神と怪獣としての世界 2
*
僕達は明神町駅の近くのこぢんまりしたコーヒー屋に場所を移していた。
駅前まではタクシーで戻った。学校の近くには客待ちのタクシーが連なっていたから、拾うのは困らなかった。しんしんと降る雪一色の中、タクシーはありがたかった。タクシーを降りた場所から最短の所にあった店が、たまたまここだった。
ラミネートが張り付いているメニューを開くと、どのコーヒーも五百円以上もした。でも、正直、高級店の雰囲気は出せていなかった。大きい窓は全体にすすけているし、木のテーブルはアンティークっぽく見せて単に汚れている。指でなぞると黒い煤が付いた。高い天井にはよく見ると蜘蛛の巣があったし、インテリアを意図した古い音楽雑誌の棚には、ふつうの週刊誌が混じっていた。
注文したウインナーコーヒーの味は、やっぱり値段に負けていた。これなら数十メートル向こうにあったフランチャイズのコーヒー屋のほうがよかった、……なんて考えると侘しくなるからやめておこう。
「さて、当方の話ですけども」
羽前さんは店の空気を頓着するふうもなく、ず、とココアをすすった。
「あたしは正義の味方なので、この町に住んで怪獣と戦ってます」
「……はあ」
と微妙なトーンで答える以外、返答があるだろうか。
羽前さんが話すと、僕との間に断層ができ、しかもズレる感覚があった。
僕は怪獣の実在や不在すら明らかに知らない。怪獣の概念すら初耳である。警報では聞いたけれど。
……でも、と僕は思う。
コーヒーを飲みながら、チラリと羽前さんを見る。
ちょっと近付くのが憚られるような美形だ。さっきの子とは違って、あんまり人間ぽくなくて、とても清廉な感じだ。花や鉱物の形が特定の数学的配列に従っている話は聞いたことがあるけど、羽前さんにも自然な端正さが見られる。
「――どうかしましたか?」
「うん、なにも」
目が合った。
僕は何事もなかったように視線をずらした。
「祐一、正義の味方に加わるつもりはありませんか?」
ずきっ。
僕は、ちくりと虫が刺すような疼きを感じた。たぶん、「正義の味方」という響きの恥ずかしさのせいだ。
羽前さんは、ごくふつうに、「正義の味方」を連呼する。
「端的に言うと、怪獣は悪であり、この地方に害を与えます。つまり巨大な『害獣』なのです。ですからこれを退治しなくてはなりません」
「それで、羽前さんが、怪獣を退治する正義の味方ってこと?」
「はい」
羽前さんは、こくんと頷いた。
はいっておい。そんな古道具屋に売ってる「VHS」という媒体の「怪獣映画」みたいな筋書きを、真顔で言われても。骨董級映画だよ今の時代。
――あ、そういえば。
うちの父さんは「VHS」のビデオと、それ用のプロジェクターを持っていたな。
考えが横に飛んだ。正義の味方に誘われた件だった。
「えと、質問いい?」
「はいどうぞ」
「用件は分かったけど、なんで僕を正義の味方に誘うの? 正直、あまりに唐突な話というか、降って湧いたというか。自分と正義の味方の接点が見えないんだけど」
僕は、すすけた窓の外、ふつうの雪景色をぼんやり見る。正義の味方という存在がどういう仕事をするのか、具体的に想像できなかった。それは接点が無い何よりの証拠だと思った。
「そのことならば、あまりお気になさらず。そこまで重大な人間ではありません。あくまでも『候補』の一人です。断って構いません。断られれば、別なところをあたります」
羽前さんはココアを喉に送り、僕の反応を待った。
なるほど、数居る候補の内の一人か。それなら少しは納得できた。ついでに、「重大な人間じゃない」と宣言されるのは、なんか残念だった。分かってる事実を人から言われると、ちょっと凹むものだから。
でも、候補が何人いるのか知らないけど、完全に無作為ではないんだろう。
じゃあ、僕がそこに入った理由は何だろう。
「祐一は、過去に、『上守塾』に行っていましたね」
ああ――それでつながった。
理屈では、理解できた。正義の味方に誘われた理由。
「……うん。言われれば、そういう時代もあった気がする」
脳味噌には、他人に開けられないと蘇らない記憶のヒキダシがいっぱいある。そのうちの一つが、今開いた。
僕は、起きながら夢を見るように、当時を振り返る。
小学生の一時期、ある塾に通っていた。その塾には特色があった。特殊な領域のモノゴトを、子供に教えていたのだ。とはいえ僕自身は、塾の記憶はほとんど残っていない。塾は、嫌いな習い事だった。
いや、「嫌い」というほど強い感情は無い。むしろ、「馴染まなかった」。場違いな、肌に合わなかった感じ。当時の塾の情景を思い出そうとしても、ほとんど浮かんで来ない。「馴染まなかった」印象だけが、風船みたいに膨れて浮かぶ。塾のことは、僕にとってどうでもいい記憶だった。実際、言われて初めて思い出したほどだし。
ただ、塾が何を教えていたのか、それは覚えている。
「神になる為の勉強」、だった。
と、いうことは。
僕は、推測してみる。つまり――。
羽前さんは「神」であり、「神系」の用事で僕を訪ねて来た。
それが、正義の味方への勧誘、という用件だ。
そうじゃないだろうか?
「『上守塾』は、塾頭が体を壊し、廃塾になりました。あたしは塾にあった名簿などの資料から、以前塾に在籍した方々に連絡を取らせて頂いています。そうしてあなたの所に来ました」
「じゃ、うちまで来たのは――」
「塾の名簿に住所がありましたので」
「なるほどね」
羽前さんの用事は、やはり塾絡みらしい。そして、おそらく――「神系」。
正義の味方、という仕事を実現するには、「神」という概念抜きでは考えにくい。
逆に、羽前さんが「神」だとしたら、それは不可能とは言えない。
「てか、ごめん。僕は塾のこと、さっぱり覚えてないんだ」
最初に言っておいたほうがいい。
羽前さんが塾がらみで僕を訪ねて来たのは分かったけど、僕のほうは塾のことを殆ど記憶していなかった。
「覚えていないのですか?」
羽前さんは意外そうに、少し目を見張った。陶器のカップを机に置き、動作停止のようになった。
僕としても、自分があまりに覚えていないので、驚いているほどだ。紙パックの底に残ったジュースを搾り出すように、無理矢理、思い出そうとしてみる。
塾があったのは、たぶん市内。それで、僕の態度は、たぶん不真面目だった。空地でのサッカーの合間に顔だけ出して、また空地に戻っていた気がする。当時「神話」と呼ばれたある選手が、前人未到の「60歳のJリーグ得点王」を達成していたから、クラスではサッカーが流行っていた。僕はサッカーは巧かった。空地の地面が、壊れたコンクリートだったから、転ぶとふつうに大怪我がありえた。そこで、滅多に転ばない体幹バランスが培われた。ていうか、ほんとうに、塾では何もやらなかった記憶しかないことに、僕は今更に呆れた。
何とか残っているのは、髭を生やした塾のおじさんの顔。あの人は「塾頭」と呼ばれていた。一人で塾を経営していたと思う。
あとは、箱のような狭い教室の、ぼんやりした雰囲気。
暗い顔で、下を向いて勉強している、機械のような子供達。
そうだった。あの雰囲気は耐えられなかった。だから僕は、途中で塾を辞めたんだっけ。
塾での友達も、居た記憶はない。教室にいた子供たちの名前も、一人も覚えていない。僕の母親は、通い始めたと思ったら塾をやめてしまったので、「せっかく選ばれたのにもったいないわあ」とか言っていた。何か選抜テストでも受けたのか? 勝手に通わせられた印象しかない。
もちろん、いま目の前に居る女の子のことも、ちっとも記憶にない。
「当時、羽前さんも居たの?」
羽前さんは、またごくりとココアを飲み、答えた。
「あたしは、不登校でした」
「あ、……」
羽前さんは、僕が罰の悪さを感じる前に、手で制した。大丈夫ですと言うように。
「あなたのことも知りません。あたしは当時劣等生でしたからね。その後、ちゃんと登校するようになりましたが、時期的には、あなたが退塾した頃と入れ違いだったかもしれません」
「そうなんだ。で、羽前さんは、卒業したの?」
「無事に卒業しました」
塾には「卒業」という資格がある。
「神」と認められた塾生に与えられるのが、卒業という資格だ。
誰でも卒業できるわけではなかった。途中でやめた僕は、もちろん卒業はしてない。
「神」というのは、塾の最終的な教育目標だった。小さな黒板の前で、塾頭が繰り返し唱えていたのを覚えている。「神とは、能力を用いて、セカイに影響および……」といった決まり文句。門前小僧効果だろう。勉強の内容は覚えてないけど、謳い文句だけはかろうじて残ってる。
ようするに、「神」と呼ばれる一風変わった人間集団を育てる場所が、「上守塾」だった。
羽前さんが、黒の外套に両手を入れ、中をまさぐった。室内でも脱がないんだな。
中から何かを出した。
鈍い銀色の金属でできた正方形の物体を見せてくる。
「これが塾を卒業した証です。オナーピン型のメダルになってます。あなたはもらっていないはずです」
僕は頷いた。
羽前さんはメダルを外套の内側に着け直す。
「塾がメダルを与えた塾生は、毎年何人か居ました。そして、連絡のつかない卒塾生が殆どです。消息不明と言っても過言ではないです。したがって、怪獣を出現させた神が誰であるかは、見当もつかないのです」
羽前さんは淡々と述べた。
けれど、そこには核心的な意見が入っていた。
羽前さんは、怪獣(僕は見たことがない)の出現が「神」のせいだと考えている。
つまり、塾を出た人間の仕業であると、考えているらしい。
でも、その推測は荒っぽいんじゃないかと思う。怪獣(僕は見たことがない)という現象は確かに不自然だけれど、不自然だから神のせいと決めるのはせっかちだ。怪獣(略)が自然発生する可能性だって、ゼロとは言えないだろう。映画での怪獣も、人為的な環境の影響で生まれたとはいえ、誰かが実験室で生み出したものではない。広い意味では自然発生とも言えた。
余計なお世話かもしれないが、僕は意見した。
「どうして、怪獣が神のせいだって分かるの?」
「あたしが正義の味方だからですよ」
と、即答だった。
「正義の味方として、あたしは怪獣を倒すために、日々仕事しています。正義の味方が怪獣と戦っているのですから、怪獣は正義と敵対するものということになります。正義に対するもの、つまり悪の神が居ると考えられるのです」
羽前さんは淡々と、でも淀みなく述べた。僕はやはり羽前さんの推論が強引だと感じずに居られなかったけど、僕を見据えるいかにも公明正大な瞳に意見することはできなかった。僕はすっかり冷えたコーヒーを無駄にすすった。ダルマストーブの位置が厨房に近いから、窓際は冷えるんだ。
「ところで祐一は異変を認識していますか?」
羽前さんは、話を変えた。またも唐突である。タイミングも、話の中身も。
「異変、って、……いきなり今度は何?」
「つまり、祐一は、怪獣が存在する環境を異常だと知覚できていますか?」
「ああ、そのことなら、うん」
僕は答える。怪獣がふつうに居る状態は、日常生活の舞台としては相応しくない。不自然だ。その意識はある。
おかしいことは、怪獣だけではない。
朝起きたら、僕の名前がちょっと変わっていたり。受けた高校が変わっていたり。雪が積もっていたり。怪獣警報。廊下の自動車。どれも今までの日常とは違った。
「何ていうか、今日の朝から、ちょっと不自然で」
「何がです?」
僕は、いま頭の中で挙げた不自然な事柄を話した。そして、それらの始まりが今朝からであることも話した。でも、説明してるうちに笑えてくる。百歩譲って、電柱にスピーカーが設置されたことに気付かないのは、あり得る。ふつう、わざわざ、電柱の上なんか見ない。
でも、雪や怪獣は、電柱とは存在感が違うわけで。
「自分でも変だよね。ふつうに考えると、雪や怪獣が手品みたいにパッと現れるわけないよなあ。なんで今朝まで気付かなかったのかな。家に戻ったら、雪も怪獣も無かったことになってたりして……」
そして、羽前さんの存在も消えていたりして……。気持ち悪い空想をしてしまった。世界が夢か、夢が世界か、みたいな発想は現実的じゃない。
「怪獣が無くなることはないでしょう。そしたらあたしは苦労しません。ただ、今朝は怪獣が市内に出没したようですね。怪獣はこの町をおもに根城のようにしておりまして、市内に現れたとなると、初かもしれません」
「じゃあ、この町では、怪獣はずっと前から居るの?」
「そのようです。ご存知なかったですか。あたしが怪獣の存在を知り町に移り住んだのが五ヶ月前です。まもなく半年になります。少なくともそれ以前からは存在していることになります。町の記録では、最初に出現したのは二年前とのことです」
知らなかった。電車で二十分の隣町で、そんなことが起こっていたなんて。
「そうなんだ」
「そうなんです。ともあれ、祐一が異変を認識していることは、確認できました。異変を認識していないと、怪獣を敵だと認識できないのです。勧誘自体が無意味になるところでした。ですから安心しました」
羽前さんは、ズズズ、とマグカップの中身を啜る。――この喫茶店も、怪獣が出現する町の中にあるわけだよな?
「しかし、祐一が異変に気付いたのは、神のあたしが祐一に接近したためかもしれません。途中で辞めたとはいえ、祐一は塾の在籍者です。普通人よりは神への感度があるとも考えられます。今朝からという事実とも符合します。あたしが家を訪れなければ、祐一は怪獣も雪景色も日常風景として捉えていたかもしれません。気付かないままのほうが、迷惑ではなかったでしょうか」
「いや、迷惑じゃないよ。異変が分かるのは」
身の周りで異変が起きても気付かないボケ老人みたいなのは困る。生活に支障が出ることだってある。周りのことが分別できるに越したことはない。
異変に気付けたなら、僕が塾とやらに行った意味もあったのかも……。
あれ? それじゃつまり、
「うちの家族とか、他の人達は、異変には、」
「気付いてません。これからも気付きません。普通人には『日常』です」
羽前さんは答え、息を継ぎ、すぐに続けた。
「怪獣を神の仕業と考える根拠は、もう一つあるのですよ。つまり、普通人は神の仕業を認知しないのです。この町の住民は、怪獣を日常として受け止めています。考えてみて下さい。五ヶ月前なのか、それとも二年前か、怪獣はこの町に卒然と現れたはずです。ですが、そのことを問う住民は居ないのです。警報設備を造ったり、自治会や議会で怪獣の対処を決議していますが、それらはすべて後手。怪獣の存在を前提とした行動です。祐一の周りの人間もそうなのでは?」
僕は今朝の父さんの言動を思い返した。怪獣警報が鳴っていても、自動車が廊下に墜落していても、気にする様子はなかった。会社をクビになったショックとも考えられるけれど、証券マンの男性も父さんと同じ態度だった。父さんがおかしいわけではない。たしかに二人とも異変を認識していないんだ。……いや違う。異変を日常だと認識している。
「因果が狂う、日常が解体する、そういった異変が引き起こされています。しかし、ふつうの住民は異変には気付かないので、その意味では問題ないとも言えます。ねじ曲がった因果を『ふつうの因果』として、解体され非日常化した日々を『日常』として、認識してしまうのです」
僕は二、三度頷いた。どうも羽前さんの説は当たっているらしい。
「結論から言うと、この町を中心とした異変は、怪獣のせいと考えられます。怪獣に内蔵された何らかの仕組みにより惹起されているようです。そして、怪獣を出現させている神が存在します。以上があたしの見立てです」
「……そっか。なるほど」
僕は一通り理解した。羽前さんの説は、合っているような気がする。
昔の記憶では、「神はセカイに影響を与える」と習った。ふつうの立場から考えても、異変の謎は解けない。けれど、塾を卒業した神の関与を考えれば、簡単に仮説ができる。
「ところで、あなたは異変に気付いていながら、気付かない外装を纏っているように見えますが。それはなぜですか?」
カシャッ。羽前さんは、飲み終えたマグカップを、陶器の皿に置く。
「――『日常』を壊さないため、気付かないフリをしているのですか?」
羽前さんは僕を注視した。磨かれた鏡のような目。僕を責めてるようにも見えた。
予想外の質問だった。いや、だって、異変に気付いたのは今朝だし……。
だけど、僕が『日常』的にふるまっていると思われるのは、もっともかもしれない。
正直なところ、僕は異変にあまり関心を持っていなかった。高校が変わってるぐらいは別にいいし、名前が少し違っても、そんなに支障ない。雪が降っていたら、コートを押入れから出して着る。そうやってふつうに生活できそうだから、あまり気にならなかった。それは、羽前さんには、「日常を壊さない演技」に見えたのかもしれない。
羽前さんは、ふう、と溜め息をついた。
「まあ、いいでしょう。異変を認識しないまでに神的素材が枯れ切っていては、勧誘する意味もないのですからね。認識できたのは良いことです。それで、正義の味方に加わりますか?」
羽前さんは、始めの問いに戻った。
僕は、答えを考える。
事情を知った今は、正義の味方の役割を具体的に考えられる。それは、「正義の神」である羽前さんを、手伝うことだろう。たとえば、怪獣から町を守ること。怪獣と戦うこと。「悪の神」を探すこと。場合によっては、神とも戦うかもしれない。
「……やっぱり、僕はちょっと、考えられないな。そんな遠大な仕事」
誘いには、乗れない。
くだくだしく説明させてこれかよと、自分をツッコミたいところだが、気が乗らないのに乗ると言うほうが、後々ややこしくなる。
僕には、正義の味方をしている自分が、どうしても想像できなかった。
しかし、僕に対する羽前さんの言葉は、予想外にあっさりしたものだった。
「そうですか。いえ、想像していました。祐一は塾に在籍したとはいえ、昔のできごとです。すでに殆ど庶民の生活に戻っているのです。心情は理解できます。今更戻るのは難しいですし、メリットも無いでしょう」
羽前さんはすこし厨房のほうを向いて思案すると、
「わかりました。それでは、話はこれで終了となります」
と僕に告げ、目礼した。伝票を持ち、席を立つ。
タクシーの代金も羽前さんが持った。コーヒーも払わせるなんて悪い。
「ちょっと待って。ここは僕が」
「いえ、結構。こちらの用事のためにあなたの時間を頂きました。支払は当然です」
羽前さんはレジに向かう背中で言った。
「では、失礼します」
ぺこり。
店を出るとお辞儀をして、羽前さんは駅と反対側に向かう。
「あれ、何処に行くの? 駅はこっち……」
「いえ。あたしは、あっちのほうに住んでいますので」
羽前さんは指差した。雪が降ってるから何も見えなかった。
そうか。
羽前さんはこの町に住んで怪獣と戦ってるんだったな。今朝は電車か何かで市内の僕の家まで来たのだろう。黒い外套の影は遠ざかっていた。青白い景色の中、みるみる薄くなった。降っている雪は、細かいパウダー質で、粒の大きさが殆ど同一だ。自然物なのが妙に思えるほどだ。そうだ、店に傘を忘れた。
激しい音楽が、道端の花のようにつつましく、鳴っている。電柱の上には、やはりスピーカーがある。怪獣警報システム、か。
と、そのとき、レーザー状のライトが僕を追い抜いた。
波のように大きい音の塊が、うしろからやって来た。
装甲車だった。何台も居るようだ。見上げるような高い車体が近付いてきた。僕の背ほどもあるタイヤがごろごろと鼻先を通過した。やがて、走り去った。
甲板というのだろうか、てっぺんから、軍装の人間が上半身を出していたのが印象的だった。全員、機関銃っぽい物を持っていた気がした。怪獣に関係しているんだろうか。そういえば、町の議会が怪獣への対処を決議しているって聞いた。朝のテレビでも、「今日の軍備」なんていうコーナーがあった。「行政管区軍」が「特別町軍」を組織するとか何とか。ちなみに僕は、行政管区軍自体、初耳だった。それらも最近の異変の一つなんだろう。もしくは、僕の頭が時代についていってないかだろう。僕の知識は「自衛攻撃軍」で止まっている。
……少しは、羽前さんは、僕に期待していたのかな。
わざわざ僕の家まで足を運んだわけだ。
「候補」は他にもたくさん居るって言ってた。でも、今の段階では、まだ連絡がついていないのかもしれない。卒塾生は殆ど消息不明だと言ってなかったか。
正義vs悪、か。
やっぱり、戦ったりするだろうな。もしかすると、羽前さんが怪我や重傷を負ったりとか、最悪、……殺されることだってあるんじゃないか? なにしろ、怪獣という得体の知れない敵が相手だ。怪獣退治が、部屋の片付けとかとは労働レベルが違うことは分かる。怪獣保険みたいなものも無いだろうし。彼女が人知れず死ぬようなこともありうるわけだった。そう思うと僕は何とも収まりが悪かった。ごはんが胃の中で腐っていくような、むず痒い耐え難さを感じる。
僕は、引き返した。羽前さんを追い掛けた。
雪が、積もりすぎだ。道が識別できないけど、装甲車の轍がついているから、沿って行けばいいだろう。靴がずぼずぼと埋まる。市内でブーツを買わないといけないな。
やっと、追い付いた。
羽前さんは振り向いた。予想外の事象だったのだろう。フリーズ気味の観察眼が僕を凝視し、小さい口が少し開いた。
「ちょっと考え直した。ええと、安全なら、やりたいなと思って」
羽前さんは情報を整理するように、ぱちぱちとまばたきした。
「――何と言えばいいでしょうか。歯切れの悪い答えですね。自分をチキンだと思ったりしませんか? 正義の味方は生半可な覚悟では務まりませんよ」
冷ややかにも聞こえる口調だった。でも、僕を貶したわけじゃないのは分かった。「正義の味方」として客観的に分析する感じだ。羽前さんは、しばらく俯いて、無言で考えていたが、
「わかりました。祐一の手を借ります」
顔を上げ、言った。
僕は、あれ、と思い、まばたきした。
見間違いだろうか。均質で硬質だった羽前さんの表情が、微かに緩んだかに見えた。でも、まばたきして見たら、やっぱり錯覚だったようだ。
「安全面のことは、祐一に危険が及ばないよう、あたしにできる限りは努力しましょう。――それぐらいしか言えませんが。なお、怪獣との決着がつくまで、離脱はできませんよ」
「分かったよ」
と、僕は場の流れによって答えた。ちゃんとした決意が固まっているわけではない。
どうせ未来はあやふやで、はっきり見通せない。決意だけをしっかり整えるなんて無理な話だ。僕は、ふう、と息をついた。やると表明したら、すこしホッとした。肺に入る空気が、とても冷たく感じた。
「でも、先に言い訳するけどね。僕はあんまり力になれないと思う。ずっと前に塾をやめたから。羽前さんみたいに、課程を修めて卒業したわけじゃない」
「祐一が戦力になるかならないか、それはこちらが判定します」
羽前さんは機械的に告げた。確かに、僕が判定することではない。テストでもされるのだろうか。
「しかし祐一も学校が始まるなど慌しいでしょう。ですので、次に来てもらうのは4月11日でどうでしょう。16時に駅前のハンバーガー店に居てください」
そう言って、異論が出ないのを確認すると、羽前さんは会釈して去って行った。
4・11・16:00。次に会う日はだいぶ先になるな。僕は予定の日時を脳内で復唱した。
やっとというか、今更というか、寒さで震えがきた。当たり前だ。頭も制服も雪だらけだった。
僕は忘れた傘を取りに、コーヒー店へと戻った。なんかちょっと煩雑なことになってきたけど、まあ、あまり変わらない。いつもの生活の中に新しい用事が一つ紛れてきたくらいだろう。
僕は、自分の生活というものをあまり気にしていない。
というか、気にする気にならない。僕は、目の前を過ぎ去るままに、生活世界を流す。そうして暮らしていた。人からも言われたことがある。「おまえはランニングシューズの中の衝撃吸収剤みたいな奴だな」って。それを言ったのは中学の陸上部の奴だ。他人に言われるんなら、たぶんそうなんだろう。僕は自分のことはさっぱり分からない。考えることもなかった。だから他人の見立ての方が信頼できると思う。
傘はやはり店の傘立てにあった。僕は傘を持って店を出た。
その直後、耳をつんざくようなサイレンが響いた。
人間の断末魔のようなサイレンだ。どこから聞こえているのか分からない。いや、雪のせいか、全方位から降ってくるようだった。サイレンに続いて機械めいた声が聞こえる。
町民ノ皆サン。ゴ注意クダサイ。怪獣警報デス。怪獣ガ出現スル恐レガアリマス。クリカエシマス。怪獣警報デス。
そうか、なんとなく聞いたことのあるサイレンだった。僕は今日の朝、この音で目が覚めたんだ。同じアナウンスだった。
また、警報とやらか。
小走りに吹雪の中を進んだ。ぼんやりと光が見えた。明神町駅の明かりだった。
駅の中に駆け込む。駅の建物は新しく小奇麗だった。
駅の中には雑然と二十人ぐらいが居た。みんな、不安げな顔をして立っていた。ちょっとした好奇の目で僕を眺めてくる。僕がコートも着ず、帽子も手袋もしてないせいだろう。
電光掲示板には【停止】が表示され、改札機の前にはポールと鎖が張られていた。
サイレンは鳴り続けている……。いつやむんだろう。
解除。怪獣警報・解除。怪――
警報の解除を知らせるアナウンスが入った。駅に居た人々はぞろぞろ外へ出て行き、僕一人になった。駅の人がポールと鎖を片付けている。
みんな、避難していたのか。
僕は券売機で切符を買った。電車はまだ【停止】になっていた。鎖は解かれたから、まもなく動き出すだろう。僕はホームに出た。
列車が入りますという構内放送が入り、電光掲示板も通常表示になった。ホームに電車が入って来た。旧いディーゼル式の車両だ。エンジンをガガガガと鳴らし、電車は走り出した。
そのとき、ものすごい音がした。
聴いたこともない音。とてつもない轟音。何もかも飲み込む地鳴りのようだった。また、何もかも切り刻むノコギリのようでもあった。警報のサイレンの音とは、全く違っていた。骨にまで響く音だった。震動で電車の屋根が剥がされる気すらした。
恐怖を覚える、音だった。
たとえるなら、山のような巨大な生物が咆えたような、音だった。
巨大生物……。
僕は、ハッとする。
これが、怪獣、なのか?
外の様子を見ようとした。けれど窓は、嵌め殺しだった。窓に顔をくっつけて見たけど、雪に煙る暗い色以外、なにも見えなかった。電車が駅から遠ざかるにつれて、音は小さくなり、やがて聞こえなくなった。
麻形駅に着いた僕は、ちょっと思うところがあり、裏通りに足を向けた。
飲み屋街でもなく、無機質な住宅の並びでもなく、これといった特徴のない場所に、それはあった。
こぢんまりとした三階建てのビル。
知っていなければ見落とすような建物だ。
入り口には木の板が打ち付けられ、錠前が下りていた。上に目をやると、真っ暗な窓の近くには、白い紙クズが散らかっていた。
見てすぐに、廃墟だと分かった。
この建物が、僕が一時期通った塾だった。何年ぶりだろうか。それも思い出せない。ただ、ひさしぶりに見たビルは、模型のように小さく感じた。「塾頭」が体を壊し、塾をやめたのは、本当らしかった。
廃墟と化したビルをしばらく眺め、僕は踵を返した。