神と怪獣としての世界 3
*
家に戻り、濡れた靴下を脱ぎ、ズボンをたくし上げていると、廊下の変化に気付いた。天井の穴は空いたままだけど、車はどこかに取り去られていた。撤去されたようだ。地味に嬉しかった。
ダイニングのドアの向こうからは、父さんと例の証券マンの声がしていた。話し込んでいるところにお邪魔し、ひととおり合格を報告し、二人から褒められる。僕は二人にお礼を述べてダイニングを出た。母さんは……寝込んでいるらしいから、顔を出すのは後だな。先に部屋に戻ることにした。
とた、とた、と階段を昇り、部屋に入り、バッグを置き、着替えに入った。着替えたらシャワーを浴びに……。
少女が居た。
こぢんまりした、コケシみたいな体型の少女が、ベッドの上にコロリと横になっていた。細くて、小さくて、華奢で、まちがいなく女だ。
「うわぁ」
僕は叫び、よろけた。
存在感が無すぎて驚いた。というか、誰? なんで居るの? なんなの? ひとしきり驚嘆し、次に僕は、少女の外見に改めて驚いた。
ぶかぶかの白のトレーナーという格好は、寒さからは薄い気がしなくもないけど、まだいい。しかしなぜか、ごてごてとした重厚なゴーグルを室内で装備していた。少女には不釣り合いなデカいゴーグルだった。虹色にコーティングされたマジックミラー仕様で、スノーボードやスキーで使うもののようだ。おまけに少女は、片手に本を持っていた。
僕のふとんでゴーグルを着けた少女が仰向けになって本を読んでいる。
ふと、少女は何気なく、僕を向いた。
視線の先には、すでにズボンを足元まで下ろした僕が居た。
「き、君、誰? なんで僕の部屋に!?」
慌てて僕はズボンを引き上げた。
少女は、起き上がりこぼしのように身をもたげ、しずかに正座した。手に持った本は、すすけたワイン色のハードカバー。僕の物ではない。
「『驚くには当たらない』」
少女が言った。パワーが無いというか、あまり耳に残らない声だった。ぺらぺらな紙のようだ。
「『きみがこの大宇宙に生存していること自体、最高の奇跡なのだよ』」
次の瞬間、雄弁な声となり、スケールの大きな発言をした。
僕は、部屋の空間が軽くねじれた感じがした。めまいかもしれない。
「『まあ、大半の人間に関して言えば、ゴミクズ同然だけどな。もちろん君も含めて』」
少女は形の良い口を歪めた。声音も嗜虐的なものに変わった。瞬間ごとに変わる、表情。変化に置いていかれ、どきりとする。
「待って、君は一体、誰?」
やっと僕は訊く。
「『泉サキ』」
なるほど。名前は分かった。
って、そうじゃない。
「なんで僕の部屋に居るの?」
「『窓を開けて入ったからだ』」
ぶかぶかの服の中の胸を、どことなく張ったように見えた。
見ると、窓のカギは確かに開いていた。閉め忘れたかもしれない。外にはテラスがある。テラスづたいに入れなくはない。いや、でも、威張る場面じゃないよね?
「『きみこそ、何者だ?』」
逆に、僕は問われた。
「『きみは、何だ。生物学的な一動物個体なのか。社会的歯車としての部品的人間なのか。観念論的な主体存在であり、君のセカイの中心か』」
少女は唱える。
意味が分からなかった。
この泉サキという少女、名前以外、謎だった。
「『わたしはさがしものがありしばらくここに滞在したい』」
え?
待ってほしい。話が見えない。
いや、「探し物がある」のは理解した。日本語だからだ。
だけど何故に、ここに滞在する流れになるのか。
ここは僕の部屋、だよな。
なんで?
「『気にするな』」
気にするよ! 僕は少女のことを知らない。戸惑うのは当たり前だ。事情を順を追って説明してほしい。ぴかぴかした虹色のゴーグルが、僕を凝視する。
「『そういえば、忘れていた。室内ではゴーグルを外すのを』」
少女は、ゴーグルをつまみ、持ち上げた。
「……」
自分の息が、止まるのが分かった。
少女は、息を飲むほどかわいかった。
「『「かわいいは正義」という言葉がある』」
泉サキという少女は、自己言及した。
僕は言葉を返さなかった。少女の言及は、事実だったからだ。
正義かどうかは知らないけど、かわいい自分を「かわいい」と言うのは、単に事実に過ぎない。
ちんまりした体の上に、丸い頭が不安定に乗っている。寝癖のある短めの猫毛が、頭部を自然に飾っている。皮膚の白さは常人離れしている。ぱちりと開いた目、だけど、逃げ水みたいに感情が読めそうで読めない。
さっき五高で見た女の子とは別のタイプだった。さっきの子は本当に美人で色気があった。羽前さんとも違った。羽前さんは、感情は見えにくいけど、淡々として一貫している感じはした。
この少女は、掴み所がわからない。
一つの表情から、別の表情に、すぐ移り変わる。
風の吹き方で模様が変わる水面みたいだった。
そして、外見のかわいさで言えば、この少女は今まで会った中でも屈指と言えた。
多目に見ても十二、三歳という雰囲気。たぶん実年齢よりも若く見られるはずだ。未熟さがないと完成しないデザイン。未完成という完成。そういう価値もある。――僕はそんなことを心中で呟いた自分を、変態かもしれないと思った。でも、それでいい。変態だろうと、事実であれば、認めなければいけない。
ともあれ、今日は、たてつづけにかわいい女の子と出会った。人生最良の日なのかもしれないと思った。そして僕は、ぐらつく自分を感じた。この不法侵入した少女を無下に追い出す法も、ないかもしれないと……。やっぱり、かわいさは、きたない。罪を罪でなくさせる強引さ。本当にきたない。でも、きたなくはないわけだった。だって、かわいいから。
あぁつまり、「かわいいは正義」って、そういう意味なのか。
「『わたしが同居人では、不服か?』」
少女は、訊いてくる。ずいと首を伸ばし、当然、文句のつけようなく、かわいかった。
だけど、簡単には首を縦に振れない。
現実問題、かわいいだけじゃ受け入れることはできない。
うちは裕福ではない。父さんもクビにされた。生活の負担が増えるのは、困るんだ。
「『ふふん』」
少女は、見抜いたように半眼でほくそ笑んだ。背中に手を入れたかと思うと、手品のように、札束を取り出した。
少女が出した札束は本物だった。
少なくとも僕には贋金には見えなかった。背筋に震えがきた。僕は、白いトレーナーだけという格好の(いっけん白一色だけど、よく見ると、うすいグレーとアイボリーのストライプがある)少女を見回した。
悪いけど、札束には不相応な格好だと思う。ていうか、この子、ぶかぶかのトレーナーの下は、何を着ているんだろう。
「『滞在費。受け取って』」
「いや、待って」
「『なぜ? あなたはまだ警察に連絡していない。追い出す意欲はさほど高くないと見る。ならばわたしは相応の滞在費によって滞在できるのが妥当』」
たしかに少女が手にする札束の量は、滞在費を超えて余りある。家の改築にも充てられるほどだろう。でも僕は、いきなり出された札束を、コンビニの割り箸のように受け取るのは戸惑う。
いや、そういう話でもなく。
「あのね、僕はまず、お金とかの前に、君がなんでここに居るのか分からないわけだけど……」
そうだ。なぜうちに来たのか、うちに滞在するのか、少女の意図は一切不明だった。
目的が分からない他人を滞在させたり、お金を受け取ったりできない。
「『言ったはず。わたしはここで、さがしものがある』」
「それは何?」
「『……』」
ジー。こっちを見たまま、何も言わない。
探し物の中身は喋りたくないんだろうか?
質問を変えてみる。
「じゃあ、なんでここで探し物をするの?」
「『言語では概念を説明できないし、理解もできない』」
ひときわ訥々とした口調。
僕は頭を掻いた。これじゃあ埒があかない。せめて探し物が明らかなら、僕も探せるから、すぐに見付かるかもしれない。要らない物なら、あげることもできる。
ところで、少女は「探し物がうちにある」ことをどうやって調べたんだろう? そこも含めて『理解できない』ってことか? 僕には理解できない事情があるってこと? ……そう考えて、僕はある推測を立てた。
「ええと。もしかして、君も『塾』関係なのか?」
当然のように「探し物」に来た少女。
そこには、僕のスケジュールを当然に把握していた羽前さんと似ている点があった。
「『――「塾」とは、何のこと?』」
少女は問う。艶のある形のよい目が、ぬるぬるとまばたきし、無言で僕を見る。意味が分からない、といった体である。塾のことを知ってるようには見えない。じいっと見詰められ、僕は気詰まりになる。
「いや、なんでもないよ」
「『そう』」
少女は、片手に本、片手に札束で、僕をじっと見る。
塾じゃないとすると……。僕は考えてみる。
少女の登場は、「異変」のうちかもしれない。
雪が降ってたり、怪獣警報が鳴ったり、妙な音楽がBGMになっていたり、そういった異変の一つである可能性はある。
もし異変だとしたら、あまり気にする必要はない。怪獣の件が片付けば、少女が居なくなる可能性は高い。羽前さんによれば、異変を作り出しているのは怪獣だ。
とりあえず、この少女は異変の一現象なんだと、僕は当たりをつけた。そしたら肩の力が抜けた気がした。ほかの異変と同じで、あまり気にしなくても生活に支障はないはずだ。
「『受け取って』」
少女は再び、僕にお金を差し出す。
「『安心して。偽札ではない。わたしはこの国の紙幣を「偽造したと悟られないレベルで製造する」技術がある。紙幣の材料・配合・行程・インク量・レイアウト・その全てを知っている。知ることは、罪』」
本人の口から偽造と言っている。いかがなものか。だけど、「偽造と悟られない」なら、本物と同一と言える。実際、実物を見ると、本物そのものだ。個人で本物の紙幣を作ってしまったら、作ったもの自体は偽物ではない。第一、偽造とかは全て冗談で、まっとうな日本銀行券かもしれない。とつぜん部屋に寝てたり、この少女は人を食った雰囲気を持っている。
僕は、悩んだ。
悩んだ末――。受け取ることに決めた。
もちろん、うちの経済の助けになるという期待も数割ある。でも一番は、少女が本当にくれようとしているからだ。はっきりと「くれる」という物を押し返すのは礼儀に欠ける。
「ありがとう。いただくよ」
ズシッと重い紙の塊を、僕は手に持った。うわ、すごい。
使うかどうかは決めてない。幸いにうちは、今の時点ではこの札束をほどくほど逼迫してはいない。使うのがすこし怖くもある。
同時に、僕は少女の滞在を認めたことにもなった。
少女を滞在させ、探し物をさせること。それを認めた。父さんと母さんには何て言おうかなと思う。でも、騒動にはならない予感がした。父さんは怪獣にも雪にも気付いていなかったし。
「……ところで、言いにくいんだけど、君は」
「『名前でいい』」
あぁ、呼び名のことか。そのことじゃないんだ。
金をもらった時点でこんなことを言うのは、ほんとうに現金だけど、
「『先程の金が、どの程度の滞在期間をわたしに許すかということ?』」
先に言ってくれた。こくん。僕は頷く。
「『さがしものが発見されるまで』」
無期限の宣言とも取れるけど。
少女は、僕みたいな見知らぬ人間に簡単に札束を渡せるような立場にある。
ひとくちに言うと、いろんな意味で、低い立場じゃない。
「僕の家には、君の探してる物があるとは、思えないんだけど」
「『ある』。『名前でいい』」
「あ、ごめん、つい」
名前で呼ぶのを忘れた。
「『だいじょうぶ。さがしものは確実に発見される。目星はついている。まずはここを開ける』」
少女はベッドを離れ、本を持ったまま畳をズルズルと這い、押入れの襖をがらりと開け放った。
探しものを了解したってことは、部屋を勝手に探されるってことか。
まあ、見られて困るような物もない、と思う。
「そこは何も無いよ」
少女は四つん這いで僕を振り返る。
押入れには目ぼしいものは無い。下には何も入っていないし、上はふとん置き場になっている。
少女は立ち上がると、本を開いたまま頭に載せ、ふとんを一組出すと、押入れの下の段に敷き始めた。本が頭に載ったまま落ちないのはどんな仕掛けだろう?
ふとんを準備すると、少女は畳に正座し、押入れを示した。
「『わたしはここにいる』」
つまり、押入れに寝るってことか。別にいいけど。死にスペースだったし、使っていないふとんだし。ドラえもんみたいだな。
「あ、そういや、食事とかは。腹は減ってない?」
「『構わず』」
そうもいかない気もするけど。滞在費をもらっている。衣食住は努力義務ではある。が、今は要らないのだろうと解釈し、夕食の時間にまた訊くことにした。
少女は両手で本を持ち、見ている。指は白のクレヨンみたいに細くて白い。
時代がかったハードカバーの本は、もともとワイン色だったんだと思う。今は茹でたアズキの皮のような色をしている。少女の顔よりも大きく、厚みもある。ずっしり重そうだ。少女はこの本を片時も閉じることがない。大半の時間は本を見ていると言ってもよかった。
「その本は何?」
「『名言集』」
「それが本の名前?」
「『名言しか載っていないから、名言集』」
「例えばどんな名言が載ってるの?」
「『あなたの欲する名言が『名言集』に載っているとは限らない』」
と、少女は『名言集』を読み上げた。
ん……? なんか狐につままれた気分だな。ともかく、古今東西の名言がたくさん載っている本なんだろうな。
もしかして、少女は今のように『名言集』から引用した言葉をそのまま会話に使っているんじゃないか。
僕はふと、そう感じた。発言そのものが『名言集』からのような気がする。
少女が口にする言葉は、独特な感じがあった。本当とは思えない感じで、でも不思議と嘘にも思えなかった。本当でも嘘でもない……幽霊のようなふわふわした言葉。
「『この本は、わたしがつくった。見飽きた頁は自動消去され、新しい頁が充当される仕掛け』」
少女は裏表紙をぽんと叩いた。
何て言ったらいいのか。「へえ、一冊で充分なんだ」とかかな。
そうだ、それより、注意しておくことがあった。
「探し物の時、あんまりうるさく……いや、違うな。つまり、父さんに見付からないでほしいんだ。色々厄介かもしれないから」
「『それなら問題ない』」
少女は本から視線を外す。
「『あなたの父君は正気を有していない。言い換えれば、狂ってる。それゆえわたしがこの家に居るべきでない異物だと認識できない』」
「え?」
「『ついでに言えば、あなたを息子だと認識してもいない』」
「ははは、まさか」
僕は取り合わなかった。たしかにクビにはなったけど、狂うというのは行きすぎだ。
「とにかく、頼むよ?」
「『わかった』」
少女は頷いた。本を持って押入れに行き、ぱたりと襖を閉じた。行動が読めない人だ。
「あの、泉さん?」
無言。僕への用事は終わったってことだろうか? でも、聞こえてるだろうから、襖越しに言った。
「何かあったら言ってよ?」
返事はない。
本に夢中になっている様子が脳裏に浮かんだ。
こうして、珍妙な来客が襖一枚を隔てて居座った。
昨日とは随分ちがう状況だった。
夕食はダイニングで一人で食べた。泉さんには声を掛けたが、反応は無いままだった。食事を持って来ようかと思ったけど、女の子の居る密室を開けるのは躊躇する。着替えたりもするかもしれない。だから、『構わず』という本人の言に従うことにした。
ダイニングのテーブルには、第五高校からの角形の封筒が置かれてあった。中には学校紹介のパンンフレットや、入学後のスケジュール表なんかが入っていた。今さっき届いたのだろう。
テーブルには、「合格おめでとう。後藤田さんと町に出かける」という父さんの書き置きがあった。父さんは酒飲みだ。あの証券マンの人と歓楽街に繰り出したらしい。母さんの部屋のドアをノックすると、食欲がないという答えが返って来た。「食べたくなったら言ってよ」と言い置いた。
僕は自分の財布を持って買い物に出た。自転車は雪の中に半分以上埋まっていた。近くのショッピングモールに行くのに五十分も掛かった。いつもの十倍だ。食糧や衣料品を、ざっと買い込んだ。衣料品は自分のやつだ。まず、靴。この雪の深さだと、最低でも膝下までの長靴が無いと太刀打ちできない。あとは手袋を去年失くしていたから、七割引だったスキー用の手袋を買った。フロアの一部に防寒グッズがまとめられていて、品揃えが充実していた。
食糧は冷凍食品などの保存食系を多目に買った。家まで配達してくれるサービスは出払っていて五時間待ちのようだ。この天候では無理もない。荷物を持って家に帰ったら、十一時になっていた。
部屋に戻ると、しんしんと寒かった。まもなく四月という時に、今日みたいなドカ雪がくるとは思わなかった。僕は隣の部屋から、この前しまったばかりの石油ストーブを引っ張り出してきた。隣の部屋は、家全体の物置のような扱いになってる。僕が小さかった頃は、父さんの書斎だった時期もあるらしい。今日は夜だから、ストーブはもう使わないけれど、灯油を入れておいて使えるようにした。泉さんの押入れは、あいかわらず襖は開かなかったし、音もしなかった。
僕はベッドに入ると、アラームをいつもの時刻にセットした。部屋の電気を消し、ふとんに肩までくるまった。
僕と泉さんは、同じ部屋だけど違う部屋で、寝た。
正座した泉さんのトレーナーの下が気になる。
夕方の泉さんの姿だ。突然思い出す。ぶかぶかのトレーナーから膝頭が覗いてた。なぜか浮かんでくる。泉さんの存在が僕の脳の辺縁系を刺激しないままということは決してなかった。妙な気分がぞわぞわ持ち上がることもあったのは隠せない。お世辞ではなく、泉さんは美人なのだ。肌が白く、かわいく、さわったらとける雪のような……何を言ってるんだ僕は。
雪なら家のまわりに嫌というほどあるんだ。……今日の朝からだけど。