身にも十分に感じ取れたとみえる。ステージを降りるメンバーの誰もが、露骨に不機嫌そうな顔をしていた。

連中はそのまま楽屋の方に引っ込んでいった。

入れ替わりに、今度は本郷さんが登場してくる。

楽屋と言っても、ステージ袖の四畳半くらいの部屋で、本郷さんが登壇する際に、その中の様子が少しだけ窺えた。はは、ブラッディーオーガの連中、悔しそうだな。あ、ジョンソンの奴、お酒をボトルのままラッパ呑みしてやがる。なるほど、これが世にいう「ヤケ酒」って奴なんだな。

本郷さんは、今日は革のウェスタンハットに赤いスカーフ、着ているのはサテンのジャケットという、いかにもカントリー・ギタリストといった出で立ちだった。…かっ、かっこいいっ!

最初に彼を見た時の「冴えない中年さん」なんて印象、アレは実に早計だった。あの時の僕ぁ、何て人を見る目がなかったのだろうかと反省する事しきりだよ。…もしもタイムマシンなんてのがあったなら、あの時の自分に蹴りを入れてやりたいよ、まったく。

「お前はもっと人を見る目を鍛えろー!」ってね。

本郷さんは狭いステージの中央に置かれた椅子に腰かけ、愛用のギターをアンプにつないで電源を入れた。アンプはジャズ・コーラスという国産の名機。ボン!という音がして…少しだけ待ってもうひとつのスイッチを入れた。後で知った事だけど、こういった大型のチューブ(真空管)アンプには電源スイッチの他に「STAND BY」というもうひとつのスイッチがあるそうだ。昨今主流のトランジスタ・アンプと違い、チューブ・アンプには真空管が使われているため、電源を入れてからこの真空管が温まるまでには少々タイムラグがあるのだ。でも電源を入れる度に、逐一こういった手順をするのは手間である。だからちょっとの間、電源を切りたい時は、この「STAND BY」スイッチの方を入れたままにしておけば、真空管は暖機されたままでおくことができるのだ。

今回はリハーサルの間にブラッディーオーガのステージがあったから、電源を一度落としていたのだろう。

軽くチューニングを確認した後、本郷さんのステージはいつもの「ハーゥ・ディー?」という挨拶ではじまった。

満席とは言えないものの、そこそこ入っている観客さんたちも心得たもので、「ハーゥ・ディー!」と応える。もちろん僕と文ちゃん先輩も一緒だ。

この「ハウディー」を何回か繰り返した後、本郷さんはすぅ…と深呼吸して、一気にギターを弾きはじめた。

あ、この曲…「ジェリーズ・ブレイクダウン」?

チェット御大のプロデュースでデビューした、アメリカのカントリー歌手兼凄腕ギタリスト、ジェリー=リードの曲だ。チェット御大との共演アルバムに収録されているこの曲は、ジェリーがガット・ギター、チェット御大がエレキ・ギターを担当しているギター・デュエットのインスト・ナンバーだ。まるでバンジョーの様なフレーズが特徴的だけど…とにかく速い。僕も最初にラジオでこの曲を聴いた時は、何をどうやって弾いているのか、まったく分からなかった。いや、一音一音、そのノートははっきりと聴き取れるのに、そのフレーズを理解しようとしているうちには、もうとっくに次のフレーズに進んでいるという恐ろしい曲だ。もちろん難易度は高いなんてモンじゃない。…アレはもはや神技レベルだと思う。

それを本郷さんは、いとも簡単に、まるでちょっとやってみようかといった感じで難なく弾きこなしているのだ。…やっぱ凄いなぁ…よくもあそこまで指が動くものだと思う。もちろん、凄いのは指の動きだけじゃない。弦を爪弾く右指の動きも完璧だった。

ギターと言う物は、よく勘違いされるけれど、弦を押さえる左手ばかりが大事なのではない。

もっと重要なのは右指、もしくはピックを握る右手の方。何となれば、いくら左指を速く動かしたって、実際に弦を弾いて音を生み出すのは右指だからだ。

左指の動きと右指の動作がぴったりと合っていなければ、ちゃんとした音は出せないのだ。

両手の指の動きが完全に同期した時にこそ、芯のあるしっかりした音が出せる。これは本郷さんやポール=サイモンにチェット御大…その末席の地下100mくらいにいる僕の様なフィンガー・ピッキングのスタイルを主体とするギター弾きでも、ピックでコードをジャカジャカ弾くプレイヤーでも変わらない。ギター初心者は左手ばかりに注目するけれど、ギターの音を生み出すのは右手なのだ。これこそが基本。

 あっと言う間にオープニング曲が終わった。観客たちはもう圧倒されている。

続くナンバーもジェリー=リードの曲、「ライトニング・ロッド」だった。

こちらも超高速テンポの曲だ。初心者の誰もが最初に突き当たる「F」のキーを、これまた凄まじい速さで押し通す、ややクラシックっぽい雰囲気がある曲だ。その雰囲気たるや、まさしく「稲妻の杖」のごとし。

全編に漂う緊迫感。何かに追いつめられている様なシーンのBGMにはぴったりだと思う。

本郷さんは、これもまたいともたやすく弾きこなしてしまった。

凄い凄い!!ライヴハウスはもう、割れんばかりの拍手。

さすがに汗ばんだ本郷さんはにっこりと微笑んで、拳を挙げてそれに応える。

うーん…これぞライヴの醍醐味っ!盛り上がってきたぞお?

「もっとサマになる曲やれよー」

「つまんねーぞー」

「ダセェ曲やってんじゃねえよ」

と、その時だった。あまりにも心無い野次が聞こえたのは。

何だ…?と声のした方を見ると、いつの間に移動したのか、観客性の後ろにはブラッディーオーガの連中が陣取っていた。

あ…あいつら…!?

メンバーの一人ジョンソンは、いけしゃあしゃあと前に進んでくると、手にしたワインボトルを振り上げた。本郷さんが殴られる…!?

「きゃあっ!!」

観客席にいた女の人が悲鳴を挙げた。

と、ジョンソンは急に笑い出してボトルを下げた。

「ハッハー!驚きました?そんな野蛮な事やるワケねーじゃねーですかあ」

…こいつ…酔っ払ってる?

ジョンソンはうひゃひゃひゃ…と下卑た笑い声を挙げると、中のワインを本郷さんの帽子にかけてしまった。

「……」

本郷さんは黙ったままだったけど、かなり怒っているみたいだった。でもステージの上だから、大声を上げて反撃するのは控えているのかもしれない。…プロだ、この人。

「もう我慢なりません!!」

そう言っていきなり立ち上がったのは、案の定、われらが文ちゃん先輩だった。

「先程からの暴言無礼、あまりにも失礼ですっ!いますぐ本郷さんに謝罪してこの場を去りなさいっ!!」

その小柄な体からは信じられない程の怒りのオーラを発している。…いかん、こりゃあ本気だ。…でもまさか、公衆の面前で魔法なんか使わないよ…な?

「…何でェこのチビぁ?」

「あ…テメェこの間の…?」

ザック笠木は気がついたみたいだった。

「このクソチビ!あン時ぁよくも…」

ザックの巨体がこちらに飛び掛かってきた。しかし文ちゃん先輩はぎりぎりまで待って、ザックがのしかかろうとしたその瞬間、身をかわしてこれを避けた。

ザックはそのまま観客席の椅子に突っ込んだ。そのまま動かなくなった。

再び観客席から悲鳴が挙がる。

「このアマァ!!」

今度はジョンソンがボトルを振り上げようとしたのだが、その時。

文ちゃん先輩の近くのテーブルがいきなり割れてしまった。彼女は前を睨んだまま。

…もしかしてこれ、文ちゃん先輩の魔力か…?

さすがのジョンソンも、硬直したまま動けない。その彼を、文ちゃん先輩の瞳がまっすぐに睨みつけていた。

残る他の大男たちも手が出せないでいる。

店内には緊迫した空気が流れた。

「…おーいお前さん方。いい加減にしろよぉ?ここは品のいい音楽を聴ける紳士淑女の社交場だぜ?喧嘩なら他所でやってくんな?」

良く通る声が響いて、黒いTシャツを着た大柄な男の人が入口の方から姿を現した。

え…宗佑衛門…さん…?

蕎麦屋の老舗、無頼庵摂津屋の当代ご主人、善養寺宗佑衛門さんだった。

「宗…ちゃん…?」

本郷さんが驚いた様な声を挙げた。

「な…なんでェテメェは?…テメェもやるって言うのかぁ?…あぁ?」

凄んで見せたジョンソンだったけど、よく見ると腰が引けている。

それもそうだろう。あんなチンピラと宗佑衛門さんでは、貫禄と言う物が違う。

宗佑衛門さんはそのまま前に歩いてきて、ジョンソンと向かい合った。

彼は相手の顔を見ると、にぃ…と相好を崩した。

「な…なんでェ…?」

「…なぁあんちゃん。ケンカはやめようや。…な?」

低くて穏やかな、それでいて有無を言わせぬ様な迫力のある声だった。

「…な?そんな危なっかしいモン置いてさ。いい子で楽しく曲、聴こうや。な?」

宗佑衛門さんはジョンソンの肩をぽんぽんと叩きながら、まるで子供を諭す様な優しい声で言った。

対するジョンソンはされるまま、身動きひとつ取れないでいた。しかし精一杯の強がり声で、

「…チッ。テメェにゃ関係ねーだろ」

と抜かしていた。ただし目線は合わせられないでいる。

「…それが関係あるんだなぁ。そこの信太郎ちゃんは、この俺の大親友でなぁ」

「ケッ!それがどーした…ってギャア…!!」

ジョンソンはいきなり奇声を挙げた。見ると、奴の肩に置いた宗佑衛門さんの指が、その細い肩に食い込んでいた。…凄い握力だよこれ。

「…ぼっ、暴力はヤメロー!!」

半ば泣き声になったジョンソン。

「…そうだよなあ…?暴力はいけねぇよなあ…でもなあ小僧?」

「は…はいっ…!?」

「お前さんがたった今、信ちゃんにやった不埒だって…十分に暴力なんだよっ!!!!」

宗佑衛門さんは指先に力を込めた。

ごき、という嫌な音が静まり返った店内に響き、ついでジョンソンの絶叫が轟いた。

「イテェイテェ…!!イテェよぉ…○×△◆…!!!!」

ジョンソンは床に転げまわって悶絶した。最後の方は何を言っているのかさえ聞き取れない。何だか日本語ですらないみたいだった。

「おい、そこの有象無象ども!!下らねぇ野次だの阿呆なザマひけらかすんなら、さっさとすっこみやがれっ!!!!」

地の底から響いてくる閻魔大王の声の様な宗佑衛門さんの一喝に、ブラッディーオーガの連中は慌てて逃げ出そうとした。

「おいおい?お仲間は置いてけぼりかい?」

宗佑衛門さんの一言に、ダークとハッシュは、思い出した様にまだ伸びているザックと、泣き声でよく分からない言葉を喚き散らしているジョンソンを連れて逃げ出していった。

店内に静けさが戻った。

「あー、みなさん。お騒がせしました。すみませんっ!!」

宗佑衛門さんは背筋を伸ばすと、そのまま深々と一礼した。

店内のお客さんたちは、これに拍手で応える。まさに窮地を救った正義の味方と、彼に感謝する人々の姿がそこにあった。

これには予想外と思ったのか、宗佑衛門さんはいやぁどーもと照れながら笑っていた。

「へへ…騒がせちゃったな。…文ちゃんも、いくら何でもあんなのとケンカなんかしちゃなんねぇよ?お前さんの品が落ちらぁ。いい女が台無しでぇ」

「あ…はい…どうも…ありがとうございました…」

怒られたのか、それとも褒められたのか、文ちゃん先輩も混乱している様だった。

「宗ちゃん…ありがとう。また助けられちゃったね」

本郷さんがやってきて、宗佑衛門さんにお礼を言った。

「お二人は…知り合いなんですか?」

僕の質問に、宗佑衛門さんは「おうよ!そらもぉ、永ェ付き合いさね」と微笑んだのだった。

 結局、その日は店内が滅茶苦茶になってしまった事もあり、本郷さんのライヴはお開きになってしまった。

オーナーの木村さんと本郷さん、それに宗佑衛門さんは揃ってお客さんたちに謝罪し、代金は返却、日を改めてライヴを開催するという話に落ち着いた。

オーナーさんは、ブラッディーオーガの不祥事を彼らの事務所に抗議すると言っていた。法的措置を取って損害賠償にも訴えるそうだ。

 僕と文ちゃん先輩は、お客さんの去った後でお店の片づけを手伝った。師匠とオーナーさんはそこまでしなくとも、と言ってくれたのだが、文ちゃん先輩が是非にと言って引き下がらなかったのだ。もちろん僕もこれには大賛成だった。

「すまないな志賀君。せっかく来てくれたのに、こんな有様になってしまって…」

床に散らばったガラスの破片やゴミを箒で掃きながら、本郷さんは謝ってくれた。

「いいえ…みんなあいつらが悪いんです。師匠の身に何かあったら、僕も黙ってませんでした」

「…はは。嬉しいな。その気持ちだけで救われるよ。…何かお礼しなくちゃなあ…」

「え!?そんな…いいですよぉ」

「そうもゆかない…いや、それじゃあ僕の気が収まらない。…そうだ、ちょっと汚れちゃったけど、こいつをあげよう」

本郷さんはそう言って、自分の革のウェスタンハットを取って、僕に被せてくれた。

「うん、似合う似合う。汚れは拭けば落ちると思うから。…あ、でもよく拭かないと、匂いで酔っ払っちゃうかもしれないぞ?」

本郷さんは愉快そうに笑った。


――そしてこの夜が、僕が本郷さんと会った最期となった――

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