神と怪獣としての世界 7
*
ガラリとすいた電車を降りて、誰も居ない駅を出ると、いろんな旅館やホテルの看板が見える。
明神町駅からすこし行ったところに、温泉街はある。
駅のロータリーは一部が温泉街専用のバス乗り場になっていて、お客さんと思われる人が一人だけ立っていた。ちょうど旅館の名前が書かれたマイクロバスがジャリジャリと走って来て、その人を拾って行った。僕らはそれを漫然と見ながら、どこに行くか考え――というか、泉さんが居ない。
見ると、向こうのコンビニにふらふらと吸い寄せられていく姿があった。青白い景色の中、コンビニの明かりは場違いに存在感がある。僕が知る限り、町にあるコンビニは、この一軒だ。僕も飲み物でも買おうかと思い、コンビニへ入ろうとした時、ちょうど泉さんが出て来た。飲み物は、後でいいか。
何かコンビニにしては大きい袋を提げてるけど。
「『土産物などを少々』」
訊くと、泉さんは旅行者みたいなことを言った。袋の輪郭からは、大きな箱が幾つか入っているのが分かる。
「泉さんは、どこの出身の人?」
「『ここ』」
どの程度の範囲を指すのかは分からなかったが、『この町』ということではないだろう。この町ならば今まで温泉に行ったことがないとは考えにくい。でも、この地方の人なのにお土産を買うのは珍しいと思った。
「『まれになら』」
それは、まれになら当地の土産物を食べたくなるという意味だろうと、僕は受け取った。
バスの乗降口に行き、案内板を読むと、ある旅館のバスが七時に来ることが判った。今、六時半。待てなくはないけど、微妙でもある。バスが来たとして、日帰り入浴は乗せてもらえない可能性もある。けれど、雪の中を温泉街まで歩くのも微妙だ。
と、一台のマイクロバスがざりざりと走って来て、停まった。中から十人ほどの若者が降りてきた。皆、大きな荷物を抱えていた。中にはスノーボードを肩に掛けたり、スキー板を担いでる人も居る。
マイクロバスには[Xスノーパーク]と書かれていた。タイヤには厳重にチェーンが巻かれている。
どうやら、X山のスキー場の送迎バスらしい。
X山というのは、この地方と隣の県を隔てている連峰の名前である。昔は登山者が使っていた通称だったらしいが、通称が正式名称として定着した珍しい例だった。千八百メートル級の山々が連なっている。雪が降っていなければ、駅の向こうには山が見えるはずだ。
気付くと、新しい数人のグループが居て、スキー板をバスの後部のラックに入れている。その人達は僕達を追い越すようにバスに乗り込んだ。今からスキー場に行く人達のようだ。
「え、ちょっと、泉さん!?」
背中を押され、というより押し上げられた。気付いたら僕は瞬く間にバスに入っていた。すいている車内に立っている泉さんと僕。床下で唸るディーゼル音。バスは発進していた。
泉さんは適当に僕を眺めていたが、状況を理解してない僕を見てか、「『察しろよばかやろう』」というふうにも見える白けた目で言った。
「『順序を変えたい。風呂は後回し』」
僕のコートを引っ張って行き、後ろの四人用シートの中央に座った。
風呂は後? そして、このバスに乗るということは……。
そのタイミングで、泉さんは、開いていた『名言集』のページを見せた。
『思ったらすぐに遊べ。No Reason』と書かれていた。
なるほど、スキーか。四つのうちの「遊興」をこなせるわけだった。こんな天気の時に何の遊びがあるのかと思ったけど、そうか、雪で遊べばいいのか。
泉さんは、電車を降りてから上げていたゴーグルを、また下げた。
そういえば、泉さんの今の格好は、本格的なスノーボード用のウェアに見えないこともない。偶然だろうか。
シートの隅に座っている男性が、珍妙なものを見る目で僕達をずっと見ていた。
*
高山地帯とはいえ、予想より時間が掛かった。積雪量が多く、バスも安全運転したのだろう。もさもさと雪を噛み、ゆっくりと登っていた。雪しか降っていないので景色は退屈だった。
山の上には、思ったよりも一杯、人が居た。
スキー場に隣接した降車場からは、ゲレンデを滑る沢山の人が見えた。
そういえば[Xスノーパーク]は全国でも知られたスキー場である――そうだ。県外からのお客も多いと聞いている。スキー場を中心とした一帯はリゾート地として知られ、旅館やペンションやホテルが多く建っていた。
客観的に見て、明神町よりも近代的な感じがしたし、活気もあった。山の上までは怪獣も来ないのだろうか。だとしたら、このリゾート地で優雅な「避難生活」をする金持ちも居るかもしれない。
あちこちで温泉が湧いているのも、人が来る要因だろう。泉さんが良ければ、スキーのついでに温泉に入ってしまってもいいと思う。
僕達はレンタルスキーの店を探し、ゲレンデの方へと向かった。僕は何度か家族でスキーに来たはずだったが、記憶は残ってなかった。あまり楽しくなかったんだろう。ボーゲンしかできないしね。
泉さんはスノーボードをレンタルした。僕はスキーウェアから借りなければならなかった。ひさしぶりにスキー板を嵌めてみたら、靴がビンディングに変に噛んでしまって閉口した。
リフト乗り場の近くで、泉さんはスキー場の鳥瞰図を見ていた。ゲレンデとリフトの配置が把握できる。[Xスノーパーク]は広いから、今から全部のゲレンデを滑るなんてことは無理だ。
「どういうふうに滑る?」
「『わたしはわたしのしたいようにする』」
そんなことを言うと思った。
というか、ボードなので両手は空くとはいえ、『名言集』は手放さないらしい。何か『名言集』が泉さんの本体であるような気がしてくるな。ちなみに「『防水仕様』」だという。そうか、としか言えない。
僕は泉さんに付き添うことにする。広いスキー場だ。はぐれると困る。主体的に滑りたいほどでもなかったし。
泉さんはリフトを乗り継いで行く。とにかく、地道に、乗り継ぐ。滑ろうとする気配は無い。リフトが無くなる所、つまり一番上まで登ろうとしているようだ。
「一番上に行こうとしてるの?」
「『もちろんだ』」
泉さんは『名言集』を手袋で器用にめくる。リフトは二人乗りで、今は四本目ぐらいだ。僕は乗り慣れていないから脇のバーを掴んでいる。泉さんには、本を持ってたら危ないよと最初は言ったけれど、途中からはやめた。
「『「スキー場で最上部まで行かないスキーヤーは人間ではない」という名言もある』」
「そこに山があるから的な感じか」
「『あの名言は好かない。名言にも格がある。あれは格が低い』」
「どういうのだったら、いい名言になるの?」
「『偉人が言うから名言になる。わたしが言っても名言にはならないよ』」
泉さんは肩をすくめる。
「そうなんだ」
「『大嘘。納得するな。失礼な奴』」
「え?」
「『心せよ。わたしの言葉は全部名言』」
こころなしか、部屋に居た時と比べて、呟きの鋭さが増してるような気がする。
標高が上がるとテンションも上がるのか。
登ること、およそ四十分。長いゴンドラリフトも挟み、僕達は一番上のゲレンデに到達した。ここから上は、リフトはない。
もっとも、雪とガスのため、景色はずっと変わっていない。ぼんやりとした白一色で、さわさわと雪が降っているだけである。最高点に来たという実感は無かった。
「『感無量だな』」
泉さんが殺伐と呟いた。
「感動してるように見えないね?」
「『言ってみただけだ。遊ぶ時は心の芯より遊び人に化すものだぞ。そうしないと、絶望するであろう?』」
腰に手を当て、説教体勢で言われる。やはりテンションがおかしい。
泉さんはビンディングに靴を嵌め、斜面が始まる縁に立った。
「『一本だけ滑れば、それで充分だ。人生のように』」
え。
意外だった。一本しか滑らなくていいのか。せっかくボードを借りたし、もっと滑ってもいいと思う。帰る時間のことでも考えてくれてるのかな。
と思ったけれど、それはとんでもない浅はかな読みだったと分かった。
泉さんは、ボードの面ではなくエッジを使ってゲレンデを下り始めた。
ずりずりずり。
がりがりがり。
ざりざりざりざり。
一分ほどで十メートルをやっと下りるような泉さんの「滑り」を見て、僕は暗澹たる予感にとらわれた。何だろうこのもどかしさは。ザリガニが逆噴射で移動するんじゃなく、細い足でちびちびと前に進むのを見ているような感じ。
僕はボーゲンで、三秒で泉さんの下に回った。
泉さんはじりじりと下り続けている。エッジを噛ませているだけの、ほとんど重力だけを利用した平行移動。
「泉さん、……一本て、もしかして」
「『うむ。このようにゲレンデを愛おしんで滑ったことは無かった。今までのわたしの滑りは、滑り急ぎであった。エッジの一本の線を通してゲレンデが全身に伝わってくるのだ。まさにゲレンデと一体。もはや、ここに居るわたしは、わたしではない。ゲレンデである』」
ブツブツと唱えながら泉さんは傍を通過していった。
と言っても、手を伸ばせば掴める所をまだ滑っている。なんて遅いんだ。
だけど僕は止めなかった。ていうか、止められないだろう。麓に着くまで何時間かかるだろうか。営業が終わるまでに帰り着けるのか?
ところで、泉さんが下りる作業をしている間、僕は何をしていたらいいんだろう。
途中で飽きてふつうに滑りだすかなとも少々期待したけど、全然そんなことはなく、泉さんは白い景色の中をのろのろと滑り続けた。まわりを流れていく雪のほうが全然速かった。あまりにも泉さんが遅いので、僕は単純に暇になり、泉さんが一個のゲレンデを下りる間、何回かリフトに乗っては滑ったりした。やがてそれも疲れたり飽きたりで、結局僕も泉さんと一緒に歩くように滑り降りるという仕方になった。
麓のロッジだの何だのが見えた時は、あちこちのカクテルライトが点灯を始めていた。
泉さんはペースを最後まで崩さずに、貸しスキーの小屋の前まで来て、止まった。
考えてみたら、一番上からここまで一直線で来ているし、一度も止まっていなかった。地味に凄いのかもしれなかった。
「どうだった?」
泉さんはゴーグルを上げ、顔を火照らせて、恍惚として答えた。
「『……すごく、よかったぁ』」
アイスクリームが冷凍庫から出され、ほどよい柔らかさになっていくような表情。見ていて羨ましくなるくらいの素直な笑顔だった。火照るほど運動量があったかな。でも、満足したようなら、それでいい。泉さんがボードなんかでこんなに楽しむ人だとは、事前には思ってもいなかった。結果的には付き添って良かったと、僕は思った。
つと、ボードを運んでいた泉さんが、振り向いた。
「『感謝する』」
「ん?」
「『あなたは、わたしが滑っている間、誰かが衝突してこないか注意を払っていた』」
たしかに、途中からは泉さんの後ろについていた。視界も悪かったし、ほとんど止まっているような泉さんの滑りでは、衝突される危険があったからだ。
「『あなたと一緒は、楽しい』」
泉さんはそう言うと、また歩いて行った。
笑ったようにも見えたのは、ボードの余韻だと思う。
*
僕達はそのまま近くの温泉に行った。
前述のとおり、ここは温泉地でもある。スキーを返却して数十メートルも歩くと、まず目につくのは、雪景色のあちこちから温泉の湯気が出ている風景だった。側溝には硫黄が堆積し、小川にもお湯が流れ込んでいるくらいだ。
泉さんは道端の湯煙の脇で止まり、鬱屈とした様子で言った。
「『仕方ない。時が来たようです。あの、とてもクールとは言えないものに入る日が』」
そのまま何も言わず、いちばん近くにあった古民家風の温泉施設に向かった。
そこは公衆浴場のようだ。
ホテルや旅館の半分以下の料金で掛け流しの温泉に入ることができるらしい。入り口には浴場の歴史や泉質が解説してあった。X山に来た人達に気軽に温泉に親しんでもらおうと建てられたと書かれている。泉さんには余計なお世話だろうな。
僕は、入り口の券売機で入場券を買い、泉さんに渡した。ついでに、持って来たタオル類も渡した。
二階が休憩所になっているそうなので、風呂から上がったら二階に来ることに決め、男湯と女湯に分かれた。
「『さよなら』」
泉さんはそう言い残して「ゆ」の奥に消えていった。
タイルにひびが入っているような鄙びた浴場だった。煙の向こうにお爺さんが一人だけ入っていた。予想外に空いていた。たまたま空いている時間帯なのか。
妙に温泉は熱かった。僕は湯疲れしてしまい、10分ほどで上がってしまった。
二階の休憩スペースは、四十畳くらいある広い座敷だった。石油ストーブが何台も置かれ、部屋はのぼせるように暖かい。家族連れが一組横になっていた。お茶と水のセルフサービスがあった。ヤカンからお茶を出して飲むと微妙に冷たかった。
泉さんはまだ来てなかった。意外と温泉を堪能してるのだろうか?
あるいは、嫌いなあまり、気絶したりして上がるに上がれなくなってるとか? ……まさかね。一応、しばらくしたら、下で問い合わせてみようか。
僕は窓のそばで横になった。降っている雪が逆さに見え、下から上に吹き上がって来る感じがする。何か疲れていたのか、僕は急に眠くなった。たちまち寝てしまった。
時代がかった石油ストーブの、あちこち凹んだヤカンから、かんかんと音がしている。
空気が暖かくて、乾いている。
窓が作る青白い帯は、薄暗くなっていき、灰色に置き換わる。
広い座敷には、他の客は居なかった。
窓際には少女が正座していた。浴場のお婆さんが階段を上って来て、部屋の電気をつけて、戻って行った。
少女のケルティックなチェック柄のスカートの上には、少年が膝枕されて寝ていた。
目が覚めるとさかさの泉さんに見下ろされていた。
泉さんは薄手の白いシャツを着て、首に手ぬぐいとゴーグルを掛けていた。髪は洗ったようだ。いつもよりしなやかに纏まっている。開かれた『名言集』が頭のてっぺんに伏せられていた。今の泉さんは、部屋に居た時のニオイは消え、石鹸のニオイになった。
僕は後頭部に柔らかい窪みを感じる。そして、反転した泉さんの見え方。
やっと僕は、はっきりと目が覚めた。慌てて飛び起きた。泉さんは、よけるように頭部を引き、『名言集』はばさりと畳に落ちた。
やっぱり僕は、泉さんのそこに寝ていた。
恥ずかしさと混乱で、頭が熱くなる。僕はそこで寝た覚えはない……。いやでも、寝相が悪くてそこに登ったとか……? いや、まさか。
「え、ええ、と……!?」
「『わたしがした。(畳が)固そうだったから』」
「ああ、そうか、うん。そうだよね」
ありがとうと言うべきなんだろうか。部屋は電灯がつき、時間が経っていることを窺わせる。膝枕をされても僕は起きなかったのか。熟睡レベルの気持ち良さだったのか?
泉さんは、疲れていないのだろうか。
「『やることもなかったし、眠くもなかった』」
泉さんはそう説明した。『名言集』を拾い、ホコリを払う。
動揺が終わらない僕に対し、泉さんは等身大の氷柱のように固定された顔をしていた。
僕は、ふと感じた。泉さんが部屋に来てから、僕はあまり構わないできた。たまに構うくらいでも、お互いの生活は充分にスムーズに流れていた。
そんな泉さんに、僕は手の掛からない愛玩動物のような印象を持っていたのは否定できない。たまに水をあげる観葉植物でもいい。こっちが何かを与えるような、一方的な関係だと思い込んでいた。
でも、それはひょっとして、思い込みじゃないだろうか。
泉さんの側でも同じ事が言えるんじゃないだろうか。
考えてみれば、スキー場に来たのも、温泉に入ったのも、泉さんが主導したと言えなくはなかった。泉さんにとって僕のほうが愛玩動物かもしれない。そうじゃないと言える保証は何も無い。
僕は急に、泉さんが大きく見えるような気がした。
今まで人形のようだった泉さんが、急に生命を吹き込まれ、静かに躍動をはじめた感じがした。
泉さんは本を片手に僕を見た。最初から変わらない凝視。まばたきで刻まれる無言の言語のリズム。何を考えてるのか、最初から分からない。でも今は、最初とは違った。分からなくてもいいか、じゃなかった。分からないことが、気になった。
今更のように思った。
泉さんは何をしに部屋に来たんだろう?
そして、僕をどう見ているんだろう?
……それは、想像もつかないことだった。
もしかすると独特で難解な目的を秘めていることもありうるんじゃ……? 僕はそう思った。不思議なことに、あまり違和感なく納得できた。
僕は、心の奥の部分がギュッと刺激されたような、熱くて痒い感触を覚えた。
「『……どうして、笑ってるの?』」
泉さんから指摘される。
……笑ってた?
……僕が?
なるほど、言われてみると、今の自分があまり締まらない表情をしていると分かる。目はぼんやり気味だし、口は開いてるようだし、顔の外側の肉がちょっと下がってる。つまり笑っているんだろう。だけど、何でだろう? 笑った理由が分からない。それがおかしくて、また笑いが出た。今度は自覚できる笑いだった。
「『そんなにわたしのがよかった?』」
泉さんが自分の太腿を無言で指差した。僕はそこで、眠っていた。だから殆ど感触は覚えていなかった。しかし、よかったか悪かったかというと、答えは決まってる気がした。正直に答えるのがいい。
「……うん、よかった」
「『////』」
予期してなかったのか、泉さんは反応に詰まった。発作・いななき・うなり等を混ぜて固めた声を発し、黙り込んだ。平然としている顔が、すこし赤かった。
「泉さんも休まなくて大丈夫? 顔色が赤いけど熱とかない?」
「『それはひょっとしてギャグで言ってるのか!?』」
「え?」
「『……なんでもない。今の疲れなら平気。悪い疲れではない』」
泉さんは『名言集』に指を挟み、閉じた。
膝立ちになり、催促。
「『ごはん』」
「そうだね。ごはんにするか」
僕も立ち上がった。食事は最初からの目的の一つだ。
今は、変わらない泉さんが居るように思った。惑わされた感じがしたのは、僕の気のせいかもしれない。そうも思った。
寝呆けていたんだろう。変な起き方をしたので、夢を半分見ているみたいになったんだと思う。まあ、悪い心地じゃなかった。
それだけだと思う。
僕らは浴場の向かい側にあった、ロッジ風の食堂に入った。理由は単純、近かったからだ。
中は全体に木で造られ、高い屋根や梁の構造が分かった。テーブルや椅子も木でできていた。屋根裏の梁からは古ぼけたランプが吊り下がっていた。
お客さんは居なかったけど、泉さんは二階席に上がって行った。屋根が近いので狭く感じた。この屋根裏的感じといい、押入れといい、コンパクトな場所が好みなんだろうか。
メニューはふつうの食堂と変わりばえしなかった。僕はカルボナーラを頼んだ。泉さんはコンビニで買っていたらしい弁当を出した。店の人には持ち込みは注意されなかった。
二階の小さな窓から見えるのは、どこも雪に覆われた外の景色だ。
たまにうんざりした気分を覚えなくもない。こっちが雪に監視されてるような、反転した錯覚を感じたりもする。
しばらくして、クリーム色のカルボナーラが運ばれて来た。
泉さんはお膳型の弁当の紐を解き、『名言集』を読みながら食べ始めた。
論理的と言えるような整然とした箸運び。
「『……なに?』」
白身の魚を口に入れ、箸を止める。見ていたことに気付かれた。
「ごめん、つい。泉さんが食事するのを初めて見たから」
「『栄養は、ちゃんと摂る』」
泉さんは口から箸を抜き、続きを食する。
「でも、あんまり食べないよね?」
「『自然の帰結。最も食べたい時が、最も栄養を効果的に吸収する。最も食べたい時は、飢餓状態の時。日常茶飯とは言えない』」
魚の皮を口に挟み、少しずつ引き込んで食べる。
つまり、泉さんは飢餓状態だったのだろうか?
「『食べて。むかしからきらい』」
ヒジキの煮付けを僕に取り分けた。
残すのは勿体ない。僕はヒジキの煮付けをフォークで掬った。
*
バスを降りた場所で待ってると、乗った時と同じマイクロバスが来た。夕刻だからか、山から降りる人達でバスは混んでいた。
泉さんは窓際の席で『名言集』を読んでたけれど、しばらくすると眠ったようだ。
バスの急カーブで、泉さんの体がくらりと傾き、僕に頭を預ける姿勢になった。……寝ながらでも『名言集』はしっかりと膝の上に置かれている。
僕は泉さんの頭に、ぽんと触ってみた。とても柔らかい髪だった。
ダークブルーの退屈な景色の中、峠道を下り続けること一時間。
最初の信号機が現れた頃、泉さんは目を覚ました。
バスはX山を出て、明神町へと近付きつつあった。
外出。遊興。食事。 。
これで四つとも終わった。
果たして泉さんは、満足できたんだろうか。
「どうだった?」
「『興味深い。まれになら人間の世界も悪くはない。人間の世界の一年にも盆と正月という祝祭があるように』」
『名言集』を見ながら、泉さんは言った。
バスは夜の駅前に着いた。
ロータリー付近の旅館やホテルの看板が、明かりで照らされている。結局、町の温泉街には行かなかったけど、山の上で入ったので代わりになったと思う。あとは電車に乗り、市内に……。
「祐一、ですか?」
僕は、呼ばれた。
羽前さんが立っていた。
雪が降る中でも視認しやすい黒い外套。
「え………………。羽前さん? どうしてここに?」
僕は動揺した。羽前さんは明神町に住んでいるから駅に居てもおかしくはない。むしろ、学校が終わったのに明神町に来ている僕のほうがおかしかった。
僕が慌てたのは、泉さんと一緒に居るところを見られたからだと思う。なぜかは説明できないが気まずい。妙に気まずい。
「あたしは市内に用がありまして。戻ったところです」
「市内? もしかして僕の所?」
「基………………。いいえ。ちょっとした雑事です。祐い……祐二は?」
「……」
僕は、思案する。泉さんと一緒に出掛けていた。泉さんは「異変」による人物で、ウチに居候している。ありていに言えば、そうなる。けれど、泉さんの前で「異変」だなんて指摘するわけにはいかない。どう言ったらいいのか。
その時、泉さんが、自分から前に出た。
羽前さんが訊ねる。
「はじめまして。どなたです。祐二の友達ですか?」
泉さんは、羽前さんをゴーグル越しに見上げる。
「『 はじめまして 祐……二の、いも……姉です サキと申します 』」
機械的な自己紹介をした。泉さんの背格好では、姉は無理がある。最初に妹と言いかけたのに、どうして姉にしたんだろう。……ひょっとして、ギャグだろうか?
しかし、これでいい。肉親だと言ってくれると、話が厄介にならなくて済む。泉さんは機転がきいてる。
「あ、ああ、そうなんだ。明神町に行きたいって言われてね。観光みたいなものだよ」
「そうですか。見るものもない所ですが、ごゆっくり。あたしは弟さんの知り合いの、羽前」
自己紹介を始めた羽前さんを気にもせず、突然。
泉さんは、僕の腕を抱きかかえてきた。
え、あの? 泉さん? なに?
「『さっきのこと、言い直す』」
不意の出来事に遭うと、体が固まるらしい。意外に柔らかい感触は、スノーウェアのせいだけなのか。
「『「まれになら」じゃなく、「あなたとなら」』」
さっきのこと? 「まれになら」? ……何だっけ。頭が過熱気味で、うまく回っていない。この場面は、今、混沌の渦だった。僕はついていけてなかった。
「『つぎは(明神町温泉街の)ホテルで(温泉に行くのも吝かでない)』」
泉さんは一段と密着力を強め、僕を見上げてくる。
「ちょっと、あの、泉さん?」
あっ……。思わず僕は、名前を言ってしまった。がらがらと音を立てて、方便という嘘が御破算になってしまった。予期しない場面の連続。ふと僕は、羽前さんを見る。
何よりも予期しないものが、あった。
ロボットみたいな顔しか見せたことがない羽前さんが、ぽかんと口を開け、まばたきもしないで、こっちを見ていた。
羽前さんは額に手をあて、ばちばち、まばたきをする。困惑しているようにも見える。困惑なら僕もだ。何がどうなってるのか。今からどうなるのか。分からないし、あんまり知りたくもなかった。たしかに言えるのは、三人で鉢合わせしたことが混沌の原因だっていうことだ。
「なるほど。わかりました」
羽前さんは、元の表情に戻った。
何がわかったんだろう。この場面で何かがわかったとしたら、それは冷静に言って誤解としか思えない。僕はひどい誤解をされてるかもしれない。
「基地に行くには準備が色々あると、あなたは言いました。これが準備なのですね。それがわかりました」
ものすごく、平然というか、淡々とした言明。
僕はなぜか、言葉にならない不気味さを感じた。
羽前さんは僕を誤解した。たぶん、僕への期待度というものがあったら、それは著しく下がった。それでも顔には出さなかった。期待以下の人間だった事実を静かに受け入れた。こんな人間でも一応は正義任務を共にする仲間だ。そういう大人の配慮。
違うんだよ羽前さん。いや、違くはないんだけど、正しい説明を聞いてくれるべきだ。けれど今は何を言ってもカオスにカオスを注ぐ予感しか無かった。
「しっかりと準備されるとよろしいでしょう」
羽前さんはそう言って去って行った。
僕は額に手を当てた。これは、誤解を解くのに時間が掛かるかもしれないな。
そういえば、次回の任務の日がいつなのか、また聞きそびれたな。