神と怪獣としての世界 6
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次の日は土曜日だった。学校は午前中だけだ。ちなみに、化学、数学、古文、英語のグラマーというハードめの時間割だ。ずっと昔は土曜に授業がない時代があったらしい。うらやましい。
放課後、僕は昨日の掃除で中脱けした事を、委員長から問い詰められた。
委員長は僕のほうの事情は一切聞くつもりが無さそうだった。頭や脛をホウキで小突きながら正論を諄々と浴びせ、それでもまだ言い足りない感じだった。僕は説明も弁解もしなかったけれど、委員長の冷え冷えとした怒りは一層増大した。だけど、正義の味方と会合をしてロボットで巡回してたなんて言っても、通用しないだろう。
「それくらいにしておけ。昨日はおれが二人分働いた。問題ないだろう」
北東君が委員長の肩をポンとたたき、正論を中断させた。
「私はこいつがさぼった事を言ってるの。あんたが代わってもこいつの罪は消えないわ。しゃしゃり出ないでよ。だいたいあんた、手がでかいのよっ」
委員長は反論し、関係ない北東君の手にも批判した。北東君に真っ向から論難できる生徒は、クラスでも委員長一人しか見たことない。
「ならば、代わりにおれを責めるがいい。ユウジが帰ったのを見逃したおれが第一に責任を負おう」
そう北東君が胸を張ると、委員長は怒りとも冷笑ともつかない渋面になり、深く息を飲んだ。
「……もういいわ!」
北東君の手を振り払い、掃除を再開した。
委員長の厳しさは、北東君よりも僕に対して何倍も辛辣だった。それは理解できた。キングとも呼ばれる北東君は、DQNの道に真剣に取り組んでいる。いわばDQNのプロだ。ふつうの人間達は、プロを一目おく。委員長は正論を実施する側で、一見DQNの反対だが、反対なりにも北東君にオーラのようなものを感じるのかもしれない。
「みんなも早く続けて! なにをボヤッと見てるのよ!」
班の生徒達は、委員長に一喝され、黙って手を動かした。空気が凍っていた。
委員長は、班でも、クラスでも、どこか浮いていた。
まじめすぎるのだった。クラスの人達は、義務的にだけ委員長と関わるようにしているようだった。もし関わる時も、形式的な会話に終始し、早めにやりとりを終えようとしている感じだった。
DQNすぎても浮くし、まじめすぎても浮くってことなんだろう。
結局、僕は罰として教室の机運びを一人でやらされた。ふう。
市内に着き、家路を歩く。前の三倍時間が掛かる。それももう慣れた。
みんなが同じ場所を歩くから、歩道は幅が本来の数分の一になっていて、しかも凍ってる。両側には雪の壁ができていた。雪が積もりすぎているし、やみそうもないし、当然だ。子供なら迷路感覚で楽しいかもしれない。
前日からの問題を僕は考えた。
基地に泊まり込む話だ。
どうやって家を空けたらいいだろう。
父さんは自分のことで精一杯だろうから、少しくらい僕が居なくても、気にしないかもしれない。
問題は母さんだ。おとといぐらいかな、様子を見に行ったら、ココロのクスリの殻やチリ紙が溢れて、黴臭く湿っぽい臭いが立ち籠め、部屋は大変なことになっていた。その時は片付けてはきたけど、今のところ立ち直る感じはない。父さんのクビが一因で寝込んだとすれば、息子が突然家から消えたら、より症状が深刻になりかねない。言い方を考える必要があった。
泉さんは、宣言通り、毎日「探し物」をしていた。もちろん学校には行っていない。朝、僕が起きるのと同時くらいに起き、一日じゅう探し物をしていた。学校から帰ると、部屋が散らかっていたり、隣の部屋からゴトゴトと音がするのが常だった。夕方になると、散らかした物を片付けた。夕食を食べた後は押入れに入り、朝まで出て来なかった。今のところ、「探し物」が見付かった感じはない。
ただいま。
僕はドアの前でしっかり雪を払い、カギを開けて家に入った。廊下の修理を工務店に頼んだら、市内で怪獣の被害が多発しているから、うちの修理は二ヶ月待ちと言われた。僕は廊下に敷かれたコンパネの上をべこべこと歩く。コンパネは、穴を応急的に塞ぐために、近所のショッピングモールのホームセンターで買い、配達してもらった。
ダイニングのドアから明かりが漏れていた。テレビの音もする。
僕は、ドアを開けた。
二つの背中があった。
並んで座る父さんと泉さんだった。
「『あーん』」
泉さんは、解凍されたグラタンか何かをプラスチックのスプーンで掬い、父さんに食べさせていた。父さんは猫背で座り、口を開け、食べ物が運ばれると口を閉じて噛む。それを繰り返す。目は空中の一点を見ている。
三日ほど前だろうか。
ひょっこりと台所に下りていった泉さんは、父さんと顔を合わせた。泉さんが居ないのに気付いた僕は、遅れて台所に向かったら、泉さんが父さんに自己紹介するところだった。
「『お初に拝謁致します。イフクベユウジ君の妹で遠い親戚の泉サキと申します。特別な事情があってユウジ君と一緒に住んでいますけれど、妹だからといって不謹慎な関係に至ったりはまだしておりません。ふつつかものですが、何卒宜しくお願い奉ります』」
と三つ指をついて挨拶するのを見た僕はさすがに慌てた。いや、泉さんの普段の言動からして、このくらいは予期すべきだったかもしれない。ていうか、自己紹介文が色々な意味で問題ありだと思う。
「あいや、娘さん、堅苦しい挨拶はそこまでだ。顔をあげてください」
と父さんがふつうに対応したので、余計にややこしくなりそうだと思ったけど、父さんはリストラのショックで一時的に頭がおかしかったから、おかしい同士のやり取りはスムーズにいった。
最終的には、泉さんが僕の内心を量ってくれたのか、「友達の家に遊びに来た高校の同級生」という身分に修正された。父さんは(頭がおかしいので)言われたことを素直に信じ込み、今に至っている。
泉さんは片手に『名言集』を持ち、片手で食事の介助をしている。今日は淡いチェック柄のシャツ型のパジャマ。素足だけど寒くはないのだろうか。父さんは焦点の合わない目玉を微震動させながら、口だけをもぐもぐと動かす。誰も見ないテレビがついている。奇妙な光景だ。
「『よしよし』」
泉さんは父さんの頭を撫でた。たまに手を握ったりもしていた。父さんは全体に芒洋とした顔だったけど、目の開け方や唇の角度で嬉しそうなのが判った。本能的に、こういうお世話ができるのは女の子だからかな、と僕は思う。僕だったらできないと思うから。
最近の父さんは、退化した人間といった雰囲気だ。自失状態になってる。クビになった影響なのだろう。病院に行ったらクスリを十種類増やされたそうだ。僕と喋る時も、イグアナとかフラミンゴのような、純真だけど微妙に神経質そうな表情を浮かべていた。懐いていなくはないが、一線引いている感じ。
けれど、泉さんに食べさせてもらう時の父さんは、嬉しそうだ。
僕は、安心した。自失状態とはいえ、父さんはまだ軽度だ。ボケるにはまだ、若い。
僕の見立てでは、父さんは、ふつうの人間が人生で一~二度は経験する、「メンタルヘルスツアー」の時期に入っていると思う。
不幸がパッケージングされ、突然降って来る機会が、ふつうの人生には付き物だ。「生活習慣病入院ツアー」とか、「家族や友人に突然先立たれツアー」など、パッケージには様々な包み紙がある。度合いにより、ツアーに行ったきり還らないこともしばしばだ。僕たちふつうの人間は、しばしばこういう、ふつうの不幸のパッケージに見舞われる。
泉さんが父さんの介助をしてくれたのは、素直にありがたかった。人生の深刻な時期には周りの支えのおかげで生きる力を取り戻すことがけっこうあるからだ。
それに父さんも男性である。僕に付き添われるより、異性で他人の泉さんのほうが、緊張感と新鮮味がある。回復も早いと思う。証券会社の後藤田という人も、最近ぱったり来ない。僕は内心、泉さんに頼むところ大であった。泉さんの性格は良く分かっていないけど、気まぐれというか、フシギなところがある。なんで父さんを介助してくれているんだろう。そう考えると、フシギな性格だからとも思える。
異変はいろいろ起こっているけど、僕や僕の家は、そうそう運が悪くはないと思う。
「『ごちそうさまでした』」
泉さんが先に言うと、父さんは倣って「ごちそうさまでした」と手を合わせた。
「もどる」
ゆっくりした抑揚のない調子で言い、父さんは引き上げていった。
今日も息子の友達がなぜか遊びに来てる、とか思うんだろうか。いや、残念だけど、そこまで頭が働いてる様子もないんだけど。
「ありがとう。泉さん」
僕は礼を言わずには居られない。泉さんは確かに伊佐領家の安定に一枚噛んでくれている。枕詞に「低調な」や「不穏な」が付くにしても、安定は、安定だ。
生活という世界では、いろんなイベントが矢継ぎ早に起きてしまう。そして消えてしまう。
だから、束の間の安定が一番価値あるものだと、僕は思う。
「『別に、いい。わたしは一階でさがしものを行っていただけ。そこに父君が来た』」
泉さんは音もなく立ち上がり、ぺたぺたと帰って行く。すっかりこの家に慣れている足どりだ。僕は泉さんの後から階段を上った。とす、とす。階段でも『名言集』は読むんだな。頭の後ろには相変わらずゴーグルが付いている。泉さんは、一階でも探し物をしていたのか。父さんに自己紹介してたのも、探し物をしていて鉢合わせしたから?
「一階でも探してたの?」
こくり。立ち止まって、控え目に頷く。
「『家の中を引っ繰り返すくらいの勢いで激しく』」
えっと、何と言ったらいいか。
「いや、まあ。ちゃんと元通り片付けてくれればいいけど」
泉さんは物を散らかしてもきちんと片付けている。だから今のところ文句は無い。
「『一階もあらかた探した。残っているのは、あなたの両親の個室』」
「それはちょっと、さすがにやめてほしい、かな」
両親の部屋ばかりは、僕の一存でどうにかなる場所ではない。
「『では、やめておく。たぶん無いと思うから』」
改めて、何を探してるんだろうと思った。
前に訊いた時は無言だった。また訊いても同じだろう。
ところで、一階「も」と言うことは、二階は既に探し終わったのだろうか。それを訊いてみると、
「『ひととおりは。こんどは二周目』」
もう一度探しても同じじゃないか? とも思うけど。
「『一周目で気付かなかったことに気付くこともある。人生とおなじ』」
ふつうは人生を二周以上はしないと思う。けど『名言集』を手に持って言われると何故か二割くらい納得するから奇妙だ。
ん? ところで、さっきから気になっていたけど、これは……。
僕は泉さんに続いて部屋に入った。
そして、確信へと至った。
階段から感じていたこのにおいは、泉さんが原因じゃないだろうか。
ぱたん。泉さんは押入れに入ってしまった。
そういえば部屋に来てから泉さんが風呂に入っている記憶がない。
すると四日か五日? いや、途中で二十日間がすっ飛ばされてる異変があった。二十日間が僕以外にとってふつうに過ぎているなら、――二十四日分。
泉さん、風呂に入ってないよね?
いや、だけど、そんなこと訊いていいのか? 風呂に入ったらどう、なんて勧めてみるか? いやでも、風呂に入らないといけない状態なんだと裏読みされたらどうしよう。入ったほうがいい状態なのは間違いないけどさ。わああ、どうすれば。
そうだ。僕は名案を考えた。
今からお風呂わかすけど、よかったら僕が入る前に入ったら? そう勧めるのがいい。さりげなく入ってもらうことができる。
さっそく勧めようと押入れに近付くと、カラリと襖が開き、押入れから這い出す格好で泉さんが出て来た。服は黒い上下のスウェットに着替えている。今までのパジャマと比べて違いを感じない。
「着替えたの?」
「『これは、さがしもの用の服。いわば勝負服。これからは二周目だから』」
泉さんは静かに押入れを閉め、テーブルまで来る。テーブルの上には、何度も淹れたようなティーバッグが入った湯飲みが置かれていた。骨壷のように飾り気のない湯飲みは、来た翌日くらいに泉さんが台所から持って来たものだった。
泉さんはストーブのヤカンを取り、湯飲みにお湯を入れた。
探し物の前に、一服するようだ。
待つ。
待つ間、開けていないカップうどんを頭に載せてみている。入学式の日に僕が食べそびれ、そのままとなっている。おもちゃではないのは確かだ。
「それ、食べないの?」
頷く。カップうどんは落ちそうで落ちない。なにげにすごい。
そういえば僕は、泉さんに無関心だったかもしれない。
もちろん泉さんが探し物の手伝いを必要としないことも理由かもしれない。いつも一人で探し物をしていたし、朝が来れば起き、夜が来れば寝ていた。僕はそんな規則的な行動に安心していたのか、泉さんの生活に関心を持たなかった。風呂のことに気付かなかったのもそうだ。四月なのに外は毎日零下5℃とかで、溶ける雪よりも積もる雪のほうが多い。家の中とはいえ、寒くないんだろうか。食事だってそうだ。ちゃんと食べてるんだろうか? 食事をしてるところも見たことがない。インスタント食品なら買い溜めてあったが、減ってはいなかった。
「『三分経った。味がどうでも、インスタントは三分経てば食うべき』」
泉さんは頭上のカップうどんを元通りに置いた。
湯飲みにはお茶とも言えない薄抹茶色の液体が湯気を上げていた。泉さんは、ティーバッグの紐が垂れたままの湯飲みを、くいと傾けた。
ゆっくり味わった後、ふと僕を見た。
「『飲む?』」
半分残っている液体を勧めてきた。
「い、いや、いいよ。どうぞ飲んで」
「『そう』」
くい、と傾けて飲み干し、再びストーブへ。ヤカンから二杯目のお湯を注ぐ。
そういえば、家の急須って、このまえ割ったんだよな。
「あのさ、泉さん。……今から、お風呂焚こうと思うんだけど、よかったら僕が入る前に入らない?」
さっきから思ってたことを、僕は、勧めてみた。
「『風呂は好きじゃない。入ってもどうせ汚れるのだから』」
僕の目論見は、斜め上に外れた。
「『わたしは風呂が嫌いだ。あれは意味がない。着るなら着たまま。裸なら裸のまま。どっちつかずは困る。風呂というものはどっちの一貫性も破壊する』」
ジト目で僕を睨んだ。ネガティブな半眼には、困惑、嫌悪、動揺が表れていた。顔は興奮で赤みが差している。語りたくないし語る気もないトラウマがあるような雰囲気だ。
「『それに汚いほうが好みという者も居るはずだ。わたしはその需要には応えている』」
動揺のためか、いつもに輪をかけて妙な発言を始めた。
本人が入りたくないなら、無理には入らせられない。
それなら、食事はどうか。何か栄養のあるものでも食べたほうがいいんじゃないか。
僕は、迷惑がられない程度には泉さんの生活を構ってみようと、今は思っていた。お金を貰っているからとかじゃない。今までは、見なさすぎてたと思う。寒さや栄養不足で風邪をひいたりしたら、探し物だってできない。泉さんの日常がスムーズに流れなくなったら、同じ部屋に居る僕の日常にも関わってくる。円滑に流れてくれるのが一番だ。
「じゃあ、夕飯は? 何か食べたいものはない? 父さんの食事も手伝ってくれたし」
「『特に食べたくはない。食事しながらさがしものはできない』」
風呂には入りたくない。食事もしたくないか。この人は何もやりたくないのかな。
「ふうん。したい事とか、行きたい所とかもないの?」
「『ない』」
やっぱり、そんなところか。まあいい。僕もそんなに深く介入する気はない。大事なのは、こうして確認することだ。体調を崩していないようなら、ひとまず……。
その時、泉さんはスッと立ち上がった。
部屋の何も無い壁を見て、呟いた。
「『……全部』」
「……え?」
「『全部やりたくないなら、全部やる』」
「え? 全部って?」
「『いま言った事。食事と遊興と外出と 。すべてをするということ』」
空隙があったところには「風呂」が入るのだろう。「風呂」の目をしていた。
でも、やりたくないのを全部やるって、どういう発想だろう?
それに、どうやって全部やるんだ?
「『今はさがしものの一周目と二周目のあいだ。ただちに二周目に入るには少し半端。この余暇を利用する』」
「えっと。分かった。それじゃあ、やってみるか」
僕から訊いた手前、取り下げることは難しい。時間も遅いけど、やってみるしかない。
ところで、他にやることがあったような気がする。何だったかな……。
「どういう順番で何処に行くとか、考えてるの?」
「『まず風呂』」
忌々しげに言った。食事・遊興・外出・風呂。最初に風呂をこなすつもりか。
でも、さっき風呂を沸かすと言ったけど、断られた。
「『わたしを風呂に入らせるには、風呂という概念を忘れさせる事が必要。隣町には温泉があると聞いた。そこへ行きたい。「観光地の温泉に行く」行為ならば、かろうじて風呂の概念を消去できる』」
たしかに明神町は温泉地としても知られている。風呂の忌まわしさを温泉地の非日常感で消そうということか。単に温泉に行きたいだけとも考えられるが、風呂への嫌がり方からしてそれは無いと思った。
一日に二回も明神町に行くとは思わなかったけど、泉さんが風呂に入ってくれるのは僕としても歓迎だった。体をきれいにしてくれるという意味で。それに温泉に行けば、四つのうちの「外出」も同時にこなせる。これは決して悪い案ではなかった。泉さんが自分から何かを所望するというのも、見ていて新鮮だった。そういえば明神町の温泉には僕も行ったことが無かった。
「『余所行きの服に着替える』」
と言って泉さんは押入れに潜った。
僕は、押入れに泉さんの生活の一部がある空間には慣れている。気にしないで自分の準備を進めた。大きめのスポーツバッグに下着や靴下や財布を入れる。あ、手拭いは風呂場にあったな。泉さんのも用意しとこう。
風呂場は台所の反対側に位置する。途中、母さんの部屋の前を通ることになる。寝てるだろうから黙って出掛けよう。……と、母さんの部屋のドアが開いてるのが見えた。中は暗い。僕は、開けてみた。
布団が敷かれていたが、誰も居なかった。
母さんは何処かに出掛けたらしい。父さんが仕事をやめてから、家を空けるのは初めてじゃないだろうか。たとえ心療内科や薬局だとしても、外出の意欲が出るのはいい徴候だと思った。僕はそっとドアを閉めた。
風呂場でバスタオルと手拭いを準備してから、台所に立ち寄った。小腹を満たして戻る頃には、泉さんの準備も終わっているだろう。コップ一杯分の牛乳を火に掛けるあいだ、青菜漬を切って器に入れ、カニカマを切って添える。熱めの牛乳をコップに空け、軽食の出来上がり。
家の外で怪獣警報が鳴りだした。
青菜のシャッキリ感と塩辛さが、カニカマのグニャリとした歯ごたえと調和して心地いい。警報が鳴ってなきゃ、普段と何も変わらないんだけどなあ。温かい牛乳をごくりと飲む。熱が補充されたので、体がぶるっと震え、冷気を外へ出した。そのうち警報は鳴らなくなった。僕はホッとして、食器を洗い桶に入れた。今から出掛けるところだから、出現されたら困る。
「泉さん、そろそろ行くよー」
ドアを開けると泉さんが着替えていた。
押入れじゃなく、部屋の中で。
泉さんは、はだかだった。
足元には服が乱雑に置かれている。
下着は、その、下は穿いてたけど上は着けてなかった。『名言集』は、あいかわらず手に持っていた。
「『……?』」
泉さんは、なにげなく僕を見た。ふつうに凝視した。その目から言いたいことを推測すると「『見ての通り今は裸だから行けない』」という感じだと思う。
「ご、ごめん! 着替えてると思わなくて」
ふつう、女の子の着替えは男が見るものじゃない。僕は慌てて外に出る。ドアをしめる。
え、でもなんで。
今までずっと押入れの中で着替えてたはずだよな。
そういえば泉さんが外に行くのは初めてだ。服を広げたりして選んでたのかもしれない。たぶんそうだろう。押入れの中ではスペースが足りなかった。
「『出る必要があるの? ここはあなたの部屋』」
中から声がする。たしかに僕の部屋だけどさ。女の子の着替え中に入るわけにいかないよ。ドアを閉めたのに、動揺が収まらない。心拍数が下がらない。
何も着てない泉さんは、凄くきれいだった。
その衝撃は、たぶんきれいすぎて、細かく覚えてないほどだった。たとえば、その、胸がどのくらいだったとか。確かなのは、目の醒めるようなものを見たって事だった。たぶん、歴史上開帳されたことがない秘仏を見る機会があったら、似た衝撃を受けるかもしれない。張りのある曲線が造るボディラインはエロな気持ちを忘れた(ことに今気付いた)くらいに印象的だった。なぜか僕は『ルビンの壷』を思い出した。いつもずんどうな服だから、判らなかったなあ。まだ衝撃が後を引いている。呼吸が落ち着かない。
ふう、と息をついて、日常会話を投げた。
「着替えが終わったら、教え――」
「『終了した』」
早いねっ!
僕はドアの前で時間を置き、入るよと念押ししてから、中に入った。
泉さんは雪だるまのように着膨れていた。毛糸の帽子をかぶり、上がカーキ色、下がブラックの分厚いウェアを着ていた。ファッション性よりも機能性を重視した作りが一目で分かった。スノーギアという感じだ。大きなポケットには手袋が差し込んである。
着替えで散らかっていた服も片付けられていた。僕が見た景色は、嘘だったかのようだ。けれど、どことなく泉さんを見づらかった。体の中心あたりを見ながら言った。
「ふう。まさか部屋で着替えてるとは思わなかった。もう行けるの?」
泉さんは僕をじっと見たまま頷く。
「『押入れは着替えには狭かった。部屋で着替えたい気分だった。気持ち良かった』」
「え?」
泉さんは、こちらに歩いてきて、何かを伝えるように、ニッ、と笑った。意図的な所作なのかどうかは分からない。泉さんのやることだから、『名言集』に書いてある笑い方を実践しただけかもしれない。元から秀でた造形の顔なので、その動作だけでも美麗なものだった。
夕刻になり、雪も一層濃く降っていた。風こそないけれど、雪の粒を見てると酔うほどの降り方だ。まず駅に行き、電車で明神町まで行くのを考えると、一苦労といえる。
「……『雪』」
泉さんが初めて見たように呟いた。
ビニール傘を開けながら、僕は提案する。
「ああ、結構降ってるね。どうする、タクシーでも呼ぼうか?」
泉さんが、『名言集』を持たないほうの手で、僕の手を握った。
「『このままでいい』」
僕を見て、そう言った。
手を繋いだまま、僕は歩き出した。
手袋しようと思ったけど、できないな。
もちろん僕は、平常心は保ててなかった。
さっきの着替えを見てしまったせいだと思う。
泉さんは、ゴーグルを前方に回し、正式に装着した。
正直、泉さんがどういう人なのか、僕は分からない。