神と怪獣としての世界 15
*
その次の日は、午後から登校した。
一日半も学校を休んだのは、長いあいだ旅行に行ってたような感じだった。僕が真面目だという話では全然ない。「ふつうの生活」をしてきた僕には、わざと学校を休むことが考え付かなかったという話だ。
僕は時間を調整して五限のあとの休み時間に着くようにした。午後から登校したのは、ひとつは、引込さんが登校する時間が放課後だったからだ。少なくとも午前中には居ないのは分かっていた。
僕は階段を昇っていき、二年生の教室を覗いた。やはりというか、引込さんは来ていなかった。早まっていた心臓が、予想通りの悪い流れで破裂させられるような、空疎な心地がした。
きっとまだ来てないだけなんだ。放課後にもう一度来てみよう。それに、きょう来なかったとしたって、珍しいことではないはずだ。引込さんは、引き込もりだから……。僕はそう言い聞かせ、自分のクラスへと向かった。
クラスに入ると奇異の目線が僕に向けられた。「ふつう」ではない、新奇な感覚だった。授業は一時間しか残っていない。たしかに自分でも何しに来たんだという感じだ。でも、目的はある。羽前さんから大事な連絡があるかもしれない。羽前さんは汎用機械を持っていないから、連絡があるかどうか、学校に来てみないとわからない。
ロボットの羽前さんは、銀色の手に銀色のペンを持ち、古文の予習らしき作業をしていた。
すぐに鐘が鳴り、僕は席についた。いつもどおりの授業が始まった。
寝る生徒が続出だった。暖房が効いてるところに、年配の古文の先生の朗読が被さるので、入眠効果抜群だ。先生は教室を見回し、恬淡とした様子で、「あはれにあじきなしですね」と呟いた。前の席の北東君は、いつもどおり腕を組んで黒板を注視していた。
こんな何気ない身の周りの空気が、僕は怖かった。
世界と言うのは大げさだけど、今は僕には学校がある。帰る家もある。普段どおりの、つつましい生活空間がある。
まだある。
でも怪獣は町に侵攻を繰り返している。今の環境は突然に失われるかもしれない。
家や町や学校が壊されるかもしれない。自分の居場所も、行く所も、突然なくなるかもしれない。知っている人が、突然、死ぬかもしれない。自分も、死ぬかもしれない。羽前さんも、殺されるかもしれない。……なぜこんなことになったのか理解できなかった。
いやちがう。最初から深刻な状況だったことが、今は、理解できる。
だからこそ僕は、変わらない教室の穏やかさに、恐怖を感じていた。
ふつうの空気の、異様な深刻さ。
ふつうの生活を、僕は送ってきた。ふつうの生活は、世界が壊されようとしている時には何もできない。世界を与えられたままに流すこと。ふつうの生活は、そういう意味だから。
……つまり僕は、「自分が今まで何もしてこなかった」んだと、初めて理解した。
見ている限りでは、町内、市内、学校の人々の生活は平常だった。生活はふつうに流れていた。
ふつうの人々は、異変に対応するだけの生物体だった。異変を異変とは感じていなかった。異変は元からあり、気付かないレベルで、人々に染み込んでいた。人々にとっては、空気のようなもの。異変が強まっても、黙って粛々と無意識についていく。それだけだった。
いつ怪獣に殺されるかもしれない日常を、恐れていいこと。恐れなければならないこと。それを人々は認識できてなかった。だから完全に平常の生活を送る。送ってしまうのだった。
それはとても、冷酷な環境だと思った。
僕は、そんな人々や生活を、とても儚いものに感じた。
だから僕は、学校に居ると、ぬくもりと冷たさが両方降って来るような、いたたまれない気分を感じた。
授業の終わりの鐘が鳴った。
僕は、どうしたらいいのか。
何となくだけど、やることは分かってた。
ゴーグルなしで水中を見るようにぼんやりとだけれど、景色は見えていた。
「決意」というような、格好いいものではない。たぶんとても半端なもの。それは「ふつうなりの決意」だったから……。でもとにかく今は、自分にできることをやろうと思った。
僕は席を立った。まず、連絡事項があるかどうか羽前さんに訊いてみよう。
「待ちなさい、伊福部」
振り向くと怖いくらいの深刻さで、関山さんが僕を睨んでいた。
そういえば僕は掃除をさぼったことを思い出した。昨日は欠席だけど、おとといの事は言い訳できない。
「今日の掃除は、あんた一人でやりなさい。自分で教務室に鍵をもらいに行くのよ。これは罰当番。私達は帰らせてもらうからね。みんな、帰るといいわ」
関山さんは班の人達を急き立てた。命令に逆らう人は居なかった。班の人達は申し訳なげな顔をしたり、表情で委員長への控え目な抗議を示したりしたけど、結局は大人しく帰った。北東君は「ならば帰ろう」と出て行った。
それを見届けた関山さんは、念を押すように僕を見て、ボリュームのある黒革のショルダーバッグを肩に掛け、教室から去った。
*
音楽室は一人で来るとやけに広く感じた。掃除は大変だ。
冷静に考えると、仮に僕がとても入念に掃除をしたとしても、結局関山さんは僕を怒る気はする。まあ、とりあえず、気が付いた所はひととおり掃除しよう。まず掃除機からかけるかな。
ドアがあいて、意外な人が入って来た。
関山さんだった。帰ったと思っていた。
「……何よ? さぼり常習者を信用できるわけがないでしょ。またさぼってないかどうか見に来てやったのよ。もう終わったの?」
「あ、うん、今から掃除機を……」
「まだ何もしてないのっ!? 今まで何やってたのよ? バカ、のろま!!」
関山さんは敵意をぶつけてくる。関山さんに比べたら、ほとんどの生徒はバカでのろまになる。異論はない。
「さっさとやんなさいよ」
関山さんは入り口に立ち、腕を組む。掃除の様子を見届けるつもりみたいだ。険しい顔つきだった。
関山さんはいつも怒っているけど、口を開かなければ端正で上品な顔をしていると僕は思っている。風紀委員だからか、スカートを短くしたり胸元を開けたりしないけれど、制服を充分に「着こなしている」感があって、スタイルがいいのがわかる。服にシワが一本もないのも、メガネの上縁が眉の位置と完璧に重なっているのも特徴だ。前髪の分け目も、流れも、いつも決まって整然としていた。折り目正しいという表現が本当にぴったり嵌った。
「……なに見てるのよ? 指示がないと行動できないから指示してほしいの?」
「え、いや」
「じゃあ自分で考えてやりなさい。どの程度できるか見ててあげる」
と言ったけれど、何も期待していない目をしていた。この人が言うことは、辛辣で尊大だけど、正論だ。きっと関山さんは僕よりも完璧に掃除ができる。掃除だけじゃなく勉強も部活も委員会もそうだろう。生活全般がそうだろう。
僕は自分で思いつく方法で掃除をやってみた。
そのあいだ、関山さんは、僕のことは眼中にないように窓の方を見ていた。一番の目的は、僕みたいな「馬鹿」がさぼったり逃げないよう、見張ることなのかもしれない。
僕は三十分ほどかけて掃除をした。大きなゴミを拾いながら掃除機をかけ、雑巾をかけ、窓を拭き、棚を整理して、椅子やオルガンの位置を直し、黒板の汚い箇所をざっと拭いて……関山さんは腕組みをして、どこか虫の居所が悪そうに立っていた。つまり、いつもどおりだった。
「……あの、終わったけど」
「……じゃあ、終わりにしたら?」
関山さんは裏にたくさんの言葉を飲み込むように、静かに呟いた。僕がやった掃除は、いつもの班の方法を真似たものだった。文句は幾らでもつけられたと思う。関山さんは黙って出て行った。
「寄る所があるから、ついて来て」
僕が音楽室を出ると、関山さんはそう言って、先に歩き出した。
僕は理由も分からずついて行った。
来たことがない部屋に着いた。
[風紀委員会室]
扉にはそう書かれたプレートが貼ってあった。
「入って」
関山さんは鍵を開けて入り、僕に言った。
薄暗い部屋だった。羽前さんに呼ばれた別の委員会の部屋より狭く、壁際にロッカーが並んでいる簡素な部屋だった。ただの更衣室のようにも見えた。
ぱちり。関山さんは鍵をしめた。
奥のロッカーまで行き、ダイヤル式の錠前を解いて、ロッカーの戸を開けた。
中から何かを取り、僕に突き付けた。
それは、入学の日に僕が北東君から貰ったマンガ雑誌だった。グラビアページを見ていて、関山さんに没収されたんだ。すっかり忘れていた。
「これ、返すわ。受け取りなさい」
言われて、僕は雑誌を受け取る。透明なビニールに保管されていた。思った以上にきちんと管理されてた。
「個人の所有物は返却する規則だから返すだけ。許すわけじゃない」
「ごめん。気に障ったんなら、謝るよ。もうこういう本は学校では見ないから」
「ちがうわ。……ちがう……。ぜんぜんちがう」
関山さんは首をぶんぶんと振り、確認するように言った。
「私が許せないのは、あんたのそのライトな態度よ。表面だけはうまくやるわ。どうせ何もできないくせに」
僕は言葉の意味が分からなかった。
しかし、関山さんがどういうことを言いたいのか、なぜか理解できた。
そして、正しいことを言ってるとも、なぜか思った。
「ねえ伊福部。あんたはなんで、いつも手を抜いているの?」
「……何のこと?」
「全部。生活の全部に。たぶん人生の全部にもね。あんたは、争わない。波風を立てない。でも受け入れもしない。いつも距離をおいて見ている。そして、流すだけ。そういう自分を変えない。それは手を抜いているとは言わないの?」
僕は、心の動きが止まる気がした。関山さんが言う事は当たっていたから、見抜かれたことにどきっとした。前も思ったけれど、この人はカンが鋭い。それはたぶん、関山さんが僕と対照的だから、僕のことがはっきり見えるんだろう。関山さんは生活の全部をきちんとまじめにやる。反対に僕は受け身で、まるで見えないもののように生活を流していた。
「あんたさあ、他の生徒とは違うわよね。もっと始末が悪いわよ。普通の生徒は、私に卑屈になったり、へつらったり、恐れたり、持ち上げたりするわ。でもあんたからは、そういう関心自体を、少しも感じなかった。注意されると、素直に『ごめん』『分かった』『ありがとう』って言うのよね。あんたは、私が正しくて、自分が正しくないことをいつも認めてた。つまり、自分がフマジメなことを認めてたってことよね?」
それはたぶん事実だろう。関山さんはいつも正論を言う。
僕は生活には関心が無かった。関心を感じなかったからだった。理由は分からないけど、感じないんだからしかたない。
関山さんの言う通り、僕は自分がふまじめだと知っていた。
ばん。
関山さんは、ロッカーのドアを叩いた。いつもの強い目で、僕を見た。
「私があんたを嫌いなのは、掃除をやらないとか、生活態度がだらしないとか、根本的にはそんな事じゃない。あんたが、自分がフマジメなことを知ってて何もしないからよ。あんたは腐っているわ。フマジメならどうして、フマジメをマジメにやらないの? とことんフマジメになればいいじゃない。学校になんか一日も来なかったり、マジメなやつらを妨害したり敵対したりしなさいよ。あんたはフマジメにすらフマジメよ」
関山さんはメガネの中で目を大きく見開き、僕を非難した。顔は紅潮していた。関山さんは本当にまじめな人なんだなと僕は思った。そして、関山さんを見ていることが、何となく、すがすがしく思えた。ふまじめな僕を、こんなにまじめに構ってくれることを、たぶん僕はどこかで感謝していた。
「どうせあんたはポーズだけの男なのよ。形式、儀礼、表面だけの薄っぺらな人間だわ。いつもフマジメで、手を抜いて、物事をライトに齧るだけで、人生を適当に流して行くだけの人間なんでしょう? お前みたいなフマジメな人間って、大っ嫌いだわ」
関山さんはマンガ雑誌を指差し、言った。
「その本だって――、女の子の写真だって、ポーズで見てるだけでしょ? ほんとは興味ないんでしょ? それともそういうことに興味あるってわけ?」
関山さんは静かに僕に詰め寄った。
ブレザーのボタンを外した。
ブレザーを脱ぎ、床に放り落とした。
ネクタイをほどいた。
シャツのボタンを上から外していった。一つ。二つ。
首筋から胸元にかけ、微かに赤味がかった白い肌が露出する。もうブラジャーが部分的に見えてた。それでも、関山さんは気の迷いとかじゃなかった。冷たくて、正々堂々とした目で、僕を見ていた。僕は頭の皮が捲られるような、そして、脳をあけすけに覗かれるような感じがした。
関山さんは僕に言った。
「じゃ、じゃあ、私にやってみなさいよ。男が妄想するような一般的なことを。あんたにできるの。本当にできるの? あんたがほんとにまじめに普通な事ができるってことを私に見せてよ。あんたの日常の態度はポーズじゃないってこと、見せてみなさいよ。口だけじゃ納得しない。言い抜けは許さない。行為で示してみてよ」
声は小さくて、震えていた。当たり前だった。いくら関山さんが堂々としていても、カラダも従うとは限らない。慣れないことは緊張して当然だ。
そして僕も冷や汗が出るくらい緊張していて。目の前で起こった事が理解できなくて……。いや、理解できないんじゃなかった。理解してたから動揺した。
結局、僕は何もできなかった。
関山さんは、表情を変えなかった。最初から分かっていたからだ。
ばち。
強い痛みと鈍い音が走った。関山さんは僕の顔をひっぱたいた。
はだけたままの肩。見ているだけで痛くなるほど、関山さんの体は、きれいだった。
「……バカ」
心から嫌そうに関山さんは言った。僕に背を向けて、きびきびと服を着た。ショルダーバッグを背負った関山さんは、いつものまじめな生徒の顔に戻っていた。
「やっぱり化けの皮を被ってたわね。あんたは私達に嘘だけを見せてた」
一言だけ言って、横を通り過ぎた。
僕は関山さんの手を、掴んだ。
そうしないと駄目な気がした。ここで別れたら、次に会った時、関山さんは僕にとって別人になってしまう感じがした。
「……何よ?」
関山さんは、出しっ放しにして固まった和菓子のような目で、僕を見た。正直、堪えた。
「ごめん」
僕はそれしか言えなかった。
だけどたぶん、言わなきゃいけなかった。
「何よ。またいつもどおり謝るの? 飽きたわよ。もうやめて」
関山さんは手を振りほどいた。そのくらいされるのは分かってた。
僕はまた、掴んだ。
たしかに僕は、ふまじめだった。ふまじめな自分を放置してたこと。それが最大のふまじめだった。関山さんはまじめに生活してきた。僕はぼんやりと生活を送ってきた。僕は生活には関心がなかった。
でも今は、それではだめなんだと分かった。
何にも関心を持たず、ぼんやりと生活することはできる。むしろそれが、一般的にいう、ふつうに生活するということでもある。
でも、ふつうの生活は、僕みたいなふまじめな態度では守れない。気が付くと怪獣に身辺が破壊されている。そんな事態は、本当にある。僕みたいなふつうの人間は、実際に危機が間近に迫ってはじめて、ぼんやりと過ごしてきたのが間違いだったと気が付く。関山さんは、そのことを改めて教えてくれた。しっかりと、言葉と、行為で、教えてくれた。僕みたいなふつうの人間は、理屈を示されただけでは駄目なんだ。具体例が無ければ理解できないからだ。
「ごめん。わかった。……わかったよ」
僕はもう一度、言う。
「関山さんが言ってくれたことは、僕なりにだけど、よく理解したつもりなんだ。僕は今まで、なにもしてなかった。それでもいいって思っていた。でも今は、たぶんそれは間違いだったって分かった。なにもしないでいたら、色んなものが壊されて、取り返しがつかなくなるって分かった……」
僕の頭には、自然と、いつもの教室の風景が浮かんだ。
引込さんや泉さんのことが浮かんだ。
怪獣に翻弄される人々。
「信じてもらえないかもしれないけど、それでもいい。……あの、だから僕は、これからは、自分の周りの事を、今までと違うふうにやってみようと思う。だからありがとう。怒ってくれて、ありがとう」
抽象的なことを本気で言ってる自分が恥ずかしくなった。だけど僕は、ちゃんと最後まで言った。こういう宣言は、たぶん、抽象的だからこそ、本気で言わないといけない。まわりに理解されないような言葉だから、自分が一番信じなければいけないし、信じたとおりに動かなければいけない。そうしなければ言った意味も効果もない。
関山さんのおかげで、僕はやっと、理屈とカラダが一致したように思った。
心が決まった気がした。
「な、何よ急に……。フマジメのくせにマジメのふりとか似合わないわよ? 演技したって無駄よ。偽物の演技は、化けの皮がすぐ剥がれるんだから。剥がれるのが楽しみだわ。あんたの愚鈍さが予定調和的に示されるのがね。……それに、演技じゃなかったら、もっと早く気付きなさいよね。今頃反省するなんて、どっちにしたってあんたは愚鈍なのよっ」
関山さんはめずらしく取り乱していた。いつもの刺々しさで表情を制御できなくなっている様子は、とても無邪気に見えた。すこしメガネがずれてる様子も。
関山さんは手を引っ張った。だけど今度は、ほどかなかった。そうだ。この人は、自分が言ったことを「分かった」と言われて、突っ撥ねられる人ではない。
「あの、途中まで一緒に帰ろう。駅の近くまで」
気付くと、そう言っていた。僕はもう少し、空間を共有したかった。関山さんは戸惑いながら体を引き、厳しい顔で言った。
「な、何よ一体。どういう風の吹き回し? 馴れ馴れしいわよ。やっぱり軽薄な男ね。いつも学校で女といちゃいちゃしてるだけはあるわね」
「え?」
女?って……それはもしかして羽前さんのことか。しかし学校に居る羽前さんはロボットだ。女の子の羽前さんは一回も来たことはない。
「でも、今日は委員会の仕事もないし、早めに学校を出たいし、ついて来たかったら、勝手にするといいわ」
関山さんは中指でメガネを押し上げた。それはもう通常どおりの仕草だった。関山さんは鮮やかな青色のノーカラーコートをロッカーから出して、着た。まじめで勤勉な印象の関山さんには、コートの色は強烈なミスマッチにも思えた。




