15 スィート・エモーション
明けて月曜日の朝。
僕はいつもの様に、朝6時半には登校していた。
文ちゃん先輩とお付き合いをはじめて以来の僕の日課のひとつだ。
彼女が毎朝この時間には登校していて校庭の清掃をしているのを知って以来、僕も何かお手伝いしたいと思ったのがきっかけだったけど、今ではもう、それがすっかり当たり前の日常になってきている。まあ、僕の家は兼業農家で、元々子供の頃から朝の早い生活を送ってきたから、早起きするのも気にならなかったし。
昨日の人生初ステージやら何やらでけっこう疲れてはいたけれど、今日からはまた、僕は一介の高校生の日常に戻らなくてはならない。
「…ああ、そうだ志賀君?」
竹箒を手にした文ちゃん先輩が、ふと掃除の手を休めて言った。
「へ?何でしょうか」
「忘れていましたけど、ご報告があります」
「ご報告?」
何の事だろう。昨日の僕のステージを観たどこかの事務所が、ウチの学校に契約のオファーを持ってきたとか?…はは、まっさかあ。そんなのはありえないって、自分自身が一番分かってますって。
「…何を馬鹿な事を言っているのですか」
呆れ顔の文ちゃん先輩。はい。冗談ですスミマセン。
「実はですね、かねてより生徒会が申請していた校内の自動販売機設置の認可が、やっと学校側から降りたんです」
おお、それは凄い。何せウチの学校ときたら、付近は見渡す限りの田んぼと畑ばかりで、コンビニはおろか雑貨屋ひとつなかったものな。そのくせ、校内には購買部とかもありゃしないのだ。だから昼食時には近隣のパン屋がワゴン車でパンを売りにやってきたりもするのだが、あのお店、独占企業なのをいい事にやたらと暴利をふっかけてきやがる。この学校に入学して驚いたのはこの点だった。もっと田舎に位置するはずの僕の出身中学校の前にだって、駄菓子屋のひとつくらいはあったぞ?
そんな鄙びた環境にあっては、当然、生徒間に不満の声が絶える事がないけれど、そこは成長期の食べ盛りの身の悲しさで、その値段に不満を抱きつつも、不承不承お財布の口を緩めるしかなかった。そのうち、この不満が爆発して暴動とか革命が起こるんじゃないかとさえ思ったものだ。
「餓えた我々の口に安いパンを!もっともっと食料を!!」なんてね。というか、そんな暴動が起きたら僕も参戦するぞ?食べ盛りの高校生の食に対する欲求をナメんな。
この民衆…いや生徒間の不満は文ちゃん先輩をはじめとする生徒会でも十分に把握していて、彼女はこれまで何度も学校側に学食の設置を打診してきていたのだが、学校側からはいまだに前向きな回答はもらえなかったのである。
「…本当は、一気に学生食堂の開設まで持ってゆきたかったのですけれど、現時点ではこれが精いっぱいでした。私の力不足です」
ちょっと口惜しそうな文ちゃん先輩だったけれど、今はそれだけでも大前進じゃないですか。全校生徒を代表して感謝したいくらいですよ。
そうかそうか。文ちゃん先輩、何も言わなかったけど、その間も黙々と交渉を続けてくれていたんだなあ。彼女が、ウジェーヌ=ドラクロワの描いた「民衆を導く自由の女神」みたいにさえ見えてしまう。フランス国旗を右手に…あれ?あれって左手だったっけ?まあいいや、国旗を手に振りかざして民衆を扇動する女神の絵画だ。あの女神の後ろには、おそらく作者ドラクロワ自身がモデルの銃を掲げた男も描かれているけど、僕もあの男みたいな立場にはなってみたいと思う。とにかく感謝感謝。
「…そ…そんなにご大層な事じゃないですよお」
今度は照れて赤くなる文ちゃん先輩。うん。可愛いい可愛いい。
「いえいえ、少なくとも、僕ぁ感激してますよ?」
「そ…そうですか?えへへ…志賀君にそう言っていただけると嬉しいです」
「もう、頭撫で撫でしちゃいたいたいくらいです」
僕は冗談のつもりだったのだが。
「…!?」
文ちゃん先輩は一瞬、驚いた様な表情になった。それから周囲を注意深くきょろきょろと見回すと、うん、と頷いて、
「……。どうぞ」
と、僕の目の前に、その小さな可愛らしい頭を差し出してきたのだった。
む?言い出しておいて、ここで躊躇などしたら漢がすたる。
ごくり。
「…で…では、参ります」
「ど…どうぞご存分に。躊躇などなさらずにお願いします」
「で…では…いざっ、お覚悟を」
「は…はいっ!」
二人の間に何だか妙な緊張感が走った。これではまるで切腹の介錯ではないか。
僕はおそるおそる、そのふさふさした黒髪の上に手を置いて。
…なでなで。なでなでなで。
む?これはこれで、けっこういい感触だぞ?
なでなでなでなで。なでなでなでなで。
あれま。文ちゃん先輩、瞳が潤んできたみたいだぞ?
「……は…ぁぁぁぁぁ……」
やがて、その小さな口元から、吐息ともうめき声とも取れる様な艶めかしい響きが漏れて、僕は慌ててその手を放してしまった。
「や?これは失礼を」
「あ…いえ、私も、とっても心地よくなってしまったものですから」
「え?そんなに…でしたか?」
「はい、それはもう!まさしく天にも昇る様な気持ちでした」
「……」
僕たちはお互いの顔を見つめ合い、思わず赤面して俯いてしまった。
「……。このバカップルどもめ。」
「うわほぅ…!?」
背後から、一緒に掃除していた生徒会書記の水嶋さんの冷め切った様な声がして、僕たちは思わず飛びのいてしまったけれど。
「あー、こほん。そっ、そういうわけでこの度、わが生徒会からの要求が通りまして、めでたく自動販売機設置の次第と相なったのでありまする」
「わー、ぱちぱちぱちぱち。艱難辛苦を乗り越えてのお働き、まっこと大儀でありました」
「…。かいちょも志賀くんも言葉遣い変です」
水嶋さんの視線は辛辣なままだった。
「と、ともかく。当面は試験的にお茶とかスポーツドリンクくらいですけれど、徐々に販売する種類も増やしていただくつもりですよ。そこで志賀君?」
「はい?」
「今日の放課後に、その自販機の設置に業者さんが来校されるので、私は立ち合わなければなりません。申し訳ないのですが、校内の見回りは中止にさせてくださいませんか?」
「なんだ、それなら、僕が一人で見回りくらいやっておきますよ」
「え?いいのですか?」
「なぁに。いつも文ちゃん先輩と一緒に見回ってますし、順路も手順も心得たものです。大船に乗ったつもりで任せてくださいな」
僕は胸を叩いて言った。
…そうだよ。僕だって、あの女神の絵のマスケット銃持った男みたいにはなってみせるさ。
掃除を終えて教室に戻る頃には、クラスメイトたちも何人か登校してきていた。
「おはよー」
「あ、おはよー志賀くん。昨日は大活躍だったんだって?」
何人かと挨拶を交わしていると、女子の一人から声を掛けられた。
「え?」
「昨日の事だよ昨日の事」
あ…ああ、コンサートの事かな?もう話題になってるのか。
「パンクスのおっさん相手に、小さな子を助けたんだって?ウチの会長と志賀君が」
あ、何だそっちの事か。しかも活躍してたのは文ちゃん先輩の方だし。
「…え?何でそんな事知ってるのさ」
「美術部の…ええっと塚村さんだっけ?彼女が一部始終を見てたんだって。もう、学校中の噂になってるよ」
むむ?あの塚村さんが?
「…その塚村ですがなにか」
「…うわぁあ?」
振り向くと、噂の発信源がそこにいた。
「驚かなくてもいい。しがん」
眼鏡を掛けた、ちょっと風変わりな美術部員の同輩にしてわが同好の士、塚村いのり嬢だった。
「いや驚くよ普通。いきなり後ろから囁かれちゃあ」
「そうか」
「そうだよ」
塚村さんはむむ?と思案顔になって、ぽんと手を打つと、
「…やほー」
と手を振ってきた。
「…何のマネだ?」
「ごく一般的な朝のあいさつ。しかもこれはごく親しい間柄用」
「…今さらいいよ」
「機を逸したか」
「そんな事より昨日のアレ、つかむー見てたの?」
「見てた。しがんはいつもマンガのネタを提供してくれる。感謝。でもつかむー呼ばわりは不許可」
彼女は僕の事を「しがん」と呼ぶ。そのくせ僕が「つかむー」とか呼ぼうとするのは却下するのだからよく分からない。
「わたしの事をニックネームで呼んでいいのは心友だけ」
「そうる・しすたあ…?何だそれ。そんなのいるんだ」
「いる。彼女とは遠く離れていても常に心を通わせている。マイ・ソウル・シスター、崇高なるマエストロ=マノーリンと」
「…誰だそれ」
どうせ塚村さんのオトモダチだ。かなりの変わり者に違いないだろうさ。
「しがんも変わり者」
「…う。それは否定できない」
「ぬっふっふ」
放課後になって、僕は教室からそのまま校内の見回りに出た。
いつもならば文ちゃん先輩と一緒に回るため、スタート地点は生徒会室だけれど、今日は若干コースを変える必要があった。
各学年の教室がある南校舎を、僕たち1年生の教室がある3階から順に2階、1階と順に下ってゆく。1階には職員室と保健室もある。
僕は見回りのついでに保健室にも立ち寄ってみた。鮎子先生に、昨日、無頼庵摂津屋の宗佑衛門さんが言っていた言葉の事を聞きたかったからだ。
『何と言っても、『ザ・フラットボード・カスケーズ』の名付け親だもんなあ、鮎子さんは」』
本郷さんが昔組んでいた「本郷信太郎&ザ・フラットボード・カスケーズ」というバンドの名付け親が…鮎子先生?
先生はさっさと帰っていっちゃったし、宗佑衛門さんに聞いても「…俺の口からは言いにくいしなあ」としか答えてくれなかったんだ。
「…失礼しまーす」
僕は保険室のドアを開けたけれど、残念ながら鮎子先生は不在だった。
鮎子先生は意外にも(?)几帳面な所があって、いつもはこの保健室を出る時「不在」のプレートをドアの所に掛けてくれているけど、なぜか今日はなかった。
いないものは仕方ない。僕は諦めて保健室を後にして渡り廊下を抜け、北側校舎を1階から再び見回りを再開した。
こっちの校舎の教室は、主に文化部系の各部室、それに視聴覚室がある。階段を登っていると、上の階からギターの音が聴こえてきた。あ、今日はフォークソング部の番だったか。
3階は僕の所属している美術部がある美術室と、その向かい側は音楽室になっている。
ウチの学校には吹奏楽部とフォークソング部があって、このふたつの部が音楽室を日替わりで使用する事になっているのだ。
3階に登ると、つい音楽室を覗いてしまう。
入学当時、僕はここのフォークソング部からお誘いを受けたけど断った。
彼らが主に演奏していたのは文字通りフォークソング、それに邦楽のニュー・ミュージックばかりだったし、僕がやりたかったのはサイモン&ガーファンクルだったから、ここにいても合わないだろうと思ったんだ。で、僕はその向かいにある美術部の方に入った。こっちはただ単にマンガも好きだったから、絵でも気楽に描いてればいーかなんて軽い気持ちだったけれど、入部してみて、その考えが甘かった事を痛感した。他の部員たちはみんな、誰もが絵画に対して真摯な姿勢を持った人ばかりだったんだ。どうにもいたたまれず、僕はいつしかユーレイ部員って奴になってしまい、屋上で夕方まで独りギターの練習に没頭する日々を過ごす様になっていた。
――11月のあの日。鮎子先生と文ちゃん先輩に出会うまでは。
「こんちわーっす。部活お疲れ様でーす。生徒会の見回りでーす」
僕は音楽室の部員さんたちに声を掛けた。
あれから僕もいささか丸くなったのか、彼らに対するわだかまりも消えて、今では気さくに声を掛けられる様になった。
「おー志賀君!ご苦労様」
ギターを弾く手を止めて話しかけてきたのは、クラスメイトでもある西島君だった。
「どーも」
「志賀君、昨日は凄かったんだって?」
む?またもその事か。
「あ、いや、アレは文ちゃん先輩…鬼橋会長のお手柄だけど…」
「え?だってステージに立ったのは君だろう?」
「…へ?ああ、そっちの事か」
「ずいぶん淡白な奴だなあ。オレだったら緊張しまくってるよ、あんな場所でやるの」
「…見てたの?」
「いや。ウチの部長が見てたそうだよ。オレ、ついさっき部長から聞いて驚いたところだ」
「そうだぞ?僕としては、今からでも君に入部してもらいたいくらいだ」
僕たちの会話に、ここの部長の…ええと、2年の工藤さんだったっけ?も加わってきた。
「あ、どもです」
「…なあ志賀君?どうだ、ウチの部に入らないか?」
「うーん…すみません。僕はもう美術部の方にも馴染んじゃいましたし、それに今は文ちゃん先輩…鬼橋会長のお手伝いもありますから…」
「むー、残念だ。でも君なら入部しなくたって、いつでもここで一緒にギター弾いてくれてもいいぞ?歓迎する」
「あ、それはありがとうございます」
「それにね」
「はい?」
「実は、僕もサイモン&ガーファンクル好きなんだ」
「本当ですか!?」
「はは、もちろんさ。君ほどのめり込んじゃいないけどね」
これは驚いた。驚いたと同時に、かつての自分がいかに狭量だったかを痛感してしまった。
あの頃の僕は、どうせ自分のやってる音楽なんて、誰にも分からないだろうさとばかりに孤高を気取っていた。僕のやっている音楽は、一般に人気のあるジャンルなんかとは違う、もっと高度な音楽なんだと思っていた。思い込んでいた。
でもそれって、単に友達のいない寂しい奴の、くだらない思い上がりに過ぎなかったんだ。
今になってみると、あの頃の自分が、いかに思い込みの激しい嫌な奴だったかが分かる。
そう思える様になったのも、きっと文ちゃん先輩と鮎子先生のおかげだろう。
「じゃあ、これで失礼します」
「ああ、じゃまた明日な…それと志賀君」
音楽室を去ろうとする僕に、西島君が声を掛けてきた。
「何?」
「君、最近変わったな」
「そう?」
「ああ。前よりもずっと丸くなった。…恋人さんのおかげかな?」
「あ…ああ。そりゃどうも」
そう言われるのは嬉しい物だ。
そうだ。僕の「セカイ」は、着実に広まりつつあるんだ。
最後に、向かいにある我が美術部の方も除いてみたけど、こちらは実に形式的なやりとりに終始した。自分の所属している部活よりも、他所様の方が懇意になってしまっているという現実ってどうよ?
…ユーレイ部員としての僕の立ち位置も着実に確立されつつある…いや、もう確立されちゃったのかな?自ら望んだ結果とはいえ、これはこれでちょっと複雑な心境にもなるぞ。
新部長になった、これまたクラスメイトの室崎君に挨拶して、僕は校内の見回りを終了した。
後は生徒会室にいるはずの文ちゃん先輩に報告するだけだ。
ところが生徒会室に行ってみると、文ちゃん先輩はそこにいなかった。
「あら志賀君?文さんは今、業者さんと打ち合わせで1階の一般通用口の方にいますよ」
副会長の鉄ヶ谷先輩にそう言われたので、僕は目的地をそこに変更した。
一般通用口の脇には大きなトラックが留まっていて、作業服を着た何人かの業者さんが、いままさに件の自動販売機を設置している所だった。
あの自販機、いったい何キロくらいあるんだろう?かなり重そうだけど、業者さんたちは数人掛かりでこれを支えて、設置場所を微調整していた。…うわー、大変そうだなあ。
…知らなかった。普段何気なく見ている自販機ひとつだって、それを設置するにはこんなに手間が掛るのか。
文ちゃん先輩は、その中の一人と何か打ち合わせしているみたいだった。うん。さすがにこういう時は生徒会長としての貫禄は十分だな。大人の人とまったく躊躇せずに話しているのだから大したものだ。
僕が声を掛ける前に、彼女の方から手を振ってきてくれた。
「お疲れ様です」
「くす。志賀君も。見回りは終わったのですね」
「はい」
「…志賀…?」
文ちゃん先輩と話していた業者さんがこっちを見た。
「…おや、喜栄さんトコの息子さんじゃねぇか」
「…は?」
業者さんは笑いながら帽子を取ってみせた。
昨日、僕と同じステージに出演していた尺八の名手・吉澤老人だった。
慌ててトラックを見ると、荷台には「(株)吉澤工業」と書いてあるではないか。
「わ!吉澤さん!昨日はどうもありがとうございました」
「何の何の」
「吉澤さん、社長さんだったんですね」
「かかか。本業は今でも農家のつもりだいね」
吉澤老人…社長は屈託なく笑った。そこに、
「社長、設置はこんな感じでいいですか?」と、一人の従業員さんが聞いてきた。
「んー?どれどれ」
吉澤社長は頷くと自販機の方に歩いて行った。声を掛けてきた従業員さんも、文ちゃん先輩と僕にお辞儀をして…あれ?この人って…?
「おや、君は…キャノンボール・ラグ君…ええと、志賀君だったっけ」
僕はまたもや驚かされた。
作業服の従業員さんは、僕の憧れの師匠、本郷信太郎さんその人だったんだ。




