神と怪獣としての世界 12
*
朝がきた。
いつもよりぼんやりした気分だった。寝不足のせいだけではなかった。僕はこれからの正義任務について漠然とした恐れを感じたまま、平常の学校生活に参加した。
昨夜の襲撃で、学校も一部破壊されていた。
北側の校舎の一角が、フォークでケーキを切ったように刮げ取られているらしい。興味はないから見なかった。壊された所は空き教室や用具置き場の部分だったので、授業の進行には支障はないそうだ。休校の予定も今はないという。
ただ、学校でも震動は激しかったのか、教室やロッカーはひどく荒れていた。一限目の時間は片付けにあてて、授業は二限目から始まった。教室から見える道路は陥没や寸断があるとかで通行規制されていた。道路の向こうの地域の破壊がひどかったが、もともと学校のまわりには背の高い建物は乏しく、破壊された所も夜半からの雪で見分けがつかなかった。
昨夜の怪獣は、学校付近を通り、麻形市へ抜けたらしい。
市内では「行政管区軍」がこれを迎撃した。超低温レーザー砲の一斉照射により怪獣は姿を眩ませた。今朝のテレビでは「抜本的な対策が急がれる」と批判を加えつつも、軒並み「迎撃成功」「勝利」と報じていた。
怪獣は、神出鬼没だった。破壊の規模や痕からして、説明できない動きが見られるという。しかし、そう見えるのは気象条件のせいであるという説が主流だ。激しい雪のため視界が皆無に等しく、怪獣の後手に回るという理屈である。
また、通常のソナーやサーモグラフィーに反応することはほとんどないという。つまり稀には反応するのだが、それが探知には却ってノイズともなるそうだ。
怪獣のことは羽前さんに訊けば誰よりも詳しいだろう。ふつうにテレビで流れる情報以上の生態を、たくさん知ってるはずだ。そういえば、まだ僕は、怪獣の基礎的な知識も学んでいなかった。
「元気がありませんね」
授業が終わった時、ロボットの羽前さんが机の前に来た。無機質な顔のロボットに元気がないと言われるのは妙だ。それより、まわりにも分かるほど、今日の僕は上の空だったのか。ふつうに過ごしてるつもりだったけど。
「いや、気のせいだよ?」
僕は適当に笑って答えた。これからの正義任務が不安だということは、羽前さんには知られないほうが良かった。余計な心配をかける。
「――やめてもいいのですよ?」
ロボットらしい平坦な声が、僕の耳朶を抉った。
羽前さんは見抜いていた。
僕の耳元に顔を寄せ、羽前さんは呟いた。
「これから話す会話は、『MECCS』により、ふつうの会話へと変換されます。周りは気にせず、思うままを喋って頂けます」
また教室の空気は凍り付いた。「セ、セッ……!?」「お、思うまま……!?」「しゃ、しゃぶ……!?」野次馬が声を潜めて話しだす。「ちょ、ちょっと、あんたたち!」――関山さんは顔を赤らめて僕達を睨み付けた。やはり僕達の会話がどう聞こえているのか気になる。変換された会話もふつうに言って問題あるんじゃないか? もっとも、羽前さんはその点には無頓着だし、僕も今は気にしてる場合ではなかった。
「正義任務が祐一の人生の支障になることを、あたしは望みません。祐一にとって苦痛やストレスになっているのであれば、やめるのも一つだと思います」
羽前さんは無駄な話は避ける傾向がある。なぜかは知らないけれど、僕の内心を的確に言い当てていた。
反射的に、僕は否定した。
「……いや、そんなんじゃないんだ。ちょっと寝不足なんだ。昨日、うちの近くに怪獣が出て、家が散らかってて片付けとかしてたもんだから」
「――」
羽前さんは無反応だった。
聞こえなかったように、しばらく黙っていた。
「って、羽前さん? 聞こえてる?」
「――あ、はい、ええ聞こえています。――怪獣が出たのですね。ご家族は無事でしたか?」
声はどこか浮ついて、いつもより慌ててるように感じた。
「ああ、大丈夫だったよ。ていうか、うちは今までも大した被害は出てないしね。だから、うん、全然大丈夫」
僕は軽く流した。説明になってないのは分かってる。今までが大丈夫だから次も大丈夫という見通しが間違っていることは、昨日で理解した。そうだ、家に帰ったら、窓ガラスの修理をホームセンターに頼んだほうがいいな……。
「これは、お節介かもしれませんが」
羽前さんは、突然言った。
陰翳のあるロボットの顔が、僕を見下ろす。威圧感があった。
「もし祐一が迷っているのであれば、基地に来ないことをおすすめします」
「え?」
「祐一には、お姉さんがいます。家族もあります。学校もあります。今まで通りの生活を謳歌する権利はあるのです。逆に、正義任務をやらねばならない理由は、ありません。あなたの後悔のない決断をして下さい。何日でも待ちます」
羽前さんは歯切れが悪かった。いつもの整然とした話の運びが無かった。「迷っているのなら」という仮定で話を進めるような人ではないはずだ。僕は明後日には基地に行くと言ってあるはずだ。第一、怪獣の活動をみると、何日も待っていられるような余裕ある状況かどうかは微妙だ。
僕の様子は、やはり、おかしかったのだろう。
たしかに、正義任務をやめた場合を考えなかったわけじゃない。
家族がいて、ふつうの生活が送れて、家に帰れば泉さんも居続けてくれるかもしれない。その安定した毎日は、楽しいかどうかはどもかく、決して不快なものではない。
僕が任務から手を引いても、羽前さんもクラスには残ってくれるかもしれない。ロボットを通して僕は羽前さんと喋れる。正義任務をやることは無くなっても、羽前さんとの関係は切れるわけではない。少しの異変に囲まれながら、異変をそのままにしておく生活。それは心地良い生活圏だと僕には思えた。
逆に、正義任務を続けるなら、危険は増えても減りはしない。存在自体が災害のような、得体の知れない怪獣と向き合い、戦う。たとえば4Rに搭乗して戦う時は、怪獣の猛威を一対一で受け止めることになる。昨夜の情景が頭で渦を巻いてる。あれ以上の衝撃が降り掛かってくる。その先にあるものは、ヘタをしたら死だ。正義任務をやる以上、死を考えることを、避けては通れなかった。そこには、ふつうの生活の埃っぽい甘ったるさは、塵すらも存在しなかった。
正義任務は、羽前さんと呑気にハンバーガーを頬張ったり、ロボットをラジコン的に操縦していたらいいものでは、なかった。
現状、僕は正義任務では、何の役にも立っていない。今やめるなら、影響は大きくない。やっぱりやめるよ、と言って今までの生活に戻ることができる。何も好きこのんで、死ぬかもしれない任務をやる必要は無い。
けれど僕は、すんなりとやめるとは言えなかった。
いや、僕は心の深い場所では、やらなければいけないと思っていた。
教室を見渡してみる。
平穏な景色がある。
学校が怪獣に襲われたりしているけど、まだ誰も死んではいないし、この教室だって無事だった。いつもの生活が維持されていた。
いま正義任務をやっているのは僕達二人だけだ。僕がやめたら、この日常の景色が怪獣に壊されてしまうかもしれない。
もちろん買い被りだろうし、むやみに最悪のケースを言ってるだけかもしれない。
それでも、僕には、羽前さんと一緒に自分の手でこの景色を守れるチャンスがある。
自分達の環境が守られるのはいいことだ。――少なくとも、僕は自分の生活圏が守られる事は有意義だと思う。それをできるのにやらないのは、褒められたことではない。いや、非難されてもしかたないと思った。
この教室や、学校や、僕の生活圏が壊されてしまった時、「かつて正義の味方の見習いだった」なんてことは勲章にはならない。
恥ずかしいだけだ。
だから、一度始めた任務を抜けるわけにはいかない。僕はそう思った。だけど、昨日の襲撃を思い出すと、まだ体に穴があいたように自分が頼りない。
ぼそぼそと僕は答えた。羽前さんに向けてじゃなく、自分を説得させるためだけに、呟いた。
「大丈夫だよ。別に、迷ってないし、基地にも予定通りに行くつもりだよ」
「――そう、ですか」
ロボットの目が不規則に明滅した。どう受け取ったんだろう。
「もし心変わりがあれば、伝えてください。あたしは毎日、学校に居ます。言いたいことは、それだけです。――では」
一方的に言って、羽前さんは帰って行った。
この日、僕は音楽室の掃除をさぼった。
*
「あいつまたサボったわね! 許せないわっ!」
関山夏実は音楽室で怒鳴った。その声に北東魁汪以外の班員は身を縮こめる。一方、関山夏実はますますいきり立つ。自身の怒りを燃料にして更に怒りだす。
「羽前杏奈といちゃいちゃしてたと思ったら、きっとそのまま二人で帰ったのね。いい御身分だわね全く。それとも、北東。あんたが唆して帰らせたりしてないでしょうね?」
「どうした、ナツミ?」
北東魁汪は棚の楽譜と書籍を直す手を休めずに問う。
「また伊福部祐二がサボって帰ったのよ。教室にも居なかったわ。それと、名前で呼ばないでって何回言ったら分かるの? 気安いのよ」
「おれは何も知らぬな。おれは奴のおもりではない」
「自分は関係ないようなこと言わないで。私がおもりだって言いたいの? 馬鹿も休み休み言って。あいつは筋金入りのカスだわ。前回も『分かった』とか『ごめん』とか口ではうまく切り抜けたけど、結局は反省しないで同じ事を繰り返すカスだわ。悪いことだって思っていないのよ。今度学校に来たら懲らしめてやるわ」
関山夏実は床に散乱するガラスを箒で掃いた。怪獣の襲撃の余波で音楽家の額はほとんど落ち、ガラスが割れていた。ふだんと比較にならない仕事量だったことも火に油を注いだ。きょうは何処のクラスも音楽の授業が無かったのか? それとも中止だったのか? いずれにせよ、鍵を受け取りに行った時の教師は見るからにニコニコしていたのは確かである。
「妙だな。このおれの目は節穴ではない。ユージは過ちを反省できない輩には見えぬが」
「あんたは存在がとびっきりの節穴なんじゃないの」
「おまえも気付いていよう。おれは節穴ではない。すべてを飲み込むブラックホールということをな」
「何よそれ。意味が分からないし笑えないわ」
「フッ」
「何であんたに笑われるわけ?」
「なに、かわいい女だと思ったのだ。昔の言葉でいうと、『メンコイ』女よ」
獅子のような容貌、重低音の声色。北東魁汪からは予想できない言葉だった。
「……ふざけてるの? 怒るわよ? だいたい、メンコイって、何語なのよ?」
関山夏実はメガネ越しに瞳をカッと見開く。顔は青白く、声は震えている。
対して、北東魁汪はもちろん、関山夏実の豹変を見てもタワシのような眉を動かすことはない。むしろ澄んだ目玉の底では、既に相手を制している武芸者のような眼光が滾っている。しかも、殊更に集中しているわけでもない。この眼光が北東魁汪の日常だった。
「おまえはいつも怒っているではないか。そこがメンコイと言っているのだ。おれはおまえのような女を嫌いではない」
言葉だけを聴けば告白にも見えただろう。だが、まわりの班員にすれば、この場は戦場のような極端な非日常に他ならなかった。北東魁汪がふつうに振舞うと、彼の独特の個性により、周囲の人間は瞬時に征圧される。俗にオーラとも言われるものだ。彼の発するセリフも例外ではなかった。彼の前では額面通りの言葉は意味を失うのだ。
関山夏実は気圧されて黙していた。伊福部祐二や他の班員が相手なら、既に制裁に及んでいた可能性もある。攻撃のタイミングで躊躇したことは、武道でいう「居付き」を意味し、達人同士の立ち会いであれば死に体も同然だった。
北東魁汪は棚の整理を再開した。
あいかわらず獅子のような相貌には揺らぎが無い。
「だが、まだおまえは、おれにふさわしい女ではない。おれと伍するほど、おまえは強くはない。強くなるがいい。おまえが望むようにな」
「……」
関山夏実は、立ち尽くした。
班員からは、その後ろ姿が何を思っているかは窺い知れなかった。今日はポニーテールに結われている綺麗な黒髪が、寂しげに垂れていた。
「な……。なによ……。じゃあ、そんなに強いなら、怪獣を倒しなさいよ! あんたにできるの、怪獣を倒すことが? できないんでしょ? ――偉そうなこと言わないでよ!」
関山夏実は感情に任せて怒鳴った。ちぐはぐな文句だった。
「フッ」
北東魁汪は再び力強く鼻で笑い、立ち上がった。タンスのような体躯。鋼のような皮膚。妖刀のような瞳孔。立ち姿のすべてが、恒星のような強大さをたたえていた。彼ならば、怪獣を倒すことができずとも、そこそこの勝負をするのではないか。そんな錯覚をさせる姿だった。
「ナツミよ、勘違いするな。怪獣ごとき、おれが闘わずとも、誰かが闘おう。むろん、怪獣を倒すことはできよう。だがおれは怪獣には選ばれてはおらぬわ。ならばおれが勇んで出てゆく相手ではない。そのような不躾な事はせぬが流儀」
と、まさに「この場に終止符を打つ」ような、嵐のごとき声で締めた。
もはや、物を言う班員は(いろいろな意味で)居なかった。
そして、掃除が終わっていなかったが、北東魁汪はなぜか出て行ってしまった。
ここで退場することは、彼にとって不躾ではなかったのだろう。
「もう帰っていいわ。戸締りはやっておく」
ひととおり終わると関山夏実は告げた。気が変わらぬうちと思ったか、他の班員達はたちまち出て行った。
残った関山夏実は、手抜かりがないかチェックする。ガラス片が残っていたらケガの元にもなる。完璧にやらないと気がすまない。手を抜いたりサボる奴の神経が分からない。……自分は神経症だろうか? いや、そんなわけがない。
掃除に限らない。何かをやる時、手を抜くのは愚かだ。簡単に言って、それは自己否定だ。世の中には愚かな奴らが多すぎる。だから関山夏実は怒ることが多くなる。
周囲は自分を「学校のルールなんかに盲従する頭のいかれたやつ」ぐらいに見ているだろう。だが、そうじゃない。学校に居るからそう映るだけだ。態度の問題だ。
……あんた達には私は面倒な奴かもしれないわ。だけど、あんた達だって私を怒らせることを反省しないじゃない。責任取りなさいよ。
関山夏実は譜面台の位置を丹念に揃えていく。あ、これは二センチ前すぎるわね……。
手が止まり、思い出してしまう。
北東魁汪のインパクト。今まであいつのことは馬鹿にしていた。なにより自分が一番嫌いな、悪だと思っていた。あいつはDQNで、文句なしの害悪だから、自分が完全に優れていると信じていた。
しかし、北東はただのDQNとは違うみたいだ。よく居るDQNとは何かが違った。もしかしたら、自分の嫌う悪とは違う奴かもしれない。さっきは不覚にも迫力や凄味に飲み込まれてしまった。外見的な力ではなく、存在の質量とでもいうべき、絶対的なスケール。一方的に侮蔑していたあいつの中に、自分を超える何かの片鱗を見た。だから、いつものように堂々と反論できなかった。コトバ以前の反射的な反応のレベルで、相手との器の違いを感じてしまったのだ。北東魁汪と比べた自分のスケールの小ささを感じた。つまり、関山夏実はどちらが真に優れているか知った。
ほかの普通の生徒達は、大仰で意味不明な北東のセリフにとらわれたかもしれない。だが、DQNのイメージや謎のセリフ回しなどの表層部分には、北東の実質はない。自分にはそれが分かった。自分は大半の愚劣な生徒より優れているからだ。
譜面台を衝動的に蹴飛ばしたくなったが、直すのが大変なので蹴らなかった。
電池が切れたような脱力感を感じた。
関沢夏実は、近くの椅子に座った。
見下していた奴が自分より有能な人間かもしれないなんて。北東魁汪がそうなら、他の奴もそうかもしれない。そんなことになれば、自分は惨めだろう。本当は劣っているのに優れていると思っている道化。委員長の肩書、優秀な成績、模範的な言動。そういった虚飾で防衛しているが、それらの道具が正しい保証などない。
いや、裸の王様であることなど知っている。だから陰で笑われていることも気付いている。
だが、認めたくなかった。今までやってきたことは正しいと信じたかった。自分は絶対に周囲よりも優れているはずだ。今までも自分の方法が正しいと信じて頑張った。今だって頑張っている。
まだ自分は、しがみついている。勉強も、委員長も、模範的生活も、……そして容姿も。
信じてきたものが報われると信じたい。
だから、北東のような人間に、すべてが吹き飛ぶような格の違いを見せられると、愕然としてしまう。足元が抜けるような恐怖。
遠い昔にも、似たようなことがあった。
近所でバイオリンを習っていた自分は、その教室の誰より才能があると言われた。だが、コンクールに出てみると、自分のような人間は掃いて捨てるほど居た。むしろ圧倒的に目立ったのは、より輝かしい才能に恵まれた子供達の弦の冴えだった。どうしても自分には追い付けない領域を知った。自分はバイオリンをやめた。
その時は、バイオリンは特殊なんだと割り切った。
ただの趣味であって、人生の本質的なものではない。
だから自分は、人生の領域で優れた人間になろうと思った。
その結果が、今だ。
昔から、自分はマジメだった。だから、人一倍頑張った。その結果がコレなのか。マジメの化け物のようなアンバランスな人格。人一倍の虚飾を手に入れた、人一倍の道化になったのだとしたら。自身を不信に思った。とにかく、思ったよりも大した人間じゃないことは明白だった。本当に優れているなら、この程度のことで動揺しているはずがない。バイオリンの時と同じく、圧倒的な絶望感が忍び寄る足音が聞こえた。
関山夏実は椅子を立ち、となりの部屋を覗いた。
鍵は掛かっていなかった。さまざまな楽器が置かれている準備室だった。昨日の怪獣の襲撃で、楽器類の洪水のようになっていた。吹奏楽部や軽音楽部の私物もあるので、掃除では手をつけなかった。
関山夏実は中に入っていき、明らかに片付けてよさそうな倒れたマリンバやエレクトーンを直した。しばらく作業すると、準備室は見違えて整然とした。少し嬉しかった。
関山夏実は部屋の中央に置かれているドラムセットを見た。メーカーを見て、スネアやシンバルの数をチェックする。シングル・ベース・ドラムにツインペダルが付いている。学校レベルにしては立派なセットだ。生徒の私物かもしれない。なにげなくスローンに座り、スティックを持ち、ぱす、ぱす、ぱす、とスネアをいじってみる。スローンの高さを調整し、部屋の鍵をしめた。
準備室は防音仕様になっている。少しやらせてもらおうと思った。何となくやりたい気分だった。
関山夏実はドラムを叩き始めた。
即興のジャムセッションのような叩き方ではなく、初手から明瞭な意図が込もったドラミングだった。
不足も余剰もなく、必要なだけの音数を充分に叩き出した。メロディアスにも感じられるドラミングは、まわりの楽器や歌声のラインをある程度規定するような、全体的調和を体現していた。
銀色の防音扉から、ぬ、と顔が現れた。
関山夏実は、ドラムを叩きながらそれを見ていたが、ドラミングには狂いは生じなかった。ドアに顔が現れることがあるわけがないからだ。
だが、すぐに体もドアを抜けて現れた。すぱっ、と空気が柔らかに切れるような音がして、一人の女性がそこに立っていた。そこでようやく、関山夏実はドラムを叩くのをやめた。
「あ、あんた、今……?」
「妙なる調べが聴こえたものですから」
関山夏実は、思わず凝視した。二重の驚きがあった。女性は明らかにドアをすり抜けて来たように見えた。そして、そんな幽霊みたいなことが可能なほど、女性の容貌は人間離れして整っていた。「女」の意味が「鑑賞されること」ならば、目の前の人物ほど完全な女は居ないだろう。しかし逆に、完全に整っている安定感のために、幽霊じみた不安定な業はできないとも思わせた。つまり、自分が見たことか、女性の実在か、どちらかが嘘に違いない……。
「今、ドアを抜けて来たわよね?」
「いいえ? 見間違いでは? そんな事ができると思いまして?」
くにゃり。女性は柔和な顔をますます柔和にした。豊満な胸。滑らかでしなやかなカラダの線。思わず関山夏実も一瞬見とれたほどの佇まい。なぜ夏服を着ているんだろう、校則違反だ。叱るのを忘れたくらいだった。
女性は菩薩像のCGのような動きで歩いて来た。
「どうも初めまして。わたくし、引込完と申します」
*
駅前通りの、とある欧風住居の二階にあるハンバーガー店。今日もひっそりと営業している。
客が来ることは来るが、おそらく店の分かりにくさから、混雑することは滅多にない。窓際にはカウンター席が5つ並んでいる。
カウンター席の端で伊佐領祐一が勉強している。
ふつうの教科の勉強ではない。図柄の描かれたシートを一枚ずつ覚え込む作業だった。
両目は明晰に開き、あまりまばたきもせず、うずくまるようにシートに向き合っていた。手元のシートの図柄を模式的になぞってみたりする。
傍らにはぶ厚い未習のシートが詰まれている。その奥には、やり終えたシートが積み重なっていく。
時には以前のシートに戻りながら、丹念に畑を耕すかのように、一枚ずつ確実に積み重ねていく。
時間が経つほどに作業に慣れてくるのか、シートをなぞる指が滑らかに動いていく。一つのキーを押さえるごとに切れていた流れが、繋がりはじめる。多少はリズムをもって動かせるようになる。五時間ほど経った時には、シートの山の何分の一かは読み終えていた。
伊佐領祐一は殆ど残ったままのホットレモンティーを、忘れていたように飲んだ(この店では耐熱ガラスで出すので、アイスティーにも見える。ストローが付いていないことで見分ける)。
木の格子で仕切られたガラス窓からは、ホコリが散らされるように舞っている雪景色が見えた。街灯がついていた。スケートリンクのようにも見える道は、誰も歩いていなかった。雪の奥には向かい側の店の明かりがぼやけて見えた。空き缶の中で響くような、中年男性の声がする。うんざりした声からすると、雪下ろしでもしているようだ。この店には、そういえば、BGMがない。たまに出前を頼まれているような電話応対があったり、バンズやハンバーグを焼いている音が聞こえた。
一息入れたところで、伊佐領祐一はふたたび作業に掛かった。さっきの続きのシートから再開する。彼の指のリズムやまばたきが時間を少しずつ刻むような、淡々とした空間が存在した。
窓の外を明瞭で巨大な黒い何かが通った。
その黒い塊は空気に溶け込んだかのように静かに過ぎ去った。
伊佐領祐一も店員も気付かなかった。




