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13 トゥ・ドゥ・ディス、ユー・ゴット・トゥ・ノウ・ハウ

 鮎子先生はすでにできあがっているらしく、ご機嫌な様子だった。

あれ…?カミサマでも酔っぱらうのかな?

…まあ、酒神デュオニソスにだって酔っぱらったエピソードがあるくらいだし、と僕は適当に納得する事にした。

「おねえちゃん、ここで呑んでたんですか」

「そぉよぉ。このお店、お蕎麦も美味しいし、何と言ってもお酒の揃えが完璧だもの。だからお昼に続いてまたきちゃったんだ」

あ、なるほど。そういえば鮎子先生とアユミ姐、お昼はお蕎麦にするなんて言ってたっけな。あれって、このお店の事だったのか。

「へへ。こりゃあ嬉しいぜ。鮎子さんにそう言われちゃあ、蕎麦屋冥利に尽きらぁ」

お店のご主人は、少々照れ臭そうに鼻を擦った。

見たところ四十代半ばくらい、そう、本郷さんと同じくらいの歳なのだろうか。このご主人もデカい。きっと2m近いだろう。

僕も180センチ近くはあるけれど、その僕が見上げてしまうくらい背が高い。

特徴ある髪型はパーマかけた上でリーゼントにしているみたいだ。たしか、こういうのって「クィッフ・リーゼント」とか言うんだったっけ。50年代のロカビリー全盛期に流行してたヘア・スタイルだと聞いた事がある。

来ているのは黒のノー・スリ-ブ。まだ春先だというのに寒くないのかな。そこから伸びたぶっとい素肌の二の腕には、これ見よがしに…多分、本物のタトゥー。

…どう見てもカタギの人には見えないご主人だった。

全体的なイメージとしては、あの水嶋君がそのまま後何十年かしたら、きっとこうなるんじゃないか?なんて雰囲気を漂わせたお蕎麦屋さんのご主人だった。

…それにしても、水嶋君にブラッディーオーガの連中、それにこのご主人と、今日は何だかでかい男の人にやたらと縁のある日だなあ。

ふと横にいる文ちゃん先輩を見ると、やはりどことなく委縮してしまっている様だ。

それはそうだろう。彼女とこのご主人とは、およそ50センチ以上の身長差があるもの。

「くす。文ちゃん。そんなに固くならなくても、宗佑衛門さんは噛みつかないよ」

鮎子先生は、笑いながらコップのお酒を呑みほした。

「…かっ、固くなってなんてませんっ!」

「そうだぜお嬢ちゃん。俺は、こう見えても女と子供にゃ優しいんだ。ところでお嬢ちゃんはいくつかなー?小学校の4年?あ、いや5年生かな」

ご主人…宗佑衛門さんは屈託なく笑ったのだが…相手が悪かった。

強面(こわもて)かと思いきや、笑うと人の良さそうな笑顔になるのに、発した言葉と、よりによってその対象が、最悪な組み合わせなのだった。

僕は恐る恐る文ちゃん先輩を見た。あ、やっぱむっとしてる。

「……二十歳(はたち)なんですけど」

…いいっ?

「これでも女子大生です私。福祉の大学に通ってます」

おいおい。いくら何でも文ちゃん先輩らしくもない見栄を張ってるなあ。よほど腹に据えかねたのだろうか?

宗佑衛門さんは唖然としてる。鮎子先生は…やっぱ笑いを堪えているみたいだった。とりあえず宗佑衛門さんの誤解を解くとか文ちゃん先輩にツッコむとかいった気はないらしい。

「おおっと!こりゃ失敬!とてもそうは見えなかったからなあ。悪い事を言っちまったな。済まねえ。まあ、これで機嫌直してくんない」

宗佑衛門さんは苦笑いしながら、お酒のなみなみと注がれた升をカウンターに置いた。

「信州諏訪は舞姫酒造の(すい)()だ!この辺りじゃあ、なかなか手に入らねえ逸品だぜ?さあ、ぐいっといってくんな?」

この宗佑衛門さんというご主人、一見すると強面だし豪快だけど、根は気がいいみたいだ。

でもここでいきなりお酒出されるとなあ…さて、われらが文ちゃん先輩はどう出るかな。

「…えっと…」

「悪りィのはこっちなんだし、さあ、遠慮しねえで、ぐいっと」

「…あ…あのお…」

文ちゃん先輩は困った様な顔になって、僕の顔を見上げてきた。…うーむ。彼氏としてはこういう場合どうすればよろしいのだろうか?すみません。僕もまだ人生経験浅いモンで、こういう時の対処マニュアルなんて持ち合わせてないです、はい。

「さあ、ほれ、ぐいっと」

「う…あ…えっと…」

「ん…?」

「…ごめんなさいっ!私、嘘ついてましたあっ!私、20歳じゃありません!17歳でしたっ!!」

不用意に発した自らの見栄で、思いの他追いつめられてしまった文ちゃん先輩は、事ここに及んで、いきなりカウンターに手をついて頭を下げたのだった。

ここで鮎子先生も決壊。あっはははは!と店内中に響き渡る声で笑い出してしまった。

なまじ良く通る澄んだ声の持ち主だけに、他のお客さんたちが何事かとこっちを見ている。

そんな周囲の注目をよそに、当の鮎子先生は心底おかしそうにテーブルをどんどんと叩きながら笑っている。

「…おっ…おねぇちゃーん…」

僕はその時、およそこれまで見た事もない様な、とっても弱々しいまいはにーさんを拝む事ができたのだった。

「あはははは。文ちゃん?さすがに教育者としては、未成年がお酒呑むのを看過できないんだけどなあ」

「のっ、呑みませんってば!!」

その後、鮎子先生のとりなしで、文ちゃん先輩はもう一度、宗佑衛門さんに頭を下げたのだった。

「…それにしても、鮎子さんはやっぱ大したモンだ」

お蕎麦を茹でながら、宗佑衛門さんは感心した様に言った。

「どういう事ですか?」と僕。

「いやな、お前さんたちがやってくるちょっと前に、鮎子さんが『たぶん、そろそろ身内がくるから、美味しいお蕎麦よろしくね』なんて言い出したんだ。何か待ち合わせでも?って聞いたらな、『そうじゃないけど、気配が近づいてきた』なんて言うモンだから。そしたらすぐにお前さんたちがやってきた、とこういう訳なんだ」

…うーむ。さすがはカミサマ…とは思ったけど、また文ちゃん先輩に怒られそうだから口には出さなかった。

ひと段落ついた所で、僕は改めて店内を見渡してみた。

全体的な作りは、洋風のカウンター・バーと数えるほどの席の小さなお店。でもご主人の(ぜん)養寺(ようじ)宗佑衛門さんの人柄なのか、そこそこ繁盛しているみたいだった。特筆すべきは、お店の片隅にいきなりハーレー・ダビッドソンのでっかいバイクが置いている事。

ただでさえ狭い店内だけど、やたらと圧迫感を覚えてしまうのは、間違いなくこのバイクの存在が大きいと思う。

よく見れば、お店の壁にもハーレーとかエレキギター…グレッチの写真なんかも貼られている…ここ、本当にお蕎麦屋さんなのか?

でもカウンターの内側の鍋からは、お蕎麦を茹でるいい香りがしてくる。ちょっと覗いてみると、蕎麦湯もかなり濃いみたいだ。これは期待できる。

ちなみにさっき出された翠露?とかいうお酒は鮎子先生の喉下に流れていった。

「だーってぇ、これ、わたしの故郷のお酒なんだよ?懐かしいし…いいでしょ文ちゃん?」

などとのたまわれたかと思うと、われらが全能なるカミサマは、流れる様な手さばきで升をかすめ取ると、そのままごくごくと一気に吞み干してしまったのだった。

で、騒動の中心にいたはずの文ちゃん先輩は、カウンターの椅子に腰かけたまま、まだちょっとしょぼくれているみたいだった。

「…そんなに落ち込まないで下さいよ」

「…落ち込んでいるのではないです。これは自己嫌悪なのです。…咄嗟の事とは言え、何であんな愚かしい戯れ事を…ぶつぶつ」

「そんな、大した事じゃなかったでしょうに」

「いいえ、私は自分が許せません。あまりにも未熟、あまりにも愚行でした」

あ、涙ぐんでる。真っ直ぐな性格というのも苦労が多いんだなあ。

ふと見ると、鮎子先生が文佑衛門さんに何か耳打ちしているのが目に入った。すると宗佑衛門さんは何やらうん、と頷くとこう言った。

「…お嬢ちゃん、冷やし中華でも食うかい?」

は…?

「え?冷やし中華…ですか?あるんですか!」

「もちろん。この俺に任せな」

文ちゃん先輩の顔がぱぁぁ、と明るくなった。

「…い、いえ、今の私に冷やし中華をいただく資格などありません…」

何だ、その資格とやらは。いやそれ以前に、何で和風のお蕎麦屋さんにあるんだ冷やし中華。

「…まったくもって断腸の思いですが…わっ、私はぁ…泣いて馬謖を切ります。せっかくのご厚意…です…が…うう…ぐすっ…」

あああ、また涙ぐんでる。何がそこまで彼女をして冷やし中華に執着させてしまうのか?

…そんなに魅力的な食べ物だったか?冷やし中華って。

「まあそう言わずに。じゃあこうしようか。これは俺からの、仲直りのご挨拶。それでどうだい?それともお嬢ちゃん…あ、いや文ちゃん。文ちゃんは俺と仲直りなんてしたくないかい?」

宗佑衛門さんは爽やかに笑いながらウィンクした。

…実にサマになっている。いつぞやの僕なんかとは比べるのも恥ずかしくなる様な、絵になる仕草だった。

水嶋君と言い本郷さんと言い、世の中には何でこうもカッコいい人が多いんだ。

僕なんかの出番なんてあった物じゃない。

「あ…いえ、決してそんな事は…失礼を働いてしまったのは私の方ですし…」

「上々、上々。じゃあこれで仲直りだ。俺、気合入れて作るからな、ちょとだけ待っててくんない」

宗佑衛門さんはガッツポーズして、右手で自分の左腕のタトゥーをぱんぱん叩いて調理をはじめた。

「…鮎子先生?」

「ん?なーに」

「…何でお蕎麦屋さんに冷やし中華があるんですか?」

「わたしだって知らないよぉ。でもね、昔から宗佑衛門…宗ちゃんって、一度口に出したら、何でも必ずやり遂げちゃう所あるからねえ」

鮎子先生は、ふたたびコップ酒を口にしながら、どこか昔を懐かしむ様な口調で言った。

想い出に耽りながらお酒を口にする美女。うーむ。こっちはこっちでまた絵になるなあ。

…僕もいつか、こんなカッコいい大人になってみたいな。少なくとも、お酒を呑む姿が絵になる様な大人にはなりたい。ウチの親父みたく、酔っぱらうと必ずタンコウ節がなり立てる様になるのは…御免蒙る。

冬の寒い夜、通り掛けの知らないお蕎麦屋さんの暖簾をくぐって、

「天でいっぱい。天が無けりゃかけでもいいや」

なんて粋な台詞のひとつも言ってみたいものである。

 ややあって、僕たち三人の前には美味しそうなざる蕎麦ふたつと、どことなく場違いではあるものの、これまた美味しそうな冷やし中華がひとつでん、と差し出された。

「うっわぁぁぁぁ…」

…なんて幸せそうな顔をするのだろう、まいはにーさんは。

「ほら見て志賀君!冷やし中華冷やし中華!」

「はいはいそうですねー。紅ショウガも美味しそうですねーすごいすごい」

…何だかどうでもよくなってしまいましたわな。

「そう!そうなんですよ!冷やし中華には紅ショウガ!さすがは志賀君、よく分かってますね!!」

はいそーですかー。僕ぁよく分かってるんですかー。褒められちゃった。うーれしーなー。

「じゃあ、いっただきまーす!…ちゅるるるる。…うわーうわーうわー!」

すっかりご満悦の文ちゃん先輩。うん。可愛い事は可愛いぞ。

何のかんの言っても、自分の彼女が笑顔になるのは嬉しい物だ。

一方鮎子先生は、というと。

コップ酒をひと口呑んで、その後で蕎麦の先端だけをおつゆに乗せ、そのままずるっと飲み込んでしまう食べ方だった。

うん。さすが蕎麦処・信州諏訪のご出身。お蕎麦の食べ方にも品格があると思う。…というかその仕草が妙に色っぽい。見ていて、ちょっと胸がときめいてしまう。

「…志賀くん?人の食べるの見てばかりいないで、自分も食べてみたら?美味しいよ」

「あ…はい」

では僕も。鮎子先生の様に、見よう見まねでお蕎麦をお箸で一束つまみ、その先端だけをおつゆにつけて口に含む。そのまま噛まずに飲み込んでみる。

…喉の奥をくすぐる様な、引っかかりそうで引っかからない絶妙の喉越し。

得も言われぬ絶妙の快感が、喉から身体全体に拡がってゆく。

と同時に、若草の様な心地よい香りが喉から鼻の先に抜けていった。

これだよこれ!

この感触と香りは、お蕎麦全体をつゆに浸してしまっては絶対に味わえない。

その時、僕は理解してしまった。

子供の頃、父に連れられてよくお蕎麦屋さんには通った物だけど、いつも不思議だったのは、僕の横で食べる父の蕎麦徳利のおつゆが、いくら食べても一向に減らない事だった。

どうして?と聞く僕に父は、

「お前はつゆを漬け過ぎるんだ」

としか答えてくれなかったけれど、そういう事だったのか。

そんな事も分からずに、これまで「蕎麦好き」などと豪語してきた自分が恥ずかしくなる。

でも鮎子先生みたいな食べ方をすれば、お蕎麦の喉越し、その次に本当の意味での「味付け」程度のおつゆの風味、そしてその直後にお蕎麦の香り…と、こんなにも幅の広い味わい方ができるのか。これは凄い。

志賀義治、(よわい)拾六にしてお蕎麦の戴き方の神髄、此処に開・眼ッ!!

それは傍から見れば、一種異様な光景だったことだろう。

黙々と上品にお蕎麦を戴く美女。

その横ではひと口ごとに感激に打ち震える、一組の高校生バカップル。

しかも女の子の方は、あろう事か食べているのは冷やし中華ときた。…お蕎麦屋さんなのに。

…嗚呼、何て幸せなんだ僕ぁ。

今日は素晴らしい出会いがいくつもあったし、その締めくくりにはこんなに美味しいお蕎麦を戴く事もできて。

しかも永く親しんできた身近な食べ物のはずのお蕎麦の、本当の美味しさまで知る事ができたときた。

何と言う最良の日。

僕は今日、「幸福」という言葉に酔いしれていた。

でも、「幸福」って奴はいつまでも続かない。必ずそこにいつか「終わり」はやってくる。

名残惜しさに身を震わせつつ、僕はざるに残った最後の一束を喉に流し込んだ。その後で開いた茶碗に蕎麦湯を注ぎ込んで呑んでみる。

…うん!こっちも最高だ。濃くて、しかもほのかに甘みもある。

蕎麦好きの「師匠」たるわが親父殿に言わせれば、「蕎麦のうんまい所は大体蕎麦湯の方に出てしまっている」のだそうだ。だから蕎麦湯を呑んでみれば、そのお店のお蕎麦の本当の旨味が分かるのだという。蕎麦湯はおつゆで割るから、食べただけではよく分からない、そこの蕎麦とおつゆの相性もいっそう明確になってくるしね。

満足感で心もいっぱいになってしまった僕は、文ちゃん先輩を見た。あはは、彼女も僕とおんなじ様な気持ちでいるのがよく分かった。

「文ちゃん先輩…」

「志賀くぅん‥」

僕と彼女は、どちらからともなく両手をを差し出して握り合った。

「僕、とっても幸せです…」

「私もです…はぁぁぁ…」

「…バカップル」

そんな僕たち二人の横では、なぜか鮎子先生が呆れた様な顔になっていた。

僕は自然に目を細めて、ちょっとした感慨に耽っていた。

そのまま何気なく店内の壁の方に目をやったら、その端の方に1枚のシングル盤が額に入れられて飾ってあるのに気がついた。

あれ?何だろう…ジャケットには革ジャンを着たバンドのメンバーが並んで映っていた。

あ、「無頼庵摂津屋さん江」なんて直筆のサインがある。

中央にはレス=ポールを持った人。ギター弾きの性分で、やはり一番最初に目が行くのはギターなんだよな。

…あのギターの人、どこかで見た事あるなあ…曲名は「ゲット・ザ・ワールド/ミスター・サンドマン」かあ。へぇ、B面は「ミスター・サンドマン」のカヴァーみたいだな。聴いてみたいなあ…どんなバンドなんだろう?

バンド名はどこかに書いて…ああ、あった。えっと…

「本郷信太郎&ザ・フラットボード・カスケーズ」…!?

ええっ?これって、あの本郷さんのバンドなのか…?

「…宗佑衛門さん?」

「んぁ?何だい?旨かったかい」

「はい!それはもちろん!ご馳走様でした。それで、あのレコードって…」

「ん?ああ、あいつかぁ。懐かしいなあ、な?鮎子さん」

え?鮎子先生も関係あるのか?

僕は鮎子先生の方を見たけれど、先生はただ黙っていた。

「何と言っても、『ザ・フラットボード・カスケーズ』の名付け親だもんなあ、鮎子さんは」

え…ええっ…?えええっ…!?

「…宗ちゃん、ご馳走様。わたし、酔っぱらっちゃったから、これで失礼するね」

鮎子先生は僕たちの分の代金まで机の上に置くと、一人そのままお店を出て行ってしまった。

「鮎子…先生…?」

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